2021年12月31日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』神武天皇類書11

  『日本書紀』は庚申年秋八月癸丑が朔の戊辰に、正妃立てようと。求め事代主神が三嶋溝橛耳の娘の玉櫛媛と共に生んだ子媛蹈韛五十鈴媛を見つけた。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀上 』は「庚申年秋八月癸丑朔戊辰天孫當立正妃政廣求華雲時有人奏曰事代主神與三嶋溝撅耳神之女立櫛媛(?)生之鬼號曰姬媛蹈鞴五十鈴姬命是國色之秀者天孫悅矣九月壬午朔乙巳納媛蹈鞴五十鈴媛命為正妃」、【庚申年の秋八月癸丑が朔戊辰の日、天孫は正妃を立てようと、改めて、広く貴族の娘を探したときに、「事代主が、三島溝杭耳の娘の玉櫛媛と結婚して、生まれた子を名づけて、媛蹈鞴五十鈴姫といい容貌がすぐれた人だ」と言った。これを聞いて天皇は喜んだ。九月壬午が朔の乙巳の日、媛蹈鞴五十鈴媛を正妃とした。】と訳した。

庚申年秋八月癸丑朔は天文学的朔の日干支だが、 九月壬午朔は8月30日晦日で九州の暦になり、84年8月29日晦日が壬午で83年に景行天皇と同一視した王が熊襲國の高屋宮で六年経ち、「御刀媛則召爲妃生豐國別皇子是日向國造之始祖也」と御刀媛が翌84年に正妃となったと考えれば良く合致する。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は「然更求爲大后之美人時大久米命(向)白此間有媛女是謂神御子其所以謂神御子者三嶋湟咋之女名勢夜陀多良比賣其容姿麗美故美和之大物主神見感而其美人爲大便之時化丹塗矢自其爲大便之溝流下突其美人之富登尓其美人驚而立走伊須須岐伎乃將來其矢置於床邊忽成麗壮夫即娶其美人生子名謂富登多多良伊須須岐此(比)賣命亦名謂比賣多多良伊須氣余理比賣(是者悪其富登云事後改名者也)故是以謂神御子也於是七媛女遊行於高佐士野(佐士二字以音)伊須氣余理比賣在其中尓大久米命見其伊須氣余理比賣而以歌白於天皇曰夜麻登能多加佐士怒袁那々由久袁登賣杼母多礼袁志摩加牟尓伊須氣尓(余)理比賣者立其媛女等之前乃天皇見其媛女等而御心知伊須氣尓(余)理比賣立於最前以歌荅曰賀都賀都母伊夜佐岐陀弖流延袁斯麻加牟尓大久米命以天皇之命詔其伊須氣余理比賣之時見其大久米命黥利目而思奇歌曰阿米都々知杼理麻斯登々那杼佐祁流計(斗)米尓大久米命荅歌曰袁登賣尓多陀尓阿波牟登和加佐祁流斗米故其嬢子白之仕奉也於是其伊須氣余理比賣命之家在狭井河之上天皇幸行其伊須氣余理比賣之許一宿御寝坐也(其河謂佐韋河由者於其河邊山由理草多在故取其山由理草之名号佐韋河也山由理草之本名云佐韋也)後其伊須氣余理比賣参入宮内之時天皇御歌曰阿斯波良能志祁去(志)岐袁夜迩須賀多多美伊夜佐夜斯岐忌(弖)和賀布多理泥斯然而阿禮坐之御子名曰(日)子八井命次神八井耳(命)次神沼河耳命三柱」、【しかし更に大后にする美人を求め、大久米が「ここに若い媛がいる。これを神子という。その神子という訳は、三島の溝咋の女の勢夜陀多良比賣の容姿が麗美だった。それで、三輪の大物主が、見染めて、その美人が厠を使っているとき、丹を塗った矢に化けて、その厠の溝から流れ下って、その美人の陰を突いた。それでその美人が驚いて、立ち上がって走って帰った。それでその矢を持って来て、床の縁に置くと、たちまち立派で勇壮な男に成って、その美人を娶って生んだ子は富登多多良伊須須岐比賣と言い、亦は比賣多多良伊須氣余理比賣、これは其の「ほと」というのを嫌って、後に名を改めた。と言った。だから、神子と言う。」と言った。そこで七人の若い媛が高佐士野で遊んでいて、伊須氣余理比賣がその中いた。そこで大久米が、その伊須氣余理比賣を見て、天皇に歌った(略)。ここで伊須氣余理比賣は、その若い媛達の前に立った。それで天皇は、その若い媛達を見て、伊須氣余理比賣が最前に立っているのを知って、歌で答えた(略)。そこで大久米は、天皇の命で、伊須氣余理比賣に言った時、大久米の入れ墨をした鋭い目を見て、奇妙に思って歌った(略)。そこで大久米は、答へて歌った(略)。それで、その少女が、「仕えましょう。

」と言った。それでその伊須氣余理比賣の家は狹井河の上流にあった。天皇は、その伊須氣余理比賣の許に行って、一晩泊まった。その河を佐韋河というのは、その河の辺に山百合が多く生えていた。それで、山百合の名を取って、佐韋河と名付けた。山百合の元の名は「さい」という。後にその伊須氣余理比賣が、宮の中に参上した時、天皇が歌った(略)。それで生まれた子の名は、日子八井、次に神八井耳、次に神沼河耳の三柱だ。】と訳した。

『古事記』は『日本書紀』・『舊事本紀』と異なる事項が多く、まず、皇后の名が五十鈴姫ではなく伊須須岐比賣・伊須氣余理比賣と違い、その父が事代主ではなく三輪の大物主で、大物主が祀られたのは崇神天皇の時で倭迹迹日百襲姫が説話の相手、『舊事本紀』は「高皇産靈尊詔大物主神・・・吾女三穂津姫命配」と、大物主は三穂津姫が妃で三穂が領地、大物主は大国の神茂の主のことで、「大田田祢古命亦名大直祢古命」と大田田祢古は亦の名が大直祢古で大国の王・大神の宮を守る王の意味、孫が大鴨積で、これが大国の神茂の神で「磯城瑞籬朝御世賜賀茂君姓」と崇神朝に賀茂君、「大田田根子今三輪君等之始祖」と大物主神の宮を守る王と合致する。

『日本書紀』も「問大田田根子曰汝其誰子對曰父曰大物主大神母曰活玉依媛」と『古事記』は「勢夜陀多良比賣」と神武は大田田根子と義兄弟になり、大鴨積の弟は「大友主命此命同朝御世賜大神君姓」と大友主で、垂仁天皇三年に「三輪君祖大友主與倭直祖長尾市於播磨」と時代が合致し、『古事記』のこの項の神武天皇は崇神天皇末の人物で、妻が大物主の阿田賀田須の娘の吾田姫となる。

『古事記』は伊須須岐比賣を神子、すなわち、岐神の子の岐比賣で天子と同等で、海の神の孫、天国王の子が陸の女王に婿入りした、天孫は女王の地に侵略してきたのだから婿入りして、その子は正統な女王の子で、侵略した国の継承者となることを示していて、磐余王は兄がいなくなったので天子を自称し、子の岐須美美が天孫であり、岐神子を継承し、伊須須岐比賣の妹伊須氣余理比賣を妃にし、王位を継承した。

2021年12月29日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』神武天皇類書10

 『日本書紀』は三月、役人に帝宅を造らせたとある。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀上 』は「庚辰詔有司經始帝宅天太玉命孫天宮命率手置帆負彦狹智二神之孫以齋峯齋鉏始採山材構立正殿故(?)謂於畝傍之橿原也太立宮柱於底磐根峻峙博風於高天之原而始馭天下之天皇草創天基之日也因皇孫命之瑞御殿造供奉矣其裔孫忌部(?)居紀伊國名御本麁香二鄉其採材忌部(?)居謂之御本造殿忌部(?)居謂之麁香是其縁矣古語正殿謂麁香」、【庚辰の日に、役人に命じて宮殿を造り始めさせた。天太玉の孫の天宮は、手置帆負と彦狭知の二神の孫を率いて、祀る斧と祀る鋤で、山の原材を伐り、正殿を構え建て始めた。それで、畝傍の橿原に、太い宮の柱を底の礎岩に立てて、高天原へ高くそびえ、はじめて天の下を治めた天皇が、国政を創めた日だ。それで、皇孫のめでたい御殿を造り、仕えている。この末裔の忌部は、紀伊国の御木郷と麁香郷の二郷にいる。材木を伐る役目を持った忌部がいるところを御木といい、御殿を造る忌部のいるところを麁香という。これが、由来だ。古い語葉で、正殿を麁香という。」と訳した。

『日本書紀』は己未年三月と記述され、いつか分からないが、『舊事本紀』が3月19日と述べているようだが、内容を検証すると、天宮が造ったと、まさしく神倭王朝の首都建設で、畝傍で伝統道理に穴を掘りそのそこに磐を置いて、その上に大黒柱を建てて、柱が屋根の重みで沈下しないようにしたと述べている。

ここの主人公は祀られた神の太玉、子の大宮賣、太玉の孫天宮で、最高位の人物の宮を作らせた王は大宮賣夫婦で、おそらく『舊事本紀』の間違いで、天宮は大宮賣の夫で神武天皇の一人、その子は天留(富)で忌部の祖のことだと考えられる。

すなわち、本来三月壬戌朔庚辰だったものが三月辛酉朔と合わないので、『日本書紀』は削除したが、『舊事本紀』は三月壬戌朔を削除して記述したと考えられ、御木や麁香に残る説話を使用したと考えられる。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は「故如此言向平和荒夫琉神等退撥不伏之人等而坐畝火之白檮原宮治天下也故坐日向時娶阿多之小椅君妹名阿比良比賣生子多藝志美美命次岐須美美命二柱坐也」、【それで、このように荒々しい神達を従わせて穏やかにし、屈服しない者達は打ち払って、畝火の白梼原の宮に居て、天の下を治めた。それで、日向にいた時、阿多の小椅君の妹の阿比良比賣を娶って生んだ子が、多藝志美美、次に岐須美美の、二柱がいた。】と訳した。

『日本書紀』には、「日向國吾田邑吾平津媛」で日向国は景行天皇十二年に出現し、「豐國別皇子是日向國造之始祖」と景行天皇以降に出来たと考えられ、神武天皇の時代は「火闌降命即吾田君小橋等之本祖」と日向国では無く、阿比良姫は葛城神武日向襲津彦の母の日向髪長大田根の可能性が高い。

岐須美美はおそらく、岐州三神の意味で、『山海經』の君主国の君が岐州からの派生で岐須美美は岐州三国の神で「天日方奇日方」は海士の日神の方(?海岸:洲に対する潟)、岐州の日神の方(?海岸)を意味するのではないだろうか。

2021年12月27日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』神武天皇類書9

  『日本書紀』は己未年二月壬辰が朔の辛亥に、層富縣の新城戸畔・居勢祝・猪祝の土蜘蛛皆誅し、高尾張邑の土蜘蛛を殺し、葛城・磐余・埴安の名を付けた。

磐余は「因改號其邑曰葛城夫磐余之地舊名片居」と葛城のことで、磐余彦は葛城氏の任地の役職名と解り、天皇の名は葛城氏の名前だと証明し、天皇は橿原宮にいて、名をつけるなら橿原彦である。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀上 』は「已未年春二月辛卯朔庚辰道臣命率軍兵而

撥伏逆賊之狀奏矣戊午宇摩志麻治命率天物部而翦夷逆賊復師軍兵而平定海内狀奏矣」、【己未年の春二月辛卯が朔の庚辰の日に、道臣は、軍を率いて逆賊を討ち従えた様子を奏上した。戊午の日、宇摩志麻治は、天の物部を率いて逆賊を斬り平らげ、また、軍団を率いて海内を平定した様子を奏上した。】と訳した。

『日本書記』の己未年二月壬辰朔は天文学的朔の日干支だが、二月辛卯朔は1月30日晦日、九州の暦で、物部氏が朝廷に関与するのは崇神天皇の時からで、この『舊事本紀』の説話は本来違う時代の説話と考えられ、この日干支の近辺で「平定海内」と、とある領域を平定したような事件は517年1月29日晦日が辛卯で、翌年、「遷都弟國」と遷都して、秦王国建国の可能性が有る。

太秦(うずまさ)の秦が秦国からの表意文字で秦王国も当然、歴史ある秦国からその名を付けた可能性が高い。

『日本書紀』は三月辛酉が朔の丁卯に、中洲は穏やかで「夫大人制」とすなわち「なか国」に大人国の制度を施行して六合を併せて都開八国風のしめ縄を張って都を開こうと言った。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀上 』は「三月辛酉朔丁卯下令曰自我東征於茲六年

