2021年11月10日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第十段4

  『日本書紀』慶長版一書は一書()一書曰兄火酢芹金()得山幸利弟火折尊得海幸利云云弟愁吟在海濱時遇鹽筒老翁老翁問曰何故愁若此乎火折尊對曰云云老翁曰勿復憂吾将計之計曰海神所乗駿馬者八尋鰐也是竪其鰭背而在橘之小戸吾當與彼者共策乃将火折尊共往而見之是時鰐魚策之曰吾者八日以後方致天孫於海宮唯我王駿馬一尋鰐魚是當一日之內必奉致焉故今我歸而使彼出来宜乗彼入海入海之時海中自有可怜小汀隨其汀而進者必至我王之宮宮門井上當有湯津杜樹宜就其樹上而居之言訖即入海去矣故天孫隨鰐所言留居相待已八日矣久之方有一尋鰐来因乗而入海遵毎前鰐之教時有豊玉姫侍者持玉鋺當汲井水見人影在水底酌取之不得因以仰見天孫即入告其王曰吾謂我王獨能絶麗今有一客彌復遠勝海神聞之曰試以察之乃設三床請入於是天孫於邊床則拭其兩足於中床則據其兩手於內床則寛坐於負床覆衾之上海神見之乃知是天神之孫益加崇敬云云海神召赤女口女問之時口女自口出鉤以奉焉赤女即赤鯛也口女即鯔魚也時海神授鈎彥火火出見尊因教之曰還兄鈎時天孫則當言汝生子八十連属之裏貧鈎狹狹貧鈎言訖三下唾與之又兄入海鈎時天孫宜在海濱以作風招風招即嘯也如此則吾起瀛風邊風以奔波溺悩火折尊歸来具遵神教至及兄鈎之日弟居濱而嘯之時迅風忽起兄則溺苦無由可生便遙請弟曰汝久居海原必有善術願以救之若活我者吾生兒八十連属不離汝之垣邊當爲俳優之民也於是弟嘯已停而風亦還息故兄知弟德欲自伏辜而弟百()慍色不與共言於是兄著犢鼻以赭塗掌塗面告其弟曰吾汚身如此永爲汝俳優者乃舉足踏行學其溺苦之状初潮漬足時則爲足占至膝時則舉足至股時則走廻至腰時則捫腰至腋時則置手於胸至頸時則舉手飄掌自爾及今曽無廢絶先是豊玉姫出来當産時請皇孫曰云云皇孫不從豊玉姫大恨之曰不用吾言令我屈辱故自今以往妾奴婢至君處者勿復放還君奴婢至妾處者亦勿復還遂以真床覆衾及草裹其兒置之波瀲即入海去矣此海陸不相通之縁也一云置兒於波瀲者非也豊玉姫命自抱而去久之曰天孫之胤不宜置此海中乃使玉依姫持之送出焉初豊玉姫別去時恨言既功(?)故火折尊知其不可復會乃有贈歌已見上八十連属此云野素豆豆企飄掌此云陀毗盧箇湏」、【一書に、兄の火酢芹は、山の幸を獲った。弟の火折は、海の幸を獲った、云云。弟は悩んで海辺でウロウロしていた。その時に、鹽筒の老翁に会った。老翁が「どうしてそのように悩む」と問いかけた。火折は、云云と答えた。老翁は「もう悩むな。私が考えよう」と言った。考えて「海神が乗る駿馬は、八の一尋の鰐だ。これは背びれを立てて、橘の小戸に居る。彼と一緒に考えよう」と言って、火折を連れて行ってみた。この時に、鰐魚が「私は八日もあれば、天孫を海宮に連れていける。ただし我が王の駿馬は、一尋の鰐魚だ。これなら一日の内に、きっと連れていける。だから、私は今すぐ帰って、彼を連れてきます。彼に乗って海に入りなさい。」と考えて言った。海に入ると、海の中に自然に小さな汀が有る。その汀に沿って行くと、きっと我が王の宮に着く。宮の門の井戸の上に、湯津杜の樹が有る。その樹の上で待っていなさい」と言った。聞き終わって直ぐに海に入りに行った。(※また一尋の鰐の説話が入る<・・それで、天孫は、鰐の言うとおりに留って、八日経った。大分経つと一尋の鰐いて遣って来た。それで乗って海の中に入った。・・>聞いた鰐の教えどうりにしたがった。そして豐玉姫の従者がいて、玉の椀を持って井戸の水を汲もうとして、人影がの水底に映ったのを見て、酌めなかった。それで上を見ると天孫が見えた。内に入って王に「私は、我が王一人が一番立派だと思っていた。今、一人の客いてもっと優れていた」と告げた。海神は聞いて「会ってみよう」と言って、それで三段の床を設けて迎え入れた。そこで、天孫は、縁の床で両足を拭い、中の床では両手を使ってにじり寄り、内の床では、床を覆う衾の前で胡坐で座った。海神はそれを見て、これが天神の孫ということを知った。益々敬意を払って、云云。海神は、鯛・ボラを呼んで聞いた。その時にボラの口から鉤を取り出した。赤女は赤鯛だ。口女は「なよし」だ。その時に海神は、鉤を彦火火出見に授けて、それで「兄に鉤を返す時に、天孫は、『お前が生む子の八十代の裔まで、貧しくなる鉤・貧しく大きくならない鉤』と言い、言い終わってから、三度唾を吐いて渡しなさい。また兄が海に入って釣る時に、天孫は、海辺に居て、風を招く仕草をしなさい。風招は「うそぶき」だ。こうすれば、私は瀛風や海辺の風を起して、速い波で溺れさせる」と教えた。火折は帰って来て、神に教わったとうりあれもこれも従った。兄の釣をする日に、弟は、浜にいて仕草をした。その時に、疾風が急に起こり、兄は溺れ苦しみ、助かる方法が無く、はるか遠くの弟に「お前は、長い間海原に居た。きっと良い方法が有るだろう。お願いだから助けてくれ。もし私を助けてくれたら、私が生む子が八十代まで、お前の家の周りを離れず、言われるとおりになろう」と願った。そこで、弟は仕草をやめたら、風も止んだ。それで、兄は、弟の徳を知り、自ら罪に服した。それでも弟は、ムッとして何も言わなかった。それで、兄は、褌を着けて、赤土を手に塗って顔に塗り、弟に「私は、体をこのように汚した。ずっとお前の言うとおりにしよう」と告げた。それで足を上げてバタバタさせて溺死の様子を示した。初め潮が、足に浸かった時に、足を見せ、膝まで浸かった時には足を上げ、股が浸かったら走り回り、腰が浸かったら腰をひねり、腋が浸かったら手を胸に置き、首が浸かったら手を挙げて振った。これ以降今になるまで、ずっと仕えることを止めなかった。これより前に、豊玉姫がでてきて、丁度、産もうとする時に、皇孫にお願いして、云云。皇孫は聞かなかった。豊玉姫は、とても恨んで「私の言うことを聞かず恥をかかせた。それで、今以降、私の使用人があなたの所に行ったら、返すな。貴方の使用人が私の所に来たら、私も返さない」と言った。とうとう寝床を覆う衾と草で子を包んで波瀲に置いて、海に去って行った。これが、海と陸が交わらない由縁だ。あるいは、子を波瀲に置かなかった。豊玉姫、自ら抱いて去ったという。大分経って「天孫の子を、この海の中に置いておけない」と言って、玉依姫に抱かせて送り出した。初め豊玉姫は、別れる時に、恨み言は痛切で、火折は、また会えないと知って、歌を贈った。(前に見える)八十連屬は「やそつづき」と言う。飄掌を「たひろかす」と言う。】と訳した。

