2022年5月30日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』垂仁天皇類書3

  『日本書紀』は「前朝に来日した任那人蘇那曷叱智が王への賜品を持たせて國へ歸ったが新羅人に奪れ、二國の反目が始った。一書に越國の角鹿に意富加羅國の王子都怒我阿羅斯等・于斯岐阿利叱智干岐が歸化。活目天皇に仕へて三年。天皇から前天皇の名を貰って、彌摩那國という。賜品を郡府に藏したが新羅人が聞いて奪い二國の相怨が始った。一書に都怒我阿羅斯等が、神白き石の化身の童女を東方に追ってきたが、童女は日本國の難波の比賣語曾社の神となった(または豐國の國前郡比賣語曾社の神)。三年の春三月に、新羅王子天日槍が歸て、贈り物を但馬國に藏めて神物とした。一書に初め天日槍、播磨國に停泊したが、三輪君祖大友主と、倭直祖長尾市を播磨に派遣して、調べると「新羅國主の子で日本國に聖皇がいると聞き、國を弟知古に授けて化歸したといい但馬國に住む處を定め、近江國の鏡村の谷の陶人は、天日槍の従者となった。天日槍は但馬國の出嶋人太耳女麻多烏を娶って、但馬諸助を生み、諸助は但馬日楢杵を生み、日楢杵は清彦を生み、清彦は田道間守を生む。」とある。

韓地の記述は神話の素戔嗚以来初めての記述であるが、韓地の書物での最初は『山海經・海内東經』の「鉅燕在東北陬蓋國在鉅燕南倭北倭屬燕朝鮮在列陽東海北山南列陽屬燕列姑射在海河州中姑射國在海中屬列姑射西南山環之」と燕の南に今の蓋州が有り、その南には倭が有り、『漢書・ 地理志 第八』に「樂浪海中有倭人分為百餘國」と海中すなわち黄海・南シナ海にも遼東半島にも倭人がいて、漢時代に燕が滅亡して遼東半島の倭人は撤退したようだ。

現代は樂浪海中を日本海も含めているが、楽浪郡は日本海に面しておらず、漢代は黄海側が海中で、朝鮮は北が海で南は山、東に列陽があり、列陽は燕に属すので遼東半島の根本の部分から平城辺りまでで、朝鮮は黄海北道辺り、その南に列姑射があってソウル近辺、その南に初めて国と呼ばれる地域があり、それは半島で、西南は山に囲まれている忠清南道辺りで、以南は海で、陸部は『海外南經』の六合に含まれ、「地之所載六合之閒四海之内照之以日月經之以星辰紀之以四時要之以太歳神靈所生其物異形或夭或壽唯聖人能通其道」と、星の巡りで辰と中国の東南の方向にあり、四季が有って、神霊が生まれる場所で、聖人が道(海の道・海流)を通っていると記述して、日本人はこの書をもとに、日後を聖・ひじり、三国を神国、土神を産靈と記述し、日本の神話では神がたくさん生まれる。

それに対して朝鮮半島の日本海側は『山海經・海外西經』「女子國在巫咸北兩女子居水周之」と対馬と思われる水周と記述した島があり、「軒轅之國・・・諸夭之野・・・其人兩手操卵食之・・・白民之國・・・肅慎之國・・・」のように国と呼ばれるのは軒轅之國・ 白民之國で、素戔嗚が言うように、何も育たないような表現の夭・わざわいの平原があり、檀君の卵生神話を想起させる卵食が記述される。

後に日本を辰と記述したのは、この『海外南經』の「星辰紀之以四時」から漢朝が理解したからと考えられ、そして、朝鮮半島南端、後の拘邪韓國を思わせる国と朝鮮半島の根本近辺の白民之國があり、『出雲風土記』の北門の佐伎国や農波国を思わせ、志羅紀は三埼で国ではなく、良く合致し、『日本書紀』「任那者去筑紫國二千餘里」は長里で8百Kmは成り立たず、『三國志』に「女王國以北特置一大率」と壱岐を直轄領にしていたようなので、国境間距離の壱岐から二千餘里と考えられ、この記述は1里50mの里単位で、崇神朝(恐らく邪馬台国を領有していた淡海秦朝廷)が短い里単位を使い、その資料のまゝ、『日本書紀』は記述した証拠となっている。