矣賴以皇天之威凶徒就戮雖邊土未清餘妖尚梗而中州之地無復風塵誠冝恢廓皇都(?+)

摹大壯而今運屢長蒙民心朴素巣栖穴住習俗惟常夫大人立制義必隨時苟有利民何妨聖造且當披拂山林經營宮室而恭臨寶位以鎮元々上則荅乾靈授國之德下則弘皇孫養正之心然後兼六合以開都掩八紘而為宇不亦可乎覩夫畝傍山東南橿原地者蓋國之墺區乎」、【三月辛酉が朔の丁卯の日、令(のり)をくだして仰せになった。「私が東征について六年だ。神々の力で凶徒を殺したが、辺地はまだ静まらない。残党の力はまだ根強いが、中国の地には微塵も無い。皇都をひろめて御殿を真似て立派に造ろう。いま、巡りあわせはまだまだだが、民の心は素直である。人々は洞窟に草を敷いて住んで、習俗は一人前だが、大人の制度を立てて、道理がいつも有る。もし民に利益有というなら、聖人が造ることを誰も妨げない。山林を開き、宮室を営み、謹んで宝の位に臨で根本を鎮め、上は北西の霊が国を授けた恵に答え、下は皇孫が持っている正しい心を広めよう。その後、都をひらいて六合に含め、八の大綱を大きなやねの下におおうのは、また良いことではないか。見たところ、畝傍山の東南の橿原の地は、思うに国の水際の地だ」】と訳した。

三月辛酉朔も2月30日晦日で、九州の暦で、内容も、中州が平穏で、『山海經』の『海外南經』の六合や聖人と合致し、『海外東經』の大人國・大国の制度は聖人が造って、自分たちも聖人の末裔だと言っている。

聖は「ひじり・日後」で日国の人々と理解でき、三八(神倭)王朝の伝統的なしめ縄がある宮殿を造って都としようとしたと述べ、日国出身の王が書いた説話を『日本書紀』が流用したと考えられる。


2021年12月24日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』神武天皇類書8

  『日本書紀』は十有二月癸巳が朔の丙申、長髓彦に勝てず、饒速日と三炊屋媛亦の名は鳥見屋媛の子の可美眞手が協力して長髓彦を討って可美眞手は歸順し、饒速日は物部氏の遠祖とある。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『皇孫本紀 』は「十二月癸巳朔丙申皇師遂擊長髓彦連戰不能取勝時忽然天陰而雨水乃有金色靈鵄飛來止于皇弓之弭其鵄光嘩熅狀如流電由是長髓彦軍卒皆迷眩不覆力戰長髓是邑之本号焉因亦為人名及皇軍乃得鵄瑞也時人因号鵄色今云鳥見是訛矣昔孔舎衛之戰五瀬命中矢而薨矣天孫銜之常懐憤懟至此(?+)也意欲窮誅乃爲御謡之日(+)々都々志倶梅能故還餓何波起珥破介(+)羅毘荅曽(?)餓毛荅曽祢梅屠那(?)弖于荅弖之夜莾務覆謡之日(+)々都々志倶梅能故還餓介耆茂等珥宇恵志破餌介(+)勾致弭比倶伊和例破涴輸例儒于智弖之夜(?)因覆縦兵急攻之凡諸御謡皆謂來目歌此的取歌者而名也時長髓彦乃遣行人言於天孫曰嘗有天神之子乘天磐舩自天降止号曰櫛玉饒速日尊是取吾妹御炊屋媛遂有兒息名曰宇摩志麻治命為君而供奉焉至此乃日天神之子豈兩種子而奈何更(?)天神之子以奪人地乎吾不知有他亦吾心推之未必爲信乎天孫曰天神之子亦多耳汝(?)爲君是實天神之子者必有表物可相示之長髓彦即取饒速日尊之天羽々矢一隻及步靭以奉示天孫天孫覽之曰事不虛也還以(?)御天羽々矢一隻及步靭賜示於長髓彦長髓彦見其天表蓋增踧踖然凶器巳構其勢不得中体猶守迷圖無覆改意宇摩志麻治命本知天神慇懃唯天孫是與且見夫長髓彦凛性戻浪不可教以天人之(?+)乃謀殺舅帥衆歸順焉巳未年春壬戌朔甲子詔日天孫饒速日尊兒宇摩志麻治命舅長髓」、【十二月癸巳が朔の丙申の日、皇軍はついに長髄彦を討とうと、戦いを重ねたが、なかなか勝てなかった。ある時、急に空が陰り、雨になり、そこへ金色の不思議な鵄が飛んできて、皇の弓の弭にとまった。その鵄は光り輝いて、稲妻のようだった。このため、長髄彦軍は、みな眩惑されて戦えなかった。長髄は、もと邑の名で、それで人名とした。皇軍が鵄の瑞の兆しを得て、人はここを鵄邑と名づけた。今、鳥見というのはなまったものだ。昔、孔舎衛の戦いで、五瀬が矢に当たって死んだ。天孫は轡を持つと、いつも憤った。この戦いで、殺しつくそうと思い、歌った(略)。それで、また兵を従えて急襲した。すべて諸々の歌を、みな来目歌といい歌い伝えてきたからだ。ときに、長髄彦の使者が、天孫に「昔、天神の子がいて、天の磐船に乗って天から降った。名を櫛玉饒速日と言い、妹の御炊屋姫を娶って子を生んだ。子を宇摩志麻治と言う。それで、共に君として仕えてきた。いったい、天神の子は二つの家系なのか。どうして、天神の子と名のって、人の土地を奪うのか。ほかにいるなど、聞いたことがない。お前は偽者だろう」と言った。天孫は「天神の子はたくさんの神々がいる。お前が君とするのが、本当に天神の子なら、きっと表す物がある。それを見せろ」と言った。長髄彦は、饒速日の天の羽羽矢一隻と、歩靫を天孫に示した。天孫は見て「本当だ」と言い、帰って持っている天の羽羽矢一隻と、歩靫を長髄彦に示した。長髄彦は、その天のしるしのついた蓋を見て、ますます不安になったが、兵器を向けられ、その勢いを止められなかった。なおも、間違い惑い、改心もしなかった。宇摩志麻治は、もとから天神が礼儀正しく、天孫と知っていた。また、長髄彦は、戻る波のように激しく、天と人の祀りを教えられず、伯父を殺して、部下たちを率いて帰順させた。己未年の春の壬戌が朔(正しい日干支)の甲子の日に、「天孫の饒速日の子の宇摩志麻治は、伯父の長髄 (※ 以下脱文)】と訳した。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は「故尓迩藝速日命参赴白於天神御子聞天神御子天降坐故追参降來即獻天津瑞以仕奉也故迩藝速日命娶登美毘古之妹登美夜毗賣生子宇麻志麻遅命(此者物部連穂積臣妹(婇)臣祖也)」、【そこに迩藝速日がやって来て、天神の子に白ししく、「天神の子が天から降ったと聞いた。それで、追って降って来た。」と言って、天津の瑞を献上して、迩藝速日が登美毘古の妹の登美夜毘賣を娶って生んだ子の宇摩志麻遲(物部連・穗積臣、婇臣の祖)は仕えた。】と訳した。

十二月癸巳朔は12月2日で12月1日の前日が29日で11月晦日朔を11月30日、壬辰が晦日と考えて翌日を朔としたと思われれ、九州の暦で、この説話は中(なか)国のもので、長州の名を取り長髄彦で、それを、鵄の説話で鳥見をこじ付け、大和の説話に挿げ替えたと思われる。

可美眞手も可美葦牙彦舅と同じ地域の人物、可美葦牙彦舅が葦原中國の始祖神で可美眞手は手耳が皇太子、脚摩乳の助けとなる手摩乳と同じように、可美眞手が皇太子と記述していると思われる。

古代は皇后が最高権威者で、皇后の弟や父親が権力を握り、皇后の子が権力の手先で権力を行使したと考えられ、三炊屋媛・鳥見屋媛が権威者、長髓彦・鳥見彦が権力者で可美眞手が行使者で、もっとも古い『日本書紀』は治めることを手と表意文字を使い、『古事記』は表音文字の遅を使い、『舊事本紀』は表意文字が治だとしたことが解る。

巳未年春壬戌朔は天文学的朔の日干支だが、『日本書紀』には記述されず、推古天皇の時代までこの日干支の記録が残っていたか、『日本書紀』からこの日の記述を削除したかで、この記事が途中で途切れているところから、葛城系の蘇我氏の馬子にとって不都合な記述だったことが解り、『日本書紀』も記述しなかったか本文を削除したと考えられる。

2021年12月22日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』神武天皇類書7

 『日本書紀』は九月甲子が朔の戊辰に八十梟帥と女坂・男坂・墨坂で対峙し、 嚴瓮の力を借りようとし、 冬十月癸巳が朔に 道臣が忍坂邑を襲撃し、十有一月癸亥が朔の己巳に八十梟帥・ 磯城彦・兄磯城軍を壊滅したとある。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『皇孫本紀 』もほゞ同様で原文が長くなり、末尾に原文を付け加える。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は「故明將打其土雲之歌曰意佐加能意富牟(竿)盧夜尓比登佐波尓岐伊理袁理比登佐波尓伊理袁理登母美都美都斯久米能古賀久夫都々伊々斯都都伊母知

宇知弖斯夜麻牟美都美都斯久米能古良賀久夫都々伊々斯都々伊母知伊麻宇多婆余良斯如此歌而抜刀一時打殺也然後將撃登美毗古之時歌曰美都々々(美都)斯久米能古良賀阿波布尓波賀美良比登母登曽泥賀母登曽泥米都那藝弖宇知弖志夜麻牟又歌曰美都美都斯久米能古良賀加岐母登尓宇恵志波士加美久知比々久和礼波和須礼志宇知弖斯夜麻牟又歌曰加牟加是能伊勢能宇美能意斐志尓波比母登富呂布志多陀美能伊波比母登富理宇知弖志夜麻牟又撃兄師木弟師木之時御軍暫疲尓歌曰多々那米弖伊那佐能夜麻能許能麻用母伊由岐麻毛良比多多加閇婆和礼波夜恵奴志麻都登理宇上加比賀登母伊麻須氣尓許泥」、【それで、その土雲が打とうと聞こえるように歌った(略)。この様に歌って、刀を拔いて、一斉に撃ち殺した。そうして、登美毘古を撃とうと歌った(略)。また歌った(略)。また歌った(略)。また、兄師木と弟師木を撃った時、軍勢が少し疲れた。そこで歌った(略)。】と訳した。

九月甲子朔・十月癸巳朔・十有一月癸亥朔は天文学的朔の日干支の朝廷の記録で、『日本書紀』と『舊事本紀』はほゞ同様で『舊事本紀』が『日本書紀』を流用したと考えられる。

それに対して、『古事記』は 磯城彦が出現せず、味方のはずの弟磯城が討たれて、『古事記』は弟磯城と磯城彦が同一人物と理解し、さらに、『古事記』では弟猾が大活躍し、それに、道臣が加わっている。

すなわち、葛城神武の大和侵略は瀬戸内を支配する道臣と宇陀・吉野から磯城彦の末裔の尾張王朝を攻撃したと考えられ、葛城氏の母系の義父の珍彦・椎根津彦が『古事記』に登場する理由である。

八十梟帥は侵入者が八国の制覇をもくろみ、倒そうとする相手の八国の十の将軍の意味で、その中に磯城彦がいて、兄磯城が支配する磐余を火火出見の配下の剱根が得て、弟磯城は磯城を受け継いだと考えられる。

