2022年4月11日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』崇神天皇類書・天孫本紀系図のまとめ1

  『古事記』と『日本書紀』の皇后が異なっていて、『日本書紀』の一書云の筆頭の皇后が『古事記』の皇后となっていて、『舊事本紀』の皇后は『日本書紀』と同じ皇后を記述して『古事記』の皇后と以下の様に異なる。(天皇名『舊事本紀』・『日本書紀』・『古事記』・『日本書紀』 一云の順)

神武天皇  神倭伊波礼毘古

吾平津媛 吾平津媛 阿比良比賣(小椅君妹)

蹈鞴五十鈴媛(事代主神大女) 韛五十鈴媛(事代主神大女) 伊須氣余理比賣(大物主女)

綏靖天皇  神沼河耳

五十鈴媛(事代主神少女) 五十鈴依媛(事代主神少)  河俣毘賣(師木縣主祖)

〈一書云磯城縣主女川派媛一書云春日縣主大日諸女糸織媛也〉

安寧天皇 師木津日子玉手見

淳名底中媛(事代主神孫鴨玉女) 渟名底仲媛(事代主神孫鴨王女) 阿久斗比賣(河俣毘賣兄縣主波延女)

〈一書云磯城縣主葉江女川津媛一書云大間宿禰女糸井媛。〉

懿徳天皇 大倭日子耜友

天豊津媛(息石耳之女) 天豐津媛(息石耳之女)  賦登麻和訶比賣・飯日比賣(師木縣主祖)

〈一云磯城縣主葉江男弟猪手女泉媛一云磯城縣主太眞稚彦女飯日媛也〉

孝昭天皇 御眞津日子訶惠志泥

世襲足姫(大臣瀛津世襲妹) 世襲足媛(尾張連遠祖瀛津世襲妹) 余曾多本毘賣(尾張連祖奧津余曾妹)

〈一云。磯城縣主葉江女渟名城津媛一云倭國豐秋狹太雄女大井媛也〉

孝安天皇 大倭帯日子国押人

姪押媛  姪押媛(天足彦國押人女) 姪忍鹿比賣

〈一云磯城縣主葉江女長媛一云十市縣主五十坂彦女五十坂媛也〉

孝霊天皇 大倭根子日子賦斗迩

細媛(磯城縣主大目女) 細媛命爲皇后(磯城縣主大目女) 細比賣(十市縣主の祖大目女)

〈一云春日千乳早山香媛一云十市縣主等祖女眞舌媛也〉

孝元天皇 大倭根子日子国玖琉

鬱色謎(物部連祖出石心孫) 欝色謎(穗積臣遠祖欝色雄妹) 内色許賣(穗積臣祖内色許男妹)

このように、『古事記』と『日本書紀』は皇后名が異なり、『日本書紀』には亦の名に『古事記』の皇后やそれ以外の皇后を入れ込み、『日本書紀』はあたかも『舊事本紀』と『古事記』をまとめた様に見えるが、『日本書紀』の推古天皇以前までの完成が『舊事本紀』より前なので、作成氏族による違いと考えられ、『古事記』の皇后名は巨勢氏など葛城系の皇后の可能性が高いと思われる。

さらに、大化の改新で「遂使父子易姓兄弟異宗夫婦更互殊名一家五分六割」と親子・兄弟姉妹で氏・姓が異なり、母方の氏姓・父方の氏姓・役職の姓・婿入りした・嫁入りした氏姓を使用し、同じ人物が異なる氏族の一員となって系図に落とし込まれたと考えられる。

葛城氏が天皇になったのは、大倭根子の官位の日子賦斗迩・日子国玖琉の時で皇后が磯城縣主の娘、それ以前は一云 が磯城縣主で、『古事記』は孝昭天皇の皇后から磯城縣主でなくなり、尾張氏や姪が皇后だが、一云は磯城縣主葉江や大目の親族である。

これは、葛城氏にとっては、天皇が磯城縣主の祖で、尾張氏や姪も磯城縣主の祖、天皇も磯城縣主の祖だったことを示し、この磯城縣主は『古事記』では雄略朝で初めて出現し、『舊事本紀』では十市根の兄弟の新川や次世代の印岐美も「倭志紀縣主等祖」と、磯城縣主は賜姓されていない。

そして、葛城氏が天皇の時、磯城縣主が賜姓されないのだから、磯城縣主の祖としても良いのに十市縣主とし、葛城氏が天皇磯城縣主となった事を示し、大目も『日本書紀』では磯城縣主の祖になった。

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