2022年4月18日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』崇神天皇類書・天孫本紀系図のまとめ4

   『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は『天孫本紀』は「・・・五世孫建箇草命健額赤命之子多治比連津守若倭部連葛󠄀木尉直祖孫建斗禾命天戸目命之子此命紀伊國造智名曽妹中名草姫爲妻生六男一女次妙斗米命六人部連等祖六世孫建田背命神服連海部直丹波國造但馬國造等但次建宇那比命此命城嶋連祖節名節姫生二男一女次建多手利命笛連若犬甘連等祖次建弥阿久良命髙屋大分國造等祖次建麻利尼命石作連桒内連小邉縣主等祖次建手和迩命身人部連等祖妹宇那比姫命七世孫建諸隅命此命腋上池心宮御宇天皇御世爲大臣供奉葛󠄀木直祖大諸見足尼女子諸見巳姫生一男妹大海姫命亦名葛󠄀木髙名姫命此命礒城瑞籬宮御宇天皇立爲皇妃誕生一男二女召八坂入彦命次中城入姫命次十市瓊入彦命是一々八世孫倭得玉彦命亦云市大稲日命此命淡海國谷上刀婢爲妻生一男伊我臣祖大伊賀彦女大伊賀姫生四男九世孫弟彦命妹日女命次玉勝山代根古命山代氷主雀部連軽部造蘇冝部首等祖次若都保命五百木部連祖次置部與曽命次彦與曽命」とあり、系図なので訳は省略した。

『古事記』の神武天皇の妃が「阿多之小椅君妹名阿比良比賣」で、『古事記』の神武天皇は『日本書紀』の崇神天皇で和迩君の祖の阿田賀田須が同じ「あた」の人物で、弟の建飯賀田須の家系は大神君、阿田賀田須の母は大倭國民磯姫で大倭根子の姫、阿田賀田須の祖母が紀伊名草姫で、尾張氏天戸目の子の建斗禾の妃は紀伊中名草姫と、阿田賀田須の祖父豊御氣主は紀伊国造と親族と考えられる。

『日本書紀』には「甘美内宿禰遂欲殺矣天皇勅之令釋仍賜紀伊直等之祖也」のように、応神天皇が甘美内宿禰を赦した時も、紀伊直すなわち紀伊国造は朝廷の配下に存在せず、『舊事本紀』の崇神天皇の時に「石見國造瑞籬朝御世紀伊國造同祖䕃佐奈朝命兒」とあるように、崇神天皇時代に紀伊國造が存在しては意味が通らない。

すなわち、崇神天皇の頃はまだ紀伊国造は存在せず『古事記』の木国造と考えられ、『日本書紀』に「名曰珍彦釣魚於曲浦」、「珍彦爲倭國造」、『古事記』に建内宿祢の義父が「木國造之祖宇豆比古」と、珍彦は開化天皇の頃に朝廷と対等の木国王で、『日本書紀』の倭國造は400年頃の葛城氏の2人目の神武天皇の時に倭國造になったと考えられ、また、曲浦出身の木国造の末裔が和迩臣・和迩君を名乗ったと考えられ、中名草姫の子は建手和迩と、手は和迩氏の統治者「たらし」に順ずる地位を表している。

それに対して、葛城氏は磯城彦葉江(天忍人葉江を襲名した天戸目)の娘の長媛を妃にして、葛城氏が大倭根子と天皇になり、 天皇の太瓊が細媛、姫の父は磯城彦大目で、天戸目の子の建斗禾の事を示すと思われ、大目は退位して葛城から宮を遷して十市彦となり、賦斗迩は磯城朝廷から政権を奪取し、葛城朝廷としたことを示している。

波延の孫の師木津日子の子の和知都美の娘が繩伊呂泥・蝿伊呂杼で波延が5代の間襲名されたことを示している。

すなわち、葛城氏の当主は三国・野洲の連合国に移住して、三国配下の神沼河耳が天皇・磯城彦の祖の川派媛を妃に、師木津日子玉手見が天皇・磯城彦の祖の天村雲・波延の娘の阿久斗比賣、大倭日子耜友は天皇になった磯城彦の祖の襲名した葉江(忍人)の弟の猪手(忍男)の娘の泉媛を妃にしたように、天皇・磯城彦と姻戚関係を結び、御眞津日子訶惠志泥は天忍人・葉江の娘の渟名城津媛、大倭帯日子国押人は襲名した天忍人の天戸目・葉江の娘の長媛を妃にして、とうとう皇位を得た。