磯城彦は磯城縣の縣の制度が無い時期の王で、兄磯城が磯城縣の王の後継者の筆頭とはいえ、兄磯城がいる磐余が磯城縣を含むのではなく、磐余彦が磯城彦の配下であるのが当然で、磐余彦が天皇なら、磯城彦の地位は天皇以上となり、最高位の天皇に矛盾が生じ、神倭磐余彦がこれまで述べてきたように、三八朝廷の磐余の将軍の意味だと解る。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『皇孫本紀 』は「九月甲子朔戊辰天孫陟彼㝹田高倉山之巔瞻望域中時國見兵上有八十梟帥矣又於女坂置女軍男坂置男軍墨坂置焃炭其女坂男坂墨坂之号由此而起也覆有兄磯城軍布滿於磐余邑賊虜(?)據皆是要害之地故道路絕塞無處可通天孫惡之是夜自祈而(?)有天神訓之曰宜取天香山社中土以造天平瓫八十枚并造嚴瓫而敬祭天神地祇亦為嚴咒咀如此則虜自平伏矣天孫(?)承夢訓依以將行時弟猾又奏曰倭國磯城邑有磯城八十梟帥又髙尾張邑或本云髙城邑有赤鯛八十梟帥此類皆欲與天孫拒戰臣竊爲天孫憂之宜今當取天香山以造天平瓫而祭天社國社之神然後擊虜則易除也天孫既以夢辭為吉兆及聞弟猾之言蓋喜於懐乃使椎根津彦著弊衣服乃蓑笠爲老人貌又使弟猾被箕爲老嫗而敕之曰宜汝二人到天香山潛取其巔土而來覆基業成否當以汝為占努力勿慎欤是時虜兵滿路難以往還時椎津根彦乃称之曰我皇當能定此國者行路自通如不能者賊必防禦言訖徑去時群虜見二人大笑之曰大醜乎老父老嫗則相與闢道使行二人得至其山取土來歸於是天孫甚悅乃以此垣造作八十平瓫天乎技八十投嚴瓫而陟于丹生川上用祭天神地祇則於彼㝹田川之朝原譬如氷沫而有(?)咒着矣天孫又因祈之日吾今當以八十平瓫無水造飴成則吾必不假鋒刃之威坐平天下乃造飴飴即自成又祈之曰吾當以嚴瓫沈于丹生之川如魚無大少悉醉而流譬猶柀棄之浮流者吾心能定此國如其不爾終無(?)成乃沈瓫於川其口向下頂之魚皆浮出隨水噞喎時椎根津彦見而奏之天孫大喜乃拔取丹生川上五百箇真坂樹以祭諸神自此始有嚴瓫之置也時勅道臣命今以高皇産靈尊朕朕親作顯齋用汝為齋主授以嚴媛之號而名其(?)置埴瓫為嚴瓫又火名爲嚴香來雷水名為嚴罔象女粮名為嚴稻魂女薪名為嚴山雷草名為嚴野推矣冬十月癸巳朔天孫嘗其嚴瓫粮勤兵而出先擊八十梟帥於國見丘破斬之是役也天孫志存必克乃為御謠之日伽牟伽華能伊齋能于彌能於費異之珥夜異波臂茋等倍屢之々多々(+)(+)々之々阿々誤々豫々之多大(+)能異波比(?)等倍離于々智々在々之々夜々(?)々務々謡意以大石喩於其國見丘也既而餘黨猶繁其情難測乃顧敕道臣命汝宜帥大來目部作大室於忍坂邑盛設宴饗誘虜而取之道臣命於是奉密旨掘穴音於忍坂而選我猛卒與虜雜居陰期之曰酒酣之後吾則起歌汝等聞吾歌聲則一時判虜已而坐定酒行虜不知我之有陰謀任情徑醉時道臣命乃起而歌之日於佐箇(?)於明務露夜珥比荅瑳破而異離鳥利荅毛比荅瑳破而(?++)伊離鳥利荅毛(+)々都々志倶梅能因還餓勾驚都々伊異志都々伊毛智于智妄之夜莾務時我卒聞歌聲俱拔其頭推劔一時殺虜虜無覆噍一類者皇軍大悅仰天咲因歌日伊々莾々波々豫々阿々時夜場伊々莾々懐儴而々毛々阿々誤々豫々今來目部歌而後大哂是其緣也覆歌之日愛(+)詩鳥(+)儴利毛々那比荅破易倍(?)毛多牟伽毘毛勢儒此皆承密旨而歌之非敢自専者也時天孫曰戰勝而無驕者良將之行也今魁賊已滅而同惡者十數群其情不知如何久居一處無以制變乃從營於別處十一月癸亥朔己巳皇師大舉將以磯城彦矣先遣使者徵兄磯城兄磯城不承命更遣頭八咫烏召之時烏到其營而鳴之曰天神子召汝怡奘過怡奘過兄磯城忿之曰天厭神至而吾為慨僨時奈何烏鳥若此惡鳴耶乃彎弓射之鳥即避去次到弟磯城宅而鳴之曰天神子召汝怡奘陋怡奘陋時弟磯城然改容曰臣聞天厭神至旦夕畏懼善乎鳥汝鳴之若此者欤即作葉盤八枚盛食饗因以隨鳥詣到而告之曰吾兄々磯城聞天神子來則聚八十梟帥具兵甲將決戰可草圖之矣天孫乃會諸將問之曰今兄磯城果有逆賊之意召亦不來為奈何諸將曰兄磯城點賊也宜先遣弟磯城曉喻之并諸兄倉下弟倉下如遂不歸順然後舉兵臨之亦未曉之矣伋使弟磯城開示利害而兄磯城等猶守愚謀不肯承伏時椎根津彦計之曰今者宜先遣我女軍出自忍坂道虜見之盡銳而起吾則馳勁卒直損墨坂取㝹田川水以灌其炭火倏忽之間出其不意則破之必也天孫善其栄乃出女車以臨之虜謂大兵已至畢力相待先此皇師攻必取戰必勝而介冑之士不無疲弊故聊為御謠次慰將卒之心焉謡之日哆々奈梅互伊那瑳能椰摩能(?)能莾由毛易喩耆摩手羅毘多々介陪摩和例破椰隈怒之摩途等利宇介碎餓等茂伊莾輸開珥(?)祢果以男軍越墨坂從後夾擊之斬其梟帥兄磯城等也」とあり、概ね『日本書紀』と同様である。


2021年12月20日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』神武天皇類書6

  『日本書紀』は秋八月甲午が朔の乙未、 菟田縣を攻め弟猾を味方につけの兄猾を滅ぼした。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『皇孫本紀』は「秋八月甲午朔乙未天孫使徵兄猾及弟猾者是兩人㝹田之魁帥者也時兄猾不來弟猾即詣至因拜軍門而告之曰臣兄々猾為逆狀也聞天孫且到即起兵將襲望見皇師之威懼不敢敵乃潛伏其兵權作新宮而殿内絕機欲因請饗以作難願和此詐善為之善備天孫即遣逍臣察其逆狀時道臣命審知有賊害之心而大怒誥嘖之曰虜尓(?)造屋尓自居之因案劔彎弓逼令催入兄猾獲罪於天事無(?)辭乃自蹈機而壓死時凍其屍而斬之流血没踝故号其地日㝹田血原巳而弟猾大設牛酒以勞饗皇師焉天孫以其酒寅卒乃爲御謠之日于僕能多伽機珥辞藝和耶破蘆和餓未㝹夜辤藝破佐夜羅孺伊殊區波辞區(?泥 ヒ→エ)羅佐夜離固奈(+)餓那居波佐磨多知曽麼能未迺那鶏勾塢居氣辞被恵祢宇破奈利餓那居波佐麼伊知佐介幾未迺於朋鶏勾塢居氣僕被恵祢是謂來目歌今樂府奏此歌者猶有手量大少及音聲巨細此古之遺式也是後天孫欲省吉野之地乃從㝹田穿邑親卒輕兵巡幸焉至吉野時有人出自井中光而有尾天孫問之曰汝何人對曰臣是國神名爲井光是則吉野首部遠始祖也更少進亦有尾而披磐石而出者天孫問之曰汝何人對曰臣是磐排別之子此則吉野國巢部始祖也及緣水西行亦有作粱取魚者天孫問之對曰臣是包苴擔之子則阿大養鸕部始祖也」、【秋八月甲午が朔の乙未の日、天孫は兄猾と弟猾を呼んだ。菟田の県の頭だが、兄猾は来ず、弟猾だけ来て軍門でお辞儀して「私の兄の兄猾は反逆し、天孫が来ると聞いて、襲撃しようと軍勢を見ると、勝てないと思って、兵を隠して、仮の新宮を造り、御殿の中に仕掛けを設けて、もてなすように見せかけて、殺そうとしている。お願いだからこの謀略を知って、備えて」と教えた。天孫は、逍(?道)臣を派遣して、その計略を調べさせ、道臣は反逆を考えていると知って、「こいつめ。造った部屋に、自分が入れ」怒って叱った。そして、剣を構え、弓をつがえて追いつめた。兄猾は、天をあざむいたので、罰が当たり、みずから仕掛けに落ちて圧死した。動かない屍を斬ると、流れる血はくるぶしが没するほどに溢れ、その地を菟田の血原という。弟猾は、肉と酒を用意して、皇軍をもてなした。天孫は酒肉を兵士に分け、歌(略)って踊った。これを来目歌という。いま、楽府でこの歌を歌うときは、手を大小に拡げ声の太さ細さがある。これは、昔の遺法だ。この後、天孫は吉野の地を見たいと、菟田の穿邑から軽装の兵をつれ行った。吉野に着き、井戸の中から出てきた人がいた。その人は、井戸が光って尻尾が有るようだった。天孫は、「お前は何者だ」と聞いた。「私は国王で、名は井光と言う」と答えた。これは、吉野の首部の始祖だ。さらに進むと、また尾が有るように見える人が岩をおしわけて出てきた。天孫は、「お前は何者だ」と尋ねた。「私は磐排別の子だ」と答えた。これは、吉野の国の栖部の始祖だ。川沿いに西に行くと、また梁を設けて漁をする者がいた。天孫が尋ねると、「苞苴担の子だ」と答えた。これは、阿太の養鵜部の始祖だ。】、と訳した。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は「故随其教覺從其八咫鳥(烏)之後幸行者到吉野河之河尻時作筌有取魚人尓天神御子問汝者誰也荅白僕者國神名謂贄持之子(此者阿陀之鵜養之祖)從其地幸行者生尾人自井出來其井有光尓問汝者誰也荅白僕者國神名謂井氷鹿(此者吉野首等祖也)即入其山之亦遇生尾人此人押分巌而出來尓問汝者誰也荅白僕者國神名謂石押分之子今聞天神御子幸行故参向耳(此者吉野國巣之祖)自其地蹈穿越幸宇陀故曰宇陀之穿[指聲]也故尓於宇陀有兄宇迦斯弟宇迦斯二人故先遣八咫鳥(烏)問二人曰今天神御子幸行汝等仕奉乎於是兄宇迦斯以鳴鏑待射返其使故其鳴鏑所落之地謂訶夫羅前也將待撃云而聚軍然不得聚軍者欺陽仕奉而作大殿於其殿内作押機待時弟宇迦斯先参向拝曰(白)僕兄(ゝ)宇迦斯射返天神御子之使將爲待攻而聚軍不得聚者作殿其内張押機將待取故参向顯白尓大伴連等之祖道臣命久米直等之祖大久米命二人召兄宇迦斯罵詈云伊賀所作仕奉於大麻(床)内者意礼先入明白其將爲仕奉之状而即握横刀之手上弟(矛)由氣矢刺而追入之時乃己所作押見打而死尓即控出斬散故其地謂宇陀之血原也然而其弟宇迦斯之獻大饗者悉賜其御軍此時歌曰宇坐能多加紀尓志藝和那波留和賀麻都夜志藝波佐夜良受伊須久波斯久治良佐夜流古那美賀那許波佐婆多知曽婆能微能那祁久袁許紀志斐恵泥宇波那理賀那許婆佐婆伊知佐加紀微能意富祁久袁許紀陀斐恵泥疊(亜)々志夜胡志夜此者伊能碁布曽阿々志夜胡志夜此者嘲咲者也故其弟宇迦斯(此者宇陀水取等之祖也)自其地幸行到忍坂大室之時生尾土雲八十建在其室待伊那流故尓天神御子之命以饗賜八十建於是死(充)八十建設八十膳夫毎人佩刀誨其膳夫等曰聞歌之者一時共斬」と、前後はするがほゞ『舊事本紀』と同様である。

秋八月甲午朔乙未は天文学的朔の日干支で、朝廷の資料である。

三書に出現する神武東征で出現する人物は、概ね名前どうりの支配者になっているのに、弟宇迦斯は菟田縣主ではなく猛田縣主になり、ところが、菟田主水部の祖となっている。

すなわち、侵略した王が菟田縣主になった可能性が高く、その領地の中に吉野・猛田邑があって、其々の地の王にしたように考えられる。

すなわち、其々の説話は同じ人物の説話ではなく、紀元前663年に吉備から出発した王の説話に、河内國草香邑青雲白肩之津に侵略した説話を、茅淳山城水門に侵略した王の説話に彦五瀬の説話を、菟田縣に侵略した菟田彦の説話のようにつなげ、命令者は事代主と考えられる。

野洲王の事代主は大国・小国を領有していた三国と同盟して、農耕に適した広大な大和盆地を得ようと、大国配下の小国王が河内や紀伊から侵略し、菟田彦が伊賀方面から侵略し、その配下に剱根がいて、磐余に住み着いたと考えられる。

