舊事本紀前川茂右衛門寛永版『天孫本紀』は続けて「・・・兒天香語山命天降名手栗彦命亦云髙倉下命此命隨御祖天孫尊自天降坐於木伊國熊野邑之時天孫天饒石國饒石天津彦々火瓊々杵尊孫磐余彦尊發自西宮親帥舩軍東征之時往々逆命者蜂起未伏中州豪雄長髓彦勒兵相距天孫連戰不能戡也前到於木伊國熊野邑惡神坐毒人物威瘁天孫患之不知出計爰髙倉下命在此邑中夜夢天照太神謂武甕槌神日葦原瑞穂國猶聞喧擾之響冝汝更往而征之武甕槌神對日(?雖口→ム)予不行而下吾平國彼時劔則自將手矣乃謂髙倉下命曰予劔韴靈今當置汝庫裏宜取而獻於天孫矣髙倉下命稱唯々寤而明日開庫視之果有劔倒立於倉底因取而獻焉天孫適寢忽然之曰予何長眠在此手尋而中毒士卒悉覆醒起矣皇師趣中州天孫得劔日增威積勑髙倉下裒為侍臣也」、【子の天香語山は、天から降った後の名を手栗彦、または高倉下という。天孫と一緒に天から降り、木伊国の熊野邑にいた。天孫の天饒石国饒石天津彦々火瓊々杵の孫の磐余彦が、西宮から出発して、船軍を率いて東征したとき、命令にそむくものが蜂のように起こり、服従しなかった。中つ国の豪雄の長髓彦は、兵と一緒に防いで磐余彦は勝てなかった。先に木伊国の熊野邑についたとき、悪神が毒気をはき、人々をやつれさせた。天孫は困って、何もできなかった。この邑にいた高倉下は、夜中に夢をみた。天照大神が武甕槌に「葦原の瑞穂国は、まだ騒がしいという。お前が出かけていって、これを討て」と言った。武甕槌神は「私が行かなくても、私が国を平らげたときの剣を下せば、平定されるだろう」と答えて、「我が剣の『霊斬り』を、お前の庫の中に置いておく。それを、天孫に献上しろ」と語った。高倉下は、こう夢をみて、「はいはい」と寝言をいって、翌日、庫を開けてみると、剣があって庫の底に逆さまに立っていた。それで、それをとって天孫に献上した。そのとき天孫はよく眠っていたが、すぐに目覚めて「どうしてこんなに眠っていたのだ」と言った。ついで毒気に当たっていた兵士も、みな目覚めて起きあがった。皇軍は中国に赴いた。天孫は剣を得て、日に日に威光が増した。高倉下に詔して褒め、近習にした。」と訳した。
香語山のまたの名から、「高」・「手」・「じ」・「彦」が役職名と解り、「高」は国名、「手」は「足・帯」に次ぐ地位、「彦」は将軍、「下・じ」は「あるじ」などの「じ」と考えられ、「葦牙彦舅」・「鹽土老翁」・「連」の「じ」も同じで、日本で最初の役職名なのだろう。
高倉下が建甕槌から剣を与えられるのだから、建甕槌は懿徳天皇の次の世代で孝昭天皇の世代となり、世襲足姫が孝昭天皇の皇后で、「天忍男命葛󠄀木土神劔根命女賀奈良知姫」のように「天忍男」の子で世襲足姫の兄の羸津世襲は葛󠄀木彦すなわち首都葛城の葛城王となり、葛城の地を支配した葛城氏が尾張氏の姻戚となって、政権中枢に躍り出たようだ。
綏靖天皇から孝霊天皇まで、皇后の亦の名の父が磯城縣主すなわち磯城彦だが、皇后の父が全く活躍せず、崇神天皇の時に磯城に都を置いて、天皇のいる土地に、その土地の王は存在しないことは当然で、磯城津彦が葛城氏の役職なのだから、息石耳の祖父の磯城縣主葉江すなわち磯城彦が平郡氏の史書の『日本書紀』は神武天皇と主張している。
これは、磯城津が磯城の河辺で、そこを葛城と呼び、葛城の初代の王が葛城彦で、その地の葛城に移住した人物が剱根という神(剱神を祀る王)となり、渟名川で磯城彦の配下となり、そして磯城津・葛城と任地が変わったことを示し、『古事記』の雄略天皇の項に「上堅魚作舎者誰家荅白志幾之大縣主家」と、磯城に大国を支配する王がいて、その王家の宮殿が朝廷の宮殿と同じ様式だったと、すなわち、この雄略天皇の頃でも、大国を支配する王家が以前朝廷だったことを示している。
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