2020年8月31日月曜日

最終兵器の目 推古天皇14

  今回も任那記事で分割しにくいため先に解説を書き、あとで原文と簡単な訳を記述する。

新羅からやってきた惠日から唐を見習うべき助言を得て、舒明天皇二年に「大仁藥師惠日遣於大唐」と俀国が唐に派遣して、新羅を頼って俀国が唐と同盟を結ぼうとしていて、これは、白村江の戦いの前夜の653年のことだ。

推古天皇十六年「唐客裴世清罷歸・・・是時。遣於唐國學生倭漢直福因」と福因が15年も経って帰ったが、俀国は隋とは『隋書』「此後遂絶」と絶縁しているので福因は倭国の学生の可能性が高く、他の漢人も倭国の人々だと思われ、倭国の人物が一緒に帰国しているので、新羅の貢物を倭国に渡し四天王寺に後に納められたのだろう。

任那の滅亡は『三国史記』の562年眞興王二十三年「九月加耶叛王命異斯夫討之斯多含副之斯多含領五千騎先馳入栴檀門立白旗城中恐懼不知所爲異斯夫引兵臨之一時盡降論功」が最後の記述で、『三国遺事』駕洛國記「獻帝立安四年己卯 ・・・相繼不絕。洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉三月 ・・・其乃仇衝失位去國。逮龍朔元年辛酉。六十年之間」と199年から661年までたえることなく王朝が続いたが、最後の60年間は位を失くして国を去り、661年に新羅の領土になったと述べている。

すなわち、吉士磐金や吉士倉下を派遣した時期が欽明朝の時期の可能性が高い。

『日本書紀』慶長版は

三十一年秋七月新羅遣大使奈末智洗爾任那遣達率奈末智並來朝仍貢佛像一具及金塔幷舍利且大觀頂幡一具小幡十二條即佛像居於葛野秦寺以餘舍利金塔觀頂幡等皆納于四天王寺是時大唐學問者僧惠齋惠光及醫惠日福因等並從智洗爾等來之於是惠日等共奏聞曰留于唐國學者皆學以成業應喚且其大唐國者法式備定珍國也常湏達是歲新羅伐任那任那附新羅於是天皇將討新羅謀及大臣詢于群卿田中臣對曰不可急討先察狀以知逆後擊之不晩也請試遣使覩其消息中臣連國曰任那是元我內官家今新羅人伐而有之請戒戎旅征伐新羅以取任那附百濟寧非益有于新羅乎田中臣曰不然百濟是多反覆之國道路之間尚詐之凢彼所請皆非之故不可附百濟則不果征焉爰遣吉士磐金於新羅遣吉士倉下於任那令問任那之事時新羅國主遣八大夫啓新羅國事於磐金且啓任那國事於倉下因約曰任那小國天皇附庸何新羅輙有之隨常定內官家願無煩矣則奈末智洗遲副於吉士磐金復以任那人達率奈末遲副於吉士倉下仍貢兩國之調然磐金等未及于還即年以大德境部臣雄摩侶小德中臣連國爲大將軍以小德河邊臣祢受小德物部依網連乙等小德波多臣廣庭小德延江脚身臣飯蓋小德平群臣宇志小德大伴連(闕名)小德大宅臣軍爲副將軍率數万衆以征討新羅時磐金等共會於津將發舩以候風波於是舩師滿海多至兩國使人望瞻之愕然乃還留焉更代堪遲大倉爲任那調使而貢上於是磐金等相謂之曰是軍起之既違前期是以任那之事今亦不成矣則發舩而度之唯將軍等始到任那而議之欲襲新羅於是新羅國主聞軍多至而豫慴之請服時將軍等共議以上表之天皇聽矣冬十一月磐金倉下等至自新羅時大臣問其狀對曰新羅奉命以驚懼之則並差專使因以貢兩國之調然見舩師至而朝貢使人更還耳伹調猶貢上爰大臣曰悔乎早遣師矣時人曰是軍事者境部臣阿曇連先多得新羅幣物之故又勸大臣是以未待使旨而早征伐耳初磐金等度新羅之日比及津莊舩一艘迎於海浦磐金問之曰是舩者何國迎舩對曰新羅舩也磐金亦曰曷無任那之迎舩即時更爲任那加一舩其新羅以迎舩二艘始于是時歟自春至秋霖雨大水五穀不登焉

三十一年の秋七月に、新羅は、大使の奈末の智洗爾を派遣して、任那の、達率の奈末の智を派遣して、一緒に来朝した。それで佛像一具と金の塔と仏の骨を貢上した。また最上位に就任する時に使用する大きな幡一具と小さい幡十二條献上した。それで佛像を葛野の秦の寺においた。残りは佛の骨と金塔と最上位に就任する時に使用する幡を、みな四天王寺に納めた。この時に、大唐の学生の僧の惠齊と惠光と医師の惠日と福因達が、一緒に智洗爾達と一緒にやって来た。そこで、惠日達は、「唐国に留る学生は、皆、学んで業績を残したので召喚すべきだ。またあの大唐国は、儀礼などの決まりまでを含めて決めた珍しい国です。ずっと目標にすべきだ」と習ったことを奏上した。この歳に、新羅が任那を伐った。任那が、新羅についた。それで、天皇が、丁度新羅を討とうとした。大臣が役人と相談した。田中の臣が「すぐに討ってはいけない。まず状況を調べて、逆らうと解った後で討っても遅くはない。お願いですから試しに、使者を派遣してそのなりゆきを見るべきだ」と答えた。中臣の連の國が、「任那は、はじめから我が国の内官家だ。今、新羅の人伐って取り返そう。おねがいです、軍隊を用心して派遣して新羅を征伐して、任那を取り返して、百濟に付属させるべきだ。どちらかといえば新羅に有っても益が無い」と言った。田中臣が「だめだ。百濟はいつも附いたり離れたりする国だ。一緒に歩いている間でも騙す。大体百済が願うどれも良くない。それで、百濟に附けてはだめだ」と言った。それで討たなかった。そこで吉士の磐金を新羅に派遣し、吉士の倉下を任那に派遣して、任那の事情を調べさせよう。その時に新羅の国の主が、八人の高官を派遣して、新羅国の事情を磐金に説明した。また任那の国の事情を倉下に説明した。それで約束させて、「任那は小いき国だが、天皇の従属国だ。どうして新羅に簡単に与えられるか。ずっと内の官家と定め、頼むから煩わせるな」と言った。それで奈末の智洗遲を派遣して、吉士の磐金の副官にした。また任那人の達率の奈末の遲を吉士の倉下の副官にした。それで両国の年貢を貢上した。しかし磐金達がまだ帰らない、その年に、大徳の境部の臣の雄摩侶と小徳の中臣の連のを大將軍にした。小徳の河邊の臣禰受と小徳の物部の依網の連の乙等と小徳の波多の臣の廣庭と小徳の近江の脚身の臣の飯蓋と小徳の平群の臣の宇志と小徳の大伴の連と小徳の大宅の臣の軍を副將軍にした。数万の兵を率いて、新羅を征討した。その時、磐金達は、一緒に港に集まって、出港しようと風波の時季を待った。そこで、船団が、海が隠れるほど多くやってきた。両国の使者は、見渡して非常におどろいた。それで途中で帰ってしまった。さらに堪遲の大舍を代わりに、任那の年貢の使者として貢上した。そこで、磐金達は相談して、「前の約束破ったので軍を起こした。これで任那の事は、今回もだめだった」と言った。それで出港して渡った。まず將軍達は、はじめ、任那に着いて討議して、新羅を襲撃しようとした。そこで、新羅国の主は、軍隊がたくさんやってきたと聞いて、軍が侵攻する前にびくついて服従すると願い出た。その時に將軍達は、協議して上表して天皇がそれを聞き入れた。冬十一月に、磐金と倉下達は、新羅から帰った。その時に大臣は、その状況を問いただした。「新羅は、命令を聞いて、驚いて懼っていました。一緒に使者を専任して、それで両国の年貢を貢上しました。しかし船団がやってくるのを見て、朝貢の使者が、また帰ってしまった。ただし年貢だけは貢上した」と答えた。そこで大臣が「なんと悔しい、軍隊の派遣が早かった」と言った。当時の人は、「この戦争は、境部の臣と阿曇の連が、先にたくさん新羅の贈物を貰ったから、大臣に勧めた。これで、使者の本旨を聞かずに、早く征伐の命令を下した」と言った。はじめ、磐金達が、新羅に渡った日、港に着た頃に、使者の飾りがある船一艘を、海の入江で迎れた。磐金が「この船は何処の国の出迎えの船だ」と問いただした。「新羅の船だ」と答えた。磐金がまた「なぜ任那の迎えの船が無い」と言った。その時に、さらに任那の為に一船を加えた。新羅の迎えの船を二艘にしたのはこの時からだ。春から秋までに、幾日も雨が降り続いて洪水があった。五穀は実らなかった。】とあり、朔表記が無かった。