事代主の名が「~八」でも八子でも無い事から、事代主の神は三(国)神の耳で三国王家の神の一人が火火出見・足耳・神武天皇で、事代主に婿入りして八国を手に入れ、そして、皇太子は手耳で、葛城氏は足耳が支配する神倭国の配下で、この時代は母系天皇なので実質の天皇は事代主・玉櫛媛でその娘蹈韛五十鈴と吾平津媛の子の手耳が後を継いだが、吾平津媛は恐らく曰向國吾田邑出身ではなく、武甕槌神が平定した場所で私が平定した国、「吾平國」なのではないだろうか。

神倭磐余彦は三国の手耳と八重事代主の連合国で三八国の磐余のリーダーと考えられる。

大己貴神が高皇産靈の子達に国譲りした時、『舊事本紀』に「歸順之首渠者大物主神及事代主神」と『古事記』では磐余彦の義父が大物主とされ、高皇産靈の娘の「三穂津姫」と三国の姫のところに婿入りし、すると、高皇産靈が三嶋溝撅耳となり三穂津姫が溝撅の娘の玉櫛媛を想定され、巨勢氏が書いた『古事記』は同じ葛城氏の史書でも、母親が三国出身のために、影響されたのだろうか。


2021年12月17日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』神武天皇類書5

 『日本書紀』は六月乙未が朔の丁巳に名草邑に着き、名草戸畔を誅し、狹野を越え、熊野の神邑の天磐盾に登り、稻飯が鋤持神、三毛入野が常世に去り、熊野の荒坂津で丹敷戸畔誅し、毒氣に当たり熊野の高倉下が武甕雷が靈で目覚め、頭八咫烏の案内で中洲に入り、日臣が大來目とともに菟田下縣に着き、日臣に道臣の賜姓を行った。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『皇孫本紀』は「・・・六月乙未朔丁巳軍至名草邑則誅名草戸畔者遂越狹野而到熊野神邑且登天磐盾仍引軍漸進海中卒遇暴風皇舩漂蕩時稻飯命乃歎曰嗟乎吾祖則天神母則海神如何我危於陸覆危我於海乎言訖乃拔劍入海化為鋤持神三毛野命又恨曰我母及娣並海神何為起波瀾以灌溺乎則蹈浪秀而往午常世國郷矣天孫獨與皇子手研耳命帥軍進至熊野荒坂津因以誅丹敷戶畔者時神坐毒氣人物咸瘁由是皇軍不能覆振之時彼處有人号日熊野髙倉下忽夜夢天照太神謂武甕雷神日夫葦原中國猶聞喧擾之響焉宜汝更往而征之武甕雷神對曰雖予不行而下予平國劔則國將自平矣天照太神曰諾時武甕雷神謂髙倉下曰予劔号日部靈命當置汝庫裏宜取獻之天孫髙倉下日唯々而寤之明且依夢中教開庫視之果有落劔倒立於庫底板即取以進之于時天孫適寐勿然而寤之曰予何長眠若此乎尋而中毒士卒瘁悉覆醒起既而皇師欲起中州而山中嶮絕無覆可行路乃棲遑不知其(?)跋涉時夜夢天照太神訓于天孫曰朕命遣頭八咫烏宣以爲鄉導者果有頭八咫烏自空翔降天孫曰此烏之來自叶神夢大哉赫矣我皇祖尊天照太神欲以助成基業乎是時大伴氏遠祖日臣命帥大來目督將元戎蹈山啟行乃尋烏所向仰視而追遂達于㝹田下縣因号其所至之處日㝹田穿邑于時敕譽田臣命日汝忠而且勇加有能導功是以改汝名爲導臣矣」、【六月乙未が朔の丁巳の日、軍は名草邑に着いた。そこで名草戸畔を誅した。それで狭野を越えて、熊野の神邑に着き、天の磐盾に登った。軍を率いて、だんだんと進んでいった。しかし海中で急に暴風に遭い、船は波に漂流して進まなかった。稲飯が「ああ、わが祖先は天神で、母は海神なのに、どうして私を陸で苦しめ、海でも苦しめるのか」と嘆いて、剣を抜いて海に入り、鋤持神となった。三毛入野も「わが母と伯母は海神なのに、どうして波立たせて溺れさすのか」と嘆いて、波頭を踏んで、常世の国へ行った。天孫はひとりで、皇子の手研耳と、軍を進め、熊野の荒坂の津に着いた。そこで、丹敷戸畔を誅した。そのとき神がいて、毒気を吐き、人はみなやつれ、皇軍は振るわなかった。すると、熊野の高倉下という人が夢に、天照大神が武甕雷に「葦原の中国は、まだ乱れて騒々しい。お前が行って、討ちなさい」と言い、武甕雷は「私が行かずとも、国を平らげた剣で、国はおのずと平らぐだろう」と答えた。天照大神は、「よろしい」と言った。武甕雷は、高倉下に「わが剣は、名を部(?韴)霊という。今、お前の倉の中に置く。それを取って天孫に献上しなさい」と言った。高倉下は、「おお」と目覚めて、あくる朝、夢の教えどおり、倉を開けると、果たして落ちた剣があり、庫の底板にささっていた。それを取って献上した。そのときに天孫は眠っていたが、急に目覚めて「どうしてこんなに長く眠ったのだろう」と言って、毒気に当たっていた兵士も、目覚めて起き上がった。皇軍は中国に赴こうとした。しかし、山中は険しく、道もなかった。進みあぐねていると、夢を見て、天照大神が天孫に「私は今、頭の八咫烏を派遣するから、案内人としなさい」と教えた。それで頭の八咫烏が空から飛んで降ってきた。天孫は「この烏が来たのは、夢のお告げどおりだ。すごいことだ。わが皇祖の天照大神が、仕事を助けようとしている」と言った。このときに大伴氏の遠祖の日臣は、大来目を率いて、将軍として、山を越えて、烏の導きのとおりに、前を見上げて追いかけた。ついに莵田の下県に着いた。それで、名づけて菟田の穿邑という。そのとき、田(?日)臣を「お前は忠実で勇ましく、よく導いた。それでお前の名を、道臣としよう」と褒めた。】と訳した。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は「故神倭伊波禮毗古命從其地廻幸到熊野村之時大熊髣出入即失尓神倭伊波禮毗古命倐忽爲遠延及御軍皆遠延而伏此時熊野之高倉下嚢(齎)一横刀到於天神御子之伏地而獻之時天神御子即寤起詔長寝乎故受取其横刀之時其熊野山之荒神自皆爲切仆尓其惑伏御軍悉寤起之故天神御子問獲其横刀之所由高倉下荅曰己夢云天照大神高木神二柱神之命以召建御雷神而詔葦原中國者「専汝所言向之國故良志」伊久(多)玖佐夜藝帝阿理那理我之御子等不平坐良志其葦原中國者専汝所言向之國故汝建御雷神可降尓荅白僕雖不降専有平其國之横刀可降(是刀)(此刀名云佐士布都神亦名云甕布都神亦名布都御魂此刀者坐石上神宮也)降此刀状者穿高倉下之倉頂自其堕入故阿佐米余玖汝取持獻天神御子故如夢教而旦見己倉者信有横刀故以是横刀而獻耳於是亦(高)木大神之命以覺白之天神御子自此於奥方莫使入幸荒神甚多今自(白)天遣八咫烏故其八咫鳥(烏)引道從其立後應應幸行」、【それで、神倭伊波禮毘古は、そこから廻って、熊野村に着いた時に、大熊がほんの一寸見えて消えた。そこで神倭伊波禮毘古は、たちまち吐き気が起こり、軍隊も皆吐いて倒れた。この時、熊野の高倉下が一振りの横刀を持って来て、天神の子の倒れているところに着いて献上した時、天神の子は、目覚めて立ち上がり、「大分寝ていたのか。」と言った。それで、その横刀を受け取った時、その熊野の山の荒々しい神は、自ら切られて死んだ。それで惑わされて倒れていた軍隊は、すぐに目覚めて立ち上がった。それで、天神の子が、その横刀を獲た訳を聞くと、高倉下は「夢の中で、天照大神・高木神の二柱の神のお告げで、建御雷神を召んで、『葦原の中國はとても騒がしい。我が子達が困っているようだ。その葦原の中國は、お前が平らげた国だ。だから、お前建御雷神が降るべきだ。』と詔勅した。それに『私が降らなくても、その国を平定した横刀が有るので、この刀を降すべきだ。(この刀の名は、佐士布都神と言い、亦は甕布都神と言い、亦は布都御魂と言う。この刀は石上神宮にある。)この刀を降した状況は、高倉下の倉の屋根に穴をあけて、墮し入れた。だから、うまくとりなして、天神の子に献上する。』と答えた。それで、夢の教えのとおりに、朝、倉を見ると、本当に横刀が有った。それで、この横刀を献上した。」と答えた。そこにまた、高木大神の命令で「天神の子をこれより奧の方に入って行くと荒々しい神がたくさんいる。今、天から八咫烏を派遣する。それで、八咫烏の導きでその後をついていけ。」と諭した。】と訳した。

六月乙未朔は5月30日晦日で5月晦日朔と九州の暦の変換間違いで、やはり、中州に向かうと記述するように、安芸での戦いで、この説話も懿徳天皇以降の説話である。

日臣が出現しているが、景行天皇四〇年の時に、「大伴連之遠祖武日」と記述され、仲哀天皇・足仲彦の時に「大伴武以連」と大伴連を賜姓して、これは共に天文学的日干支の朔を記述し朝廷の正しい記録である。

すなわち、葛城氏が大国の支配者だった時に、武日が日という日国の神でその子が日子・日王で日臣となり、仲哀天皇が仲国を支配した王で配下の大伴連と賜姓し、その間に日国王から道国王になっていたと解る。

名草邑の名草戸畔を誅しているが、『舊事本紀』には出雲臣の沙麻奈姫の子の建甕槌の子の豊御氣主が紀伊名草姫を妃にしたと記述し、名草戸畔の妹若しくは娘が名草姫の可能性が有り、高倉下の末裔の天戸目も紀伊國造智名曽の妹の中名草姫を妃に、子の建宇那比も節名草姫を妃にし、出雲臣は崇神天皇六〇年でも「出雲臣之遠祖出雲振根」と出雲臣が賜姓されていない。

すなわち、この説話の元ネタは足仲彦が中国を侵略した時の説話を流用した可能性が高く、中国王だった中臣が仲哀天皇九年に中臣烏賊津連と連を賜姓されて出現し、これも天文学的朔の日干支である。


