2020年12月14日月曜日

最終兵器の目 天智天皇9

  『日本書紀』慶長版は

夏四月丁卯朔辛卯置漏剋於新臺始打候時動鍾鼓始用漏剋此漏剋者天皇爲皇太子時始親所製造也云云是月筑紫言八足之鹿生而即死五月丁酉朔辛丒天皇御西小殿皇太子群臣侍宴於是再奏田儛六月丙寅朔巳巳宣百濟三部使人所請軍事庚辰百濟遣羿真子等進調是月以栗隈王爲筑紫師新羅遣使進調別獻水牛一頭山鶏一隻秋七月丙申朔丙午唐人李守真等百濟使人等並罷歸八月乙丒朔丁卯髙麗上部大相可婁等罷歸壬午饗賜蝦夷九月天皇寢疾不豫冬十月甲子朔庚午新羅遣沙飡金万物等進調辛未於裏開百佛眼是月天皇遣使奉袈裟金鉢象牙沈水香旃檀香及諸珍財於法興寺佛庚辰天皇疾病弥留勅喚東宮引入臥內詔曰朕疾甚以後事属汝云云於是再拜稱疾固辭不受曰請奉洪業付属大后令大友王奉宣諸政臣請願奉爲天皇出家修道天皇許焉東宮起而再拜便向於內裏佛殿之南踞坐胡床剃除鬢髮爲沙門於是天皇遣次田生磐送袈裟壬午東宮見天皇請之吉野修行佛道天皇許焉東宮即入於吉野大臣等侍送至菟道而還十一月甲午朔癸卯對馬國司遣使於筑紫大宰府言月生二日沙門道久筑紫君薩野馬韓嶋勝娑々布師首磐四人從唐來曰唐國使人郭務悰等六百人送沙宅孫登等一千四百人揔合二千人乗舩四十七隻倶泊於比智嶋相謂之曰今吾輩人舩數衆忽然到彼恐彼防人驚駭射戰乃遣道文等預稍披陳來朝之意丙辰大友皇子在內裏西殿織佛像前左大臣蘇我赤兄臣右大臣中臣金連蘇我果安臣巨勢人臣紀大人臣侍焉大友皇子手執香鑪先起誓盟曰六人同心奉天皇詔若有違者必被天罰云云於是左大臣蘇我赤兄臣等手執香鑪隨次而起泣血誓盟曰臣等五人隨於殿下奉天皇詔若有違者四天王打天神地祇亦復誅罰三十三天證知此事子孫當絶家門必亡云々丁巳灾近江宮從大藏省第三倉出壬戌五臣奉大友皇子盟天皇前是日賜新羅王絹五十匹絁五十匹綿一千斤韋一百挍十二月癸亥朔乙丑天皇崩于近江宮癸酉殯于新宮于時童謠曰美曳之弩能曳之弩能阿喩阿喩舉曾播施麻倍母曳岐愛倶流之衞奈疑能母騰制利能母騰阿例播倶流之衞於?(方尓:弥)能古能野陛能比母騰倶比騰陛多爾伊麻拖藤柯祢波美古能比母騰矩阿箇悟馬能以喩企波々箇屢麻矩儒播羅奈爾能都底舉騰多拖尼之曳鶏武己卯新羅進調使沙飡金万物等罷歸是歳讚岐國山田郡人家有雞子四足者又大炊省有八鼎鳴或一鼎鳴或二或三倶鳴或八倶鳴