2020年8月28日金曜日

最終兵器の目 推古天皇13

  『日本書紀』慶長版は

二十九年春二月已丑朔癸巳半夜厩戸豊聰耳皇子命薨于斑鳩宮是時諸王諸臣及天下百姓悉長老如失愛兒而塩酢之味在口不嘗少幼者如亡慈父母以哭泣之聲滿於行路乃耕夫止耕舂女不杵皆日月失輝天地既崩自今以後誰恃哉是月葬上宮太子於磯長陵當是時髙麗僧恵慈聞上宮皇太子薨以大悲之爲皇太子請僧而設齋仍親說經之日誓願曰於日本國有聖人曰上宮豊聰耳皇子固天欣縱以玄聖之德生日本之國苞貫三統纂先聖之宏猷恭敬三寶救黎元之厄是實大聖也今太子既薨之我雖異國心在斷金其獨生之有何益矣我以來年二月五日必死因以遇上宮

太子於淨土以共化衆生於是恵慈當于期日而死之是以時人之彼此共言其獨非上宮太子之聖恵慈亦聖也是歲新羅遣奈末伊彌買朝貢仍以表書奏使旨凢新羅上表蓋始起于此時歟

【二十九年の春二月の朔が己丑の癸巳の日に、夜半になって廐戸の豐聰耳の皇子の命が、斑鳩の宮で薨じた。この時に、諸王と諸臣及び天下の百姓が、のこらず、長老が愛しい子を失ったように、塩や酢を口に入れても味が解らなかった。幼子は慈しんでくれる父母を亡った様で、泣き叫ぶ声が町中で聞こえた。それで耕す農夫は鋤を使うことを止め、うすで穀物をつく女にも杵の音は無かった。皆が「日月の輝を失って、天地が壊れてしまった。これからは誰に頼ればいいのか」と言った。この月に、上宮の太子を磯長の陵に葬った。この時に、高麗の僧の慧慈が、上宮の皇太子が薨じた聞いて、とても悲しんだ。皇太子の為に、僧に頼んで祭壇を設けて自分で経を説法した日に、誓い願って、「日本国に聖人がいた。上宮の豊聰耳の皇子という。とても天子がよろこんで引き連れて深く崇められる品性を持って日本の国に生まれた。天と地と人を包み込み通して、前の聖人の考えを受け継ぎ、佛と佛の教えと僧侶を礼儀正しく敬意を払って、庶民の災難を救った。これが本当の偉大な聖人だ。今、太子はもう薨じた。私は、国が違っても、心は金をも断ち切るほどのかたい友情がある(斷金:周易繫辭上「二人同心其利斷金」)。それなのに一人で生きていて何になる。私は来年の二月の五日にきっと死ぬだろう。それで上宮の太子と淨土で会って、共に生まれ代わって次の世でも生きたい」と言った。そして、慧慈は、約束した日になって死んだ。これで、当時の人は誰も彼もみんな、「上宮の太子一人が聖人ではない。慧慈も聖人だ」と言った。この歳、新羅が、奈末の伊彌買を派遣して朝貢した。それで上表文で使いの本旨を奏上した。おそらく、新羅が上表文を奏上したのはこれが初めてだ。」】とあり、標準陰暦と合致する。

この太子の死は『舊事本紀』の「廾九年春二月己丑朔癸巳夜半皇太子」と同じなのだから贄古の死去を述べているが、贄古は石上神宮の主だが元号に僧要があり、仏教の素養があるようで、慧慈が帰国したのは『上宮聖徳法王帝説』に「戊申始僧住」と648年から慧慈が寺に住みその後に帰国したのだから、651年死去なら符合する。

『日本書紀』と『上宮聖徳法王帝説』は『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』の上宮法皇を聖徳太子のこととしているが、上宮法皇は「辛巳十二月鬼前太后崩明年正月廿二日上宮法皇・・・二月廿一日癸酉王后即世翌日法皇登遐」と622年2月22日死亡で、『日本書紀』や『舊事本紀』の621年2月5日と一致せず、法皇は太子が出家した地位ではなく皇帝が出家した地位で、上宮法皇の母が太后で皇太后とは異なり、法皇の妻は王后で大王の后で天皇の后の皇后とは共に一段の地位の差がある。