退位した天戸目は建氏を賜姓されて建斗禾となり、大神氏と同氏族となり、天皇になった葛城氏は天戸目から禅譲されたわけではなく、大国王の一人の出雲醜大臣が尾張氏の倭志紀彦(磯城彦)の妹の真鳥姫を妃にして尾張氏天皇と姻戚になり、その大国王の姓の大臣を「三十一年春正月瀛津世襲命爲大臣」のように、葛󠄀木彦・羸津世襲は大国王となり、その子の忍男と押姫の兄弟が皇位を簒奪したと思われる。

しかし、その皇位を大国の欝色雄・鬱色謎・大彦に奪われ、葛城氏は若倭根子日子と若狭王になり、御間城に分家が宮を作って住み着き、天皇配下の大国王になった考えられる。

2022年4月15日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』崇神天皇類書・天孫本紀系図のまとめ3

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は『天孫本紀』は「天香語山命異妹穗屋姫命為妻生一男孫天村雲命亦名天五多底此命阿俾良依姫爲妻生二男一女三世孫天忍人命此命異妹角屋姫亦名葛󠄀木出石姫非生二男次天忍男命葛󠄀木土神劔根命女賀奈良知姫為妻生二男一女妹忍日女命四世孫羸津世襲命亦云葛󠄀木彦命尾張連等祖天忍男命之子此命池心朝御世為大連供奉次建額赤命此命葛󠄀城尾治置姫為妻生一男妹世襲足姫命亦名日置姫命此命腋上池心宮御宇観松彦香殖稲天皇立爲皇后誕生二皇子則彦國押人命次日本足彦國杵人天皇是也孫天戸目命天忍人命之子此命葛󠄀木避姫為妻生一男次天忍男命大蝮王部連等祖・・・」とあり、系図なので訳は省略した。

天忍人の父は高倉下の子の天村雲で『舊事本紀』に「天村雲命・・・此命阿俾良依姫爲妻」と阿俾良依姫を妻とし、神武天皇の妃は『古事記』では阿比良比賣で、皇后の五十鈴姫・綏靖皇后五十鈴依姫に対して、阿比良比賣・阿俾良依姫と天村雲の親の高倉下が『古事記』では神武天皇の一人、綏靖天皇・手研耳にあたるのが天村雲だと『古事記』・『舊事本紀』は想定している。

尾張氏の綏靖天皇の天村雲は『古事記』の神武天皇の前の妃の阿比良比賣の親族と思われる阿俾良依姫を妃とし、まさしく、神武天皇の韛五十鈴媛と綏靖天皇の五十鈴依媛と同じ関係で、阿俾良依姫の子の天忍人は異妹角屋姫(葛󠄀木出石姫)を妻と記述して、事代主の母の屋楯比賣の同系の姫を妃として葛󠄀木に住み、香語山も異妹穗屋姫で事代主と同系、事代主の王朝の後継者を主張したと考えられる。

天忍人は襲名した何代もの波延朝廷の襲名した王名で、天忍人の弟の天忍男は劔根の娘の賀奈良知姫を妃として、その子が羸津世襲(葛󠄀木彦)・世襲足姫で、羸津世襲は葛󠄀木王・大臣なのだから次期天皇の皇太子と同等の地位、天皇天忍人が姪の忍男の娘の世襲足姫を皇后にして、羸津世襲は葛城氏、その子若しくは本人が大倭帯彦、その子が天皇大倭根子で娘は避姫、妹は世襲足姫の子が襲名した波延朝廷の天戸目、天戸目に天皇太瓊の兄弟の避姫が妃になって、兄弟で皇位を簒奪し、天戸目の娘の細姫、大倭根子の姪が皇后になったと考えられる。

『日本書紀』「觀松彦香殖稻天皇一云天皇母弟武石彦奇友背(手研彦奇友背)」のように伯父と混同した耜友の祖父の磯城彦波延の孫(磯城津彦?常津彦某兄)の子に和知都美がいて、淡道(淡海道)の御井宮に住み、まさしく、八(野洲)井耳で名張や美濃を支配し、磯城彦波延の孫の常根津日子は伊呂泥、和知都美の娘も繩伊呂泥で、綏靖天皇から孝安天皇まで5世代、少なくとも100年の間、葛城氏と姻戚関係に有り、葛城氏の政権は磯城縣主の祖から奪っていると考えられ、葛城の中枢に、波延王朝の姻戚の葛城王がいたと考えられる。

そうすると、『日本書紀』の事代主の子達の大神氏の神武天皇と『古事記』の大物主・意富美和大神の子達の尾張氏の神武天皇との皇位継承が必要で、『日本書紀』は息石耳の娘の天豐津媛を尾張氏の妃と想定したが、おそらく、天豐津媛の子の當藝志比古(手研彦)が磯城縣主の太真稚の娘の飯日比賣に婿入りし、襲名した磯城彦、飯日比賣の子の和知都美が皇位を奪ったと考えられる。

