2022年4月13日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』崇神天皇類書・天孫本紀系図のまとめ2

  前項の続きで、『舊事本紀』「四世孫羸津世襲命亦云葛󠄀木彦命尾張連等祖天忍男命之子」と瀛津世襲は首都が葛城に有る時に葛城彦と呼ばれたのなら、首都の王が天皇であり、「葛城彦が天皇だった」は当然だが、神武天皇から孝安天皇まで葛城が首都としていて、掖上池心宮で急に天皇では奇妙である。

そして、「天忍男命葛󠄀木土神劔根命女賀奈良知姫為妻」と葛城彦・羸津世襲の父で天忍人の兄弟の天忍男の義父が葛城氏の祖の劔根で、忍日女は姪にあたり、すなわち、『古事記』では河俣毘賣が忍日女で剱根の妃波延が兄倉下・天忍人、弟倉下が忍男の猪手、葛城氏の師木津日子は忍人の娘の 阿久斗比賣を妃に、大倭日子は忍男の娘の泉媛を妃にして、これが前475年頃のことと考えられる。

そして、瀛津世襲が葛城彦と呼ばれるのは、首都が磯城の黒田廬戸宮に移った、大倭根子日子賦斗迩が即位した時のほうが理に適い、それなら、「葉江」の娘の川津媛から渟名城津媛が繋がり、前天皇・襲名した葉江磯城王が十市王になったのならよく理解できる。

すなわち、葛城高岡宮から葛城室秋津島宮までの間の前582年から前291年までの間、尾張氏の女系の祖と思われる紀國造の祖の天道根の娘の天道日女の子の天香語山が高倉下を襲名して統治し、前300年頃に襲名した高倉下・兄倉下葉江・弟倉下猪手と剱根が建甕槌の天皇の璽の剱で統治し前291年に兄倉下葉江弟倉下猪手と剱根の娘の子の世襲足姫を皇后にして世襲足姫・羸津世襲が皇位を簒奪して大臣と呼ばれる大国・葛城王となり、世襲足姫の子が兄倉下・葉江の皇位を奪って天皇・大倭根子となった

そして、『日本書紀』の2番目の 一書云は葛城氏と関係が深い尾張氏磯城彦の祖の妃の可能性があり、天足彦は和迩臣・春日臣の祖なので、河俣毘賣の兄の天忍人・波延の妃が春日縣主の娘の糸織媛だったから、天忍人が春日臣の祖で春日氏を襲名した可能性が有り、葛城氏の天皇の日子賦斗迩の第2妃絚某姉が春日の(千乳早山)香媛で波延王朝の娘、大目は同族瀛津世襲の娘の眞舌姫・葛󠄀木避姫を妃にしたと考えられ

『日本書紀』の一云で奇妙なのが、懿徳天皇の皇后のみ、1番目も2番目も一云が磯城縣主の姫で、これは、前の葉江の男弟の猪手の娘の泉媛が懿徳皇后で、猪手の子、泉媛の兄弟が天豐津媛を妃にして天皇となり、『古事記』と同じ太眞稚彦の娘の飯日媛が葛城氏の耜友の妃と考えられる。

すると、『日本書紀』の一書は綏靖天皇から孝霊天皇まで、『古事記』と同じ姫は葛城氏の妃で、橿原から秋津島までの間、尾張氏と葛城氏は姻戚関係を続け、『日本書紀』の皇后は波延朝廷や三国朝廷の皇后と考えられ、泉媛と猪手が三国朝廷の懿徳天皇から皇位を奪い、波延朝廷の孝安天皇の大目・天戸目から忍鹿比賣と葛城賦斗迩が皇位を奪って、大目・天戸目の娘の細媛を皇后にしたと考えられる。

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