そして、新羅の上表文は『三国史記』の611年眞平王三十三年「王遣使隋奉表請師隋煬帝許之 行兵事在高句麗紀」と隋の煬帝に提出しているので、法興帝の29年の619年の可能性が高く、新羅は俀国と同盟しているので、よく符合する。

2020年8月26日水曜日

最終兵器の目 推古天皇12

   『日本書紀』慶長版は

「二十四年春正月桃李實之三月掖玖人三口歸化夏五月夜句人七口來之秋七月亦掖玖人二十口來之先後幷三十人皆安置於朴井未及還皆死焉秋七月新羅遣奈末竹世士貢佛像二十五年夏六月出雲國言於神戸郡有瓜大如(?)是歲五穀登之二十六年秋八月癸酉朔髙麗遣使貢方物因以言隋煬帝興三十萬衆攻我返之爲我所破故貢獻俘虜貞公普通二人及鼓吹弩(?)石之類十物幷土物駱(?)一疋是年遣河邊臣(闕名)於安藝國令造舶至山覔舶材便得好材以各將伐時有人曰霹靂木也不可伐河邊臣曰其雖雷神豈逆皇命耶多祭幣帛遣人夫令伐則大雨雷電之爰河邊臣案剱曰雷神無犯人夫當傷我身而仰待之雖十餘霹靂不得犯河邊臣即化少魚以挾樹枝即取魚焚之遂脩理其舶二十七年夏四月已亥朔壬寅近江國言於蒲生河有物其形如人秋七月攝津國有漁父沈罟於堀江有物入罟其形如兒非魚非人不知所名二十八年秋八月掖玖人二口流來於伊豆嶋冬十月以砂礫葺檜隈陵上則域外積土成山仍毎氏科之建大柱於土山上時倭漢坂上直樹柱勝之太髙故時人号之曰大柱直也十二月庚寅朔天有赤氣長一丈餘形似碓尾是歲皇太子嶋大臣共議之錄天皇記及國記臣連伴造國造百八十部幷公民等本記」

【二十四年の春正月に、 桃とすももが実った。三月に、掖玖の人三人が、帰化した。夏五月に夜勾(掖玖)の人が七人やってきた。秋七月に、また掖玖の人が二十人がやってきた。先後あわせて三十人だ。皆、朴井に住まわせた。帰らず皆死んだ。秋七月に、新羅が、奈末の竹世士を派遣して、佛像を貢上した。二十五年の夏六月に、出雲国が「神戸の郡に瓜が出来た。大きさがほとぎ(徳利の様)のようだ」と言った。この歳は、五穀みなよく実った。二十六年の秋八月の癸酉が朔の日に、高麗が、使者を派遣して方物を貢上した。それで「隋の煬帝が、三十萬の兵を興して私を攻めて来た。反対に私が打ち破りました。それで、捕虜の貞公と普通の二人と、鼓と吹物と石弓と投石器の類を十種、併せて土産物と駱駝一匹を献上する」と言った。この年に、河邊の臣を安芸の国に派遣して、大形の船を造らせた。山に行って大型船の材料を求めた。すぐに良い材料を見つけて伐った。その時ある人が「雷を呼ぶ樹だから伐ってはいけない」と言った。河邊の臣が「それが雷の神といっても天皇の命令に逆らえない」と言って、たくさん神前に供物を供えて、人夫を派遣して伐らせた。すると大雨が降って、稲妻が走って雷鳴がした。そこで河邊の臣は、剱で安心させて、「雷の神よ、人夫を罰してはいけない。私の体を傷つけろ」と言って、天を仰いで待ち受けた。十回以上稲妻と雷鳴があったが、河邊の臣を罰することが出来なかった。それで河邊の臣に変えて少い魚を、樹の枝に挟み、その魚を取って焼いた。それでその大型の船を造った。二十七年の夏四月の朔が己亥の壬寅の日に、近江の国が「蒲生の河に人の形をした物が有る。」と言った。秋七月に、摂津の国に漁師がいて、網を堀江に沈めた。物が有って網に入った。その形は子供の様だった。魚でも人でも無く名前が解らなかった。二十八年の秋八月に、掖玖の人が二人、伊豆の嶋に流れ着いた。冬十月に、砂と小石を桧隈の陵の上に葺いた。それで域外に土を積んで山にした。それで氏毎に分担させて、大きな柱を土の山の上に建てた。その時に倭の漢の坂上の直が建てた柱は、とても太くて高かった。それで、当時の人は大柱の直と名付けた。十二月の庚寅が朔の日に、天に彗星が有った。長さ一丈余り。形は雉の尾羽に似ていた。この歳に、皇太子と嶋の大臣は一緒に相談して、天皇記と国記と、臣と連と伴造と国造の百八十の部と併せて公民達の由来書を記録した。】とあり、標準陰暦と合致する。

掖玖の帰化は629年即位の推古24年で652年のことで舒明天皇二年の「九月是月田部連等至自掖玖」、翌年舒明天皇三年「二月辛卯朔庚子掖玖人歸化」と記述され、俀国に掖玖人が5月と7月に来たので9月畿内に連れて行ったことを示し、安閑天皇二年「詔置國國犬養部・・・詔櫻井田部連縣犬養連難波吉士等主掌屯倉之税各国に犬養部を置いて屯倉の徴税を任せたが、田部連と難波吉士だけ別に任命され、難波吉士は俀国側の人物なのだから、田部連も俀国側の人物の可能性が高い。

高句麗記事は、『三国史記』に598年嬰陽王九年「王率靺鞨之衆萬餘侵遼西營州摠管韋冲撃退之隋文帝聞而大怒命漢王諒王世積並爲元帥將水陸三十萬來伐」、『隋書』598年「高祖十八年二月甲辰幸仁壽宮乙巳以漢王諒為行軍元帥水陸三十萬伐高麗」と隋が30萬の派兵を行っていて、高句麗は、推古天皇九年「遣大伴連囓于高麗遺坂本臣糠手于百濟以詔之曰急救任那」と日本・百済・高句麗は同盟関係で、崇峻天皇即位前紀に「倶率軍旅進討大連大伴連噛阿倍臣人平群臣神手坂本臣糠手」と守屋に対抗し、この記事は先代の馬子の記事と思われる。

『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』に「池邊大宮治天下天皇大御身勞賜時歳次丙午年」と646年に池邊大宮治天下天皇の容体が悪化して、像を造ったが「崩賜造不堪」と間に合わなかったと記述され、647年に天皇が交替し、新しい天皇が「常色」と改元して御井夫人の権威を奪っている様にも見えるが、常色5年が御井夫人の皇后就任から29年になり、贄古が72歳で650年に天皇記や国記などを編纂し、翌年29年で『舊事本紀』が終わっていることから『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』と同じように贄古と御井夫人が同時に薨去して法興帝の説話を流用したのだろうか。