太眞稚彦は大国の姫の糸井媛を妃にし、大国は大神氏の領地で、大神氏の建甕槌の剱は高倉下の神宝、その子の建甕依は木國造の祖で曲浦出身の春日氏・和迩氏でもある宇豆比古の親族と思われる紀伊名草姫を妃にして、その孫が和迩君の祖とり、建斗禾も同じく中名草姫を妃にして、子に建手和迩が存在している。

そして、建斗禾の子の建宇那比も、和迩君の祖の阿田賀田須の娘と思われる節名草姫を妃にして、大神氏の領地の三・倭・木・大の国を支配し、再度皇位を得たと考えられる。

君と臣は「岐国神」と「隠国神」の違いで、「岐国」・「君子国」配下の国神と「隠国」・「周饒国」配下の国神の違いで異なる王朝の配下の王を示したもので、同一の概念と思われる。

『日本書紀』では天足彦國押人が和珥臣の始祖とされ、天足彦國押人は天おし人すなわち天忍人で、天忍人が和珥臣の祖となり、宇豆比古・珍彦を介して、和迩臣を尾張氏は継承し、国神珍彦は海の道案内で天の道神(根)、その兄弟は若しくは母・娘は天の道姫で、天道日女は香語山の母である。

2022年4月13日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』崇神天皇類書・天孫本紀系図のまとめ2

  前項の続きで、『舊事本紀』「四世孫羸津世襲命亦云葛󠄀木彦命尾張連等祖天忍男命之子」と瀛津世襲は首都が葛城に有る時に葛城彦と呼ばれたのなら、首都の王が天皇であり、「葛城彦が天皇だった」は当然だが、神武天皇から孝安天皇まで葛城が首都としていて、掖上池心宮で急に天皇では奇妙である。

そして、「天忍男命葛󠄀木土神劔根命女賀奈良知姫為妻」と葛城彦・羸津世襲の父で天忍人の兄弟の天忍男の義父が葛城氏の祖の劔根で、忍日女は姪にあたり、すなわち、『古事記』では河俣毘賣が忍日女で剱根の妃波延が兄倉下・天忍人、弟倉下が忍男の猪手、葛城氏の師木津日子は忍人の娘の 阿久斗比賣を妃に、大倭日子は忍男の娘の泉媛を妃にして、これが前475年頃のことと考えられる。

そして、瀛津世襲が葛城彦と呼ばれるのは、首都が磯城の黒田廬戸宮に移った、大倭根子日子賦斗迩が即位した時のほうが理に適い、それなら、「葉江」の娘の川津媛から渟名城津媛が繋がり、前天皇・襲名した葉江磯城王が十市王になったのならよく理解できる。

すなわち、葛城高岡宮から葛城室秋津島宮までの間の前582年から前291年までの間、尾張氏の女系の祖と思われる紀國造の祖の天道根の娘の天道日女の子の天香語山が高倉下を襲名して統治し、前300年頃に襲名した高倉下・兄倉下葉江・弟倉下猪手と剱根が建甕槌の天皇の璽の剱で統治し前291年に兄倉下葉江弟倉下猪手と剱根の娘の子の世襲足姫を皇后にして世襲足姫・羸津世襲が皇位を簒奪して大臣と呼ばれる大国・葛城王となり、世襲足姫の子が兄倉下・葉江の皇位を奪って天皇・大倭根子となった

そして、『日本書紀』の2番目の 一書云は葛城氏と関係が深い尾張氏磯城彦の祖の妃の可能性があり、天足彦は和迩臣・春日臣の祖なので、河俣毘賣の兄の天忍人・波延の妃が春日縣主の娘の糸織媛だったから、天忍人が春日臣の祖で春日氏を襲名した可能性が有り、葛城氏の天皇の日子賦斗迩の第2妃絚某姉が春日の(千乳早山)香媛で波延王朝の娘、大目は同族瀛津世襲の娘の眞舌姫・葛󠄀木避姫を妃にしたと考えられ

『日本書紀』の一云で奇妙なのが、懿徳天皇の皇后のみ、1番目も2番目も一云が磯城縣主の姫で、これは、前の葉江の男弟の猪手の娘の泉媛が懿徳皇后で、猪手の子、泉媛の兄弟が天豐津媛を妃にして天皇となり、『古事記』と同じ太眞稚彦の娘の飯日媛が葛城氏の耜友の妃と考えられる。

