2020年8月31日月曜日

最終兵器の目 推古天皇14

  今回も任那記事で分割しにくいため先に解説を書き、あとで原文と簡単な訳を記述する。

新羅からやってきた惠日から唐を見習うべき助言を得て、舒明天皇二年に「大仁藥師惠日遣於大唐」と俀国が唐に派遣して、新羅を頼って俀国が唐と同盟を結ぼうとしていて、これは、白村江の戦いの前夜の653年のことだ。

推古天皇十六年「唐客裴世清罷歸・・・是時。遣於唐國學生倭漢直福因」と福因が15年も経って帰ったが、俀国は隋とは『隋書』「此後遂絶」と絶縁しているので福因は倭国の学生の可能性が高く、他の漢人も倭国の人々だと思われ、倭国の人物が一緒に帰国しているので、新羅の貢物を倭国に渡し四天王寺に後に納められたのだろう。

任那の滅亡は『三国史記』の562年眞興王二十三年「九月加耶叛王命異斯夫討之斯多含副之斯多含領五千騎先馳入栴檀門立白旗城中恐懼不知所爲異斯夫引兵臨之一時盡降論功」が最後の記述で、『三国遺事』駕洛國記「獻帝立安四年己卯 ・・・相繼不絕。洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉三月 ・・・其乃仇衝失位去國。逮龍朔元年辛酉。六十年之間」と199年から661年までたえることなく王朝が続いたが、最後の60年間は位を失くして国を去り、661年に新羅の領土になったと述べている。

すなわち、吉士磐金や吉士倉下を派遣した時期が欽明朝の時期の可能性が高い。

『日本書紀』慶長版は

三十一年秋七月新羅遣大使奈末智洗爾任那遣達率奈末智並來朝仍貢佛像一具及金塔幷舍利且大觀頂幡一具小幡十二條即佛像居於葛野秦寺以餘舍利金塔觀頂幡等皆納于四天王寺是時大唐學問者僧惠齋惠光及醫惠日福因等並從智洗爾等來之於是惠日等共奏聞曰留于唐國學者皆學以成業應喚且其大唐國者法式備定珍國也常湏達是歲新羅伐任那任那附新羅於是天皇將討新羅謀及大臣詢于群卿田中臣對曰不可急討先察狀以知逆後擊之不晩也請試遣使覩其消息中臣連國曰任那是元我內官家今新羅人伐而有之請戒戎旅征伐新羅以取任那附百濟寧非益有于新羅乎田中臣曰不然百濟是多反覆之國道路之間尚詐之凢彼所請皆非之故不可附百濟則不果征焉爰遣吉士磐金於新羅遣吉士倉下於任那令問任那之事時新羅國主遣八大夫啓新羅國事於磐金且啓任那國事於倉下因約曰任那小國天皇附庸何新羅輙有之隨常定內官家願無煩矣則奈末智洗遲副於吉士磐金復以任那人達率奈末遲副於吉士倉下仍貢兩國之調然磐金等未及于還即年以大德境部臣雄摩侶小德中臣連國爲大將軍以小德河邊臣祢受小德物部依網連乙等小德波多臣廣庭小德延江脚身臣飯蓋小德平群臣宇志小德大伴連(闕名)小德大宅臣軍爲副將軍率數万衆以征討新羅時磐金等共會於津將發舩以候風波於是舩師滿海多至兩國使人望瞻之愕然乃還留焉更代堪遲大倉爲任那調使而貢上於是磐金等相謂之曰是軍起之既違前期是以任那之事今亦不成矣則發舩而度之唯將軍等始到任那而議之欲襲新羅於是新羅國主聞軍多至而豫慴之請服時將軍等共議以上表之天皇聽矣冬十一月磐金倉下等至自新羅時大臣問其狀對曰新羅奉命以驚懼之則並差專使因以貢兩國之調然見舩師至而朝貢使人更還耳伹調猶貢上爰大臣曰悔乎早遣師矣時人曰是軍事者境部臣阿曇連先多得新羅幣物之故又勸大臣是以未待使旨而早征伐耳初磐金等度新羅之日比及津莊舩一艘迎於海浦磐金問之曰是舩者何國迎舩對曰新羅舩也磐金亦曰曷無任那之迎舩即時更爲任那加一舩其新羅以迎舩二艘始于是時歟自春至秋霖雨大水五穀不登焉

