『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は続けて「・・・神吾田鹿葦津姫見皇孫日妾孕天孫之子不可私以生矣皇孫日(?難)天神之子如何一夜使人娠子抑汝(?所)懐者必非我子欤必國神之子歟神吾田鹿葦津姫一夜有娠遂生四兒一云三兒以竹刀截其兒臍其(?所)棄竹刀終成竹林故號其地日竹屋于時吾田鹿葦津姫以卜定田号狭名田以其田稲醸天甜酒嘗之矣覆用渟浪田稲爲飯嘗之矣神吾田鹿葦津姫抱子而來進日天神之子寧不以可私養乎故告狀知聞之時天孫見其子等嘲之日妍哉吾皇子者聞喜而生欤故吾田鹿葦津姫之怨嘲之日何爲嘲妾乎天孫日心之疑矣故嘲之何則雖覆天神之子豈能一夜之間使人有身者哉固非吾子矣神吾田鹿葦津姫益恨乃作無戸八尋殿入居其内誓約之日妾(?所)姓之子若非天神之胤者心當(?焦 隹+火)火滅若實天神之胤者不能火害則放火焚室其火初明命吾父何處坐耶次火盛時躡語出兒亦言吾是天神之子名火進命吾父及兄何處在耶次,火焰衰時,躡誥出兒亦言吾是天神之子,名火折尊吾父及兄等何處在耶次避火熱時躡誥出兒亦言吾是天神之子名名彦火火出見尊吾父及兄等在何處耶然後母吾田鹿葦津姬自燒焔中出來就而袮之日妾(?所)生兒及妾身白當火難無(?所)少損天孫豈見之乎天孫對曰我知本是吾兒但一夜而有身慮有疑者欤欲使衆人皆知是吾兒并示天神能令一夜有娠亦欲明汝有靈異之威子等矣覆有超倫之氣故有前日之嘲辞也哉于時世誓巳驗方知實是皇孫之胤也豊吾田鹿葦津姫恨皇孫不興共言皇孫憂之即歌日兒火明命工造等祖次火進反命亦云火闌命亦云火酢芹命隼人等祖次火折命次彦火々出見尊」、【神吾田鹿葦津姫が、皇孫を見ながら「私は、天孫の子を身ごもりました。ひそかに産むわけにはまいりません」と言った。皇孫は「天神の子といっても、どうして一夜で孕むか。お前が身ごもったのは、私の子ではなく、国神の子だろう」と言った。神吾田鹿葦津姫は、一夜で子を宿し、四人の子を生んだ。ある書には、三人の子という。それは、竹の刀をつかい、子のへその緒を切って、棄てた竹の刀が後に竹林になった。それで、その地を竹屋と名付けた。このとき吾田鹿葦津姫は、うらなって決めた田を狭名田と名づけ、その田で収穫した稲で、天の甘酒を醸して、供えた。また、渟浪田の稲を使って、飯を炊いて、供えた。神吾田鹿葦津姫が子を抱いてやってきて「天神の子を、どうしてひそかに養えましょうか。それで様子を教えて、知ってもらう」と言った。このとき天孫は、その子達を見てあざわらって「おう、それはそれは我が皇子は喜んだだろう」と嘲笑し、吾田鹿葦津姫は「どうして私をあざける」と怒った。天孫は「疑わしいからだ。だから、あざけったのだ。なぜなら、いくら天神の子でも、一夜で、孕ませるか。絶対にわが子ではない」と言った。神吾田鹿葦津姫は、ますます恨んで、戸の無い八国風の1尋の寝所を作ってこもり、「私の孕んだ子が、もし天神の子でなかったら、必ず焼け滅ぶ。もし、天神の子なら、炎で損なわれない」と誓った。そして火をつけて焼いた。その火が明るくなり始めたとき、ふみ出して出てきた子が、「私は天神の子、名前は火明。父はどこに」と自ら 名乗った。次に火の盛んなときにふみ出して出てきた子が、また「私は天神の子、名前は火進。父と兄はどこだ」 と名乗った。次に火の衰えるときにふみ出して出てきた子が、「私は天神の子、名前は火折。父と兄たちはどこだ」と名乗った。次に火の熱が冷めるときにふみ出して出てきた子が、また「私は天神の子、名前は彦火火出見。父と兄たちはどこに」と名乗った。