すると、『日本書紀』の一書は綏靖天皇から孝霊天皇まで、『古事記』と同じ姫は葛城氏の妃で、橿原から秋津島までの間、尾張氏と葛城氏は姻戚関係を続け、『日本書紀』の皇后は波延朝廷や三国朝廷の皇后と考えられ、泉媛と猪手が三国朝廷の懿徳天皇から皇位を奪い、波延朝廷の孝安天皇の大目・天戸目から忍鹿比賣と葛城賦斗迩が皇位を奪って、大目・天戸目の娘の細媛を皇后にしたと考えられる。

2022年4月11日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』崇神天皇類書・天孫本紀系図のまとめ1

  『古事記』と『日本書紀』の皇后が異なっていて、『日本書紀』の一書云の筆頭の皇后が『古事記』の皇后となっていて、『舊事本紀』の皇后は『日本書紀』と同じ皇后を記述して『古事記』の皇后と以下の様に異なる。(天皇名『舊事本紀』・『日本書紀』・『古事記』・『日本書紀』 一云の順)

神武天皇  神倭伊波礼毘古

吾平津媛 吾平津媛 阿比良比賣(小椅君妹)

蹈鞴五十鈴媛(事代主神大女) 韛五十鈴媛(事代主神大女) 伊須氣余理比賣(大物主女)

綏靖天皇  神沼河耳

五十鈴媛(事代主神少女) 五十鈴依媛(事代主神少)  河俣毘賣(師木縣主祖)

〈一書云磯城縣主女川派媛一書云春日縣主大日諸女糸織媛也〉

安寧天皇 師木津日子玉手見

淳名底中媛(事代主神孫鴨玉女) 渟名底仲媛(事代主神孫鴨王女) 阿久斗比賣(河俣毘賣兄縣主波延女)

〈一書云磯城縣主葉江女川津媛一書云大間宿禰女糸井媛。〉

懿徳天皇 大倭日子耜友

天豊津媛(息石耳之女) 天豐津媛(息石耳之女)  賦登麻和訶比賣・飯日比賣(師木縣主祖)

〈一云磯城縣主葉江男弟猪手女泉媛一云磯城縣主太眞稚彦女飯日媛也〉

孝昭天皇 御眞津日子訶惠志泥

世襲足姫(大臣瀛津世襲妹) 世襲足媛(尾張連遠祖瀛津世襲妹) 余曾多本毘賣(尾張連祖奧津余曾妹)

〈一云。磯城縣主葉江女渟名城津媛一云倭國豐秋狹太雄女大井媛也〉

孝安天皇 大倭帯日子国押人

姪押媛  姪押媛(天足彦國押人女) 姪忍鹿比賣

〈一云磯城縣主葉江女長媛一云十市縣主五十坂彦女五十坂媛也〉

孝霊天皇 大倭根子日子賦斗迩

細媛(磯城縣主大目女) 細媛命爲皇后(磯城縣主大目女) 細比賣(十市縣主の祖大目女)

〈一云春日千乳早山香媛一云十市縣主等祖女眞舌媛也〉

孝元天皇 大倭根子日子国玖琉

鬱色謎(物部連祖出石心孫) 欝色謎(穗積臣遠祖欝色雄妹) 内色許賣(穗積臣祖内色許男妹)

このように、『古事記』と『日本書紀』は皇后名が異なり、『日本書紀』には亦の名に『古事記』の皇后やそれ以外の皇后を入れ込み、『日本書紀』はあたかも『舊事本紀』と『古事記』をまとめた様に見えるが、『日本書紀』の推古天皇以前までの完成が『舊事本紀』より前なので、作成氏族による違いと考えられ、『古事記』の皇后名は巨勢氏など葛城系の皇后の可能性が高いと思われる。

さらに、大化の改新で「遂使父子易姓兄弟異宗夫婦更互殊名一家五分六割」と親子・兄弟姉妹で氏・姓が異なり、母方の氏姓・父方の氏姓・役職の姓・婿入りした・嫁入りした氏姓を使用し、同じ人物が異なる氏族の一員となって系図に落とし込まれたと考えられる。

葛城氏が天皇になったのは、大倭根子の官位の日子賦斗迩・日子国玖琉の時で皇后が磯城縣主の娘、それ以前は一云 が磯城縣主で、『古事記』は孝昭天皇の皇后から磯城縣主でなくなり、尾張氏や姪が皇后だが、一云は磯城縣主葉江や大目の親族である。

これは、葛城氏にとっては、天皇が磯城縣主の祖で、尾張氏や姪も磯城縣主の祖、天皇も磯城縣主の祖だったことを示し、この磯城縣主は『古事記』では雄略朝で初めて出現し、『舊事本紀』では十市根の兄弟の新川や次世代の印岐美も「倭志紀縣主等祖」と、磯城縣主は賜姓されていない。