三十一年の秋七月に、新羅は、大使の奈末の智洗爾を派遣して、任那の、達率の奈末の智を派遣して、一緒に来朝した。それで佛像一具と金の塔と仏の骨を貢上した。また最上位に就任する時に使用する大きな幡一具と小さい幡十二條献上した。それで佛像を葛野の秦の寺においた。残りは佛の骨と金塔と最上位に就任する時に使用する幡を、みな四天王寺に納めた。この時に、大唐の学生の僧の惠齊と惠光と医師の惠日と福因達が、一緒に智洗爾達と一緒にやって来た。そこで、惠日達は、「唐国に留る学生は、皆、学んで業績を残したので召喚すべきだ。またあの大唐国は、儀礼などの決まりまでを含めて決めた珍しい国です。ずっと目標にすべきだ」と習ったことを奏上した。この歳に、新羅が任那を伐った。任那が、新羅についた。それで、天皇が、丁度新羅を討とうとした。大臣が役人と相談した。田中の臣が「すぐに討ってはいけない。まず状況を調べて、逆らうと解った後で討っても遅くはない。お願いですから試しに、使者を派遣してそのなりゆきを見るべきだ」と答えた。中臣の連の國が、「任那は、はじめから我が国の内官家だ。今、新羅の人伐って取り返そう。おねがいです、軍隊を用心して派遣して新羅を征伐して、任那を取り返して、百濟に付属させるべきだ。どちらかといえば新羅に有っても益が無い」と言った。田中臣が「だめだ。百濟はいつも附いたり離れたりする国だ。一緒に歩いている間でも騙す。大体百済が願うどれも良くない。それで、百濟に附けてはだめだ」と言った。それで討たなかった。そこで吉士の磐金を新羅に派遣し、吉士の倉下を任那に派遣して、任那の事情を調べさせよう。その時に新羅の国の主が、八人の高官を派遣して、新羅国の事情を磐金に説明した。また任那の国の事情を倉下に説明した。それで約束させて、「任那は小いき国だが、天皇の従属国だ。どうして新羅に簡単に与えられるか。ずっと内の官家と定め、頼むから煩わせるな」と言った。それで奈末の智洗遲を派遣して、吉士の磐金の副官にした。また任那人の達率の奈末の遲を吉士の倉下の副官にした。それで両国の年貢を貢上した。しかし磐金達がまだ帰らない、その年に、大徳の境部の臣の雄摩侶と小徳の中臣の連のを大將軍にした。小徳の河邊の臣禰受と小徳の物部の依網の連の乙等と小徳の波多の臣の廣庭と小徳の近江の脚身の臣の飯蓋と小徳の平群の臣の宇志と小徳の大伴の連と小徳の大宅の臣の軍を副將軍にした。数万の兵を率いて、新羅を征討した。その時、磐金達は、一緒に港に集まって、出港しようと風波の時季を待った。そこで、船団が、海が隠れるほど多くやってきた。両国の使者は、見渡して非常におどろいた。それで途中で帰ってしまった。さらに堪遲の大舍を代わりに、任那の年貢の使者として貢上した。そこで、磐金達は相談して、「前の約束破ったので軍を起こした。これで任那の事は、今回もだめだった」と言った。それで出港して渡った。まず將軍達は、はじめ、任那に着いて討議して、新羅を襲撃しようとした。そこで、新羅国の主は、軍隊がたくさんやってきたと聞いて、軍が侵攻する前にびくついて服従すると願い出た。その時に將軍達は、協議して上表して天皇がそれを聞き入れた。冬十一月に、磐金と倉下達は、新羅から帰った。その時に大臣は、その状況を問いただした。「新羅は、命令を聞いて、驚いて懼っていました。一緒に使者を専任して、それで両国の年貢を貢上しました。しかし船団がやってくるのを見て、朝貢の使者が、また帰ってしまった。ただし年貢だけは貢上した」と答えた。そこで大臣が「なんと悔しい、軍隊の派遣が早かった」と言った。当時の人は、「この戦争は、境部の臣と阿曇の連が、先にたくさん新羅の贈物を貰ったから、大臣に勧めた。これで、使者の本旨を聞かずに、早く征伐の命令を下した」と言った。はじめ、磐金達が、新羅に渡った日、港に着た頃に、使者の飾りがある船一艘を、海の入江で迎れた。磐金が「この船は何処の国の出迎えの船だ」と問いただした。「新羅の船だ」と答えた。磐金がまた「なぜ任那の迎えの船が無い」と言った。その時に、さらに任那の為に一船を加えた。新羅の迎えの船を二艘にしたのはこの時からだ。春から秋までに、幾日も雨が降り続いて洪水があった。五穀は実らなかった。】とあり、朔表記が無かった。

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