2020年8月21日金曜日

最終兵器の目 推古天皇10

 

   『日本書紀』慶長版は

二十年春正月辛巳朔丁亥置酒宴群卿是日大臣上壽歌曰夜湏(?)志斯和餓於朋耆(?)

訶句理摩湏阿摩能椰蘇河礙異泥多多湏(?)蘇羅烏(?)禮麼豫呂豆余珥訶句志茂餓茂知余珥茂訶句志茂訶之胡(?)弖菟伽陪摩都羅武烏呂餓(?)弖菟伽陪摩都羅武宇多豆紀摩都流天皇和曰摩蘇餓豫蘇餓能古羅破宇摩奈羅摩辟武伽能古摩多智奈羅磨句禮能摩差比宇倍之訶茂蘇餓能古羅烏於朋枳(?)能菟伽破湏羅志枳二月辛亥朔庚午改葬皇太夫人堅塩媛於檜隈大陵弟一是日誄於輕街第一阿倍內臣鳥誄天皇之命則奠靈明器明衣之類万五千種也弟二諸皇子等以次第各誄之弟三中臣宮地連烏摩侶誄大臣之辞弟四大臣引率八腹臣等便以境部臣摩理勢令誄氏姓之本矣時人云摩理勢烏摩侶二人能誄唯鳥臣不能誄也夏五月五日藥獦之集于羽田以相連參趣於朝其裝束如菟田之獵是歲自百濟國有化來者其面身皆斑白若有白癩者乎惡其異於人欲棄海中嶋然其人曰若惡臣之斑皮者白斑牛馬不可畜於國中亦臣有小才能構山岳之形其留臣而用則爲國有利何空之棄海嶋耶於是聽其辞以不弃仍令構湏彌山形及吳橋於南庭時人号其人曰路子工亦名芝耆摩呂又百濟人味摩之歸化曰學于吴得伎樂儛則安置櫻井而集少年令習伎樂儛於是真野首弟子新漢濟文二人習之傅其儛

【二十年の春正月の朔が辛巳の丁亥の日に、酒宴を開いて役人に振る舞った。この日に、大臣は、天皇の長寿を祝って歌を奏上した()歌を献上されて天皇が返して歌った()、二月の朔が辛亥の庚午の日に、皇太夫人の堅鹽媛を桧隈の大陵に改めて(?始めての)埋葬をした。この日に、軽の街中で哀悼した。一番目に阿倍の内の臣の鳥が、天皇の命令で哀悼した。それで霊に供え物をした。生前使用していた器や衣装など、一萬五千種だった。第二に諸々の皇子達が、順番に各々哀悼した。第三に中臣の宮地の連の烏摩侶が、大臣代読をして哀悼した。第四に大臣が、八人の腹心を引き連れて、境部の臣摩理勢に、氏姓の由来からはじめて哀悼した。当時の人は「摩理勢と烏摩侶の二人はうまく哀悼したが、鳥の臣だけ哀悼できなかった」と言った。夏五月の五日に、薬草探しをして、羽田に集って、連れ立って朝廷に参内した。その裝束は、菟田の狩人のようだった。この歳に百済国から帰化する者がいた。その顔や体がところどころ白かった。もしかしたらハンセン氏病か。その人が異様なことを嫌って、黄海の嶋に放置した。しかしその人が「もし私のまだらの皮膚が嫌なら、まだらの牛馬を、国中で飼うのはおかしい。また私は、すこし才能が有る。上手に山岳の形状を写し取る。それで私を留めて用いれば、国の為になる。どうして簡単に海の嶋に置き去るのか」と言った。それで、その言葉を聞き、置き去りにせず、須彌の山を写し取ってそして呉橋を南の庭に築くよう命じた。当時の人は、その人を、路子の技術者と名付けた。またの名は芝耆摩呂という。また百済人の味摩之が帰化した。「呉に学んで、能に似た舞を取得した」と言った。それで櫻井に住まわせて、少年を集めて、能に似た舞を習わせた。そこで、眞野の首の弟子と新の漢の濟文の、二人が、習ってその舞を伝えた。】とあり、正月辛巳朔は12月30日で12月が小の月なら標準陰暦と合致し、他は標準陰暦と合致する。

歌の中で推古天皇が大臣を「於朋枳(?)」、大臣が推古天皇を「於朋耆(?)」とともに大王と呼んでいるが、允恭天皇元年などの「大王辭而不即位」と雄朝津間稚子宿禰大王が天皇に即位しないと記述するように、皇太子は大王、仁徳天皇前紀にも「大王者風姿岐嶷」と皇太子でなくとも大王で、大臣は皇位を簒奪する次の王朝の王もしくは前王朝の皇太子で、大王が天皇に即位する。

従って、この長寿を祝って貰っている推古天皇は天皇とは別の人物だが、俀国王20年は40歳代で長寿とは言えず、前天皇の崇峻天皇の御井夫人の可能性があり、贄子は蝦夷の義父でその妻が御井夫人で 629年即位の推古天皇20年は649年で贄子の還暦の祝の可能性がある。

堅鹽媛の改葬とあるが、改葬なのに街中で哀悼を表明するなどと言うのは異様で、実際の葬儀の記述で、629年に即位した推古天皇が崩じたことを意味し、日本の天皇制は皇太后が一番重要で、綏靖天皇元年「尊皇后曰皇太后」、安寧天皇元年「尊皇后曰皇太后」といつも元年に前皇后を皇太后に就任させていた。

しかし、敏達天皇元年「尊皇后曰皇太后」以降に記述されず、推古天皇が皇太后の役割を担った、すなわち、堅鹽媛の宮が額田部の宮、堅鹽媛が初代豊御食炊屋姫で39歳の時629年に推古朝が始まり、「豊御食炊屋姫天皇・・・幼曰額田部皇女」と2代目豊御食炊屋姫・3代目は小墾田皇女・・・天武天皇二年「娶鏡王女額田姫王」と鏡王・・・『粟原寺鑪盤銘』に「此粟原寺者仲臣朝臣大嶋・・・日並御宇東宮故造伽檻之爾故比賣朝臣額田以甲午年始」と文武天皇の母も額田姫で、その1代目の堅鹽媛が亡くなった記事と考えられる。

そして、堅鹽媛が皇太后では無いのだから、皇太后は御井夫人の穴穗部間人で、623年から647年まで飛鳥天皇や天皇の象徴となる皇太后に準ずる堅鹽媛が亡くなっても元号が変わらず、御井夫人の長寿の祝をしているその頃に元号が命長と命名されていて、623年に長男が13歳に達していないから守屋が皇太子になったことから、穴穗部間人は30余歳程度で20年後は50余歳で人生50年時代では長寿の部類だ。

そして御井夫人の夫は『舊事本紀』「石上贄古連公・・・小治田豐浦宮御宇天皇御世爲大連奉齋神宮」と神宮を祀り、神道の最高権威者が元号を制定しもう一人の皇太子の贄古が命長元年の前年の639年の贄子20年で還暦を迎えて祝い、妻の御井夫人が命長と翌年改元した可能性がある。

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