そして、葛城氏が天皇の時、磯城縣主が賜姓されないのだから、磯城縣主の祖としても良いのに十市縣主とし、葛城氏が天皇磯城縣主となった事を示し、大目も『日本書紀』では磯城縣主の祖になった。

2022年4月8日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』崇神天皇類書-神・王家の系譜のまとめ3

  『古事記』では五十鈴姫と五十鈴依姫を同一人物として伊須氣余理比賣と呼び、御毛沼・手研耳が共に妃としているが、手研(くし)耳の説話の可能性が高く、宮主奇稲田姫と同地域の溝橛と玉櫛媛と事代主の神倭王朝を手研耳が継承したと考えられる。

そして、葛城氏の祖の沼河耳が前582年に八井・五十鈴依姫親子のクーデタに協力し、奇日方を加えた三国王が八国を完全に乗っ取って、子の息石耳の妃の三国王奇日方の妹の渟中底姫と研貴彦兄弟が前548年に皇位を奪い、子の常津彦の妃で息石耳の娘の天豐津媛が前510年に皇位を継承したが、皇統の姫が絶え、前475年に天皇の母弟の武石彦奇友背の皇后の葉江の娘の川津媛と太眞稚彦(和知都美)兄弟に皇位を奪われたようだ。

史書には孝昭天皇の姪の世襲足媛と瀛津世襲の兄弟になっているが、この名前は襲名する名と考えられ、剱根の孫の葛城彦の瀛津世襲なら、天皇名である大倭根子と呼ばれる孝霊天皇から葛城氏の天皇なので、孝霊天皇の親でないと理に適わず、孝安天皇の妃も姪の押媛で、世襲足媛の親の忍男は次の世代にも記述される。

尾張氏の髙倉下は天道日女の子、天道は「天道根命爲紀伊國造」と、おそらく、少なくとも崇神以前は紀伊ではなく紀国造の祖で、曲浦出身の珍彦が紀国造の祖で、宇迦王朝の西の入り国を守って、宇迦朝廷を支え、弟猾と椎根津彦の菟田川で活躍した人物の一人と考えられる。

天道日女の子の天村雲の妃は阿俾良依姫で神武天皇の妃の阿比良比賣、奇日方の妃の度美良姫とは三国の奇稲田姫の須賀宮の姫と思われ、天村雲は天皇と姻戚関係となったと考えられる。

顯見(宇津し神)国主の顯見國玉、すなわち、宇迦之御魂は根国の素戔嗚の娘の須世理姫の婿で、「宇迦能山之嶺於底津石根宮柱」と宮を造って王朝を開き、その姫の一人と思われるのが玉依姫で、事代主の妃が各史書で異なり、『舊事本紀』の事代主の妃活玉依姫、『日本書紀』の玉櫛媛と共に姻戚と考えられ、同族と思われる玉依姫の子の御毛沼が『古事記』では葛城氏の始祖と述べている。

宇迦能山の王の子と考えられる、兄猾を倒して、来目歌で「宇陀の高城」と歌うように高城に高木(神)が居て、その配下が高倉下というのはよく合致し、「底津石根宮柱」・宮殿を建てたのは、他に大国主が大国を奪われて「葦原中國」に宮殿を立ててもらい、火瓊々杵が「筑紫日向襲之槵觸二上峯」と高千穂宮を、神武天皇が「畝傍之橿原」に宮殿を建て、その橿原は葛城氏が倭彦と呼ばれた時と考えられ「輕曲峽宮」が合致し、宇迦の宮殿よりかなり後代である。

饒速日と天道神の天道日女の子が神子(みこ)の高倉下、神孫(みま)が天村雲、その妃が阿俾良依姫で子が天忍日女なので、阿俾良依姫の兄弟は天忍日神ということになり、「天忍日命大伴連等祖」・「大伴氏之遠祖日臣」とあるように、阿俾良依姫の兄弟は日臣のちの道臣である。

大伴氏は隠岐国の忍(隠衆)の日臣・壱岐の国神でと思われ、珍彦と同族で大人国の聖と思われ、日本海の海道の隠岐国の国神の道臣の子の高倉下、尾張氏の王の璽の天叢雲劒・草薙劒・韴靈を持つ天村雲が月読の天孫の天忍日神を妃とした尾張氏の天村雲も天氏を引継ぎ、天道日女は道臣の祖、道臣はおそらく吉備の道臣の意味で、390年が元年の神武天皇・応神天皇の時に活躍して道臣と呼ばれた人物と考えられる。

天皇の臣下としての臣の賜姓の最初は仁徳の「小泊瀬造祖宿禰臣賜名曰賢遺臣也」で、土部臣は「即任土部職因改本姓謂土部臣是土部連等主」と連すなわち邑の主を使役し、朝廷の賜姓ではなく、出雲臣も仁徳天皇の時でも出雲臣の祖と出雲臣を賜姓されない淤宇宿禰が出現している。