2020年8月24日月曜日

最終兵器の目 推古天皇11

  『日本書紀』慶長版は

二十一年冬十一月作掖上池畝傍池和珥池又自難波至京置大道十二月庚午朔皇太子遊行於片岡時飢者臥道垂仍問姓名而不言皇太子視之與飲食即脱衣裳覆飢者而言安臥也則歌之曰斯那提流箇多烏箇夜摩爾伊比爾惠弖許夜勢屢諸能多比等阿波禮於夜那斯爾那禮奈理雞迷夜佐湏陀氣能枳弥波夜那祗伊比爾惠弖許夜勢留諸能多比等阿波禮辛未皇太子遣使令視飢者使者還來之曰飢者既死爰皇太子大悲之則因以葬埋於當處墓固封也數日之後皇太子召近習先者謂之曰先日臥于道飢者其非凢人爲必真人也遣使令視於是使者還來之曰到於墓所而

視之封埋勿動乃開以見屍骨既空唯衣服疊置棺上於是皇太子復返使者令取其衣如常且服矣時人大異之曰聖之知聖其實哉逾惶二十二年夏五月五日藥獦也六月丁卯朔已卯遣犬上君御田鍬矢田部造(闕名)於大唐秋八月大臣臥病爲大臣而男女幷一千人出家二十三年秋九月犬上君御田鍬矢田部造至自大唐百濟使則從犬上君而來朝十一月巳丑朔庚寅饗百濟客癸卯髙麗僧恵慈歸于國

【二十一年の冬十一月に、掖上の池と畝傍の池と和珥の池を作った。また難波から京に至るまでの大道を作った。十二月の庚午が朔の日に、皇太子が片岡に行脚した。その時に飢えた者が、

道の辺鄙な所に俯せになっていた。それで姓名を問いただした。しかし言わなかった。皇太子は、それを見て飲食を与えた。それで衣裳を脱いで、飢えた者を覆って、「安らかに休め」と言った。それで歌った()辛未の日に、皇太子は、使者を派遣して飢えた者のその後を調べさせた。

使者は帰って来て、「飢えた者はもう死んだ」と言った。そこで皇太子は、とても悲しんだ。そのためそこに葬り墓を突き固めた。数日後に、皇太子は、傍に学問を習っている者を呼んで、「先日、道に倒れて飢えた者は、普通の人ではない。きっと仙人にちがいない」と言って、使者を派遣して調べさせた。そこで、使者が、帰って来て、「墓にいってみたら、突き固めて埋めた所に変化が無かった。それで開いてみたら、遺骸は無かった。ただ衣服だけたたんで棺の上に置かれていた」と言った。そこで、皇太子は、また使者を引き返させて、その衣を取ってこさせた。いつものように変わらずに着てみた。当時の人はとても奇妙に思って、「聖人は聖人を知るというのは、本当のことだ」と言って、ますます尊敬された。二十二年の夏五月の五日に、薬草探しをした。六月の朔が丁卯の己卯の日に、犬上の君の御田鍬と矢田部の造を大唐に派遣した。秋八月に、大臣が、病に臥った。大臣の為に、男女併せて千人が、出家した。二十三年の秋九月に、犬上の君の御田鍬と矢田部の造が、大唐から帰った。百済の使者が、それで犬上の君に従って、来朝した。十一月の朔が己丑の庚寅の日に、百済の客を饗応した。癸卯の日に、高麗の僧の慧慈が国に帰った。】とあり、標準陰暦と合致する。

犬上君は舒明天皇二年に「以大仁犬上君三田耜大仁藥師惠日遣於大唐・・・庚子饗高麗百濟客於朝・・・三年春二月辛卯朔庚子掖玖人歸化」と記述され、俀国の位大仁の官位を持ってすなわち、俀国の記事に出ているのだから、俀国が唐に遣使を出し、高句麗と百済が来日した629年即位の推古天皇の23年651年の記事と思われ、651年が舒明2年にあたる650年即位の舒明天皇に割り当てた俀国王が存在することを示している。

惠慈は推古天皇三年「高麗僧惠慈歸化則皇太子師之」、推古天皇四年「惠慈惠二僧始住於法興寺」、推古天皇二三年「高麗僧惠慈歸于國」と『日本書紀』に記述されるが、法興寺の建立は629年頃以降で、『上宮聖徳法王帝説』裏書に「注云辛丑年始平地癸卯年立金堂之戊申始僧住」と641年に建立のため土地を整備して、643年に金堂が建ち、648年から僧が住んだと記述し、「己酉年三月廿五日大臣遇害」と649年に大臣に害が及んだと記述され大化五年「三月乙巳朔辛酉阿倍大臣薨」と『日本書紀』にも大臣薨去が記されている。

庚戌春三月學問尼善信等自百済還住櫻井寺」が650年ならこの時の学問僧が持統五年「書博士百濟末士善信銀人廿両」と691年に褒美をもらっても年齢的に650年10代なら691年は50代で全く矛盾が無く、従って、 推古天皇二三年の惠慈帰国は629年即位の推古天皇で、651年に帰国していて、聖徳太子とは無関係である。

『日本書紀』の推古・舒明紀を記述する時656年に完成した『隋書』、622年以降に造られた『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』、もしかしたら、667年に奉納された『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』をみて記述し、それを見て、『上宮聖徳法王帝説』を記述しており、『日本書紀』と同じで当然で、違うところに真実が隠されていると考えるべきだ。

2020年8月21日金曜日

最終兵器の目 推古天皇10

 

   『日本書紀』慶長版は

二十年春正月辛巳朔丁亥置酒宴群卿是日大臣上壽歌曰夜湏(?)志斯和餓於朋耆(?)

