2021年11月29日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』 類書 『舊事本紀』天孫本紀1

  舊事本紀前川茂右衛門寛永版『天孫本紀』は「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊亦名天火明命亦名天照國照彦天火明尊亦云饒速日尊亦名瞻杵磯丹杵穗命天照貴靈太子正哉吾勝勝速日天押穂耳尊高皇産靈尊女豐秋蟠豐秋津(?)姬拷幡千々姫命爲妃誕生天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊矣天照太神高皇産靈尊相共(?)生故謂天孫亦稱皇孫矣天祖以天璽瑞寶十種授饒速日尊則此命稟天神御祖詔乘天磐舩而天降坐於河内國河上哮峯則遷坐於大倭國鳥見白庭山天降之儀明天神紀(?)謂乗天磐舩而翔行於大虚空睨是郷而天降謂虚空見日本國是欤饒速日尊便娶長髓彦妹御炊屋姬爲妃誕生宇摩志麻治尊矣先經妊身而未産之時饒速日尊命婦女云汝有妊胎若有男子者号間味見命若有女子者号色麻弥命既而所産男子矣因号味間見命矣饒速日尊既神(?損口→ム)去坐天而覆上天之時髙皇産靈尊詔速飄神我御子饒速日尊所使於葦原中國而有疑恠思之耶故汝能降可覆日矣二時速飄命降來當見神(?損口→ム)去坐矣即反上覆命云神御子者既神(?損口→ム)去巳坐矣髙皇産靈尊以爲哀泣即使速飄命以命將上於天上(?處)其神屍骸日七夜七以爲樂哀泣哭於天上(?)竟矣饒速日尊以夢教於妻御炊屋姬云汝子如吾形見物即天璽瑞寶矣天羽羽弓天羽羽矢覆神衣帯手貫三物葬(?)於登美白庭邑以此爲墓者也天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊天道日女命爲妃天上誕生天香語山命御炊屋姬為妃天降誕生宇摩志摩治命・・・」、【天照国照彦天火明櫛玉饒速日、または天火明、または天照国照彦天火明、または饒速日、または胆杵磯丹杵穂といい、天照孁貴の太子・正哉吾勝々速日天押穂耳は、高皇産霊の娘の万幡豊秋津師姫栲幡千々姫を妃として、天照国照彦天火明櫛玉饒速日を生んだ。天照太神と高皇産霊、両方の子として生まれたため、天孫といい、また皇孫という。天祖は、天璽瑞宝十種を饒速日に授けた。そうして、天と神の祖の命令で、天の磐船に乗って、河内国の川上の哮の峰に天から降った。さらに、大倭国の鳥見の白庭山へ遷った。天から降ったときの儀式は、天神本紀に示した。天の磐船に乗り、大あまをかけめぐり、この地を見て天から降り、『あまが日本国を見る』というのは、このことだ。饒速日は長髓彦の妹の御炊屋姫を妃として、宇摩志麻治を生んだ。これより前、妊娠して生まれる前に、饒速日は妻に「お前がはらんでいる子が、男なら味間見と名づけろ。女なら色麻弥と名づけろ」と言い、産まれたのは男だったので、味間見と名づけた。饒速日が亡くなり、まだ遺体が天に帰らないとき、高皇産霊が速飄に命令して仰せられた。「我が子の饒速日を、葦原の中国に派遣した。しかし、疑わしいところがある。お前は天から降って調べ、報告しなさい」と命令した。それで速飄は天から降って、「神子が死んでいた。」と復命した。高皇産霊尊はあわれと思い、速飄を派遣し、饒速日の遺体を天にのぼらせ、七日七夜葬儀の楽を演奏して悲しみ、天上で葬った。饒速日は、妻の御炊屋姫に夢の中で 教えて仰せになった。「お前の子は、私の形見のように大事にしなさい」と教えて、天璽瑞宝を授けた。また、天の羽羽弓・羽羽矢、また神衣・帯・手貫の三つ揃いを登美の白庭邑に埋葬して、これを墓とした。天照国照彦天火明櫛玉饒速日は、天道日女命を妃として、天の上で天香語山を生んだ。御炊屋姫を天から降って妃とし、宇摩志麻治を生んだ。】と訳した。

前項で、饒速日の天降りが孝霊期と記述したが、それは『日本書紀』に「時人仍號鵄邑今云鳥見是訛也」と記述し、この日干支は天文学と1日ズレて、他王朝の資料と神話が合わさったもので、九州の支配地から大和に遣ってきた物部氏の神話と解り、鵄邑と呼ばれていた場所が鳥見と名を変え、鳥見の長髓彦がいて、その後で饒速日が天降ったのであり、紀元前663年より後の話と証明される。

そして、天も中国の天山などのように、川の上流の水源地帯を天と理解した時代で、琵琶湖などが天と理解した記述である。

これまで述べたように、天照孁貴が「天」と呼ぶ神祖、高皇産霊が「日」と呼ぶ神祖の配下の「高神」で、天押穂耳が「天」と「日・神・皇」の子の天子であり日子・神子・皇子で、その子の饒速日が天孫・皇孫・神孫・日孫になり、饒速日・火明・丹杵穂と複数人が割り当てられる。

そして、他王朝の九州の記録の基は、饒速日のもう一人の妃の天道日女で九州・瀬戸内海・日本海の海の女王で天道根が王、日臣・道臣・道主と呼ばれ、三身の綱で国を御お聞きした大人国・大国の王だから、三身国の影響を受けて晦日が朔の暦を使ったと考えられ、おそらく、崇神天皇の時に賜姓された氏族の記録と考えられる。

そのため、崇神天皇が「猶不受正朔是未習王化耳」と正朔を受け入れさせようと、丹波大国を攻撃した。

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