出雲臣は中臣と同じく、隠岐の国の国神の一人、日臣も同様の隠岐国(周饒国)の官位で、出雲の土師連も賜姓時は土部臣で、『日本書紀』では雄略以前は天皇が賜姓する臣も「使主」を使用していて、賢遺臣共に賜姓される的戸田宿禰は応神紀に平群木菟宿禰と共に記述、平群木菟宿禰は別の説話で物部大前宿祢と共に記述され、大前宿祢「連公石上穴穂宮御宇天皇御世元為大連」と安康天皇の大連で、臣賜姓の説話は400年代頃の説話と考えられる。


2022年4月6日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』崇神天皇類書-神・王家の系譜のまとめ2

  『伊未自由来記』では佐奈臣の子の佐の男が加須屋大海祇の大神・ 大人様(大人国)の援助(三身の綱)で於漏知を追い出し、隠岐全体を統治し、この大人(おおと)様は加須屋の大国の神といい、大国の子で、加須屋には大人国の港があったことを示し、『出雲風土記』の国引きした「八束水臣」は、八津河神津於神、「やつか(八津河)みつおみ(神津臣)」、八国河神配下の神津臣・川の船着き場の国神の「佐野臣」を示す。

すなわち、「ひる子」は船を操る対馬の漁師の夜神(よみ)・娥皇を祀る統治者で、分国宗像の「日孁貴」の子は瀛津島・隠岐と市杵島・壱岐と瑞津島、おそらく安芸に漁の港を造り、帝俊が宗像の領地を拡げて三身国と呼ばれる連合体をつくって隠岐を援助して、隠岐(周饒国)の素戔嗚が和珥氏の祖先の聖人の大人国を併合したようだ。

佐の男は八国の於漏知が支配する君主国・三国の櫛名田比賣に婿入りして、於漏知を降し、子が八島士奴美、義父が宮主(神八主)須賀之八耳、すなわち、君主国が八国を統治し、耳は三(神)国神の意味で、久奴須奴神、夜禮花神、淤美豆奴神、冬衣神、大国主と君子国が大国も支配し、元の大国王を御中主として「葦原中國」に宮殿を造って追い出した。

八島士奴美は大己貴の一人とされとされるが「美」すなわち神・女性で、八国の女の八上姫と合祀されて三国の神祖の木俣神・御井神、すなわち、宮に土地神の井神が祀られ、須賀宮主が木神子・君子と呼ばれる君子国が誕生したと考えられる。

事代主は大国王を大国主と呼ぶように、大国の役職である事代主を示し、『古事記』では母が神屋(宮)楯比賣と三八国に宮殿を持った女王で、『舊事本紀』では高津姫で妹が髙照光姫なので、高御産巣日・高倉下と同じ地域の出身の八国の宮殿の皇子ようで、八重事代主と呼ばれる。

「おほなむぢ」の嫡后の須勢理姫が「大三輪大神嫡后也」と記述され、大国・三国・八国を支配する大国の神と記述されるので、建御名方が髙志の姫の子で三国の王なら、事代主は倭(八)国の王で、大穴牟遲は大国・三国・倭国の連合体の国の王である。

三身国の神「日神」の配下となった隠岐の神の「隠神・おみ」の勢力を拡げる「女(な)」・「日女(ひな)」の子の「日人(ひと)」が各地の「みな」の婿になって「日子」を、各地の国神「みな」も「日女(ひめ)」を名乗り、神の日女と武力行使をする日子となったと思われる。

その土地神「遲」から「彦・姫」に呼び方が変わり、奇稲田姫が神で、足名椎が「馳」から宮主と役職を得て、姓が「八耳」と隠岐の国神が臣、三国の神が君、三国の領地の国神が耳、そして、三嶋溝杭の娘の玉櫛媛・勢夜陀多良比賣・活玉依姫の子が奇日方で奇稲田姫と同地域の人物、建御名方に対応する人物で、活玉依姫は波延と同族の倭迹迹日百襲姫と同じ説話を持ち、三国と八国(野洲)が同じ神話を持っている。

そして、宇迦之御魂神の「たま」と玉依姫の「たま」と同一氏族と思われる姫の子の御(三)毛沼、すなわち、三国の毛沼が野洲王の事代主・手研耳と共に移住し、 事代主は君子の三嶋溝杭の娘の勢夜陀多良比賣を妃に五十鈴姫・奇日方が生まれ、手研耳(「くし」を統治する三国神の皇太子の意味)から奇日方が支配権を奪い、三国(君主国)主導で八国との連合国の宮王朝が前660年に成立したと思われる。