2021年12月15日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』神武天皇類書4

 『日本書紀』は戊午年春二月丁酉が朔の丁未に難波之碕に着き、三月丁卯が朔の丙子に河内國草香邑青雲の白肩の津に着き、夏四月丙申が朔の甲辰に、膽駒山を踰え、中洲に侵入しようとしたが、孔舎衞坂会戦し五瀬が負傷し、日神子、引き返し草香の津(盾津)、五月丙寅が朔の癸酉茅渟山城水門に五瀬矢瘡が癒えず紀國の竃山に着いて薨じ葬った。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『皇孫本紀 』は「・・・戊午春二月丁酉朔丁未皇師即遂東舳艫相接方到難波之𥔎會有奔潮太急因以名浪速國亦曰浪花今謂難波訛也三月丁未朔丙子遡流而上(?)至河内國草香邑青雲白肩之津也夏四月丙申朔甲辰皇師勤兵趣龍田而其路狹嶮人不得並行乃還更欲踰膽駒山而入中州時長髓彦聞之曰天神子等(?)以來者必奪我國則盡起屬兵邀之於孔舍術坂與之會戰有流矢中五瀨命肱脛皇帥不能進戰天孫憂之乃運神策於沖衿曰今我是日神子孫而向日征虜此逆天道也不若退還示弱禮祭神祇背負日神之威隨影壓蹋如此則曾不血刃虜必自敗矣僉曰然於是令軍中曰且停勿覆進乃引軍還虜亦且不敢逼却至草香津植盾而為雄詰焉因改号其津日盾津今云蓼津訛初孔舎衛之戰有人隠於大樹而得免難乃指其樹日恩如母時人因号其地日母木邑今云飯悶迺奇訛矣五月丙寅朔癸酉軍至茅渟山城水門時五瀨命矢瘡痛甚乃掬劍雄詰之曰慨哉大丈矢被傷於虜手將不報而死耶時人因号其處日雄水門進到于紀伊國竈山而五瀨命薨千軍因葬竈山也・・・」、【戊午年の春二月丁酉が朔の丁未の日、皇軍はついに東へ。船はたがいに接するほどであった。難波碕に着こうとするとき、速い潮流があって、大急ぎに着いたので、浪速国と名づけた。また浪花ともいう。今、難波というのはなまったものだ。三月丁未が朔の丙子の日、川をさかのぼって、河内国草香邑の青雲の白肩の津に着いた。夏四月丙申が朔の甲辰の日、皇軍は兵をととのえ、龍田に向かった。その道は狭くけわしくて、人が並んで行けなかった。そこで引き返して、さらに東のほうの胆駒山を越えて中国に入ろうとした時に、長髄彦が聞いて、「天の神子達がやってくるのは、きっと我が国を奪うのだろう」と言って、全軍が孔舎衛坂で戦い、流れ矢が五瀬の利き足の脛に当たった。皇軍は、進み戦うことが出来ず、天孫は悩んで、神の導きで「いま、自分は日の神の子孫にもかかわらず、日に向かって征伐するのは天の道理にさからっている。一度退却して弱そうに見せ、神祇を祀って、日を背に負い、日神の威光で踏みつぶそう。そうすれば、血も流さないで、敵はおのずから負けを認める」と吐露した。皆は「そのとおりです」言い、軍中に「いったん止まり、進むな」と言い、軍兵を撤退させた。敵もあえて追わなかった。草香の津に引き返し、盾をたてて雄たけびをした。それでその津を、盾津と名づけた。今、蓼津というのは、なまったものだ。はじめ、孔舎衛の戦いに、大きな樹に隠れて、難を免れることができた人がいた。それで、その木を指して「恩は母のようだ」と言い、人はこれを聞き、その地を名づけて母木邑といった。今、「おものき」というのは、なまったものだ。五月丙寅が朔の癸酉の日、軍は茅渟の山城水門に着いた。その時、五瀬は矢傷がひどく痛んで、剣をつかんで「残念だ。どこも悪くないのに敵の為に傷つき、報復せずに死ぬのか」と叫んだ。人は、そこを雄水門と名づけた。進軍して、紀伊国の竃山について、五瀬命は武装したまま亡くなった。それで、竃山に葬った。】と訳した。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は「故從其國上行之時經浪速之渡而泊靑雲之白肩津此時登美能那賀須泥毗古興軍待向以戰尓取所入御舩之楯而下立故号其地謂楯津於今者云日下之蓼津也於是與登美毗古戰之時五瀬命於御手負登美毗古之痛矢串故尓詔吾者爲日神之御子向日而戰不良故負賎奴之痛手自今者行廻而背負日以撃期而自南方廻幸之時到血沼海洗其御手之血故謂血沼海也從其地廻幸到紀國男之水門而詔負賎奴之手乎死爲男建而崩故号其水門謂男水門也陵即在紀國之竃山也」、【それで、その國から上って行った時、浪速の渡を経て、青雲の白肩津に泊った。ここで、登美能那賀須泥毘古が戦いを起こした時、待ち受けようと 船に入れた楯を取って降り立った。それでそこを楯津と名付けた。今、日下の蓼津という。登美毗古と戦い矢が串刺しとなって五瀬が負傷した。それで「私は日神の子としては、日に向って戦うのは良くなかった。それで、賎しい奴に痛手を負った。今から回って、日を背にして攻撃しよう。」と決めて、南方から回った時、血沼の海に着いて、その手の血を洗った。それで、血沼の海と言った。そこから廻って、紀國の男の水門に着いて、「賎しい奴が手負いで死ぬだろう。」とをたけび死んだ。それで、その水門を男の水門と名付けた。陵は紀國の竃山に在る。】と訳した。

五月丙寅は天文学的に正しい朔だが、戊午年春二月丁酉は1月30日晦日で1月晦日朔と、四月丙申朔は3月30日晦日と3月晦日朔との、九州の暦の変換間違いと考えられ、 『舊事本紀』の三月丁未朔は『日本書紀』の丁卯と異なって、間違っている。

この三月丁未朔は紀元前515年2月29日晦日が丁未で3月29日が丙子で懿徳天皇の時代となり、建飯勝が出雲臣の娘を娶り、子の建甕槌、この神は葦原中国を平定した神で、建飯勝の義父が出雲大臣と考えられ、建飯勝の前に出雲大臣が葦原中国に侵略して長髄彦と姻戚になっていて、その後で建飯勝が侵入して長髄彦と闘ったと考えれば良く合致する。

五瀬は自身を『日本書紀』では天孫を「日神子孫」と日国の王と皇子と名乗り、長髄彦が自分のいる所を「中州」と呼んでいるように、「河内國草香邑青雲白肩津」の吉備からの侵略に日国からの安芸の葦原中国への侵略の説話をつなげたものと考えられる。

平郡氏が記述した雄略紀以前の『日本書紀』の朔の日干支は正しいものと、規則正しく間違うものがあり、推古紀以降に記述した『日本書紀』や『舊事本紀』が、この丁未朔や安閑紀以降の内容に1年違うものが有るなど、合理的に考えれば、記事発生日と朔の日干支が対なのではなく、記事を異なる資料の日干支に当て嵌めたのであり、計算とは考えにくいことが解る。


2021年12月13日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』神武天皇類書3

  『日本書紀』は十有一月丙戌が朔の甲午に筑紫國の岡水門、十有二月丙辰が朔の壬午に安藝國の埃宮、乙卯年春三月甲寅が朔己未に吉備國の高嶋宮にいて三年間で、舟・兵糧を蓄えて、平定の準備をした。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『皇孫本紀』は「・・・十一月丙戌朔甲午天孫至筑紫國岡水門十二月丙辰朔壬午至安藝國居于埃宮乙卯年春三月甲寅朔己未從入吉備國起行宮以居之是曰高嶋宮積三年間楯舟檝蓄兵食將欲以一舉而平天下也・・・」、【十一月丙戌が朔の甲午の日に、天孫は、筑紫国の岡水門にいた。十二月丙辰が朔の壬午の日に、安芸国の、埃宮にいた。乙卯年の春三月甲寅が朔の己未の日に、吉備国に入り、行宮を造っていた。これを、高嶋宮という。三年のうちに船・兵器・兵糧を蓄えて、一挙に天下を平定しようとした。】と訳した。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は「神倭伊波禮毗古命與其伊呂兄五瀬命二柱坐高千穂宮而議云坐何地者平聞看天下之政猶思東行即自日向發幸御筑紫故到豊國宇沙之時其土人名宇沙都比古宇沙都比賣二人作足一騰宮而獻大御饗自其地遷移而於竺紫之岡田宮一年坐亦從其國上幸而於阿岐國之多祁理宮七年坐亦從其國遷上幸而於吉備之高嶋宮八年坐故從其國上幸之時乗龜甲爲釣乍打羽擧來人遇于速吸門尓喚歸問之汝者誰也荅曰僕者國神又問汝者知海道乎荅曰能知又問從而仕奉乎荅白仕奉故尓指渡槁機引入其御舩即賜名号槁根津日子此者倭國造等之祖・・・」、【神倭伊波禮毘古 その兄の五瀬と二柱は、高千穗宮に居て「どこに行けば上手く天の下の政権を取れるだろう。東に行こう。」と相談して、それで、日向を立って筑紫に行った。それで、豐國の宇沙に着いた時、その国の人で名は宇沙都比古、宇沙都比賣の二人が、足一騰宮を作って、大饗宴を開いた。そこから移って竺紫の岡田宮に一年いた。そしてその國から上って、阿岐國の多祁理宮に七年いた。またその國から遷り上って吉備の高島宮に八年いた。それで、その國から上った時、亀の甲に乗って、釣りを止めて来る人と、速吸門で遭った。呼び寄せて、「お前は誰だ」と聞くと、「私は國神だ。」と答へた。又、「お前は海の道を知っているか。」と聞くと、「よく知っている。」と答へた。又、「私に仕えるか。」と聞くと、「仕へます。」と答えた。それで梯子を指し渡して、船に引き入れて、名を与えて、槁根津日子と名付けた。倭國造の祖。】と訳した。

十一月丙戌朔は12月1日大寒で、11月では有り得ず、十二月丙辰朔も1月1日雨水で、 九州の暦の11月晦日朔、11月晦日朔の変換間違いも考えられるが、閏月によるズレも否定できず、乙卯年春三月甲寅朔は天文学的朔と合致し、朝廷の記録と考えられ、少なくとも、吉備国は畿内朝廷の勢力下だったと解り、『古事記』や『舊事本記』に「建日方別」と記述されているのは、後代の結果を反映させたのかも知れない。

天の海は黄海・シナ海で中国の領域と『山海經』は述べ、帝俊が『大荒南經』「帝俊妻娥皇生此三身之國」と九州南部と考えられる地域から侵略して日国を3国に分裂させたと記述しているので、建日を足がかりにした国で「肥国謂建日別」・「熊襲國謂建日別」・「吉備兒嶋謂建日方別」がその領域と考えられ、燕が帝俊の活動範囲と考えられ、倭人も行動を共にし、建日が倭奴国の基の国と考えられ、筑紫・豊はまだ倭奴国ではなく、六合の領域に入り、秦・前漢の時代に筑紫が倭奴国の領域になったと考えられる。

『古事記』には竺紫の岡田宮に一年、阿岐國に七年、吉備に八年居住したとしているが、『日本書紀』は筑紫が甲寅年、安藝國も甲寅年、翌年の乙卯年に吉備國、3年後の戊午年に出撃し、全く異なっていて、『古事記』の資料は葛城神武の記録と考えられ、『日本書紀』が葛城神武の東征を流用したと考えられ、この時期に中国の燕が北方民族に侵略され、倭人が東に膨張した結果、筑紫や豊前・豊後が影響を受けたのかもしれない。

従って、宗像の東の曲浦の王の珍彦が莵狭から木国造、さらに、反正天皇は「生干淡路宮」と淡路で皇太子が誕生していることから、淡路島の王となっていて、建内宿祢と姻戚になり、さらに、都が河内になったことで、倭国造となったことを示している。

応神天皇は270年即位の応神天皇、405年が応神天皇十六年で「百濟阿花王薨」の記事が当てはまる390年即位の応神天皇と、420年が応神天皇二五年で「百濟直支王薨」の記事が当てはまる396年即位の応神天皇が存在し、390年頃はまだ珍彦が木国造、396年に即位した応神天皇が406年に磐余稚櫻宮から河内柴籬宮に首都を移転し、この時、418年に記述される倭直吾子篭が倭国造となったと考えられる。

2021年12月10日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』神武天皇類書2

  『日本書紀』は冬十月丁巳が朔の辛酉に東征を初め、速吸之門で珍彦が曲浦にいて、天神子迎え、案内人とし、椎根津彦と名付け倭直部の始祖で、菟狹にき菟狹國造の祖の菟狹津彦・菟狹津媛が一柱騰宮で饗応し、天種子が菟狹国王を後ろ盾に中臣の遠祖と記述している。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『皇孫本紀』は「・・・是年也太歳甲寅冬十月丁巳朔辛酉天孫親帥諸皇子舟帥東征至速吸門時有一漁人乘艇而至天孫招之因以問曰汝誰也對曰是國神名日珎彦釣魚於曲浦聞天神子來故即奉迎又問曰汝能為我導耶對曰導之矣天孫敕授漁人椎梯末令執而牽納於皇舟以為海導者乃時賜名為椎根津彦此即倭直部始祖也行至築紫㝹狹時有㝹狹國造祖号曰㝹狹津彦㝹狹津姬乃於㝹狹川上造一柱騰宮而奉饗矣是時敕以㝹狹津媛賜妻之於侍臣天種子命其天種子命者是中臣氏之遠祖也・・・」、【この年は大歳の甲寅である。その年の冬十月丁巳が朔の辛酉の日に、天孫は自ら諸皇子と船軍を率いて、東征に向かった。速吸の門に着いた時、一人の漁師がいて、舟に乗ってやってきた。天孫は、呼び寄せ「お前は誰か」と聞いた。「私は国王で、珎彦だ。曲浦で釣りをして、天の神子が来ると聞き、迎えに来た」と答えた。また、「私のために、水先案内をしないか」と聞いた。それで「案内しよう」と答えた。天孫は、漁師に梯子を差し出し、つかまらせて船の引き入れ、水先案内にした。そこで、名を椎根津彦とした。これが倭直部の始祖だ。進んで、筑紫の莵狭に着いた。すると、莵狭国造の祖で、莵狭津彦・莵狭津姫がいた。莵狭の川上に、一柱あがりの宮を造っておもてなした。このとき、莵狭津姫を侍臣の天種子に娶あわせた。天種子は、中臣氏の遠祖だ。】と訳した。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀上』は「・・・太歳甲寅冬十月丁巳朔辛酉親帥諸皇子發自西宮舩師東征見天孫紀・・・」、【太歳甲寅年の冬十月丁巳が朔の辛酉の日に、みずから諸皇子を率いて西宮を立ち、船団で東征した。[天孫本紀に見える]】と訳した。

