『舊事本紀』には、「後述する」と、飛ばして来た部分が有り、それを検証したい。
舊事本紀前川茂右衛門寛永版『天神本紀』は「正哉吾勝勝速日天押穂耳尊天照太神詔日豊葦原之千秋長五百秋長之瑞穂國者吾御子正哉吾勝勝速日天押穂耳尊可知之國言寄詔賜而天降之時高皇産靈尊兒思兼神之妹萬幡豐秋津師姬命栲幡千千姫命爲妃誕生天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊之時正哉吾勝勝速日天押穂耳尊奏日僕欲將降弉束之間(?所)生之兒以此可降矣詔而許之天神御祖詔授天璽瑞寶十種謂贏都鏡一邊都鏡一八握劔一生玉一死反玉一足玉一道反玉一蛇此禮一蜂此禮一品物此禮一是也天神御祖教詔曰若有痛處者令玆十寶謂一二三四五六七八九十而有瑠部由良由良止布瑠部如此爲之者死人反生矣是則(?所)謂布瑠之言本矣高皇産靈尊勑日若有葦原中國之敵拒神久而待戰者能爲方便欺防拒而令治平人三十二人並爲防衛天降供奉矣天香語山命尾張連等祖天鈿賣命猿女君等祖天太玉命忌部首等祖天兒屋命中臣連等祖天櫛玉命鴨縣主等祖天道根命川瀨造等祖天神玉命三嶋縣主等祖天椹野命中跡直等祖天糠戶命鏡作連等祖天明玉命玉作連等祖天牟良雲命度会神主等祖天背男命山背久我直等祖天御陰命凡河内直等祖天造日女命阿曇連等祖天世平命久我直等祖天斗麻祢命額田部湯坐連等祖天背斗女命尾張中嶋海部部直等祖天玉櫛彦命間人連等祖天湯津彦命安藝國造等祖天神魂命葛󠄀野鴨縣主等祖天三降命豐田菟狹國造等祖天日神命縣主對馬縣主等祖乳速日命廣沸神麻續連等祖八坂彦命伊勢神麻績連等祖伊佐布魂命倭久連等祖伊岐志迩保命山代國造等祖活玉命新田部直等祖少彦根命鳥取連等祖事湯彦命取尾連等祖八意思兼兒表春命信乃阿智祝部等祖次下春命武蔵造又國等祖月神命壹岐縣主等祖・・・」、【正哉吾勝勝速日天押穂耳、天照太神が「豊の葦原の千秋の長五百の秋の長の瑞穂の国は、わが子の正哉吾勝勝速日天押穂耳が治めるべき国だ」と詔勅して任せ、天から降したときに、高皇産霊の子の思兼の妹の万幡の豊の秋津の師姫の栲幡の千千姫を妃として、天照国照彦天火明櫛玉饒速日を生んだ。このとき、正哉吾勝勝速日天押穂耳が、「私が天から降ろうと、髪を大きく束ねている間に、子が生まれた。これを天から降すべきだ」と言った。それで、これを許した天の神祖は、天の璽の瑞宝十種を授けた。瀛の鏡が一つ、辺の鏡が一つ、八様式の握りの剱が一つ、生き玉が一つ、死から反る玉が一つ、統治の玉が一つ、帰り道の玉が一つ、蛇の布が一つ、蜂の布が一つ、好ましい物の布が一つというのがこれだ。天の神祖は、次のように「もし痛むところがあれば、この十の宝を、一二三四五六七八九十といってふるえ。ゆらゆらとふるえ。こうすれば、死人は生き返る」これが「布留の言葉」の起源だ。高皇産霊が「もし、葦原の中国の敵で、神を拒んで防戦するものがいるなら、計略を立てて平定せよ」と教え、人を32人に詔勅して、防衛に天から降らせた。(人名略)】と訳し、これまで見てきた通り、饒速日は速日国の神、すなわち、『古事記』の「肥國謂速日(別)」の速日の神で、『舊事本記』では「肥国謂建日別」と、すでに、速日国は「熊襲國謂建日別」と熊襲の国になっている。
すなわち、熊襲の国になる前の時代の肥国の神で、天神と自称しているのだから、海士の神で天孫なのだから、天子の子達、すなわち、天と呼ばれる海の王の子達で神の子・海の子で天照が支配している場所が六合と言い、それで、六合が「生神」・うみでその王が神子・みこと考えられる。
それに対して、物部氏の神祖は「天譲日天狭霧國禪月國狭霧」と対馬を譲り、日国を海士に譲った狭の神と記述し、天子・天王が天照で神、その神子・神王が饒速日だと言い換えている。
そして、物部氏の神は対馬→肥国そして中国王の命令で若狭と移動し天八下すなわち野洲に天降り、そして、この項にも出現する天三降が三国に入り、野洲を舞台にした説話と解り、さらに、天鏡と鏡おそらく多紐文鏡や三角縁神獣鏡を造り、王朝を建国して天八百日、天八十萬魂と野洲の伊勢皇大神宮で政権を担当したと考えられる。
そして、32人のメンバー、すなわち、八国の領域を示したようで、六合の天を統治したのが対馬の神日神で対馬から追い出されて壱岐を支配し、日神の子が日女で筑紫を支配したと記述し、天御陰は若倭根子日子大毘ゝと同世代で『舊事本紀』にとっては、前200年頃、畿内に天降りしたとわかる。
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