訶句理摩湏阿摩能椰蘇河礙異泥多多湏(?)蘇羅烏(?)禮麼豫呂豆余珥訶句志茂餓茂知余珥茂訶句志茂訶之胡(?)弖菟伽陪摩都羅武烏呂餓(?)弖菟伽陪摩都羅武宇多豆紀摩都流天皇和曰摩蘇餓豫蘇餓能古羅破宇摩奈羅摩辟武伽能古摩多智奈羅磨句禮能摩差比宇倍之訶茂蘇餓能古羅烏於朋枳(?)能菟伽破湏羅志枳二月辛亥朔庚午改葬皇太夫人堅塩媛於檜隈大陵弟一是日誄於輕街第一阿倍內臣鳥誄天皇之命則奠靈明器明衣之類万五千種也弟二諸皇子等以次第各誄之弟三中臣宮地連烏摩侶誄大臣之辞弟四大臣引率八腹臣等便以境部臣摩理勢令誄氏姓之本矣時人云摩理勢烏摩侶二人能誄唯鳥臣不能誄也夏五月五日藥獦之集于羽田以相連參趣於朝其裝束如菟田之獵是歲自百濟國有化來者其面身皆斑白若有白癩者乎惡其異於人欲棄海中嶋然其人曰若惡臣之斑皮者白斑牛馬不可畜於國中亦臣有小才能構山岳之形其留臣而用則爲國有利何空之棄海嶋耶於是聽其辞以不弃仍令構湏彌山形及吳橋於南庭時人号其人曰路子工亦名芝耆摩呂又百濟人味摩之歸化曰學于吴得伎樂儛則安置櫻井而集少年令習伎樂儛於是真野首弟子新漢濟文二人習之傅其儛

【二十年の春正月の朔が辛巳の丁亥の日に、酒宴を開いて役人に振る舞った。この日に、大臣は、天皇の長寿を祝って歌を奏上した()歌を献上されて天皇が返して歌った()、二月の朔が辛亥の庚午の日に、皇太夫人の堅鹽媛を桧隈の大陵に改めて(?始めての)埋葬をした。この日に、軽の街中で哀悼した。一番目に阿倍の内の臣の鳥が、天皇の命令で哀悼した。それで霊に供え物をした。生前使用していた器や衣装など、一萬五千種だった。第二に諸々の皇子達が、順番に各々哀悼した。第三に中臣の宮地の連の烏摩侶が、大臣代読をして哀悼した。第四に大臣が、八人の腹心を引き連れて、境部の臣摩理勢に、氏姓の由来からはじめて哀悼した。当時の人は「摩理勢と烏摩侶の二人はうまく哀悼したが、鳥の臣だけ哀悼できなかった」と言った。夏五月の五日に、薬草探しをして、羽田に集って、連れ立って朝廷に参内した。その裝束は、菟田の狩人のようだった。この歳に百済国から帰化する者がいた。その顔や体がところどころ白かった。もしかしたらハンセン氏病か。その人が異様なことを嫌って、黄海の嶋に放置した。しかしその人が「もし私のまだらの皮膚が嫌なら、まだらの牛馬を、国中で飼うのはおかしい。また私は、すこし才能が有る。上手に山岳の形状を写し取る。それで私を留めて用いれば、国の為になる。どうして簡単に海の嶋に置き去るのか」と言った。それで、その言葉を聞き、置き去りにせず、須彌の山を写し取ってそして呉橋を南の庭に築くよう命じた。当時の人は、その人を、路子の技術者と名付けた。またの名は芝耆摩呂という。また百済人の味摩之が帰化した。「呉に学んで、能に似た舞を取得した」と言った。それで櫻井に住まわせて、少年を集めて、能に似た舞を習わせた。そこで、眞野の首の弟子と新の漢の濟文の、二人が、習ってその舞を伝えた。】とあり、正月辛巳朔は12月30日で12月が小の月なら標準陰暦と合致し、他は標準陰暦と合致する。

歌の中で推古天皇が大臣を「於朋枳(?)」、大臣が推古天皇を「於朋耆(?)」とともに大王と呼んでいるが、允恭天皇元年などの「大王辭而不即位」と雄朝津間稚子宿禰大王が天皇に即位しないと記述するように、皇太子は大王、仁徳天皇前紀にも「大王者風姿岐嶷」と皇太子でなくとも大王で、大臣は皇位を簒奪する次の王朝の王もしくは前王朝の皇太子で、大王が天皇に即位する。

従って、この長寿を祝って貰っている推古天皇は天皇とは別の人物だが、俀国王20年は40歳代で長寿とは言えず、前天皇の崇峻天皇の御井夫人の可能性があり、贄子は蝦夷の義父でその妻が御井夫人で 629年即位の推古天皇20年は649年で贄子の還暦の祝の可能性がある。

堅鹽媛の改葬とあるが、改葬なのに街中で哀悼を表明するなどと言うのは異様で、実際の葬儀の記述で、629年に即位した推古天皇が崩じたことを意味し、日本の天皇制は皇太后が一番重要で、綏靖天皇元年「尊皇后曰皇太后」、安寧天皇元年「尊皇后曰皇太后」といつも元年に前皇后を皇太后に就任させていた。

しかし、敏達天皇元年「尊皇后曰皇太后」以降に記述されず、推古天皇が皇太后の役割を担った、すなわち、堅鹽媛の宮が額田部の宮、堅鹽媛が初代豊御食炊屋姫で39歳の時629年に推古朝が始まり、「豊御食炊屋姫天皇・・・幼曰額田部皇女」と2代目豊御食炊屋姫・3代目は小墾田皇女・・・天武天皇二年「娶鏡王女額田姫王」と鏡王・・・『粟原寺鑪盤銘』に「此粟原寺者仲臣朝臣大嶋・・・日並御宇東宮故造伽檻之爾故比賣朝臣額田以甲午年始」と文武天皇の母も額田姫で、その1代目の堅鹽媛が亡くなった記事と考えられる。

そして、堅鹽媛が皇太后では無いのだから、皇太后は御井夫人の穴穗部間人で、623年から647年まで飛鳥天皇や天皇の象徴となる皇太后に準ずる堅鹽媛が亡くなっても元号が変わらず、御井夫人の長寿の祝をしているその頃に元号が命長と命名されていて、623年に長男が13歳に達していないから守屋が皇太子になったことから、穴穗部間人は30余歳程度で20年後は50余歳で人生50年時代では長寿の部類だ。

そして御井夫人の夫は『舊事本紀』「石上贄古連公・・・小治田豐浦宮御宇天皇御世爲大連奉齋神宮」と神宮を祀り、神道の最高権威者が元号を制定しもう一人の皇太子の贄古が命長元年の前年の639年の贄子20年で還暦を迎えて祝い、妻の御井夫人が命長と翌年改元した可能性がある。

2020年8月19日水曜日

最終兵器の目 推古天皇9

 『日本書紀』慶長版は

十八年春三月髙麗王貢上僧曇徵法定曇徵知五經且能作彩色及紙墨幷造碾磑蓋造碾磑始于是時歟秋七月新羅使人沙㖨部奈末竹世士與任那使人㖨部大舍首智買到于筑紫九月遣使召新羅任那使人冬十月已丑朔丙申新羅任那使人臻於京是日命額田部連比羅夫爲迎新羅客莊馬之長以膳臣大伴爲迎任那客莊馬之長即安置阿斗河邊館丁酉客等拜朝庭於是命秦造河勝土部連菟爲新羅導者以間人連鹽蓋阿閇臣大籠爲任那導者共引以自南門入之立于庭中時大伴咋連蘇我豊浦蝦兩臣坂本糠手臣阿倍鳥子臣共自位起之進伏于庭於是兩國客等各再拜以

