2021年11月19日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第十段8

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「・・・是海神之女豊玉毗賣命自参出白之妾已妊身今臨産時此念天神之御子不可生海原故参出到也尓即於其海邊波限以鵜羽爲葺草造産殿於是其産殿未葺合不忍御腹之急故入坐産殿之時白其日子言凡侘國人者臨産時以本國之形産生故妾今以本身爲産願勿見妾於是思奇其言竊伺其方産時者化八尋和迩而匍匐委蛇即見驚畏而遁退尓豊玉毘賣命知其伺見之事以爲心恥乃生置其御子而白妾恒通海道欲往來然伺見吾形是甚怍之即塞海坂而返入是以名其所産之御子謂天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(訓波限云那藝佐訓葺草云加夜)然後者雖恨其伺情不忍戀心因治養其御子之縁附其弟玉依毘賣而獻歌之其歌曰阿加陀麻波袁佐閇比迦禮杼斯良多麻能岐美何余曽比斯多布斗久阿理祁理尓其比古遅荅歌曰意岐都登理加毛度久斯麻迩和賀韋泥斯伊毛波和須禮士余能許登碁登迩故日子穂々手見命者坐高千穂宮伍佰捌拾歳御陵者即在其高千穂山之西也」、【そこで、海神の娘の豐玉毘賣は、「私は妊身していて、もう臨月になった。天神の子は、海原で生んではならないと思って遣って来た」と言ってきた。それで、その海辺の波限に、鵜の羽を葺草代わりにして、産屋を造った。それで、その産屋が、まだ葺きあがっていないのに、産気づいて我慢できずに、産屋に入った。それで産もうとする時に、日子に「すべて異国の者は、産むに臨めば、本国の形式で産む。だから、私は今、本の装いで産みます。お願いだから私を見ないで。」と言った。そこで、その言葉を奇異に思って、産むところを覗くと、八風の1尋の和迩になって、腹ばい匍匐でくねくね動いた。それを見て驚き恐れて、逃げ去った。それで、豐玉毘賣は、覗き見した事を知って、恥じらって、子を生んだまま、「私はいつも、海の道を通って往来しようとした。しかし私の様子を覗き見したので、とても恥をかいた。」と言って、海の坂を塞いで返った。それで生んだ子を天津日高日子波限建鵜葺草葺不合と名付けた。しかし、後には覗かれて恨んだが、愛しい気持ちが我慢できず、育てたいので、妹の玉依毘賣にたのんで、歌を献上した。その歌(略)で言った。そこで比古遅は答えて歌った(略)。それで、日子穗穗手見は、高千穗の宮に伍佰捌拾年居た。陵は高千穗の山の西に在る。】と訳した。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は続けて「・・・先是且別時豐玉姬縦容語曰妾已有娠矣天孫之胤當産不久豈産於海中乎故當産時必就君處如爲當以風濤速日出致海邊爲我造産屋於海邊以相待者是(?)望也是後弟尊還鄉即以鵜鶿之羽(?)作爲産屋(?)未及(?)合之時豐玉姬自馭大龜亦云爲龍將女弟玉依姬光海來到孕月巳滿産期方急由此不得(?)合侄入居焉縱容謂天孫曰妾今夜當産請勿臨之天孫心恠其言不聽(?)請竊視私屏則化爲八尋大鰐(?)匐逶虵遂以見辱深懷慙恨既兒生之後天孫就問曰兒名何称者當可乎對曰宜号彦波瀲武鸕鶿草(?)不合(?)以然謂者以彼海濱産屋全用鸕鶿羽爲草(?)(?)未合時兒即生焉因以名焉天孫不從豐玉姬言豐玉姬大恨之曰不用吾言令我屈辱自今已後妾奴婢至君處者勿覆放還君奴婢至妾處者亦勿放還此海陸不相遍之緣也遂以真床覆衾及草(?)其兒置于波(?)即豐玉姬命自抱而入海郷去矣亦云留其女弟玉依姬持養侄焉去久之日天孫之(?)不冝置其海中乃使玉依姬命持之遂出矣天孫取夫人爲乳母及飯嚼湯坐矣凡諸神部備行以奉養焉于時權用他婦以乳養皇子焉此世取乳母養兒之(?)也是豐玉姬命聞其兒端正心甚憐重欲歸養於義不可故遣女弟玉依姬命以來養者矣即爲御生一兒則武位起命矣初豐玉姬命別去之時恨言既切天孫知其不可覆會乃方贈歌一首豐玉姬命寄玉依姬命即奉報歌一首凡此贈荅号日舉歌誕生彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊次武位起命大和國造等祖」とあり、似ているが、『古事記』は、豊玉毗賣が海原の海神で夫が日子でその日子は比古遲、すなわち、塩椎神か宇摩志阿斯訶備比古遅神しか登場しないので、塩椎の老翁イコール阿斯訶備比古遅の可能性が有る。

それに対して、『舊事本紀』は豐玉姫が海中の姫と黄海近辺を示唆し、天孫すなわち饒速日の家系の王と記述して、天孫の子の「武位起」が大和國造の祖としているが『舊事本紀』の後部には「椎根津彥命爲大倭國造即大和直祖」すなわち「武位起」が『日本書紀』に「國神名曰珍彦釣魚於曲浦・・・特賜名爲椎根津彦」とあるように、ここで、この説話の出所を記述してる。

また、『古事記』は穗穗手神を高千穂宮で伍佰捌拾年間祀ったと記述されているようだが、199年仲哀天皇に「自穴門至向津野大濟爲東門以名篭屋大濟爲西門」を領有していた「伊覩縣主祖五十迹手」が「迎于穴門引嶋而獻」と穴門まで迎えたと、「伊蘇志」に書いてある、すなわち伊都国史に書いてあるとして、この年に山口の向津具半島から佐賀の松浦半島までの領地を引っさげて帰順し、これが『後漢書』の拘奴國を含めた倭國である。

ただし、199年「九月乙亥朔の日干支」が九州暦なので、実際は289年の「倭漢直祖阿知使主其子都加使主並率己之黨類十七縣而來歸焉」がこの記述と考えられる。

これが、伊襲国の高千穂宮の終わった時で、恐らく、『後漢書』に倭国・倭奴国があるのに、『漢書』には倭や倭人で倭国が無いので、『日本書記』の東征が紀元前670年ころから始まっているので、紀元前200年頃から倭人の建国が始まったと理解でき、仲哀天皇が大倭王で『後漢書』の「大倭王居邪馬臺國」で「到儺縣因以居橿日宮」と邪馬台国が橿日だった事を示し、邪馬台国に卑弥呼を擁立すると、倭国が纏まり、『後漢書』の倭種の拘奴國の宗像以東は豊国、南部は熊襲の狗奴國が支配したと思われる。

もちろん、それ以前、紀元前667年以前から、燕配下の倭人・熊襲の日干支を持つ王朝が有ったため、『日本書紀』の晦日が朔だった、九州の1月ズレた日干支や1日ズレた日干支を記述して、畿内の正しい朔の日干支と対応させることが出来た。

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