2020年8月26日水曜日

最終兵器の目 推古天皇12

   『日本書紀』慶長版は

「二十四年春正月桃李實之三月掖玖人三口歸化夏五月夜句人七口來之秋七月亦掖玖人二十口來之先後幷三十人皆安置於朴井未及還皆死焉秋七月新羅遣奈末竹世士貢佛像二十五年夏六月出雲國言於神戸郡有瓜大如(?)是歲五穀登之二十六年秋八月癸酉朔髙麗遣使貢方物因以言隋煬帝興三十萬衆攻我返之爲我所破故貢獻俘虜貞公普通二人及鼓吹弩(?)石之類十物幷土物駱(?)一疋是年遣河邊臣(闕名)於安藝國令造舶至山覔舶材便得好材以各將伐時有人曰霹靂木也不可伐河邊臣曰其雖雷神豈逆皇命耶多祭幣帛遣人夫令伐則大雨雷電之爰河邊臣案剱曰雷神無犯人夫當傷我身而仰待之雖十餘霹靂不得犯河邊臣即化少魚以挾樹枝即取魚焚之遂脩理其舶二十七年夏四月已亥朔壬寅近江國言於蒲生河有物其形如人秋七月攝津國有漁父沈罟於堀江有物入罟其形如兒非魚非人不知所名二十八年秋八月掖玖人二口流來於伊豆嶋冬十月以砂礫葺檜隈陵上則域外積土成山仍毎氏科之建大柱於土山上時倭漢坂上直樹柱勝之太髙故時人号之曰大柱直也十二月庚寅朔天有赤氣長一丈餘形似碓尾是歲皇太子嶋大臣共議之錄天皇記及國記臣連伴造國造百八十部幷公民等本記」

【二十四年の春正月に、 桃とすももが実った。三月に、掖玖の人三人が、帰化した。夏五月に夜勾(掖玖)の人が七人やってきた。秋七月に、また掖玖の人が二十人がやってきた。先後あわせて三十人だ。皆、朴井に住まわせた。帰らず皆死んだ。秋七月に、新羅が、奈末の竹世士を派遣して、佛像を貢上した。二十五年の夏六月に、出雲国が「神戸の郡に瓜が出来た。大きさがほとぎ(徳利の様)のようだ」と言った。この歳は、五穀みなよく実った。二十六年の秋八月の癸酉が朔の日に、高麗が、使者を派遣して方物を貢上した。それで「隋の煬帝が、三十萬の兵を興して私を攻めて来た。反対に私が打ち破りました。それで、捕虜の貞公と普通の二人と、鼓と吹物と石弓と投石器の類を十種、併せて土産物と駱駝一匹を献上する」と言った。この年に、河邊の臣を安芸の国に派遣して、大形の船を造らせた。山に行って大型船の材料を求めた。すぐに良い材料を見つけて伐った。その時ある人が「雷を呼ぶ樹だから伐ってはいけない」と言った。河邊の臣が「それが雷の神といっても天皇の命令に逆らえない」と言って、たくさん神前に供物を供えて、人夫を派遣して伐らせた。すると大雨が降って、稲妻が走って雷鳴がした。そこで河邊の臣は、剱で安心させて、「雷の神よ、人夫を罰してはいけない。私の体を傷つけろ」と言って、天を仰いで待ち受けた。十回以上稲妻と雷鳴があったが、河邊の臣を罰することが出来なかった。それで河邊の臣に変えて少い魚を、樹の枝に挟み、その魚を取って焼いた。それでその大型の船を造った。二十七年の夏四月の朔が己亥の壬寅の日に、近江の国が「蒲生の河に人の形をした物が有る。」と言った。秋七月に、摂津の国に漁師がいて、網を堀江に沈めた。物が有って網に入った。その形は子供の様だった。魚でも人でも無く名前が解らなかった。二十八年の秋八月に、掖玖の人が二人、伊豆の嶋に流れ着いた。冬十月に、砂と小石を桧隈の陵の上に葺いた。それで域外に土を積んで山にした。それで氏毎に分担させて、大きな柱を土の山の上に建てた。その時に倭の漢の坂上の直が建てた柱は、とても太くて高かった。それで、当時の人は大柱の直と名付けた。十二月の庚寅が朔の日に、天に彗星が有った。長さ一丈余り。形は雉の尾羽に似ていた。この歳に、皇太子と嶋の大臣は一緒に相談して、天皇記と国記と、臣と連と伴造と国造の百八十の部と併せて公民達の由来書を記録した。】とあり、標準陰暦と合致する。

掖玖の帰化は629年即位の推古24年で652年のことで舒明天皇二年の「九月是月田部連等至自掖玖」、翌年舒明天皇三年「二月辛卯朔庚子掖玖人歸化」と記述され、俀国に掖玖人が5月と7月に来たので9月畿内に連れて行ったことを示し、安閑天皇二年「詔置國國犬養部・・・詔櫻井田部連縣犬養連難波吉士等主掌屯倉之税各国に犬養部を置いて屯倉の徴税を任せたが、田部連と難波吉士だけ別に任命され、難波吉士は俀国側の人物なのだから、田部連も俀国側の人物の可能性が高い。

高句麗記事は、『三国史記』に598年嬰陽王九年「王率靺鞨之衆萬餘侵遼西營州摠管韋冲撃退之隋文帝聞而大怒命漢王諒王世積並爲元帥將水陸三十萬來伐」、『隋書』598年「高祖十八年二月甲辰幸仁壽宮乙巳以漢王諒為行軍元帥水陸三十萬伐高麗」と隋が30萬の派兵を行っていて、高句麗は、推古天皇九年「遣大伴連囓于高麗遺坂本臣糠手于百濟以詔之曰急救任那」と日本・百済・高句麗は同盟関係で、崇峻天皇即位前紀に「倶率軍旅進討大連大伴連噛阿倍臣人平群臣神手坂本臣糠手」と守屋に対抗し、この記事は先代の馬子の記事と思われる。

『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』に「池邊大宮治天下天皇大御身勞賜時歳次丙午年」と646年に池邊大宮治天下天皇の容体が悪化して、像を造ったが「崩賜造不堪」と間に合わなかったと記述され、647年に天皇が交替し、新しい天皇が「常色」と改元して御井夫人の権威を奪っている様にも見えるが、常色5年が御井夫人の皇后就任から29年になり、贄古が72歳で650年に天皇記や国記などを編纂し、翌年29年で『舊事本紀』が終わっていることから『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』と同じように贄古と御井夫人が同時に薨去して法興帝の説話を流用したのだろうか。


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