奏使旨乃四大夫起進啓於大臣時大臣自位起立廳前而聽焉既而賜祿諸客有差乙巳饗使人等於朝以河內漢直贄爲新羅共食者錦織首久僧爲任那共食者辛亥客禮畢以歸焉十九年夏五月五日藥獦於菟田野取鶏鳴時集于藤原池上以會明乃往之粟田細目臣爲前部領額田部比羅夫連爲後部領是日諸臣服色皆隨冠色各著髻花則大德小德並用金大仁小仁用豹尾大禮以下用鳥尾秋八月新羅遣沙㖨部奈末北叱智任那遣習部大舍親智周智共朝貢

【十八年の春三月に、高麗の王が、僧の曇徴と法定を貢上した。曇徴は五経を知っていた。また上手に色をつけたり紙に墨で字を書き、一緒に水車を造った。おそらく、この時から水車が始まったのだろうか。秋七月に、新羅の使者の沙㖨部の奈末と竹世士が、任那の使者の㖨部の大舍の首の智買とが、筑紫にやってきた。九月に、使者を派遣して新羅と任那の使者を呼び寄せた。冬十月の朔が己丑の丙申の日に、新羅と任那の使者が、京に集まった。この日に、額田部の連の比羅夫に命令して、新羅の客を迎える儀礼の装飾をした馬の先導者にした。膳の臣の大伴を、

任那の客を迎える儀礼の装飾をした馬の先導者にした。それで阿斗の河邊の館に停めた。丁酉の日に、客達が、朝庭を礼拝した。そこで、秦の造の河勝と土部の連の菟に命じて、新羅の案内人とした。間人の連の鹽蓋と阿閉の臣の大篭を、任那の案内人にした。共に引率して南の門から入って、庭中に立った。その時に大伴の咋の連と蘇我の豊浦の蝦夷の臣と坂本の糠手の臣と阿倍の鳥子の臣が、共に指定席を立って、進め出て庭で頭をさげて座った。そこで、二国の客達は、各々2回頭を下げて、使い本旨を奏上した。それで四人の高官が、立ち上がって進み大臣に説明し、その時、大臣は、指定席から立ち上がって、執務する場の前に立って聞いた。それで夫々の客に贈り物を与えた。各々に差が有った。乙巳の日に、使者達を朝廷で饗応した。河内の漢の直の贄に新羅の饗応の接待をさせた。錦織の首の久僧に任那の饗応の接待をさせた。辛亥の日に、客達の儀式が終わって、帰った。十九年の夏五月の五日に、菟田野で薬草を探し取った。明け方に、藤原の池の上に集って。日が昇ったら出かけた。粟田の細目の臣を先頭に、額田部の比羅夫の連をしんがりにした。この日に、諸臣の着物は、皆、冠の色に揃えた。各々、かんざしを挿した。それで大徳と小徳は同じように金を用い、大仁と小仁は豹の尾を用い、大禮から下は鳥の尾を用いた。秋八月に、新羅は、沙㖨部の奈末の北叱智を派遣して、任那が、習部の大舍の親智周智を派遣して、共に朝貢した。】とあり、十月己丑朔は10月2日で9月が小の月なので、大の月なら標準陰暦と合致する。

十九年夏五月五日」と現代調の日付を記述しているが、後も20年の5月5日、22年5月5日で藥獵の記事で、欽明天皇十五年の「百濟遣下部杆率將軍三貴・・・奉勅貢易博士施徳王道良暦博士固徳王保孫醫博士奈率王有悛陀採藥師施徳潘量豊」のように藥師と一緒に暦博士が貢上されたから記述されたようで、これらの記事は贄子の記事の可能性が高い。

このような日付は『梁書』の武帝二年「今月十五日」と会話に出現し、『陳書』の高祖二年「今月五日」と文中で使われ、559年に成立した『魏書』の405年太祖天賜二年「夏四月庚申・・・六月・・・三十日罷」、444年世祖太平真君五年に「春正月壬寅・・・限今年二月十五日」と5世紀には使われ始め欽明天皇の頃には文字で文化人が知っていた。

ただし、『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』に「明年正月廿二日上宮法皇枕病弗悆・・・二月廿一日癸酉」、『船王後墓誌』に「辛丑十二月三日庚寅」、『野中寺 銅造弥勒菩薩半跏思惟像 本像台座の框』「丙寅年四月大旧八日癸卯」と新しい暦法を使用しており、技術者は新しい暦法を使っていたが記録には『船王後墓誌』に「辛丑十二月三日庚寅」のように書かれて史書に矛盾が現れるのを避けて使用しなかったのか、それとも、統一したのか。

『隅田八幡神社人物画像鏡』の「癸未年八月日十大王」は10日なら「八月十日」と書きここでは「人大王」のことである。

秦造河勝は皇極天皇三年に出現し、629年が元年の推古朝の647年で『三国史記』義慈王七年「冬十月將軍義直帥步騎三千進屯新羅茂山城下分兵攻甘勿·桐岑二城新羅將軍庾信親勵士卒决死而戰大破之義直匹馬而還」と百済の大敗に関して、後ろ盾の倭国日本と話し合いがあった可能性があるから蝦夷が出席したのであり、新羅側に俀国がいて、新羅を守ったのである。

そして、この朝貢は俀国への朝貢で、5月の行列は薬草狩りなどは俀国の戦勝行列で、粟田臣も白雉元年以降に登場し、天智天皇の配下で、推古天皇十一年の官位12階記事に「並以當色併縫之頂撮總如嚢而著縁焉唯元日著髻華」とあるが、すでに、608年の推古天皇十六年「裴世清・・・大伴囓連迎出・・・金髻華著頭亦衣服皆用錦紫繍織及五色綾羅」と髻華を挿し祝の行列に簪を挿す風習が現れていて、 この裴世清記事は631年の唐の来日の記述と思われる。

2020年8月17日月曜日

最終兵器の目 推古天皇8

 『日本書紀』慶長版は

十七年夏四月丁酉朔庚子筑紫大宰奏上言百濟僧道欣惠?()爲首一十人俗七十五人泊于肥後國葦北津是時遣難波吉士德摩呂舩史龍以問之曰何來也對曰百濟王命以遣於吳國其國有亂不得入更返於本鄕忽逢暴風漂蕩海中然有大幸而泊于聖帝之邊境以歡喜五月丁卯朔壬午德摩呂等復奏之則返德摩呂龍二人而副百濟人等送本國至于對馬以道人等十一皆請之欲留乃上表而留之因令住元興寺秋九月小野臣妹子至自大唐唯通事福利不來