2022年5月27日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』垂仁天皇類書2

   『古事記』前川茂右衛門寛永版は「御陵在山邊道勾之岡上也伊久米伊理毗古伊佐知命坐師木玉垣宮治天下也此天皇娶沙本毗古命之妹佐波遅比賣命生御子品牟都和氣命一柱又娶旦波比古多多須美知宇斯王之女氷羽州比賣命生御子印色之入日子命次大帯日子游斯呂和氣命次大中津日子命次倭比賣命次若木入日子命五柱又娶其氷羽州比賣命之弟沼羽田之入毗賣命生御子沼帯別命次伊賀帯日子命二柱又娶其沼羽田之入日賣命之弟阿耶美美能伊理毗賣命生御子伊許波(婆)夜和氣命次阿耶美都比賣命二柱又娶大箇木垂根王之女迦具夜比賣命生御子袁耶弁王一柱又娶山代大國之淵之女苅羽田刀弁生御子落別王次五十日帯日子王次伊登志別王又娶其大國之淵之女弟苅羽田刀弁生御子石衝毗賣命亦名布多遅能伊理毗賣命二柱凡此天皇之御子等十六王男王十三女王三故大帯日子游斯呂和氣命者治天下也御身長一丈二寸御脛長四尺一寸也次印色入日子命者作血沼池又作狭山池又作日下之高津池又坐鳥取之河上宮令作横刀壱竹(仟)口是奉納石上神宮即坐其宮定河上部也次大中津日子命者山邊之別三枝之別稲木之別阿太之別尾張國之三野別吉備之石无別許呂母之別高巣鹿之別飛鳥君牟禮之別等祖也次倭比賣命者拝祭伊勢大神宮也次伊許婆夜和氣王者沙本穴大(太)部穴(之)別祖也次阿耶美都

比賣命者嫁稲瀬毗古王次落別王者小月之山君三川之衣君之祖也次五十日帯日子王者春日山若(君)高志絶(池)君春日部若(君)之祖次伊登志和氣王者因無(无)子而爲子代定伊都次石衝別王者羽咋君三尾君之祖次布多遅能伊理毗賣命者爲倭建命之后」、【伊久米伊理毘古伊佐知は、師木玉垣宮で、天下を治めた。・・・(系図は略す)・・・それで大帶日子淤斯呂和氣は、天下を治めた。身長、一丈二寸、脛の長さ、四尺一寸あった。次に印色入日子は、血沼池を作り、又狹山池を作り、又日下の高津池を作った。又鳥取の河上宮にいて、横刀壹仟口を作らせ、これを石上神宮に納め、その宮にいて、河上部を定めた。・・・(系図は略す)】と訳した。

皇后の氷羽州比賣の子の印色入日子は横刀壹仟口を作らせ、これを石上神宮に治め、その主となって、河上部を定め、部という組織を造りその長に姓を与え、子の行為は、印色入日子は天皇の行為で、それを、妹の大中姫に任せるが、『古事記』には大中津日子と皇子が記述され、記述されない大中姫は『古事記』に「大中比賣命者香坂王忍熊王之御祖」と神功皇后に殺される2王の母であるが、ここで、『日本書紀』の足仲彦を『古事記』は帶中津日子と記述して、『古事記』の大中津日子は『日本書紀』で大中彦と表現すると考えても良いと考えられる。

その大中比賣の親は「上云若建王娶飯野真黒比賣生子須賣伊呂大中日子王此王娶淡海之柴野入杵之女柴野比賣生子迦具漏比賣命故大帯日子天皇娶此迦具漏比賣命生子大江王此王娶庶妹銀王生子大名方王次大中比賣」と大江王で、大江王の親が大帯日子と迦具漏比賣で、その迦具漏比賣の親が須賣伊呂大中日子王(須賣伊呂は皇弟・天皇後継者の意味)と柴野比賣で、印色入日子が天皇、大中日子は皇太子だったと考えられ、大中日子・大中比賣はペアの人物、大国・仲国を統治する天皇が大中彦、其々の将軍が大足彦・仲足彦だったと考えられる。

迦具漏比賣は『古事記』に「倭建命之曽孫名須賣伊呂大中日子王之女」とあり、実際は倭建の孫であるが、子供の孫を妃に出来るわけがなく、須賣伊呂大中日子と兄弟の天皇が皇弟の娘を妃にした、すなわち、印色入日子が天皇で大中日子が皇弟、大中彦は「迦具漏比賣命生子大江王此王娶庶妹銀王生子大名方王次大中比賣命」と子の大江王が庶妹を妃に襲名した大中姫が生まれ、その大中姫が天皇大中彦の女の妃になって、「會太子於日高以議及群臣遂欲攻忍熊王」のように、太子忍熊王は「大中比賣命者香坂王忍熊王之御祖」と大中姫の子で、大中彦を襲名した天皇と考えられ、倭建も少なくとも5代の倭建がいる。

