『古事記』前川茂右衛門寛永版は「故火照命者爲海佐知毘古而取鰭廣物鰭狭物火遠理命者爲山佐知毗古而取毛麁物毛柔物尓火遠理命謂其兄火照命各相易佐知用三度雖乞不許然遂纔得相易尓火遠理命以海佐知釣魚都不得一魚亦其鈎失海於是其兄火照命乞其鈎曰山佐知母巳之佐知佐知海佐知母巳之佐知佐知今各謂返佐知之時其弟火袁理命荅曰汝鈎者鈎魚不得一魚遂失海然其兄族乞徴故其弟破御佩之十拳釼作五百鈎雖償不取亦作一千鈎雖償不受云猶欲得其正本鈎於是其弟泣患居海邊之時塩椎神來問曰何虛空津日高之泣患所由荅言我與兄易鈎而失其鈎是乞其鈎故雖償多鈎不受云猶欲得其本鈎故泣患之尓塩椎神云我爲汝命作善議即造无間勝間之小舩載其舩以教曰我押流其舩者差暫往將有味御路乃乗其道往者如魚鱗所造之宮室其綿津見神之宮者也到其神御門者傍之井上有湯津香木故坐其木上者其海神之女見相議者也訓香木云加都良木木・・・」、【それで、火照は海佐知毘古と言われて、大小の魚を獲り、火遠理は山佐知毘古と言われて、粗い毛皮や柔い毛皮の獣を獲った。そこで、火遠理が兄の火照に、「お互い獲物を換えてみませんか。」と言って、三度お願いしたが聞かなかった。それでも、とうとうチョットだけ交換することが出来た。しかし、火遠理は、海の幸をよく獲れる道具で魚を釣ったが、纏めても一匹の魚も獲れず、鉤を海で失くした。そこで兄の火照は、鉤を求めて、「山の獲物も、自分の道具で獲物を獲り、海の獲物も、自分の道具で。だからすぐに各々に道具を返そう。」と言った時に、弟の火遠理は、「お前の鉤は、魚を釣っても一匹の魚も獲れず、海で失った。」と答えた。それでも兄は強引に請い求めた。それで、弟は、帯びたの十拳劒を壊して、五百の鉤を作って、償ったが受け取らなかった。また千の鉤を作って、償ったが受け取らずに、「それでも本どうりの鉤を返せ。」と言った。そこで弟は、泣きながら海辺に居た時に、鹽椎の神が来て、「どうして、虚空津日高が泣いている。」と聞くと、「私の道具と兄の鉤を交換して、鉤を失った。それで鉤を返せと言うので、たくさんの鉤で償ったが受け取らず、『それでも本の鉤を返せ。』と言った。それで泣いている。」と答えた。そこで鹽椎の神は、「私は、お前の為に良い方法を考えよう。」と言って、それで隙間が無くしっかり締めた小船を造り、その船に乗せて、「私が船を押し出したら、ほんの少し行くと、都合が良い海路が有るだろう。それでその海路に乗って行けば、魚鱗のように造った宮室が有り、それが綿津見の神の宮だ。その神門に着いたら、側の井戸の上に湯津のかつらが有るだろう。それで、その木の上にいれば、海の神の娘が相談に乗るだろう。」と教えた。(香木を「カツラキ」の木と言う。)】と訳した。
『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は「彦火々出見尊天孫天津彦々瓊々杵尊第二之子也母大山祗少女木花開哉姬矣兄火酢芹命能得海幸故号海幸彦命弟火芹尊亦云火出見尊能得山幸故号山幸彦尊矣兄則每有風雨輙失其利弟則雖逢風雨其幸不惑于時兄謂弟曰吾試欲與汝易幸矣乃弟許諾固易之時兄取弟弓矢入山獵獸終不見獸之乾迹矣弟將兄幸之釣入海釣魚硃無(?所)獲遂失其釣但不得利空手歸來兄出還弟弓矢而責己釣于時弟已失釣於海中無由訪護故別作新釣與兄兄不肯受而責其故釣弟患之即以其橫刀鍛作新釣盛一器而與之兄忿之曰非我故釣雖多不取益覆急責之時弟火芹尊憂苦甚深行吟海濱畔彷徨嗟于時有川鴈嬰羂困危即起憐心解之而放去須曳有塩土老翁來老翁問曰何故在此愁乎對以事之本未老翁曰勿覆憂吾方爲汝計之老翁即取囊中玄櫛投地則化生五百筒竹林因取其竹作大目鹿籠亦云簡今之籠也則内大(?火)芹尊於仃(?竹)籠中沉之海矣覆塩土老翁曰吾將計之計曰海神(?所)乘其駿馬者八尋鰐也是堅其鰐背而在橘之小戶吾當與彼共策乃將火芹尊供往而見之時鰐魚策之曰吾者八日以後方致天孫於海宮唯我王駿馬一尋鰐魚是當一日内必奉致與故今我歸而使彼出來宜乘彼入海入海之時海中有可怜小汀隨其汀而進必至我王之宮宮門井上當有湯津桂樹宜就其樹上而居之言訖即入海去矣・・・」とあり、概ね『古事記』と同じだが、『舊事本記』は川雁の恩返しが元ネタと述べ、籠に山幸を入れたにもかかわらず、結局鰐に送らせて、『古事記』は船である。
『舊事本記』は馬子と物部氏が記述させたのだから、神話の意味が薄れてしまい、長さの尋を速度の意味と勘違いし、八尋鰐に乗った方が八日でいくのに、一尋鰐を八日待って合計九日かけて海神の宮に行くという、理解不能な結果となっている。
ここで、水行八日は『三国志』の九州縦断が「南至投馬國水行二十曰」なのだから国東半島辺りまでで海流に乗れば1日で行けるという意味なのではないだろうか。
『日本書紀』は火闌降対彦火火出見、『古事記』は火照対火遠理、『舊事本記』は火酢芹対彦火火出見で火折を亦の名に記述して、『古事記』は母系の「日向の諸縣君、牛諸の女の髮長比賣」の説話を使用したので火遠理と古形で記述し、『日本書紀』・『舊事本記』は神武天皇の妃の日向國の姫「吾田邑吾平津媛」若しくは日向襲津彦の母の「日向髪長大田根」の説話を使用したので彦火火出見と考えられ、夫が神武天皇なので、神武天皇を彦火火出見と呼んでいる。
また、『日本書紀』も『舊事本記』も「鹽土老翁」「塩土老翁」と土を使用しているが、『古事記』は塩椎神と記述され、「つち」と呼ばれる神は「土地神」の事を言っていることが証明された。
『古事記』は天津彦を虚空津日高と記述し、中国が天を高地から空に理解を変えた、すなわち、『山海經』の里単位を8倍に読みかえたために、その理解が日本も理解して天を虚空と書き換えた、そのような時代に『古事記』が記述されたと考えられ、日本の史書は時代背景をそのまま表現し、この説話は、釣り針も金属で作り、金属器を溶かして作り変えた時代、破壊された銅鐸を溶かして鏡を作ったと考えられる時代の説話と考えられる。
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