【十七年の夏四月の朔が丁酉の庚子の日に、筑紫の大宰が、「百済の僧の道欣と惠祢が上の位の者となって僧が十人、仏門に入らない者が七十五人をつれて、肥後国の葦北の津に停泊している」と奏上した。この時に、難波の吉士の徳摩呂と船の史の龍を派遣して、「どうして来たか」と問いかけた。「百済の王が、命令して呉国に派遣した。その国が乱れて入国出来なかった。それで本国に帰ろうとした。急に暴風に逢って、黄海に漂流した。しかしとても幸運なことに、聖帝の国のはずれに停泊できた。それで喜んでいる」と答えた。五月の朔が丁卯の壬午の日に、徳摩呂達は、復命を奏上した。それで徳摩呂と龍、二人を返して、百済の人達に付き添わせて、本国に送り返した。対馬について、道士達十一人が、皆留まることを願い出た。それで上表を記してとどまらせた。それで元興寺に住んでいる。秋九月に、小野の臣の妹子達が、大唐から帰った。ただし通訳の福利だけ来なかった。】とあり、標準陰暦と合致する。

この百済僧の漂流は、敏達天皇立太子の俀国王17年のことで、『三国史記』の571年威德王 十八年「高齊後主又以王爲使持節都督東靑州諸軍事東靑州刺史」の朝貢の帰りの事で、「十九年遣使入齊朝貢」、「二十四年秋七月遣使入陳朝貢・・・十一月遣使入宇文周朝貢」、「二十五年遣使入宇文周朝貢」、「二十八年王遣使入隋朝貢」と毎年のように異なる王朝に朝貢して、「吳國其國有亂」と符合している。

そして、この残った百済僧によって、『隋書』の「敬佛法於百濟求得佛經始有文字」で欽明天皇十三年に「百濟聖明王・・・稻目宿祢試令禮拜大臣跪受而忻悅安置小墾田家」と百済仏教を知り、百済僧が漂流して自分の領地にやってきたのだから強引に残るように説得したのだろう。

すると、難波の吉士は俀国の臣下で難波は筑紫の難波ということが解り、これまで出てきた雄略天皇八年の「吉備臣小梨難波吉士赤目子徃救新羅」、安閑天皇二年「詔櫻井田部連縣犬養連難波吉士等主掌屯倉之税」、敏達天皇十三年「遣難波吉士木蓮子使於新羅遂之任那」、推古天皇六年「難波吉士磐金至自新羅而獻鵲二隻乃俾養於難波杜因以巣枝而産之」、推古天皇八年「難波吉師神於新羅復遣難波吉士木蓮子於任那並検校事状爰新羅任那王二國遣使貢調」とすべて新羅任那に関係する記事が倭国俀国記事で、『三国志』の「北岸狗邪韓國」は 任那のこと、その中に日本国の宮家の日本府が有ったことが解り、難波が筑紫の難波で、元興寺も筑紫にあった可能性がある。


2020年8月14日金曜日

最終兵器の目 推古天皇7

  今回も対唐外交の話なのでバラバラにできず、まとめて後に付加し、先に解説を記述する。

608年に『三国史記』武王九年に「春三月遣使入隋朝貢隋文林郞裴淸奉使倭國經我國南路」、推古16年608年4月の「裴世清・・・從妹子臣至於筑紫」と合致し、『隋書』に「大業三年其王多利思北孤遣使朝貢使者曰聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法」、「明年 上遣文林郎裴淸使於俀国・・・又至竹斯國又東至秦王國」と大業三年607年の上表文に怒って翌608年に裴淸を送り、筑紫と秦王國でどちらにも行っている。

そして、俀国は「此後遂絶」と国交断絶し、秦王国はこの項の内容通り、俀国に「自竹斯國以東皆附庸於俀」と思って隋の昔から朝貢していたという書簡に秦王国は隋朝貢などしていないので怒り、隋帝に秦王国へ朝貢しろと迫ったのであり、当然、俀国と同様国交を始めるはずが無い。

それに対して、『隋書』大業四年608年に裴淸と入れ違いに「三月辛酉・・・壬戌百濟倭赤土迦羅舍國並遣使貢方物」と倭が朝貢し、610年大業六年にも「己丑倭國遣使貢方物」と朝貢し、『舊唐書』に631年貞觀五年に「遣使獻方物太宗矜其道遠敕所司無令歲貢又遣新州刺史高表仁持節往撫之表仁無綏遠之才與王子爭禮不宣朝命而還」、舒明天皇五年「大唐客高表仁等歸國」がこの記事で日本国王になった倭国が秦王国と同じように高飛車になって外交を失敗したが、僧の行き来と朝鮮半島情勢もあって白雉元年「遣大唐使者持死三足烏來國人亦曰休祥斯等雖微尚謂祥物况復白雉」と白雉を送られ、『新唐書』に「改元曰白雉獻虎魄大如斗碼硇若五升器時新羅爲高麗百濟所暴高宗賜璽書令出兵援新羅」と訪日の背景が記述されている。

官位は秦王国・倭国では625年に制定したと述べているが、妹子の官位は俀国の官位で、俀国へ書簡が贈られたのだから、書簡を妹子は俀国王に提出して、秦王国王への書簡はおそらく表ではなく書簡で、百済で取られたと言っているのはおそらく百済の友好国倭国に取られたと思われ、また、隋も俀国の配下で倭国も秦王国も俀国の配下と考え、友好国は秦王国ではなく倭国に書簡を渡すよう妹子に指示していると思われるのだから妹子の行動は正当で、俀国の配下の妹子が秦王国王朝に罰せられるはずが無いのである。

629年即位の豊御食炊屋姫16年は644年で、この新羅人の帰化は『三国史記』の643年善德王十二年「秋九月遣使大唐上言高句麗百濟侵凌臣國 累遭攻襲數十城兩國連兵期之必取」と高句麗百濟に侵攻され数十城を責められて新羅人の難民が出たのだろう。