すなわち、『古事記』景行記の「若帯日子命與倭建命亦五百木之入日子命此三王負太子之名」と太子は1朝廷一人なのだから、3朝廷の太子を記述したように、垂仁天皇紀も印色入日子・若建王・五百木之入日子を含んだ太子記事が記述されていると考えられる。

『日本書紀』は元年春正月丁丑朔戊寅の垂仁天皇即位や十一月壬申朔癸酉の皇太后即位は天文学的日干支と異なるが、『古事記』の首都は崇神朝と変わらず磯城で、王朝交代していないので、崇神朝の改正朔で変えられた王朝が元に戻した可能性が有り、纏向朝、淡海朝の説話の可能性が高い。 

2022年5月25日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』垂仁天皇類書1

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は『天皇本紀上』は「諱活目入彦五十狹茅尊者御間城入彦五十瓊殖天皇第三太子也母日皇后御間城入姬即大彦皇子命之女也天皇二十九年歳次壬子春正月己亥朔生於瑞籬宮生而有岐疑之姿及壯倜儻大度率性任真無(?)矯餝天皇愛之引置左右二十四歳因夢祥立為皇太子焉六十八年冬十二月御間城入彦五十瓊殖天皇崩元年歳次壬辰春正月丁丑朔戊寅皇太子尊即天皇位尊皇后曰皇太后尊皇太后曰太皇太后二年春二月辛未朔己卯狹穗姬命立為皇后誕生譽津別命生而天皇愛之常在左右及壯而不言冬十月更都遷纏向謂珠城宮四年秋九月丙戌朔戊申皇后母兄狹穗彦玉謀反欲危社稷其記在別五年冬十月己卯朔狹穗彦與妹皇后共死于城中十五年春二月乙卯朔甲子喚丹波五女納於掖庭矣第一日葉酢媛次渟葉田瓊入媛次真頚野媛次薊瓊入姬次竹野媛並開化天皇兒彦坐皇子命子丹波道主王子也秋八月壬午朔日葉酢媛命為皇后復渟葉田瓊入媛真(?)野媛薊瓊入媛並爲皇妃唯竹野媛者因形姿醜返於本土則羞其見返到葛野地自輿墮死故号其地謂墮國今謂乙訓者訛矣皇后誕生五十瓊敷入彦命次大足彦尊次大中姬命次倭姬命次稚城瓊入彦命妃渟葉田瓊入媛生鐸石別命次膽香足姬命次妃真砥野媛生盤撞別命次稻別命次妃(?)瓊入媛生池速石別命次五十連石別命次五十日足彦命」、【諱は活目入彦五十狭茅で御間城入彦五十瓊殖の第三子、母は皇后の御間城入姫、大彦の娘だ。天皇二十九年歳次壬子春正月己亥朔生に、瑞籬宮で生まれ、生まれながらにしっかりとした姿で、若者になってからはとても度量があった。人のなりが正直で、まがったり飾ったりしなかった。父に可愛がられて、いつも側に置いた。二十四歳のとき、夢のお告げで、皇太子となった。六十八年の冬十二月、天皇が崩じた。元年歳次壬辰の春正月丁丑が朔の戊寅に、皇太子は天皇に即位した。皇后を皇太后と尊び、皇太后を尊んで大皇太后と呼んだ。二年春二月辛未が朔の己卯に、狭穂姫を皇后とした。皇后は、誉津別を生んだ。天皇は、誉津別を生まれたときから愛して、常に身辺に置いたが大きくなっても物を言わなかった。冬十月、さらに都を纏向珠城宮に遷した。四年秋九月丙戌が朔の戊申、皇后の同母兄の狭穂彦は、謀反を企てて国を傾けようとした。このことは別の書にある。五年冬十月己卯が朔、狭穂彦は妹の皇后とともに、城中で死んだ。・・・系図略】と訳した。

狭穂彦は甲斐国造の祖で開化天皇と丸迩臣の祖の意祁都比賣との子の日子坐王の子で、母は大闇見戸賣で、甲斐国造の祖は『舊事本紀』に「次大八椅命甲斐國造等祖彦與曽命之子」で倭得玉彦と大伊賀姫との子、倭得玉彦は建諸隅と葛󠄀木直の祖の大諸見足尼の娘との子で彦與曽が狭穂彦、倭得玉彦が坐王、建諸隅が開化天皇となり、丸迩臣の祖の日子國意祁都が大田田祢古で、倭得玉彦の母の父が大物主・建飯賀田須、建飯賀田須は大倭國民磯姫の子、和迩君の祖で、葛󠄀木直祖大諸見足尼と思われ、その葛城天皇の継承者の諸見巳姫が母だと考えられる。