甲寅冬の丁巳朔は11月1日で、閏月によるズレの可能性があるが、『海外南經』の西南陬、丈夫國宗像の東の結匈國の東南に「南山在其東南」と南山が有り、「蟲為蛇蛇號為魚」と蛇の様に蛇行する水上の魚の様に動くと、船の比喩にピタリに記述し、この南山が曲浦で、珍彦の神話の流用と考えられる。

珍彦は名前の通り「う津」の日国王で、天国王に従軍して菟狹に侵略して、菟狹王になり、天種子を婿にして、天種子が中洲に侵略して中の国王の中臣氏となった説話を葛城氏が流用し、珍彦の後裔の椎根津彦は葛城神武が4世紀に大和に侵略したとき、共に活躍して、『古事記』に「娶木國造之祖宇豆比古之妹山下影日賣生子建内宿祢」と建内宿祢の活躍で木国造になって、葛城氏と共に行動を共にしたと考えられる。

そして、『日本書紀』に「珍彦爲倭國造」と倭国造となったと考えられ、大和が首都なのに、大和王など全くの矛盾で、葛城氏が河内王朝を設立した時に、首都でなくなり、初めて大和王となったと考えられる。

最初の記録が10月朔の理由は莵狭津彦の元年の記録を、高千穂宮と考えられる伊都で朝廷を開いていた年表に当て嵌めて、紀元前667年の10月丁巳朔と記録し、それを、『日本書紀』に移行したと考えられ、この日は中国では10月が年始だったので、高千穂宮の元年が10月丁巳朔だった可能性が高く、莵狭津彦も任命したと考えられる。

『史記』前221年秦始皇二十六年「改年始朝賀皆自十月朔」と10月に年賀を行い、『漢書』前104年武帝太初元年五月に「正曆以正月為歲首」と1月を年始とし、前104年太初元年は「太初元年冬十月・・・十一月・・・十二月・・・二月・・・夏五月・・・秋八月・・・二年春正月戊申」と二月より前に10~12月があって10月年始が証明されていて、この東征開始説話は前104年より前の説話であることは理解できる。

2021年12月8日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』神武天皇類書1

  『日本書紀』は神武天皇即位前期には「諱は彦火々出見の第四子、母は玉依姫、海士神の娘で 十五で太子、日向國吾田邑の吾平津媛を妃とし、手耳を生んだ」とある。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『皇孫本紀』は「磐余彦命天孫彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊第四子母曰玉依姬命海童之小女也天孫生而明達意(?)如矣年十有五立爲太子長而曰向國吾田邑吾平津媛為妃誕生手研耳命次研耳命乃年四十五歳謂兄及子等曰昔我天神高皇産靈尊大日孁尊舉此豐葦原瑞穗國而授我天祖彦火瓊々杵尊之時開天關披雲路駈仙蹕以戾止是時運屬鴻荒時鐘草昧故蒙以養正治此西偏皇祖皇考乃神乃聖積慶重暉多歷年序自天祖降跡以迄于今即百七十九萬二千四百七十餘歳也而遼遙之地獨未霑王澤遂使邑有君村有長各自分壃用相陵礫抑又聞於鹽土老翁曰東有美地青山四周其中亦有乘天磐船而飛降者余謂彼地必當足以恢弘大業光宅天下蓋六合之中心手厥飛降者是饒速日欤何不就而都乎諸皇子對曰理實灼然我亦恆以爲念宜早行之・・・」、【磐余彦は、天孫の彦波瀲武鸕鷀草葺不合の第四子である。母は玉依姫といい、海士神の下の娘である。天孫は、生まれながらに賢く、志が確かだった。十五歳で太子となり、成長すると、日向国の吾田邑の吾平津媛を妃とし、手研耳、次に研耳を生んだ。四十五歳になって、兄や子たちに「昔、天神の高皇産霊と大日孁が、この豊の葦原の瑞穂国を我が天祖の彦火瓊々杵に授けた。天の関(海の波)を押し分け、海路の霧を押し分け戻らず先駆けて車駕を走らせた。このとき、運に従い世は荒れ、暗いので、まだ明るさも十分ではなかった。その暗い中にありながら、正しく、西の片田舎を治めた。皇祖は思うに神で、聖だったので、ますますよろこび輝き、多くの年月を経た。天祖が降ってから、百七十九万二千四百七十余年(?日)になる。しかし、はるか遠い国では、まだ帝王の恵みが及ばず、邑村に長があって、土地に境を設けて相争っている。また塩土老翁に聞くと、『東のほうに良い土地があり、青々とした山が取りまいている。その中へ、天の磐船に乗ってとび降ってきた者がある』という。思うにその土地は、広く統治をおこない、天下を治めるのにふさわしいであろう。きっと六合の中心だろう。そのとび降った者は、饒速日という者だ。どうしてそこに行かずにおけるか。」と言っていた。諸皇子たちも「そのとおりです。私たちもそう思うところです。すみやかに実行しましょう」と答えた。】と訳した。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀上』は「神武天皇彦波瀲武鸕鶿草不葺合尊第四皇子也諱神日本磐余彦天皇亦云彦火火出見尊即少年時号狭野尊也母曰玉依姬海童少女也天皇

生而明達意礭如也年十五立爲太子長而娶日向國吾田邑君平津媛爲妃生手研耳命也・・・」、【神武天皇は彦波瀲武鸕鷀草不葺合の第四子で諱は神日本磐余彦天皇、または彦火火出見という。年少のときは、狭野と呼ばれた。母は玉依姫といい、海士神の下の娘だ。天皇は、生まれながらに明晰で、しっかりしていた。十五歳で皇太子になった。成長して、日向国吾田邑の吾平津媛を妃に娶り、手研耳を生んだ。】と訳した。

『舊事本紀』は皇祖を神で聖と『山海經』の『海外南經』の「六合之閒・・・神靈所生・・・唯聖人能通其道」を前提に、皇祖は日本海南部の六合を本拠にして生まれた神であり聖人と主張して、自分たちは六合出身だと述べている。

しかも、現在、六合から瑞穂の国に来て、その国は西の片田舎だと、すなわち、『海外西經』の地、宗像から壱岐・対馬の西だと述べ、天祖、すなわち、『海内經』が示している天から降って、百七十九万二千四百七十余年、恐らく年ではなく日にちで5千年と考えられ、アカホヤからの日数で、アカホヤによって逃げて来たのではないだろうか。

そして、六合の西の片田舎から東へ向かおうとし、それが六合の中心、『海外南經』は『海外西經』の丈夫國宗像より東、『海外東經』の大人國丹波大国より西なのだから、前項で述べたように、中州が目的地で、饒速日も中州に降ったと証明した。

2021年12月6日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』 類書 『舊事本紀』天孫本紀3

  舊事本紀前川茂右衛門寛永版『天孫本紀』は続けて、「・・・天孫磐余彦尊詔命有司始經帝宅大歳辛酉正月庚辰朔天孫磐余彦尊都橿原宮初即皇位号日元年尊皇妃姫(?)五十鈴姫命立爲皇后即大三輪神女也宇摩志麻治命先獻天瑞亦堅神楯以齋矣謂五十櫛亦云今木判繞於布都主剱大神奉齋殿内即蔵天(?)瑞寶以爲天皇鎮祭之時天皇寵異特甚詔日近宿殿内矣因號足尼其足尼之號自比而始矣髙皇産霊尊兒天富命率諸齋神部擎天璽鏡剱奉安正殿矣天兒屋命兒天種子命奏神代古事天神壽祠也宇摩志麻治命率内物部乃竪矛楯嚴増威儀道臣命帥來目部帯仗常其開(?)衛護宮門矣並使四方之國以観天位之貴亦(?)率土之民以亦朝廷之重者也于時皇子大夫率臣連伴造國造而賀正朝拝矣凡厥建都即位践祚賀正如是之儀並始此時也宇摩志麻治命十一月朔庚寅初齋瑞寶奉爲帝后鎮祭御魂祈請壽祚其鎮魂之祭自此而始者矣詔宇摩志麻治命日汝先考饒速日尊自天受來天璽瑞寶以此爲鎮毎年仲冬中寅爲例有司行事永爲鎮祭矣所謂御鎮祭是也凡厥鎮祭之日猿女君等主其神樂擧其言大謂一二三四五六七八九十而神樂歌儛尤縁瑞寶盖謂斯與二年春二月甲辰朔巳巳天皇定功行賞詔宇摩志麻治命日汝之勲功矣念惟大功也公之忠節焉思惟至忠矣是以先授神靈之剱崇報不世之勲令配股肱之軄永傳不貮之美自今巳後生々世々子々孫々八十聯綿必胤此軄永爲龜鏡矣此日物部連等祖宇摩志麻治命與大神君祖天日方奇日方命並拜為申食國政大夫也其天日方奇日方命者皇后之兄也但申食國政大夫者今大連大臣是矣凡厥奉齋瑞寶而祈鎮壽祚兼崇霊剱而治護國家如此之事裔孫相承奉齋大神具件如左」、【天孫磐余彦は、役人に命じてはじめて宮殿を造り始めた。辛酉年の庚辰が朔日の日に、磐余彦は橿原宮に都を造り、はじめて皇位についた。これを、皇位の元年とした。皇妃の姫蹈鞴五十鈴姫を皇后とした。皇后は、大三輪の神の娘である。宇摩志麻治がまず天の瑞宝を献上し、神盾を立てて祀って五十櫛、または、木を、布都主剣のまわりに刺し巡らして、大神を宮殿の内に祀った。そうして、天の璽の瑞宝を納めて、天皇のために鎮め祀った。このとき、天皇の寵愛は特に大きく、「殿内の近習になれ」と詔勅した。それで足尼と名づけた。足尼は、ここから始まった。(※役割は概略)天富は、天の璽の鏡と剣を安置した。天の種子は、寿詞を奏上した。宇摩志麻治は国を固めた。道臣は門番となった。それから、四方の国々に天皇の位の貴さを示し、国の民を従わせ、これが朝廷の重責とした。このときに、皇子・大夫は、臣・連・伴造・国造を率いて、賀正の朝拝をした。このように都を建てて皇位に即位し、年の初めに儀式をするのは、このときから始まった。宇摩志麻治は十一月朔が庚寅の日、はじめて瑞宝を祀り、天皇と皇后のために、魂を鎮め祭って長寿を祈り、鎮魂の祭祀はこのときに始まった。宇摩志麻治に詔して仰せられた。「お前の父の饒速日が天から授けられてきた天の璽の瑞宝をこの鎮めとし、毎年仲冬の中寅の日を例祭とし、ずっと鎮めの祭りとせよ」詔勅した。いわゆる“御鎮祭”がこれだ。およそ、その鎮祭の日に、猿女君達が神楽の主として言挙げして、「一・二・三・四・五・六・七・八・九・十」と大声でいって、神楽を歌い舞うことが、瑞宝に関わっているのはこのことだろう。治世二年春二月甲辰が朔の巳巳(乙巳)の日、天皇は論功行賞を行った。宇摩志麻治に「お前の勲功は大功である。お前の忠節は思えば忠この上ない。それで、神靈の剣を授けて類いない勲功を崇め、報いた。いま、一番頼みとする職と共に、永く二つとないと称えよう。今より後、子々孫々にずっと、必ずこの職を継ぎ、永遠に鑑となれ」と詔勅した。この日、物部連の祖の宇摩志麻治と、大神君の祖の天日方奇日方は、ともに、食国の政大夫に任じられ、天日方奇日方は、皇后の兄である。食国の政大夫とは、今でいう大連・大臣だ。そして宇摩志麻治は、天の璽の瑞宝を祀り、天皇の長寿と幸運を祈り、また霊剣をあがめて国家を治め護った。このことを子孫も受け継いで、大神を祀り、詳しくは以下に述べる。】と訳した。

辛酉正月庚辰朔は『書記』と同じで、天文学的日干支と合致するが、皇后は大三輪神ではなく事代主、宇摩志麻治は出現せず、地位も足が付く役職は足彦・足姫で道臣が『書記』と合致するのみで、二年春二月甲辰朔乙巳も『書記』と同じ日干支で、日付と日臣の内容を『書記』から流用したと考えられる。

日臣が祖という大伴氏は物部氏・中臣氏を含めて垂仁天皇の時にも賜姓されておらず、朝廷の官僚とは言えず、大夫も崇神朝に「諸大夫等歌之曰」と出現するのみなので、この説話は崇神天皇の時の説話と考えられる。

