『日本書紀』は戊午年春二月丁酉が朔の丁未に難波之碕に着き、三月丁卯が朔の丙子に河内國草香邑青雲の白肩の津に着き、夏四月丙申が朔の甲辰に、膽駒山を踰え、中洲に侵入しようとしたが、孔舎衞坂会戦し五瀬が負傷し、日神子、引き返し草香の津(盾津)、五月丙寅が朔の癸酉茅渟山城水門に五瀬矢瘡が癒えず紀國の竃山に着いて薨じ葬った。
『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『皇孫本紀 』は「・・・戊午春二月丁酉朔丁未皇師即遂東舳艫相接方到難波之𥔎會有奔潮太急因以名浪速國亦曰浪花今謂難波訛也三月丁未朔丙子遡流而上(?徑)至河内國草香邑青雲白肩之津也夏四月丙申朔甲辰皇師勤兵趣龍田而其路狹嶮人不得並行乃還更欲踰膽駒山而入中州時長髓彦聞之曰天神子等(?所)以來者必奪我國則盡起屬兵邀之於孔舍術坂與之會戰有流矢中五瀨命肱脛皇帥不能進戰天孫憂之乃運神策於沖衿曰今我是日神子孫而向日征虜此逆天道也不若退還示弱禮祭神祇背負日神之威隨影壓蹋如此則曾不血刃虜必自敗矣僉曰然於是令軍中曰且停勿覆進乃引軍還虜亦且不敢逼却至草香津植盾而為雄詰焉因改号其津日盾津今云蓼津訛初孔舎衛之戰有人隠於大樹而得免難乃指其樹日恩如母時人因号其地日母木邑今云飯悶迺奇訛矣五月丙寅朔癸酉軍至茅渟山城水門時五瀨命矢瘡痛甚乃掬劍雄詰之曰慨哉大丈矢被傷於虜手將不報而死耶時人因号其處日雄水門進到于紀伊國竈山而五瀨命薨千軍因葬竈山也・・・」、【戊午年の春二月丁酉が朔の丁未の日、皇軍はついに東へ。船はたがいに接するほどであった。難波碕に着こうとするとき、速い潮流があって、大急ぎに着いたので、浪速国と名づけた。また浪花ともいう。今、難波というのはなまったものだ。三月丁未が朔の丙子の日、川をさかのぼって、河内国草香邑の青雲の白肩の津に着いた。夏四月丙申が朔の甲辰の日、皇軍は兵をととのえ、龍田に向かった。その道は狭くけわしくて、人が並んで行けなかった。そこで引き返して、さらに東のほうの胆駒山を越えて中国に入ろうとした時に、長髄彦が聞いて、「天の神子達がやってくるのは、きっと我が国を奪うのだろう」と言って、全軍が孔舎衛坂で戦い、流れ矢が五瀬の利き足の脛に当たった。皇軍は、進み戦うことが出来ず、天孫は悩んで、神の導きで「いま、自分は日の神の子孫にもかかわらず、日に向かって征伐するのは天の道理にさからっている。一度退却して弱そうに見せ、神祇を祀って、日を背に負い、日神の威光で踏みつぶそう。そうすれば、血も流さないで、敵はおのずから負けを認める」と吐露した。皆は「そのとおりです」言い、軍中に「いったん止まり、進むな」と言い、軍兵を撤退させた。敵もあえて追わなかった。草香の津に引き返し、盾をたてて雄たけびをした。それでその津を、盾津と名づけた。今、蓼津というのは、なまったものだ。はじめ、孔舎衛の戦いに、大きな樹に隠れて、難を免れることができた人がいた。それで、その木を指して「恩は母のようだ」と言い、人はこれを聞き、その地を名づけて母木邑といった。今、「おものき」というのは、なまったものだ。五月丙寅が朔の癸酉の日、軍は茅渟の山城水門に着いた。その時、五瀬は矢傷がひどく痛んで、剣をつかんで「残念だ。どこも悪くないのに敵の為に傷つき、報復せずに死ぬのか」と叫んだ。人は、そこを雄水門と名づけた。進軍して、紀伊国の竃山について、五瀬命は武装したまま亡くなった。それで、竃山に葬った。】と訳した。
『古事記』前川茂右衛門寛永版は「故從其國上行之時經浪速之渡而泊靑雲之白肩津此時登美能那賀須泥毗古興軍待向以戰尓取所入御舩之楯而下立故号其地謂楯津於今者云日下之蓼津也於是與登美毗古戰之時五瀬命於御手負登美毗古之痛矢串故尓詔吾者爲日神之御子向日而戰不良故負賎奴之痛手自今者行廻而背負日以撃期而自南方廻幸之時到血沼海洗其御手之血故謂血沼海也從其地廻幸到紀國男之水門而詔負賎奴之手乎死爲男建而崩故号其水門謂男水門也陵即在紀國之竃山也」、【それで、その國から上って行った時、浪速の渡を経て、青雲の白肩津に泊った。ここで、登美能那賀須泥毘古が戦いを起こした時、待ち受けようと 船に入れた楯を取って降り立った。それでそこを楯津と名付けた。今、日下の蓼津という。登美毗古と戦い矢が串刺しとなって五瀬が負傷した。それで「私は日神の子としては、日に向って戦うのは良くなかった。それで、賎しい奴に痛手を負った。今から回って、日を背にして攻撃しよう。」と決めて、南方から回った時、血沼の海に着いて、その手の血を洗った。それで、血沼の海と言った。そこから廻って、紀國の男の水門に着いて、「賎しい奴が手負いで死ぬだろう。」とをたけび死んだ。それで、その水門を男の水門と名付けた。陵は紀國の竃山に在る。】と訳した。
五月丙寅は天文学的に正しい朔だが、戊午年春二月丁酉は1月30日晦日で1月晦日朔と、四月丙申朔は3月30日晦日と3月晦日朔との、九州の暦の変換間違いと考えられ、 『舊事本紀』の三月丁未朔は『日本書紀』の丁卯と異なって、間違っている。
この三月丁未朔は紀元前515年2月29日晦日が丁未で3月29日が丙子で懿徳天皇の時代となり、建飯勝が出雲臣の娘を娶り、子の建甕槌、この神は葦原中国を平定した神で、建飯勝の義父が出雲大臣と考えられ、建飯勝の前に出雲大臣が葦原中国に侵略して長髄彦と姻戚になっていて、その後で建飯勝が侵入して長髄彦と闘ったと考えれば良く合致する。
五瀬は自身を『日本書紀』では天孫を「日神子孫」と日国の王と皇子と名乗り、長髄彦が自分のいる所を「中州」と呼んでいるように、「河内國草香邑青雲白肩津」の吉備からの侵略に日国からの安芸の葦原中国への侵略の説話をつなげたものと考えられる。
平郡氏が記述した雄略紀以前の『日本書紀』の朔の日干支は正しいものと、規則正しく間違うものがあり、推古紀以降に記述した『日本書紀』や『舊事本紀』が、この丁未朔や安閑紀以降の内容に1年違うものが有るなど、合理的に考えれば、記事発生日と朔の日干支が対なのではなく、記事を異なる資料の日干支に当て嵌めたのであり、計算とは考えにくいことが解る。
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