まさしく、『古事記』の神武天皇が倭得玉彦で大物主の娘の伊須氣余理比賣が諸見巳姫と解る。

狭穂彦の母は『古事記』では春日建國勝戸賣の娘だが、勝戸賣は3代目大彦・大筒木垂根・大伊賀彦、その娘が大伊賀姫となり、武渟川別は大伊賀姫の兄弟で姪の沙本毘賣を妃にしたと考えられる。

狭穂彦の反乱は大彦・丸迩臣の祖の日子國夫玖対建波迩安王の反乱で勝った2代目大彦の品治部君の祖の湯産隅と大筒木垂根・建沼河別と品牟都和氣が川遊びをした一連の説話と考えられ、品牟都和氣が品治部君、大筒木垂根の母は山代縣主祖と考えられ、品遲部を定めたときの立役者の曙立王の祖母も山代の姫の苅幡戸辨で曙立王も伊勢、勿論伊勢遺跡の伊勢の品遲部君の祖となった。

2022年5月23日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』崇神天皇類書・天孫本紀系図のまとめ10

  さらに続けて、物部武諸遇と尾張氏の建諸隅であるが、磯城縣主の家系を見ると、『古事記』には「師木縣主之祖河俣毗賣」、「河俣毗賣之兄縣主波延之女阿久斗比賣」、「師木縣主之祖賦登麻和訶比賣亦名飯日比賣」、(以降「奥津余曽之妹名余曽多本毗賣」、「姪忍鹿比賣」、「十市縣主之祖大目之女名細比賣」の同族)と皇后を記述し、『日本書紀』には「一書云」で「磯城縣主女川派媛」、「磯城縣主葉江女川津媛」、「磯城縣主葉江男弟猪手女泉媛一云磯城縣主太眞稚彦女飯日媛」、「磯城縣主葉江女渟名城津媛」、「磯城縣主葉江女長媛」、「磯城縣主大目之女也」、(「十市縣主等祖女眞舌媛」)と記述される。

『古事記』の神武天皇は崇神天皇だから磯城縣主は崇神朝に与えられているので、『古事記』は崇神天皇まで、「師木縣主之祖」や師木が付加されない縣主(天皇)であり、『日本書紀』は「磯城縣主」イコール天皇で、『舊事本紀』は「倭志紀彦妹真鳥姫爲妻」、「倭志紀彦女真鳥姫爲妾」、崇神朝「建新川命倭志紀縣主等祖」、政務朝「印岐美連公志紀縣主・・・祖」、と『古事記』と同じく崇神朝以降・政務朝よりも後に「志紀縣主」となったのである。

磯城の黒田廬戸宮に首都が有った時に「縣主波延」と磯城縣主の祖と呼ばれなかった尾張氏の葉江がそれ以前に天皇であったなどと、これまで述べてきたように、磯城縣主の祖は河俣毗賣から十市縣主之祖大目まで、尾張氏の系図であったが、建新川から物部氏に変化して、その接点が十市根で、十市根は名前の通り「十市」に住んでいた可能性が高く、大目は『日本書紀』で「磯城縣主」、『古事記』で「十市縣主」と孝霊天皇から天皇倭志紀彦でなく十市縣主十市彦となったことを示し、尾張氏の建諸隅も十市彦で、七世の十市根の妃が実際は尾張氏の建諸隅の娘の時姫なら理に適なう。

そして、『舊事本紀』が「大中姫命遂授物部十市大連而令冶石上神寶」と十市根に神宝を任せたが、『日本書紀』には「五十瓊敷皇子其一千口大刀者・・・藏于石上神宮是時神乞之言春日臣族名市河・・・今物部首之始祖也」と春日臣、すなわち、和珥臣の親族の市河、これを『舊事本紀』は十市根と記述し、『日本書紀』作成時に「物部首」の姓、景行朝に「邑之勿首」と村の長が居ないと記述して、首は集団の長を意味し、すなわち、物部氏の首領だと記述している。

これは、推定したように、尾張氏建諸隅の娘を妃にしたと考えると理に適い、建新川は大新河の跡継ぎで、「紀伊荒川戸俾女中日女爲妻」と紀伊の姫を母にした武諸遇、尾張氏建諸隅は「建宇那比命此命城嶋連祖節名草姫」と節名草姫の子、「紀伊國造智名曽妹中名草姫」と、父の建斗禾の妃も中名草姫で紀伊國造の姫のよう、崇神天皇は木國造の荒河刀辨の娘の遠津年魚目目微比賣を妃にしていて、木國造若しくはその祖の姫の夫に重複者がいる可能性もある。

