2022年4月1日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』崇神天皇類書・物部氏のまとめ2

  前項の続きで、伊香色雄を宇摩志摩治と史書に記述したのは、狭霧尊が天神で饒速日が天子、宇摩志麻治が天孫で、宇摩志麻治以降は伊香色雄まで全ての物部氏は天孫で「東有美地」を目指し、欝色雄・伊香色雄が天皇の地位を得て、この、天孫が即位したとき、天孫の宇摩志麻治の襲名が終了したことをしめした。

即位して、新たな段階に入ったが、朝廷は分裂し、一方は十市根が物部氏を賜姓されて退位し、一方の十市根の妃が武諸遇の娘、武諸遇は「物部膽咋宿祢女清媛爲妻生一男」と膽咋の娘を妃にして、武諸遇が皇位を継承した。

それは、膽咋の子が五十琴宿祢と五十琴姫で五十琴姫は「纏向日代宮御宇天皇御世立為皇妃誕生一兒即五十功彦」とあるように、清媛イコール五十琴姫で五十琴姫の夫が武諸遇、武諸遇が纏向日代宮御宇天皇と記述したことから証明される。

「物部多遅麻連公武神諸遇大連之子」とあるように、多遅麻が五十功彦で、「多遅麻連公・・・五十琴彦連公女安媛爲妻」と義父の五十琴彦の襲名と考えられ、多遅麻の娘が「物部山無媛連公此連公輕嶋豐明宮御宇天皇立為皇妃誕生太子莵道稚郎皇子次矢田皇女次雌鳥皇女」と山無媛で子が莵道稚郎子、「次妃和珥臣祖日觸使主之女宮主宅媛生菟道稚郎子皇子」とあり、物部武諸遇の子の多遅麻も和珥臣の祖である。

さらに、「武諸遇連公新河大連之子」と武諸遇の父新河は「紀伊荒川戸俾女中日女爲妻」とあり、「紀伊國荒河戸畔女遠津年魚眼眼妙媛生豐城入彦」とあるように豐城入彦と同族の遠津臣の可能性が有り、迦迩米雷の妃が遠津臣の娘の高材比賣、息長宿禰の妃は多遅摩比多訶の姪の葛城高額比賣、息長宿禰の子が多遲摩國造の祖の大多牟坂王で物部武諸遇と尾張建諸隅が重なり合っている。

また、「既似雌鳥皇女之珠」と雌鳥皇女は天皇の璽の珠を奪われ、奪ったのが山部大楯連で、市邊押磐皇子の子を見つけ出したのが針間國の宰に出世した山部連小楯、天皇の璽は雄略天皇に渡って、皇位の正統性を示したと思われ、矢田皇女には跡継ぎが無く、雌鳥皇女の死によって秦王朝は滅んだ。

多遅麻大連の子の印葉は皇位を奪われて、恐らく多遲麻君と呼ばれ、兄弟の大別が矢田部連、秦王朝は多遲麻の娘が「五十琴宿祢連・・・多遅麻大連女香兒媛為妻」と五十琴宿祢の妃となり、「伊莒弗連公五十琴宿祢之子・・・倭國造祖比香賀君女玉彦媛為妻」と伊莒弗へ、そして、その子の物部目大連と受け継がれて、物部目が継体天皇となって、秦王朝を復興し、630年に蘇我氏に滅ぼされて、「鎌媛大刀自・・・宗我嶋大臣為妻生豊浦大臣」と蘇我氏の姫たちに受け継がれた。

また、十市根は伊香色雄の子だが、伊香色雄は『古事記』「内色許男命之女伊迦賀色許賣」とあるが、『舊事本紀』の「伊香色謎命大綜杵大臣之子」の伊香色謎が存在し、大綜杵の娘伊香色謎と鬱色謎の孫の天皇伊香色雄との子が十市根と思われる。

十市根の子の膽咋は高穴穂宮天皇の大連だが、『古事記』に「志賀高穴穂宮治天下也此天皇娶穂積臣等之祖建忍山垂根之女名弟財郎女生御子和訶奴氣王」、『舊事本紀』に「穂積氏女忍山宿祢女弟橘媛生稚武彦王」と記述され、「穂積臣等之祖内色許男」と内色許男は穂積氏の祖でこの時物部氏で宿祢と呼ぶのは膽咋で、膽咋が忍山垂根と考えられるからだ。

膽咋は天皇を退位して、武諸遇や多遅麻の臣下の「志賀髙穴穗宮御宇天皇御世元爲太臣」と皇太子を退いた姓大臣を名乗ったと考えられる。


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