その後、母の吾田鹿葦津姫が、下火の中から出てきて、「私が生んだ子と私の身は、みずから火の災いに当たったか。少しも損なわれていない。天孫は見たか」と言った。天孫は「私は最初から、これがわが子と知っていた。ただ一夜で孕んだということを憂慮し、疑う者があると思って、衆人にわが子であると知らせようと思った。あわせて天神は一夜で孕ませられることを示そうとした。また、お前に不思議な勝れた力があり、子らも、人に勝れた力があることを示したかった。そのため、先の日にあざけりの言葉を言った」と答えた。こうして、母の誓いの結果を「本当にこの子らが皇孫の子である」と知ることができた。豊吾田鹿葦津姫は、皇孫を恨んで何も言わなかった。皇孫は憂いて歌を詠んだ。子の火明は工造たちの祖。次に、火進または火闌、または火酢芹といい隼人たちの祖だ。次に、火折、次に、彦火々出見。】と訳した。
『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「・・・故後木花之佐久夜毗賣参出白妾妊身今臨産時是天神之御子私不可産故請尓詔佐久夜毗賣一宿哉妊是非我子必國神之子尓荅白吾妊之子若國神之子者産不幸若天神之御子者幸即作無戸八尋殿入其殿内以土塗塞而方産時以火著其殿而産也故其火盛焼時所生之子名火照命此者隼人阿多君之祖次生子名火須勢理命次生子御名火遠理命亦名天津日高日子穂々手見命一(三)柱」とある。
『舊事本記』の母が吾田鹿葦津姫で神国の吾田鹿葦津姫、豊国の吾田鹿葦津姫が混在し、子が饒速日と同名の火明(工造)・海幸の火進(隼人)・山幸の火折(後に火出見)・彦火火出見の4柱、但し実際は3柱、神武天皇は狭野・彦火火出見とやはり火瓊瓊杵の子と同名で、『古事記』は母が木花之佐久夜毗賣で子が海幸の火照(隼人阿多君)・火須勢理・山幸の火遠理で1柱を3柱に修正され矛盾に満ちている。
これは、火火出見たちが火の中から生まれたとしているように、火山地帯出身の神武天皇が天孫の子にするための説話が必要だったことを示し、『舊事本紀』が神の子饒速日に付随した天孫、『古事記』が神の子忍穗耳の孫と、最後に記述された『舊事本紀』は『古事記』・『日本書紀』の天孫より上位だと主張している。
そして、『舊事本記』の火明が神武天皇と同名の彦火火出見と同世代、すなわち、饒速日が神武天皇と同世代で、宮大工になり、孝元天皇の時に物部氏は皇后となり、実質の神武天皇と考えられる崇神天皇は物部氏の皇子で、祖父が大綜杵で曾祖父が出雲大臣で共に物部氏の遠祖で、崇神天皇の時に物部連伊香色雄が物部氏の祖の火明なので、物部氏にとっては崇神天皇が神武天皇である。
さらに、『日本書紀』の火明は尾張連の祖となっていて、『舊事本記』には「羸津世襲命亦云葛󠄀木彦命尾張連等祖」と孝昭天皇の義兄が火明、曾祖父の高倉下も尾張氏の祖となっていないので、羸津世襲が『日本書紀』の火明で、尾張氏にとっては、孝昭天皇が神武天皇ということになる。
私は八尋殿を八国風の1尋の寝所としているが、「浪穗之上起八尋殿」と八尋殿が船の上に有るように描いていることから、神話時代に14mの休憩場所を装備できる船は建造できないと考え、有っても船の全長が14m程度と思い、屋形船風で前後に漕ぎ手と舵取りを配置すると1.8m程度の寝床が収まる屋形が想像でき、産室も1.8mの寝台なら出産できそうで、14mの屋敷は不要だ
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