2021年11月8日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第十段3

 『日本書紀』慶長版一書は一書()一書曰兄火酢芹命能得海幸故號海幸彥弟彥火火出見尊能得山幸故號山幸彥兄則毎有風雨輙失其利弟則雖逢風雨其幸不惑時兄謂弟曰吾試欲與汝換幸弟許諾因易之時兄取弟弓失入山獵獸弟取兄釣釣入海釣魚倶不得利空手来歸兄即還弟弓矢而責己釣鈎時弟已失鈎於海中無因訪獲故別作新釣數千與之兄怒不受急責故釣云云是時弟往海濱?()徊愁吟時有川鴈嬰羂困厄即起憐心解而放去湏臾有鹽土老翁来乃作無目堅間小舩載火火出見尊推放海中則自然沉去忽有可怜御路故尋路而往自至海神之宮是時海神自迎延入乃鋪設海驢皮八重使坐其上兼設饌百机以盡主人之禮因從容問曰天神之孫何以辱臨乎一云頃吾兒来語曰天孫憂居海濱未審虛實蓋有之乎彥火火出見尊具申事之本末因留息焉海神則以其子豊玉姫妻之遂纒綿篤愛已經三年及至将歸海神乃召鯛女探其口者即得釣焉於是進此釣于彥火火出見尊因奉教之曰以此與汝兄時乃可稱曰大釣踉䠙鈎貧釣癡騃鈎言訖則可以後手授賜已而召集鰐魚問之曰天神之孫今當還去伱等幾日之內将作以奉致時諸鰐魚各隨其長短定其日數中有一尋鰐自言一日之內則當致焉故即遣一尋鰐魚以奉送焉復進潮滿瓊潮涸瓊二種寶物仍教用瓊之法又教曰兄作髙田者汝可作洿田兄作洿田者汝可作髙田海神盡誠奉助如此矣時彥火火出見尊既歸来一遵神教依而行之其後火酢芹命日以襤褸而憂之曰吾已貧矣乃歸伏於弟弟時出潮滿瓊即兄舉手溺困還出潮涸瓊則休而平復先是豊玉姫謂天孫曰妾已有娠也天孫之胤豈可産於海中乎故當産時必就君處如爲我造屋於海邊以相待者是所望也故彥火火出見尊已還鄕即以鸕鷀之羽?(++日葺)爲産屋屋甍未及合豊玉姫自馭大龜将女弟玉依姫光海来到時孕月已滿産期方急由此不待葺合俓入居焉已而從容謂天孫曰妾方産請勿臨之天孫心怪其言竊覘之則化爲八尋大鰐而知天孫視其私屏深懷慙恨既兒生之後天孫就而問曰兒名何稱者當可乎對曰宜號彥波瀲武鸕鷀草葺不合尊言訖乃渉海俓去于時彥火火出見尊乃歌之曰飫企都鄧利軻茂豆句志磨爾和我謂祢志伊茂播和素邏珥譽能據鄧馭㔁母亦云彥火火出見尊取婦人爲乳母湯母及飯嚼湯坐凡諸部備行以奉養焉于時權用他姫婦以乳養皇子焉此世取乳母養兒之縁也是後豊玉姫聞其兒端正心甚憐重欲復歸養於義不可故遣女弟玉依姫以来養者也于時豊玉姫命寄玉依姫而奉報歌曰阿軻娜磨廼比訶利播阿利登比鄧播伊珮耐企弭我譽贈比志多輔妬句阿利計利凡此贈荅二首號曰舉歌海驢此云美知踉䠙之鉤此云湏湏能美膩癡騃鉤此云于樓該膩」、【一書に、兄の火酢芹は、上手く海の幸を獲る。それで、海幸彦と言う。弟の彦火火出見は、上手に山の幸を獲る。それで、山幸彦と言う。兄は風ふき雨ふる毎に、獲物を失い、弟は風がふき雨がふっても、よく獲れた。ある時に兄が、弟に「試しにお前と道具を交換しよう」と言った。弟は、了承して取り換えて兄は、弟の弓矢を取って、山に入り、獣を狩った。弟は、兄の釣り針を取って、海に入って魚を釣った。ともに獲れず、手ぶらで帰って来た。兄は弟の弓矢を還して、釣り針を返せと言った。その時、弟は、鉤を海で失くして、見つける方法が無かった。それで、別の新しい鉤を数千作って渡した。兄は怒って受け取らなかった。元々の鉤をすぐ返せと責めて、云云。この時に、弟は、海辺に行って、うな垂れて悩んでふらふら彷徨った。その時に川鴈がいて、わなに掛かって苦しんでいた。それで可哀そうと思って、解き放して逃がした。すると、鹽土の老翁が遣って来て、隙間が無く固く締めた筏を作って、火火出見を乗せて、海に押し放した。すると自然に遠ざかって見えなくなった。すぐに小さな路が有った。それで、路のままに歩いた。沿って行くと海神の宮に着いた。この時に、海神は、自ら迎えて引き入れて、あしかの皮を八重に敷いて、その上に座らせた。併せてお膳を置いて、主人の礼を尽くした。それで落ち着き払って「天神の孫が、どうしてありがたくもここに来た。」と問いかけた。あるいは、「この頃、我が子が『天孫が海辺で悩んでいると言っても本当かどうか知らない』と言ったがこのことか」と言った。彦火火出見は、事の始まりから終わりまで詳細に述べて留って休息した。海神は、それで子の豐玉姫を妻に当ていむつましくとても愛しんで、三年も経った。帰ろうとした時、海神は、鯛女を呼んで、その口を探したら、鉤を得た。そこで、この鉤を彦火火出見に差し上げた。それで「これを兄に渡す時に、『大鉤は、彷徨う鉤、貧しくなる鉤、おろかな鉤』と言いなさい。言い終わったら、ふんぞり返って渡しなさい」と教えた。すぐに鰐魚を集めて「天神の孫が、今帰ろうとしている。お前達、何日かの内に、お送りなさい」と問いかけた。その時に諸々の鰐魚が、各々、必要とする日数を決めた。中に一尋の鰐が居て、「一日で、送りましょう」と申し出た。それで、一尋鰐魚を派遣し、送った。また潮滿瓊・潮涸瓊の二種の寶物を差し出して、使用法を教えた。また「兄が高田を作ったら、お前は堀田を作りなさい。兄が、堀田を作ったら、お前は、高田を作りなさい」と教えた。海神は、誠意を尽くして助たのはこの様だった。それで彦火火出見は、帰って来て、神の教え通りに従うと、火酢芹は、どんどんボロボロになって、つらそうに、「私は貧しくなってしまった」と言った。さらに、次のようにすると、弟に服従した。それは、弟が、その時、潮滿瓊を出すと、兄が手上げて溺れて苦しんだ。潮涸瓊を出すと、波が止んで通常に戻った。それより前に、豐玉姫が、天孫に「私はもう妊娠している。天孫の子を、どうして海で産めましょう。それで、産む時は、きっとあなたの所に行く。私の爲に産屋を海辺に造って、待っていてほしい」と言った。それで、彦火火出見は、郷に帰って、鸕鷀の羽を葺いて産屋にした。屋根の瓦が葺き終わらないうちに、豐玉姫は、大龜に乗って、妹の玉依姫を連れて、海を輝かして、遣って来た。その時は臨月で、出産間近になった。それで、葺きあがるのを待たず直ぐに小屋に入った。それで落ち着いて天孫に「私が産むのを、お願いだから見ないでください」と言った。天孫は、その言葉を怪しんで密かに見た。すると八風の1尋の大鰐になった。それで天孫がそっとのぞき見したことを知り、とても恥じて恨んだ。子が生れた後に、天孫は側に行って「子の名をどう名付けよう」と問いかけた。「彦波瀲武鸕鷀草葺不合にしよう」と答えた。言い終わると海を渡って直ぐに去った。その時、彦火火出見は、歌い(略)あるいは、彦火火出見は、女を雇って乳や湯を飲ませたり食事や湯につからせたりさせた。全て滞りなく養った。ある時に、他の女の乳を皇子に与えた。これが、世に乳母を使って子を養う由縁だ。この後、豐玉姫は、その子が立派だと聞き、とても意地らしく大切に思い、戻って育てたいと思った。道理にかなわないので、妹の玉依姫を派遣して、養育させた。ある時、豐玉姫は、玉依姫に頼んで、返歌で(略)この贈答二首を、擧歌と名付けた。海驢を「みち」と言う。踉䠙之鉤を「すすのみぢ」と言う。癡騃鉤を「うるけぢ」と言う。】と訳した。

