『日本書紀』慶長版は
「八年春正月庚辰朔戊子以蘇我赤兄臣拜筑紫率三己卯朔巳丒耽羅遣王子久麻伎等貢獻丙申賜耽羅王五穀種是日王子久麻伎等罷歸夏五月戊寅朔壬午天皇縱獦於山科野大皇弟藤原內大臣及群臣皆悉從焉秋八月丁未朔巳酉天皇登髙安嶺議欲修城仍恤民疲止而不作時人感而歎曰寔乃仁愛之德不亦寛乎云云是秋霹礰於藤原內大臣家九月丁丑朔丁亥新羅遣沙飡督儒等進調冬十月丙午朔乙卯天皇幸藤原內大臣家親問所患而憂悴極甚乃詔曰天道輔仁何乃虛説積善餘慶猶是無徵若有所湏便可以聞對曰臣既不敏當復何言但其葬事宣用輕易生則無務於軍國死則何敢重難云云時賢聞而歎曰此之一言竊比於往哲之善言矣大樹將軍之辭賞詎可同年而語哉庚申天皇遣東宮大皇弟於藤原內大臣家授大織冠與大臣位仍賜姓爲藤原氏自此以後通曰藤原大臣辛酉藤原內大臣薨甲子天皇幸藤原內大臣家命大錦上蘇我赤兄臣奉宣恩詔仍賜金香鑪十二月災大藏是冬修髙安城收畿內之田税于時災斑鳩寺是歳遣小錦中河內直鯨等使於大唐又以佐平餘自信佐平鬼室集斯等男女七百餘人遷居近江國蒲生郡又大唐遣郭務悰等二千餘人」
【八年の春正月の朔が庚辰の戊子の日に、蘇我の赤兄の臣を、筑紫の率にした。三月の朔が己卯の己丑の日に、耽羅が、王子の久麻伎達を派遣して貢献した。丙申の日に、耽羅の王に五穀の種を与えた。この日に、王子の久麻伎達が帰った。夏五月の朔が戊寅の壬午の日に、天皇は、山科の野に臣下を引き連れた狩りを行った。大皇弟と藤原の内大臣及び下臣、皆残らず従った。秋八月の朔が丁未の己酉の日に、天皇は、高安の嶺に登って、相談して城を造ろうとしたが人々が疲弊することを心配して止めた。当時の人は「これはめぐみいつくしむ品性を持ち合わせていると言わずにいられない」と感心してほめたたえた云云。この秋に、藤原の内大臣の家に落雷した。九月の朔が丁丑の丁亥の日に、新羅が、沙飡の督儒達を派遣して、年貢を進上した。冬十月の朔が丙午の乙卯の日に、天皇は、藤原の内大臣の家に行幸して、親ら容体を聞いた。それなのに苦しみやつれつくしてひどい状態だった。それで「天神が思いやりを助けるという道理などというのはうそだ。善行を積み重ねて余りあるめでたいことがあるのに何の助けの兆候が無い。もしできることが有るのなら教えてほしい」と詔勅した。「私は才能も無いのに今更何を言えましょう。ただし私の葬事は、簡単なものにしてください。生きているときは軍事に関与しなかった。死んでまでどうしていくつもの難儀を残せましょう」と答えた、云云。当時の賢者がこれを聞いて「この一言を言えば、昔の哲人の名言としていつの日か後漢の馮異將軍と比べて同じだと賞賛されるだろう」と褒め称えた。庚申の日に、天皇は、東宮の大皇弟を藤原の内大臣の家に派遣して、大織冠と大臣の位とを授けた。それで、姓を与えて、藤原の氏とした。これより以後、ずっと藤原の内大臣といった。辛酉の日に、藤原の内大臣が薨じた。甲子の日に、天皇は、藤原の内大臣の家に行幸した。大錦上の蘇我の赤兄の臣に命じて、恩詔を宣べあげた。それで、金の香鑪を与えた。十二月に、大藏が火災にあった。この冬に、高安の城を築城して、畿内の田の税を徴収した。その時に、斑鳩の寺が火災にあった。この歳に、小錦中の河内の直の鯨達を派遣して、大唐への使者とした。また佐平の餘自信と佐平の鬼室集斯達が、男女七百人余を、近江の国の蒲生の郡に遷して住まわせた。また大唐が、郭務悰達二千人余を派遣した。】とあり、十月丙午朔は9月30日で9月が小の月なら標準陰暦と合致し、それ以外は標準陰暦と合致する。
藤原姓を授与されたとするが、天武天皇十三年の「更改諸氏之族姓作八色之姓以混天下萬姓一曰眞人二曰朝臣」と朝臣姓を制定して、授与した氏族の中に中臣は存在するが、藤原が無く、『続日本紀』で文武二年八月「丙午詔曰藤原朝臣所賜之姓」と698年に朝臣を得て、朝臣付与時684年には藤原姓が無かった。
すなわち、藤原賜姓は天武13年より後に鎌足のみに与えられ、698年に不比等・大嶋達に藤原朝臣を与えられ、大嶋は持統五年「神祗伯中臣朝臣大嶋」、持統七年「賜直大貳葛原朝臣大嶋賻物」とあり、その間の持統六年「天皇觀藤原宮地」と藤原の宮の建設中の十月に鎌足が危篤となって、新しい都に因んで藤原姓を与えられたと考えたほうが理に適う。
藤原朝臣大嶋は朝臣賜姓時に藤原が含まれていないので、698年以降のことと考えられ、『藤氏家伝』も「即位二年 冬十月・・・ 仍授織冠 以任内大臣 改姓爲藤原朝臣」と、鎌足一人の藤原姓だったのに対し、朝臣の賜姓は文武2年の朝臣賜姓を述べ、死後の付与とも考えられる。
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