2020年8月3日月曜日

最終兵器の目 推古天皇2

  『日本書紀』慶長版は

二年春二月丙寅朔詔皇太子及大臣令興隆三寶是時諸臣連等各爲君親之恩競造佛舍即是謂寺焉三年夏四月沈水漂着於淡路嶋其大一圍嶋人不知沈水以交薪焼於竈其烟氣遠薫則異以獻之五月戊午朔丁卯髙麗僧恵慈歸化則皇太子師之是歲百濟瑟()聡來之此兩僧弘演佛教並爲三寶之棟梁秋七月將軍等至自筑紫四年冬十一月法興寺造竟則以大臣男善德臣拜寺司是日恵慈恵聡二僧始住於法興寺五年夏四月丁丑朔百濟王遣王子阿佐朝貢冬十一月癸酉朔甲子遣吉士磐金於新羅六年夏四月難波吉士磐金至自新羅而獻鵲二?()乃俾養於難波杜因以巣枝而産之秋八月已亥朔新羅貢孔雀一?()冬十月戊戌朔丁未越國獻白鹿一頭

【二年の春二月の丙寅が朔の日に、皇太子と大臣に詔勅して三宝を興して隆盛させた。この時、

諸々の臣連達は、各々主君や親の恩に報いるため、競って祠堂を建立した。是を寺という。三年の夏四月に、沈香が淡路嶋に漂着した。その大きさは一抱()もあり、嶋の人は沈香と知らないで、薪の代わりに竃で焚いた。その烟が、遠くまで薫った。それで、奇妙に思って献上した。五月の朔が戊午の丁卯の日に、高麗の僧の慧慈が歸化した。それで皇太子は、師と仰いだ。この歳、百済の僧の慧聰が来て、この二人の僧が、佛教を広く教えて、共に三宝の指導者となった。秋七月に、將軍達が、筑紫から帰った。四年の冬十一月に、法興寺が完成した。それで大臣は男善徳の臣を別当し招聘した。この日に、慧慈と慧聰の、二人の僧が、始めて法興寺に住んだ。五年の夏四月の丁丑が朔の日に、百済の王が、王子の阿佐を派遣して朝貢した。冬十一月の朔が癸酉の甲午の日に、吉士の磐金を新羅に派遣した。六年の夏四月に、難波の吉士の磐金が、新羅から帰って、鵲を二隻献上した。それで難波の社で養わせた。それで枝に巣を造って雛を産んだ。秋八月の己亥が朔の日に、新羅は、孔雀を一隻、貢献した。冬十月の朔が戊戌の丁未の日に、越の国が、白鹿を一頭、献上した。】とあり、十一月癸酉朔は10月30日で10月が小の月なら標準陰暦と合致し、他は合致する。

競って佛舍を造ったのは『上宮聖徳法王帝説』では「有本云請願造寺恭敬三寶十三年辛丑」と辛丑641年だったのだが、実際はこれまで見たようにこの推古2年は舒明2年で630年のこととなり、『上宮聖徳法王帝説』は『日本書紀』との矛盾を全く考えずに、「池邊大宮御宇天皇大御身労賜時歳次丙午年召於大王天皇与太子而誓願賜我大御病大平欲坐故将造寺薬師像作仕奉詔然當時崩賜造不堪者小治田大宮御宇大王天皇及東宮聖徳王大命受賜而歳次丁卯年仕奉右法隆寺金堂坐薬師像光後銘文即寺造始縁由也」とある。

586年に用明天皇が病気だったので、607年推古15年に仏像を奉納と『右法隆寺金堂坐薬師像光後銘文』を流用しているが、『日本書紀』には一言も書かれておらず、推古天皇十三年「以始造銅繍丈六佛像各一躯乃命鞍作鳥爲造佛之工」、645年大化元年に「於小墾田宮御宇之世馬子宿禰奉爲天皇造丈六繍像」と用明天皇とは全く関係が無く、しかも、小墾田宮御宇天皇は皇極天皇元年「天皇遷移於小墾田宮」と642年だからだ。

また、百済の朝貢や新羅の献上品は633・4年のことで603年に日本に献上する理由が無いほど平和で、633年頃なら、632年百済武王三十三年に「秋七月發兵伐新羅不利王田于生草之原冬十二月遣使入唐朝貢」、633年武王三十四年に「秋八月遣將攻新羅西谷城十三日拔之」、

新羅善德王二年に「八月百濟侵西邊」と632年に百済が新羅を責めたが不利で唐にも朝貢した。

当然、倭国朝廷にも助けを求め、それに対して、新羅が俀国に救援を求め、その結果が献上品で 、難波吉士磐金は皇極天皇元年「遣阿曇山背連比良夫草壁吉士磐金倭漢書直縣遣百濟弔使所」とやはり百済と関係した内容で活躍していて、皇極天皇のこの記述は俀国王のことを天智天皇が記述した部分で、新羅の俀国への献上品の一部を朝廷に献上したものと思われる。


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