御(三)毛沼の父は「うかやふきあえず」だが、草葺が氏というのは地名ではなく異質で、実際は「宇迦八」の「(伊)吹」の「あえ」「津」の尊で、宇迦朝廷の八国の 津の国神と考えると符合する。


2022年4月4日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』崇神天皇類書-神・王家の系譜のまとめ1

  日本の神の「み」は漁師が船を操って生活する「う~み・生む神・海」の「う」、さらに川の神の「河の神・河神・かみ」の「か」、木の神の「きのみ・岐神・きみ」の「き」の神で、河や木は一人で採取出来るが、鯨などは一族全員を動かす統治者が必要なため神の「う」が統治し、統治されるのが「うし・生衆・大人」と考えられる。

複数の一族が集まる氏族の人々に上下関係が出来ると、支配されるのは「人達・とち・野地・洲遲」の「ち」で、家族神が集まると支配神は生む神の女神の「みな(神汝・神女)」、「みな」を守る「と・人」がいて「と・門」があり、神が住むのが海の「みなと(港)」、河の「みづ(神津)」、「み(神)」を守る「み(神)さきもり(前守)」、配下が国神の「ち(霊)」、そして、神の後継の娘が「みこ・神子」と、他の「神女」と区別されたと思われる。

『伊未自由来記』で隠岐に「木の葉比等」がやって来たのはこのあとの複数氏族の共同生活・邑が始まった時代で、日邑(日国)の日(神)の「日(神)子」の配下の「日人」、日人の一人が船で西千里の加羅斯呂(?この時、韓は存在せず日の邑の六合・壱岐・対馬)から隠岐に到来して「木の葉爺」と木葉邑神の「遲」と呼ばれるようになったようだ。

神の息子達は「みこと・神子人・尊」で、『日本書紀』で一番最初の支配神はまだ地名が無い六合の「ひる」と考えられ、統治者・神子が「ひる子」で、娘たちが「ひるめ」、「ひる」は「よる」と対の神で、「女子國在巫咸北兩女子居」と記述される対馬の神、「ひる」に対して一方が「よ・夜」で、上下関係が出来て、「よみ・夜神」と「ひる女」へと変化して、「よみ」を祀る多くの「ひるめ」の邑々の中で、「む(宗像)」という邑から丈夫国が誕生して、「日孁貴」・「未有若此靈異之兒」という霊・「む国の馳」という神「ひる」に対する国神「ち」が出現した。

『伊未自由来記』では「木の葉邑」の「馳」の「木の葉爺」を中心に焼火山で火を守る夷守が始まる隠岐の沖の島の神話で、同族が、そして、さらに海人達が次々と漂着する、アカホヤを思わせ、海人達の神を於母島に住む「於佐」神、「佐」は漁港で狭まる場所の「狭」と考えられ、すなわち、国神の「狭の隠」神で佐野臣、「遲」を於国(周饒國)は「臣」と呼び、その神子人・尊の一人が須(洲の)佐之男命である。

そして、於国の木神の「女・な」が「な木」で、於佐神は於の母島、於の「凝呂島」の島後の奈岐の浦に住む奈木(なき)が王だったけれど、海人の於佐神と合祀・習合されて於佐奈岐・於佐奈神と呼ばれたと考えられ、佐の男が「於漏知」と闘ったのが「八岐大蛇」伝説と思われ、隠国の神が於佐奈岐・於佐奈神なので、佐奈岐・佐奈神が壱岐を支配して壱佐奈岐・壱佐奈神と呼ばれる。

「木の葉比等」が加羅斯呂から来たのを六合と考えたのは、筑紫が「白日別」と呼ぶように、日という地域があり、於佐奈神を生んだのは「神靈所生」の(白)日から別れたのが筑紫、於佐奈神を生んだのは「巫咸國」・壱岐の漁港の壱狭の女神「壱狭な」岐(神)の子、「木の葉比等」も壱狭の女神「壱狭汝」木(岐神)の子と考えたからで、巫咸国には「群巫所從」と配下の巫(巫女)が集まると記述され、神有月・神無月の原型で、一大率という官職は神が壱岐に集まったので、その地位を伊都が奪ったと考えられる。

ちなみに、三身国を生んだ娥皇は娥影(月)の皇・夜の皇であることから、『日本書紀』の著者は『山海經』の娥皇から「月読」を「津岐夜神」の表意文字にしたと考えられ、一大率がいた壱岐が日(別)国で対馬が加羅斯呂の白(斯呂)日国、宗像が白日別と考えられ、対馬の分国の宗像丈夫国が壱岐・隠岐・豊日の安芸へと勢力を拡大したと考えられ、「志羅紀」は白岐・軒轅之國で国王・神霊は日本海の六合で生まれているので六合に含まれる対馬の分国だったと考えられる。

