『日本書紀』慶長版は
「天渟中原瀛真人天皇天命開別天皇同母弟也幼曰大海人皇子生而有岐㠜之姿及壯雄拔神武能天文遁甲納天命開別天皇女菟野皇女爲正妃天命開別天皇元年立爲東宮四年冬十月庚辰天皇臥病以痛之甚矣於是遣蘇賀臣安麻侶召東宮引入大殿時安摩侶素東宮所好密領東宮曰有意而言矣東宮於茲疑有隱謀而愼之天皇勅東宮授鴻業乃辭讓之曰臣之不幸元多病何能保社稷願陛下舉天下陛皇后仍立大友皇子冝爲儲君臣今日出家爲陛下欲修功德天皇聽之即日出家法服因以收私兵器悉納於司壬午入吉野宮時左大臣蘇賀赤兄臣右大臣中臣金連及大納言蘇賀果安臣等送之自菟道返或曰虎著翼放之是夕御嶋宮癸未至吉野而居之是時聚諸舍人謂之曰我今入道修行故隨欲修道者留之若仕欲成名者還仕於司然無退者更聚舍人而詔如前是以舍人等半留半退十二月天命開別天皇崩元年春三月壬辰朔己酉遣內小七位阿曇連稻敷於筑紫告天皇喪於郭務悰等於是郭務悰等咸著喪服三遍舉哀向東稽首壬子郭務悰等再拜進書函與信物夏五月辛卯朔壬寅以甲冑弓矢賜郭務悰等是日賜郭務悰等物捴合絁一千六百七十三匹布二千八百五十二端綿六百六十六斤戊午髙麗遣前部富加抃等進調庚申郭務悰等罷歸」
【天渟中原瀛眞人天皇は、天命開別天皇の同母弟だ。幼い時に大海人の皇子という。生まれた時から背が高く堂々として、大人になって男らしさが群を抜きこの上なく優れた武徳を持っていた。天文や吉凶の判断に優れていた。天命開別の天皇の娘の菟野皇女を召し入れて、正妃とした。天命開別の天皇の元年に、立って東宮となった。四年の冬十月の庚辰の日に、天皇は、病に臥せって、とても痛ましかった。そこで、蘇賀の臣の安麻侶を派遣して、東宮を呼んで、寝所に引き入れた。その時に安摩侶は、元から東宮とゆかりが有り、密に東宮を手に入れようと、「よく考えて答えてください」と言った。東宮は、ここに、隱された陰謀があることを疑って慎んだ。天皇は、東宮に詔勅して大業を授けた。それで「私は具合が悪く、元から多くの病が有る。どうして国家を保つことが出来ましょう。お願いですから、陛下、天下を皇后に与えてください。そして、大友の皇子を立てて、皇太子にしてください。私は、今日、出家して、陛下の為に、世のため、人のためになるよい行いの修行をしたい」といって断った。天皇は、聞き入れた。その日に、出家して法服を着た。そのため、個人の武器を集めて、全て司直に収めた。壬午の日に、吉野の宮に入った。その時に左大臣の蘇賀の赤兄の臣・右大臣の中臣の金の連、および大納言の蘇賀の果安の臣達が送ってくれて、菟道に着いて引き返した。或るひとが、「虎に翼を着けて放った」と言った。この夕に、嶋の宮に居た。癸未の日に、吉野に到着していた。この時に、諸々の近習達を集めて、「私は今、出家して修行しようと思う。それで、一緒に修行しようと思う者は留りなさい。もし雇われて名を成そうと思う者は、帰って役所で仕えなさい」と言った。しかし、退席する者はいなかった。さらに近習を集めて、詔勅したが前の通りだった。ここで、近習達は、半ばは留り半ばは退席した。十二月に、天命開別の天皇が崩じた。元年の春三月の朔が壬辰の己酉の日に、内小の七位の阿曇の連の稻敷を筑紫に派遣して、天皇の喪を郭務悰達に告げた。そこで、郭務悰達は、みな喪服を着て、三回哀悼の意を表した。東に向って頭を地に着くまで下げた。壬子の日に、郭務悰達が、書函と印の物とを進上した。夏五月の朔が辛卯の壬寅の日に、甲冑と弓矢を、郭務悰達に与えた。この日に、郭務悰達に与えた物は、全てで太絹一千六百七十三匹・布二千八百五十二端・綿六百六十六斤だった。戊午の日に、高麗が、前部の富加抃達を派遣して年貢を進上した。庚申の日に、郭務悰達が帰った。】とあり、三月壬辰朔は2月30日で、天武天皇からは元明天皇の王朝が記述していて、『続日本紀』はほとんど朔の日干支が正しく、以前に述べた朝鮮半島などの暦ではなく九州の暦だと考えられる。
そして、その筑紫に派遣した三月壬辰朔には内小七位阿曇連稻敷は「建元爲大寶元年始依新令改制官名位号・・・外位始直冠正五位上階」と大宝令から使われる冠位で701年以降の説話で中国使節が701年以降まで滞在し、大宝二年十二月の「太上天皇崩」が元の記事と考えられ、『那須国造碑』に「永昌元年己丑四月飛鳥浄御原大宮那須国造追大壹那須直韋提評督被賜歳次庚子年正月」と少なくとも689年から700年まで評督が存在し、筑紫都督府が頂点に立った制度と考えられ、白村江で負けて唐の影響下となったために導入された制度と思われ、その最高権力者が郭務悰およびその後任達で702年まで郭務悰の後任達が残っていた。
そして、それ以降の記述なのだから、全て評ではなく郡と記述し、天智紀では大后だったものが皇后と記述され、文武天皇のクーデターで退位して太上天皇となっていた天武天皇とその妻が大后とつじつまが合う。
704年に改元されて大長になっているので、大后が引継ぎ、704年に20歳になった總持が天皇に即位し、大長に改元し、總持が藤原京を捨て、『続日本紀』に慶雲元年十一月「壬寅始定藤原宮地」と代わりに文武が入京したのだろうか。
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