一書()には「八国」の船に「鰭背」、すなわち、帆があって、陸の駿馬に対する「八尋鰐」、すなわち、八国様式の帆船で普通の船が8日かかるのを1日で行けると述べ、八国の優位さを強調し、「八尋鰐」を「一尋鰐」と記述し、すなわち、船の長さが「一尋」と言い直していると考えられる。

そして、「海中」と『三国志』の用法を踏襲し、宮殿に昇る作法が記述され、説話と説話の接続に矛盾もあって、方言の多い表音の説話が理解できない地域の5世紀初頭の『四方志』作成間近の4世紀末に、多地域で記述された説話を取集した説話の可能性が高い。

『日本書紀』の神話は多くの地域の神話を集め、「倭国」・「文身国」・「大漢国」・「扶桑国」の4王朝が集めて纏めた神話を、日向出身の扶桑国王が纏めて、帝俊の「三身国」の建国説話や「奇肱国」の陰・陽の王、「女祭」の「女戚国」、「衣冠」の「丈夫国」・「周饒国」・「君子国」などの神話を継ぎ接ぎして、土地神の伊弉諾と海神の伊弉冉が「岐神」(君・きみ)を生み、初代の王の君子が君子国を建国し、丹波の大人国が君子国を併合して大八国を建国した神話を作り出したことを、これまで論証してきた。

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