夏四月の朔が丁卯の辛卯の日に、水時計を新しい高殿に置いた。はじめて時を打った。鐘や鼓が響いた。はじめて水時計を使った。この水時計は、天皇が、皇太子になった時に、はじめて親ら造ったものだ云云。この月に、筑紫が、「八つの足がある鹿が、生れてすぐに死んだ」と言った。五月の朔が丁酉の辛丑の日に、天皇は、西の小殿にいた。皇太子と家臣が、宴席にいた。そこで、田儛を何度も歌い踊った。六月の朔が丙寅の己巳の日に、百済の三部の使者のが援軍を願い出た。庚辰の日に、百済、羿眞子達を派遣して、年貢を進上した。この月に、栗隈の王を、筑紫の率とした。新羅が、使者を派遣して年貢を進上した。別に水牛一頭・山鷄一隻を献上した。秋七月の朔が丙申の丙午の日に、唐人の李守眞達と、百済の使者達が、一緒に帰った。八月の朔が乙丑の丁卯の日に、高麗の上部大相の可婁達が帰った。壬午の日に、蝦夷を饗応した。九月に、天皇が病気で寝込んで治らなかった。冬十月の朔が甲子の庚午の日に、新羅が、沙飡の金萬物達を派遣して年貢を進上した。辛未の日に、内裏で、百佛の開眼をした。この月に、天皇は、使者を派遣して袈裟・金鉢・象牙・沈水香・旃檀香、および諸々の珍しい宝を法興寺の佛に奉上させた。庚辰の日に、天皇は、病気で最期の時を迎えた。詔勅で東宮を呼び出して、寝所のなかに引入れて、「私は、病気がひどい。後の事をお前にまかせる」と詔勅した云云。ここで、再拜して、病気だからと固辞して、「お願いですから、大業をささげて、大后に任せてください。大友の王に、諸々の政務を任せてください。私は、天皇の御為に、出家して修行することを許してください」と行って受けなかった。天皇は許した。東宮は立ち上がって再拜した。それで内裏の佛殿の南に向かって、床几にうずくまって、鬢と髮を剃って、僧になった。そこで、天皇は、次田の生磐を派遣して、袈裟を送らせた。壬午の日に、東宮は、天皇に会って、吉野に行って、佛道の修行をしたいと願った。天皇は許した。東宮はすぐに吉野に入った。大臣達は途中まで送った。菟道に着いて帰った。十一月の朔が甲午の癸卯の日に、對馬の司が、使者を筑紫の大宰府に派遣して「月が始まって二日の日に、僧の道久・筑紫の君の薩野馬・韓嶋の勝の裟婆・布師の首の磐の四人、が唐から来て、『唐国の使者の郭務悰達六百人と、送使の沙宅孫登達千四百人、総勢二千人が、船四十七隻に乗って、一緒に比知の嶋に停泊して、『今、私たちの人と船の数が多い。急に彼の地に着いたら、きっと彼の国の防備兵が、驚き乱れて弓を撃ってくるだろう。それで道久達を派遣して、少し早く朝廷に来日の真意をかくさず述べよう』と話し合った」と言った。丙辰の日に、大友の皇子が、内裏の西殿の織物の佛像の前に居た。左大臣の蘇我の赤兄の臣・右大臣の中臣の金の連・蘇我の果安の臣・巨勢の人の臣・紀の大人の臣が従った。大友の皇子は、手に香炉をもって、まず立ち上がって「六人の心を一つにして、天皇の詔勅をうけたまわった。もしたがうことが有ったら、必ず天罰を被るだろ」と、誓った云云。そこで、左大臣の蘇我の赤兄の臣達が、手に香炉を持って、次々と立ち上がった。ひどく泣き悲しんで「私たち五人は、殿下に従って、天皇の詔勅を受けたまわった。もし違うことが有ったなら、四天王に打たれるだろう。天神地祇も処罰するだろう。忉利天がこの事を証明して、子孫が絶え、家門はきっと亡ぶだろう」誓って云云。丁巳の日に、近江の宮で火災があった。大藏の省の第三の倉から出火した。壬戌の日に、五人の臣が、大友の皇子を奉じて、天皇の前で盟った。この日に、新羅の王に、絹を五十匹・太絹を五十匹・綿を一千斤・なめしがわを一百枚与えた。十二月の朔が癸亥の乙丑の日に、天皇が、近江の宮で崩じた。癸酉の日に、新宮で葬儀儀礼をした。その時に、風刺歌で言うことに三歌()、己卯の日に、新羅が年貢の進上の使者の沙飡の金萬物達が帰った。この歳に、讃岐の国の山田の郡の人の家に、雞子に四つの足がある者が有った。また大炊に八つの鼎が有って鳴った。あるいは一つの鼎が鳴った。あるいは二つ或いは三つ一緒に鳴った。あるいは八つ共にに鳴った。】とあり、五月丁酉朔と七月丙申朔は共に2日で前月が小の月で、畿内以外、九州や朝鮮半島の暦で、他は標準陰暦と合致する。

ここでの大后は天智天皇の皇后ではなく、高祖母の中宮前天皇のことで、太皇弟の叔母で、『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』に「鬼前太后崩・・・上宮法皇枕病弗悆干食王后仍以労疾」と俀国では母が太后で妻が王后と呼ばれている。

そして、 筑紫君薩野馬達の帰国は天智天皇四年「九月庚午朔壬辰・・・郭務悰凡二百五十四人七月廿八日至于對馬」と既に大挙して来日しており、その前の天智天皇三年「夏五月戊申朔甲子。百濟鎭將劉仁願遣朝散大夫郭務悰等進表函與獻物」と先触れできたはず、すなわち、天智天皇三年5月以前の話でなくては意味が通らない。

持統四年に「天命開別天皇三年・・・筑紫君薩夜麻弓削連元寶兒四人思欲奏聞唐人所計」と664年に帰国したと読め、『日本書紀』どおりなら、即位後なら天智4年が天智10年で意味が通らない。

すなわち、筑紫君薩夜麻が俀国王の天萬豊日で、664年までの天智皇太子は俀国の皇太子で摂政、舒明天皇の妻で前天皇の天豐財重日足姫が661年に俀国王を天萬豊日に譲って天萬豊日が朝鮮半島に出兵し、天智天皇が俀国の摂政となったと考えられる。

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