前660年十一月朔庚寅は丙子で、この日干支は物部氏の資料と考えられ、実際は孝元天皇が「立欝色謎命爲皇后」と欝色謎が皇后になって、その時に物部氏から天の璽を得たと考えられる、紀元前208年の11月晦日が庚寅で、物部氏にとっては、この皇后になった時の祭礼が物部氏にとっての神武元年で、それを、神武天皇の元年に当て嵌めたと考えられ、祭祀関係は晦日が朔の暦を使用していることが多い。

天神の天は『山海經』の海内で黄海に接していて、帝俊が「三身之國」を生み、中国は『三国志』以前は晦日に日食を記述して、朔が晦日だったため、黄海に接する九州や天神の出身地の六合も晦日が朔の習慣が有ったと考えられる。

以降に系図は記述する。

2021年12月3日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』 類書 『舊事本紀』天孫本紀2

  舊事本紀前川茂右衛門寛永版『天孫本紀』は尾張氏の系図を後回しにして、「弟宇摩志麻治命亦去味間見命亦云可美真手命天孫天津彦火瓊々杵尊孫磐余彦尊欲馭天下與帥東征往々逆命者蜂起未伏中州豪雄長髄彦本推饒速日尊兒宇摩志麻治命爲君奉焉至此乃日天神子豈有两種乎吾不知看他遂勒兵距乃天孫軍連不能戡也于時宇摩志麻治命不従舅謀誅殺佷戻帥衆歸順之時天孫詔宇摩志麻治命日長髄彦為性狂迷兵勢猛鋭至於敵戰誰敢堪勝而不(?)舅計帥軍歸順遂欵官軍朕嘉其忠節特加裒竉授以神剱荅其大勲凡厥神剱韴靈剱刀亦名布都主神魂刀亦云佐士布都亦云建布都亦云豊布都神是矣覆宇摩志麻治命以天神御祖授饒速日尊天璽瑞寶十種壹而奉獻於天孫大嘉特増寵異矣覆宇摩志麻治命率天物部而翦夷荒逆亦帥軍平定海内而(?)也・・・」、【天香語山の弟の宇摩志麻治、または味間見といい、または可美真手という。天孫天津彦火瓊々杵の孫の磐余彦は、天下を治めようと思い、軍をおこして東征したが、所々に命令に逆らう者たちが蜂のように起こり、従わなかった。中国の豪族の長髄彦は、饒速日の子の宇摩志麻治を君主として仕えていた。「天神の子が二人もいるはずがない。他にいるなど知らない」と言い、兵をととのえて防戦した。天孫の軍は連戦全て勝てなかった。このとき、宇摩志麻治は伯父に従わず、戻ったところを誅殺した。そうして軍を率いて帰順した。天孫は、宇摩志麻治に「長髄彦は性質が狂っている。兵の勢いが勇猛で、敵として戦ったが勝てなかった。しかし伯父に従わないで、軍を率いて帰順したので、官軍は勝てた。その忠節がうれしい」と詔勅し、神剣を与えて、大きな勲功に応えた。その神剣は、スパッと切れる霊剣、または布都主神の魂の刀、または、さす布都といい、または建布都といい、または豊布都というのがこれだ。また、宇摩志麻治は、天神の祖が饒速日に授けた天の璽・瑞宝十種を献上した。天孫はたいへん喜び、さらに寵愛した。また、宇摩志麻治は、天物部を率いて暴れる逆賊を斬り、また、軍を率いて海内を平定して復命した。】と訳した。

饒速日を降した場所が「葦原中國」で、長髄彦は中州の豪族と記述しているので、長髄彦は当然中州の王、中国の長の州の根王の意味・長門の王と考えられる。

畿内に「ながすね」という地域は無く、鳥見であったので、『古事記』には登美毘古と記述し、名前と侵略した土地の王の名が一致して、やはり、根国が複数有り、根国と言うのは、太柱の礎石を置く朝廷の宮殿を立てた地域が根国と呼ばれたことを意味し、始祖王・神が根、継いだ王が根子と解る。

そして、物部氏は、宇摩志麻治が大国の神「五十呉桃」の娘に婿入りし、子が「木開足尼」と大国の根を支配(足らす)し、大神「久流久美」の娘との子が「大祢」と大国の神となり、「出雲色多利姫」との子の出雲醜が出雲王と大国の王の一人となり、「倭志紀彦妹真鳥姫爲妻」と天皇の姫を娶って、義弟となり、すなわち、「 大祢」が饒速日で出雲醜が「宇摩志麻治」で「志紀彦」が「長髄彦」と、物部神話の神武紀の一つと言える。

大国王の大祢と姻戚になった尾張氏の葛城王は孝安天皇の時、倭足彦と八国王と出世し、「足尼次爲宿祢奉齋大神其宿祢者始起此時」と尾張氏が大国を統治して、物部氏は足尼を賜姓されたが、葛城氏が天皇の後継者の細姫を皇后にして政権を奪取すると、物部氏は大臣すなわち大国王に戻り、葛城氏は鬱色謎を妃にして大国を得て大八国の天皇となり、物部氏は天皇の姻戚として大国王の大臣・大尼を名乗った。


2021年12月1日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』 類書 『舊事本紀』天孫本紀2

  舊事本紀前川茂右衛門寛永版『天孫本紀』は続けて「・・・兒天香語山命天降名手栗彦命亦云髙倉下命此命隨御祖天孫尊自天降坐於木伊國熊野邑之時天孫天饒石國饒石天津彦々火瓊々杵尊孫磐余彦尊發自西宮親帥舩軍東征之時往々逆命者蜂起未伏中州豪雄長髓彦勒兵相距天孫連戰不能戡也前到於木伊國熊野邑惡神坐毒人物威瘁天孫患之不知出計爰髙倉下命在此邑中夜夢天照太神謂武甕槌神日葦原瑞穂國猶聞喧擾之響冝汝更往而征之武甕槌神對日(?雖口→ム)予不行而下吾平國彼時劔則自將手矣乃謂髙倉下命曰予劔韴靈今當置汝庫裏宜取而獻於天孫矣髙倉下命稱唯々寤而明日開庫視之果有劔倒立於倉底因取而獻焉天孫適寢忽然之曰予何長眠在此手尋而中毒士卒悉覆醒起矣皇師趣中州天孫得劔日增威積勑髙倉下裒為侍臣也」、【子の天香語山は、天から降った後の名を手栗彦、または高倉下という。天孫と一緒に天から降り、木伊国の熊野邑にいた。天孫の天饒石国饒石天津彦々火瓊々杵の孫の磐余彦が、西宮から出発して、船軍を率いて東征したとき、命令にそむくものが蜂のように起こり、服従しなかった。中つ国の豪雄の長髓彦は、兵と一緒に防いで磐余彦は勝てなかった。先に木伊国の熊野邑についたとき、悪神が毒気をはき、人々をやつれさせた。天孫は困って、何もできなかった。この邑にいた高倉下は、夜中に夢をみた。天照大神が武甕槌に「葦原の瑞穂国は、まだ騒がしいという。お前が出かけていって、これを討て」と言った。武甕槌神は「私が行かなくても、私が国を平らげたときの剣を下せば、平定されるだろう」と答えて、「我が剣の『霊斬り』を、お前の庫の中に置いておく。それを、天孫に献上しろ」と語った。高倉下は、こう夢をみて、「はいはい」と寝言をいって、翌日、庫を開けてみると、剣があって庫の底に逆さまに立っていた。それで、それをとって天孫に献上した。そのとき天孫はよく眠っていたが、すぐに目覚めて「どうしてこんなに眠っていたのだ」と言った。ついで毒気に当たっていた兵士も、みな目覚めて起きあがった。皇軍は中国に赴いた。天孫は剣を得て、日に日に威光が増した。高倉下に詔して褒め、近習にした。」と訳した。

香語山のまたの名から、「高」・「手」・「じ」・「彦」が役職名と解り、「高」は国名、「手」は「足・帯」に次ぐ地位、「彦」は将軍、「下・じ」は「あるじ」などの「じ」と考えられ、「葦牙彦舅」・「鹽土老翁」・「連」の「じ」も同じで、日本で最初の役職名なのだろう。

高倉下が建甕槌から剣を与えられるのだから、建甕槌は懿徳天皇の次の世代で孝昭天皇の世代となり、世襲足姫が孝昭天皇の皇后で、「天忍男命葛󠄀木土神劔根命女賀奈良知姫」のように「天忍男」の子で世襲足姫の兄の羸津世襲は葛󠄀木彦すなわち首都葛城の葛城王となり、葛城の地を支配した葛城氏が尾張氏の姻戚となって、政権中枢に躍り出たようだ。

綏靖天皇から孝霊天皇まで、皇后の亦の名の父が磯城縣主すなわち磯城彦だが、皇后の父が全く活躍せず、崇神天皇の時に磯城に都を置いて、天皇のいる土地に、その土地の王は存在しないことは当然で、磯城津彦が葛城氏の役職なのだから、息石耳の祖父の磯城縣主葉江すなわち磯城彦が平郡氏の史書の『日本書紀』は神武天皇と主張している。

これは、磯城津が磯城の河辺で、そこを葛城と呼び、葛城の初代の王が葛城彦で、その地の葛城に移住した人物が剱根という神(剱神を祀る王)となり、渟名川で磯城彦の配下となり、そして磯城津・葛城と任地が変わったことを示し、『古事記』の雄略天皇の項に「上堅魚作舎者誰家荅白志幾之大縣主家」と、磯城に大国を支配する王がいて、その王家の宮殿が朝廷の宮殿と同じ様式だったと、すなわち、この雄略天皇の頃でも、大国を支配する王家が以前朝廷だったことを示している。


2021年11月29日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』 類書 『舊事本紀』天孫本紀1

  舊事本紀前川茂右衛門寛永版『天孫本紀』は「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊亦名天火明命亦名天照國照彦天火明尊亦云饒速日尊亦名瞻杵磯丹杵穗命天照貴靈太子正哉吾勝勝速日天押穂耳尊高皇産靈尊女豐秋蟠豐秋津(?)姬拷幡千々姫命爲妃誕生天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊矣天照太神高皇産靈尊相共(?)生故謂天孫亦稱皇孫矣天祖以天璽瑞寶十種授饒速日尊則此命稟天神御祖詔乘天磐舩而天降坐於河内國河上哮峯則遷坐於大倭國鳥見白庭山天降之儀明天神紀(?)謂乗天磐舩而翔行於大虚空睨是郷而天降謂虚空見日本國是欤饒速日尊便娶長髓彦妹御炊屋姬爲妃誕生宇摩志麻治尊矣先經妊身而未産之時饒速日尊命婦女云汝有妊胎若有男子者号間味見命若有女子者号色麻弥命既而所産男子矣因号味間見命矣饒速日尊既神(?損口→ム)去坐天而覆上天之時髙皇産靈尊詔速飄神我御子饒速日尊所使於葦原中國而有疑恠思之耶故汝能降可覆日矣二時速飄命降來當見神(?損口→ム)去坐矣即反上覆命云神御子者既神(?損口→ム)去巳坐矣髙皇産靈尊以爲哀泣即使速飄命以命將上於天上(?處)其神屍骸日七夜七以爲樂哀泣哭於天上(?)竟矣饒速日尊以夢教於妻御炊屋姬云汝子如吾形見物即天璽瑞寶矣天羽羽弓天羽羽矢覆神衣帯手貫三物葬(?)於登美白庭邑以此爲墓者也天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊天道日女命爲妃天上誕生天香語山命御炊屋姬為妃天降誕生宇摩志摩治命・・・」、【天照国照彦天火明櫛玉饒速日、または天火明、または天照国照彦天火明、または饒速日、または胆杵磯丹杵穂といい、天照孁貴の太子・正哉吾勝々速日天押穂耳は、高皇産霊の娘の万幡豊秋津師姫栲幡千々姫を妃として、天照国照彦天火明櫛玉饒速日を生んだ。天照太神と高皇産霊、両方の子として生まれたため、天孫といい、また皇孫という。天祖は、天璽瑞宝十種を饒速日に授けた。そうして、天と神の祖の命令で、天の磐船に乗って、河内国の川上の哮の峰に天から降った。さらに、大倭国の鳥見の白庭山へ遷った。天から降ったときの儀式は、天神本紀に示した。天の磐船に乗り、大あまをかけめぐり、この地を見て天から降り、『あまが日本国を見る』というのは、このことだ。饒速日は長髓彦の妹の御炊屋姫を妃として、宇摩志麻治を生んだ。これより前、妊娠して生まれる前に、饒速日は妻に「お前がはらんでいる子が、男なら味間見と名づけろ。女なら色麻弥と名づけろ」と言い、産まれたのは男だったので、味間見と名づけた。饒速日が亡くなり、まだ遺体が天に帰らないとき、高皇産霊が速飄に命令して仰せられた。「我が子の饒速日を、葦原の中国に派遣した。しかし、疑わしいところがある。お前は天から降って調べ、報告しなさい」と命令した。それで速飄は天から降って、「神子が死んでいた。」と復命した。高皇産霊尊はあわれと思い、速飄を派遣し、饒速日の遺体を天にのぼらせ、七日七夜葬儀の楽を演奏して悲しみ、天上で葬った。饒速日は、妻の御炊屋姫に夢の中で 教えて仰せになった。「お前の子は、私の形見のように大事にしなさい」と教えて、天璽瑞宝を授けた。また、天の羽羽弓・羽羽矢、また神衣・帯・手貫の三つ揃いを登美の白庭邑に埋葬して、これを墓とした。天照国照彦天火明櫛玉饒速日は、天道日女命を妃として、天の上で天香語山を生んだ。御炊屋姫を天から降って妃とし、宇摩志麻治を生んだ。】と訳した。