『日本書紀』慶長版は

秋七月戊申朔庚戌大禮小野臣妹子遣於大唐以鞍作福利爲通事是歲冬於倭國作髙市池藤原池肩岡池菅原池山背國掘大溝於栗隈且河內國作戸苅池依網池亦毎國置屯倉十六年夏四月小野臣妹子至自大唐々國号妹子臣曰蘇因髙即大唐使人裴世清下客十二人從妹子臣至於筑紫遣難波吉士雄成召大唐客裴世清等爲唐客更造新館於難波髙麗館之上六月壬寅朔丙辰客等泊于難波津是日以飾舩三十艘迎客等于江口安置新館於是以中臣宮地連磨呂大河內直糠手舩史王平爲掌客爰妹子臣奏之曰臣參還之時唐帝以書授臣然經過百濟國之日百濟人探以掠取是以不得上於是群臣議之曰夫使人雖死之不失旨是使矣何怠之失大國之書哉則坐流刑時天皇勅之曰妹子雖有失書之罪輙不可罪其大國客等聞之亦不良乃赦之不坐也秋八月辛丑朔癸卯唐客入京是日遣飾騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢額田部連比羅夫以告禮辭焉壬子召唐客於朝庭令奏使旨時阿倍鳥臣物部依網連抱二人爲客之導者也於是大唐之國信物置於庭中時使主裴世清親持書兩度再拜言上使旨而立之其書曰皇帝問倭皇使人長吏大禮蘇因髙等至具懷朕欽承寶命臨仰區宇思弘德化覃被含靈愛育之情無隔遐邇知皇命居海表撫寧民庶境內安樂風俗融和深氣至誠遠脩朝貢丹款之美朕有嘉焉稱暄比如常也故遣鴻臚寺掌客裴世清等稍宣往意幷送物如別時阿倍臣出進以受其書而進行大伴囓連迎出承書置於大門前机上而奏之事畢而退焉是時皇子諸王諸臣悉以金髻華著頭亦衣服皆用錦紫繡織及五色綾羅丙辰饗唐客等於朝九月辛未朔乙亥饗客等於難波大郡辛巳唐客裴世清罷歸則復以小野妹子臣爲大使吉士雄成爲小使福利爲通事副于唐客而遺之爰天皇聘唐帝其辭曰東天皇敬白西皇帝使人鴻臚寺掌客裴世清等至久憶方解季秋薄冷尊何如想清悆此即如常今遣大禮蘇因髙大禮乎那利等往謹白不具是時遣於唐國學生倭漢直福因奈羅譯語惠明髙向漢人玄理新漢人大圀學問僧新漢人日文南淵漢人請安志賀漢人恵隱漢人廣濟等幷八人也是歲新羅人多化來

【秋七月の朔が戊甲の庚戌の日に、大禮の小野の臣の妹子を大唐に派遣した。鞍作の福利に通訳させた。この歳の冬に、倭国に、高市の池と藤原の池と肩岡の池と菅原の池作った。山背の国に、用水を栗隈に堀った。また河内の国に、戸苅の池と依網の池を作った。また国毎に屯倉を置いた。十六年の夏四月に、小野の臣の妹子が大唐から帰った。唐国は、妹子臣を蘇因高と名付けた。それで大唐の使者の裴世清と下客十二人が、妹子臣について、筑紫に着いた。難波の吉士の雄成を派遣して、大唐の客の裴世清達を呼んだ。唐の客の為に、また新たな館を難波の高麗館の上に造った。六月の朔が壬寅の丙辰の日に、客達は、難波津に停泊した。この日に、客を迎える船三十艘で、客達を江口に迎えて、新たな館に案内した。そこで、中臣の宮地の連の烏摩呂と大河内の直の糠手と船史の王平に接待させた。そこで妹子臣は、「私が、帝に参内し帰る時に、唐の皇帝は、書面で私に授けた。しかし百済国を通り過ぎた日に、百済人が、探し盗ったので献上できません」と奏上した。そこで、役人が、「使者という者は死んでも、大事な物をなくさない。この使者は、どう怠ったのか、大国の書簡を失った」と話し合って言った。それで流刑となった。その時に天皇は、「妹子が、書簡を失った罪が有っても、簡単に罰してはいけない。あの大国の客達から経緯を聞くのも良くない」と詔勅した。それで赦して罰しなかった。秋八月の朔が辛丑の癸卯の日に、唐の客が、京に入った。この日に、客のために飾った馬七十五匹を派遣して、唐の客を海石榴市の儀礼の場に迎えた。額田部の連の比羅夫が、歓迎の儀礼の言葉を述べた。壬子の日に、唐の客を朝庭に召いて、使者の趣旨を奏上させた。そ時に阿倍の鳥の臣と物部の依網の連が腕を回して、二人が、客を導いた。そこに、大唐の国の印の物を朝庭の中に置いた。その時に使者の主の裴世清が、自ら書簡を持って、二回頭を下げて、使い主旨を言上して立った。その書簡に、「皇帝が、倭皇に聞きたい。使者の長官の官吏の大禮の蘇因高達が、やって来て胸の内を詳しく述べた。私は、神から天子になれとの命令を悦んで承諾して、天地四方の区切りに立って言いつけに対している。徳によって教化しようと思って、心ある者に支えられ、かわいがって育てる気持ちが人を遠ざけない。皇は、海の外に居て、世の中の人々をいたわり癒して、国内は苦痛や苦労がなく、生活の有様はうちとけて仲よく、強い心構えで偽りが無く、遠い昔から朝貢しまごころがあって見事に私を喜ばせ、心温まるのはいつもの事だ。それで、鴻臚寺の掌客の裴世清達を派遣して、すこし訪問した意味を述べる。あわせて特別な贈り物がある」とあった。その時に阿倍の臣が進み出て、その書簡を受け取る天皇のほうに進んで行った。大伴の囓の連が、迎え出て書簡を受け取って、天皇の前の机の上に置いて奏上した。書簡を置いたので退席します。この時、皇子と諸王と役人は、残らず金のかんざしを頭に挿していた。また衣服に皆、錦色や紫色の糸を縫い込んで織った着物と、五色の薄い絹を用いた着物を着た。丙辰の日に、唐の客達を朝廷で饗応した。九月の朔が辛未の乙亥の日に、客達を難波の大郡で饗応した。辛巳の日に、唐の客人の裴世清が帰った。それでまた、小野の妹子臣を大使にした。吉士の雄成を小使にした。福利を通訳にした。唐の客人につけて派遣した。そこで天皇は、唐の皇帝を招聘した。「東の天皇が、つつしんで西の皇帝にもうします。使者の鴻臚寺の接待役の裴世清達がやって来て、昔からの思いが解った。季節は秋になって、すこし涼しくなり尊い貴殿は、いかがでしょうか。清々しく楽しみたいと思うのはいつもの事です。今、大礼の蘇因高と大礼の乎那利達を派遣していかせました。つつしんで申します。不具(修辞)」と申し渡した。この時、学生の倭漢の直の福因と奈羅の通訳の惠明と高向の漢人の玄理と新の漢人の大圀と、学問僧の新の漢人の日文と南淵の漢人の請安と志賀の漢人の慧隱と新の漢人の廣濟達、併せて八人を唐の国に派遣した。この歳に、新羅人が多く帰化した。】とあり、標準陰暦と合致する。