2022年4月1日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』崇神天皇類書・物部氏のまとめ2

  前項の続きで、伊香色雄を宇摩志摩治と史書に記述したのは、狭霧尊が天神で饒速日が天子、宇摩志麻治が天孫で、宇摩志麻治以降は伊香色雄まで全ての物部氏は天孫で「東有美地」を目指し、欝色雄・伊香色雄が天皇の地位を得て、この、天孫が即位したとき、天孫の宇摩志麻治の襲名が終了したことをしめした。

即位して、新たな段階に入ったが、朝廷は分裂し、一方は十市根が物部氏を賜姓されて退位し、一方の十市根の妃が武諸遇の娘、武諸遇は「物部膽咋宿祢女清媛爲妻生一男」と膽咋の娘を妃にして、武諸遇が皇位を継承した。

それは、膽咋の子が五十琴宿祢と五十琴姫で五十琴姫は「纏向日代宮御宇天皇御世立為皇妃誕生一兒即五十功彦」とあるように、清媛イコール五十琴姫で五十琴姫の夫が武諸遇、武諸遇が纏向日代宮御宇天皇と記述したことから証明される。

「物部多遅麻連公武神諸遇大連之子」とあるように、多遅麻が五十功彦で、「多遅麻連公・・・五十琴彦連公女安媛爲妻」と義父の五十琴彦の襲名と考えられ、多遅麻の娘が「物部山無媛連公此連公輕嶋豐明宮御宇天皇立為皇妃誕生太子莵道稚郎皇子次矢田皇女次雌鳥皇女」と山無媛で子が莵道稚郎子、「次妃和珥臣祖日觸使主之女宮主宅媛生菟道稚郎子皇子」とあり、物部武諸遇の子の多遅麻も和珥臣の祖である。

さらに、「武諸遇連公新河大連之子」と武諸遇の父新河は「紀伊荒川戸俾女中日女爲妻」とあり、「紀伊國荒河戸畔女遠津年魚眼眼妙媛生豐城入彦」とあるように豐城入彦と同族の遠津臣の可能性が有り、迦迩米雷の妃が遠津臣の娘の高材比賣、息長宿禰の妃は多遅摩比多訶の姪の葛城高額比賣、息長宿禰の子が多遲摩國造の祖の大多牟坂王で物部武諸遇と尾張建諸隅が重なり合っている。

また、「既似雌鳥皇女之珠」と雌鳥皇女は天皇の璽の珠を奪われ、奪ったのが山部大楯連で、市邊押磐皇子の子を見つけ出したのが針間國の宰に出世した山部連小楯、天皇の璽は雄略天皇に渡って、皇位の正統性を示したと思われ、矢田皇女には跡継ぎが無く、雌鳥皇女の死によって秦王朝は滅んだ。

多遅麻大連の子の印葉は皇位を奪われて、恐らく多遲麻君と呼ばれ、兄弟の大別が矢田部連、秦王朝は多遲麻の娘が「五十琴宿祢連・・・多遅麻大連女香兒媛為妻」と五十琴宿祢の妃となり、「伊莒弗連公五十琴宿祢之子・・・倭國造祖比香賀君女玉彦媛為妻」と伊莒弗へ、そして、その子の物部目大連と受け継がれて、物部目が継体天皇となって、秦王朝を復興し、630年に蘇我氏に滅ぼされて、「鎌媛大刀自・・・宗我嶋大臣為妻生豊浦大臣」と蘇我氏の姫たちに受け継がれた。

また、十市根は伊香色雄の子だが、伊香色雄は『古事記』「内色許男命之女伊迦賀色許賣」とあるが、『舊事本紀』の「伊香色謎命大綜杵大臣之子」の伊香色謎が存在し、大綜杵の娘伊香色謎と鬱色謎の孫の天皇伊香色雄との子が十市根と思われる。

十市根の子の膽咋は高穴穂宮天皇の大連だが、『古事記』に「志賀高穴穂宮治天下也此天皇娶穂積臣等之祖建忍山垂根之女名弟財郎女生御子和訶奴氣王」、『舊事本紀』に「穂積氏女忍山宿祢女弟橘媛生稚武彦王」と記述され、「穂積臣等之祖内色許男」と内色許男は穂積氏の祖でこの時物部氏で宿祢と呼ぶのは膽咋で、膽咋が忍山垂根と考えられるからだ。

膽咋は天皇を退位して、武諸遇や多遅麻の臣下の「志賀髙穴穗宮御宇天皇御世元爲太臣」と皇太子を退いた姓大臣を名乗ったと考えられる。