前項で、饒速日の天降りが孝霊期と記述したが、それは『日本書紀』に「時人仍號鵄邑今云鳥見是訛也」と記述し、この日干支は天文学と1日ズレて、他王朝の資料と神話が合わさったもので、九州の支配地から大和に遣ってきた物部氏の神話と解り、鵄邑と呼ばれていた場所が鳥見と名を変え、鳥見の長髓彦がいて、その後で饒速日が天降ったのであり、紀元前663年より後の話と証明される。

そして、天も中国の天山などのように、川の上流の水源地帯を天と理解した時代で、琵琶湖などが天と理解した記述である。

これまで述べたように、天照孁貴が「天」と呼ぶ神祖、高皇産霊が「日」と呼ぶ神祖の配下の「高神」で、天押穂耳が「天」と「日・神・皇」の子の天子であり日子・神子・皇子で、その子の饒速日が天孫・皇孫・神孫・日孫になり、饒速日・火明・丹杵穂と複数人が割り当てられる。

そして、他王朝の九州の記録の基は、饒速日のもう一人の妃の天道日女で九州・瀬戸内海・日本海の海の女王で天道根が王、日臣・道臣・道主と呼ばれ、三身の綱で国を御お聞きした大人国・大国の王だから、三身国の影響を受けて晦日が朔の暦を使ったと考えられ、おそらく、崇神天皇の時に賜姓された氏族の記録と考えられる。

そのため、崇神天皇が「猶不受正朔是未習王化耳」と正朔を受け入れさせようと、丹波大国を攻撃した。

2021年11月26日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』 類書 『舊事本紀』天神本紀2

  舊事本紀前川茂右衛門寛永版『天神本紀』は続けて「・・・副五部人爲從天降供奉物部造等祖天津麻良笠縫部等祖天勇薭一本天津湯爲奈部等祖天津赤占十市部首等祖富富築紫弦田物部等祖天津赤星吾部造爲件領卛天物部天降供奉二田造大庭造舎人造勇薭造坂戸造天物部等二十五部人同帯兵杖天降供奉二田物部當麻物部芹田物部馬見物部横田物部嶋戸物部浮田物部巷冝物部須尺物部田尻物部赤間物部久米物部狹竹物部大豆物部肩野物部羽東物部布都留物部經迹物部讃岐三野物部相槻物部筑紫聞物部播磨物部筑紫贄田部舩長同共卛領梶取等天降供奉舩長跡部首等祖天津羽原梶取阿刀造等祖大麻良舩子倭鍛師等祖津直浦笠紫曽々笠縫等祖天津赤麻良為奈部等祖天都赤星饒速日尊襄天神御祖詔乗天磐舩而天降坐於河内國河上哮峯則遷坐大倭國鳥見白山所謂乗天磐舩而翔行於大虚空巡睨是郷而天降坐矣即謂虚空見日本國是歟饒速日尊使娶長髓彦妹御炊屋姬爲妃令妊胎矣未及産時饒速日尊既神損去坐而不覆上天之時矣高皇産靈尊詔速飄神曰吾神御子饒速日尊所使於葦原中國而有疑恠思耶故汝能降可覆白矣于時速飄神命奉勑降來當見神損去坐則反上覆命云神御子者既神損去亡坐矣高皇産靈尊以爲哀泣則使速飄命以命將上於天上處其神屍骸日七夜七以爲遊樂哀泣斂於天上」、【また、五部の人が従って天から降り、仕えた。(人名略)我が(?五)部や造が統領として、天の物部を率いて天から降って仕えた。天の物部ら二十五部の人が、同じく武器を帯びて天から降り、仕えた。(人名略)饒速日は、天の神祖の命令で、天の磐船にのり、河内国の河上の哮の峯に天から降った。それで、大倭国の鳥見の白山に遷った。天の磐船に乗り、大虚空をかけめぐり、この地を観察して天から降った。それで、『虚空見つ日本の国』と言うのは、これだ。饒速日は長髓彦の妹の御炊屋姫を妃とし、御炊屋姫は妊娠して子が生まれないうちに、饒速日は崩じ、復命が無いうちに、高皇産霊は速飄に「私の神子の饒速日を、葦原の中国に派遣したが疑わしいから、お前は天から降って報告しろ」と命令した。速飄は勅命で天から降り、饒速日が見るとすでに崩じていた。それで、天にのぼって「神子は、すでに崩じていた」と復命した。高皇産霊はあわれと思われて、速飄に、饒速日の亡骸を天にのぼらせ、七日七夜葬儀の儀礼をして、悲しみ葬った。】と訳し、『日本書記』や『古事記』の天稚彦の説話を流用している。

すなわち、『日本書紀』は天が『山海經』の黄海である海内さらにそれが拡張されて玄界灘や日本海南部や瀬戸内海である海中の六合、そして宋代になると大荒東・南も含まれた大海中となり、神の概念は天が海中の六合まで拡張されて神霊が生まれる所の神の「うみ」から、『山海經』の天と呼ばれる山の水源を基に、日本でも水源にいる神を川上の「かみ」と呼び、鳥見の白山も「あま」と呼び、海の天と切り分けるため漢字の虚空を当て嵌めたと考えられる。

そして、その海の神の乗り物が船で浸水しないように土を塗った船が磐船で、山の虚空(あま)での乗り物も船と呼び、土を塗った磐船をここで述べ、水源地を求めて、海の天の地の速日から移住した。

『日本書紀』にもこの説話が有るが、「十有二月癸巳朔丙申皇師遂撃長髄彦」の朔の日干支が2日の日干支で天文学と合致せず、九州の記録に神話を結合させたと考えられ、物部氏が最初に出現するのが孝元天皇の皇后の欝色謎で、この記事は日干支が天文学と合致し、孝霊天皇末期に天降ったと考えられる。

いつの時代まで、大和盆地がどれだけ湿地帯だったか証明できないが、大和盆地が水源で、天と呼べる地域であった事は事実で、紀元前100年頃の崇神朝に長髓彦が死んだと考えられ、それ以前まで天と呼べる水源であった可能性が有り、淀川の上流の琵琶湖も天と呼ばれ、凡河内直の祖の近淡海にいる神の御陰が天之御影・天御陰と天の住人で饒速日と共に天降ったのだから、饒速日も近淡海から天降ったと考えられる


以降、第九段11に記述した。

2021年11月24日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』 類書 『舊事本紀』天神本紀1

  『舊事本紀』には、「後述する」と、飛ばして来た部分が有り、それを検証したい。

舊事本紀前川茂右衛門寛永版『天神本紀』は「正哉吾勝勝速日天押穂耳尊天照太神詔日豊葦原之千秋長五百秋長之瑞穂國者吾御子正哉吾勝勝速日天押穂耳尊可知之國言寄詔賜而天降之時高皇産靈尊兒思兼神之妹萬幡豐秋津師姬命栲幡千千姫命爲妃誕生天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊之時正哉吾勝勝速日天押穂耳尊奏日僕欲將降弉束之間(?)生之兒以此可降矣詔而許之天神御祖詔授天璽瑞寶十種謂贏都鏡一邊都鏡一八握劔一生玉一死反玉一足玉一道反玉一蛇此禮一蜂此禮一品物此禮一是也天神御祖教詔曰若有痛處者令玆十寶謂一二三四五六七八九十而有瑠部由良由良止布瑠部如此爲之者死人反生矣是則(?)謂布瑠之言本矣高皇産靈尊勑日若有葦原中國之敵拒神久而待戰者能爲方便欺防拒而令治平人三十二人並爲防衛天降供奉矣天香語山命尾張連等祖天鈿賣命猿女君等祖天太玉命忌部首等祖天兒屋命中臣連等祖天櫛玉命鴨縣主等祖天道根命川瀨造等祖天神玉命三嶋縣主等祖天椹野命中跡直等祖天糠戶命鏡作連等祖天明玉命玉作連等祖天牟良雲命度会神主等祖天背男命山背久我直等祖天御陰命凡河内直等祖天造日女命阿曇連等祖天世平命久我直等祖天斗麻祢命額田部湯坐連等祖天背斗女命尾張中嶋海部部直等祖天玉櫛彦命間人連等祖天湯津彦命安藝國造等祖天神魂命葛󠄀野鴨縣主等祖天三降命豐田菟狹國造等祖天日神命縣主對馬縣主等祖乳速日命廣沸神麻續連等祖八坂彦命伊勢神麻績連等祖伊佐布魂命倭久連等祖伊岐志迩保命山代國造等祖活玉命新田部直等祖少彦根命鳥取連等祖事湯彦命取尾連等祖八意思兼兒表春命信乃阿智祝部等祖次下春命武蔵造又國等祖月神命壹岐縣主等祖・・・」、【正哉吾勝勝速日天押穂耳、天照太神が「豊の葦原の千秋の長五百の秋の長の瑞穂の国は、わが子の正哉吾勝勝速日天押穂耳が治めるべき国だ」と詔勅して任せ、天から降したときに、高皇産霊の子の思兼の妹の万幡の豊の秋津の師姫の栲幡の千千姫を妃として、天照国照彦天火明櫛玉饒速日を生んだ。このとき、正哉吾勝勝速日天押穂耳が、「私が天から降ろうと、髪を大きく束ねている間に、子が生まれた。これを天から降すべきだ」と言った。それで、これを許した天の神祖は、天の璽の瑞宝十種を授けた。瀛の鏡が一つ、辺の鏡が一つ、八様式の握りの剱が一つ、生き玉が一つ、死から反る玉が一つ、統治の玉が一つ、帰り道の玉が一つ、蛇の布が一つ、蜂の布が一つ、好ましい物の布が一つというのがこれだ。天の神祖は、次のように「もし痛むところがあれば、この十の宝を、一二三四五六七八九十といってふるえ。ゆらゆらとふるえ。こうすれば、死人は生き返る」これが「布留の言葉」の起源だ。高皇産霊が「もし、葦原の中国の敵で、神を拒んで防戦するものがいるなら、計略を立てて平定せよ」と教え、人を32人に詔勅して、防衛に天から降らせた。(人名略)】と訳し、これまで見てきた通り、饒速日は速日国の神、すなわち、『古事記』の「肥國謂速日(別)」の速日の神で、『舊事本記』では「肥国謂建日別」と、すでに、速日国は「熊襲國謂建日別」と熊襲の国になっている。

すなわち、熊襲の国になる前の時代の肥国の神で、天神と自称しているのだから、海士の神で天孫なのだから、天子の子達、すなわち、天と呼ばれる海の王の子達で神の子・海の子で天照が支配している場所が六合と言い、それで、六合が「生神」・うみでその王が神子・みこと考えられる。

それに対して、物部氏の神祖は「天譲日天狭霧國禪月國狭霧」と対馬を譲り、日国を海士に譲った狭の神と記述し、天子・天王が天照で神、その神子・神王が饒速日だと言い換えている。

そして、物部氏の神は対馬→肥国そして中国王の命令で若狭と移動し天八下すなわち野洲に天降り、そして、この項にも出現する天三降が三国に入り、野洲を舞台にした説話と解り、さらに、天鏡と鏡おそらく多紐文鏡や三角縁神獣鏡を造り、王朝を建国して天八百日、天八十萬魂と野洲の伊勢皇大神宮で政権を担当したと考えられる。

そして、32人のメンバー、すなわち、八国の領域を示したようで、六合の天を統治したのが対馬の神日神で対馬から追い出されて壱岐を支配し、日神の子が日女で筑紫を支配したと記述し、天御陰は若倭根子日子大毘ゝと同世代で『舊事本紀』にとっては、前200年頃、畿内に天降りしたとわかる。