一書()は豐玉姫が「海中」にいると、これまでの一書の「于海」と表現が異なり、『海内經』に「海中」は『海外南經』・『海內南經』・『海內東經』・『大荒南經』に記述され、『大荒東經』に「東海中有流波山」と記述される。

海内は黄海や渤海や東シナ海を表し、海外南と大荒南は海内に接しており、『海內經』に「東海之内北海之隅有國名曰朝鮮」と朝鮮が渤海に面して黄海の中国大陸側にあると記述し、黄海に接する六合も海中と解り、また、『大荒東經』も地理的に考えれば六合に接していることが解り、事代主が死んだ海中も六合の可能性が高い。

一書()で記述する海中は『三国志』までは同じ用法で倭を表現したが、『後漢書』から「大海中」と表現が変わり、大荒の東や南を含めた表現を使用し、一書群は「四志」の中の説話で『三国志』の用法に従っていると考えられる。

すなわち、この一書()の豐玉姫が黄海に近い瀬戸内海と通じる関門海峡辺りの国で安芸から西に豊国があると考えられるので、穴門の女王だった可能性を示し、豐玉姫は出産する時に、「八尋大鰐」に化け、「八岐大蛇」と同じ概念で蛇が軍隊で鰐が船と記述され、火火出見の住む場所には普通の鰐(船)が有って速度が遅いと記述し、「一尋鰐」、すなわち、もしかすると、一大国の尋船は速いことを示しているのかもしれない。

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