大物主は「大物主神曰・・・若以吾兒大田田根子」のように建飯賀田須が大物主で、その娘が神武天皇の皇后だが、大物主の兄弟の阿田賀田須は和迩君の祖で、建斗禾の子に建手和迩が居て、阿田賀田須は紀伊名草姫の孫、建手和迩は紀伊國造智名曽妹中名草姫の子、建諸隅が孫で、丸迩臣の祖の日子國意祁都の妹の意祁都比賣を建諸隅は妃にした可能性が高く、建諸隅も開化天皇の一人である。

すなわち、和迩君は天皇の娘の大倭國民磯姫の子、兄弟の大物主・建飯賀田須が大諸見足尼、大田田祢古は日子國意祁都、妹の意祁都比賣が諸見巳姫、日子國意祁都は大田田祢古・大直祢古と大国の神子、宗教上の王で建諸隅が『古事記』の神武天皇、大物主を祀る金毘羅宮は瀬戸内で祀られ、海の道主と思われる和迩氏は良く当てはまり、ここで、坐王と倭得玉彦が重なった。


2022年5月20日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』崇神天皇類書・天孫本紀系図のまとめ9

  大神君→磯城彦→大倭根子→物部氏→磯城彦・尾張氏の朝廷継承を述べてきたが、尾張氏にも物部氏にも存在する尾張の建諸隅・物部の武諸遇は奇異な人物である。

尾張氏の天忍人が「天足彦國押人命此和珥臣等始祖」と孝昭天皇の子で和珥臣の祖と記述し、建甕槌の子の建甕依が紀伊名草姫を妃にして孫の阿田賀田須が和迩君の祖、和迩臣の祖の天忍人の曽孫の建斗禾が「紀伊國造智名曽妹中名草姫」を妃、子が建手和迩、建斗禾の子の建宇那比が節名草姫を妃に、子が建諸隅で、紀伊名草姫と中名草姫はどう見ても姉妹若しくは母・叔母などの親族で、節名草姫もその姪と考えられる。

ここで、和迩君は三国の姓で和迩臣は大国の姓で同じ事を示し、『古事記』の王(君)は『日本書紀』の皇子と同等の地位で、『日本書紀』の王は秦王朝の王の可能性が高い。

紀伊國造は石見國造が「瑞籬朝御世紀伊國造同祖䕃佐奈朝命兒」と崇神朝の時に国造ではなく、神武天皇の時に天香語山の母の天道日女の兄と思われる天道根が紀伊國造になったのは、天道を案内したのが曲浦の珍彦で、天道根の名に相応しく、その珍彦・宇豆比古が山代内臣と思われる建内宿禰の義兄で木國造の祖とされ、欽明紀に秦大津父を夢見で見つけた「山背國紀伊郡深草里」と山代に紀伊があったように、智名曽の紀伊國造は木國造のことと考えられ、宇豆比古が木国造祖なのだから、三国王朝が智名曽を木國造に賜姓し、その娘などの親族の婿が和珥氏を引き継いだと考えられる。

紀伊國造の祖は「天御食持命紀伊直等祖」と御食持で、大御気持は大田田祢古と出雲神門臣との子で、妃も出雲氏で崇神朝の時に石見国造の祖は理解できる。

そして、物部大連の大新河は紀伊荒川戸俾の娘を妃に、子が武諸遇、武諸遇と物部膽咋宿祢の娘との子が物部多遅麻連、多遅麻と物部五十琴彦の娘との子が物部山無媛で、山無媛は「太子莵道稚郎皇子次矢田皇女次嶋鳥皇女」を生み、『日本書紀』には「和珥臣祖日觸使主之女宮主宅媛生菟道稚郎子皇子矢田皇女雌鳥皇女」と物部多遅麻連が和珥臣の祖の日觸使主と記述し、宮主は神八主・神倭主で三国と近江を支配する天皇の一人、『三国志』の「秦」国天子である。

すなわち、武諸遇が和珥臣の祖で、祖父紀伊荒川戸俾は『古事記』に、崇神天皇の妃「木國造名荒河刀弁之女遠津年魚目々微比賣」と木國造と呼んでいる。

さらに、物部武諸遇の叔父の十市根の妃が「物部武諸遇連公女子時姫」と物部武諸遇の娘が叔父の世代と逆転し、大連賜姓も崇神天皇「六十五年春正月武諸遇命為大連」、垂仁天皇「二十三年大臣大新河命賜物部連公姓即改大臣号大連」、「八十一年春二月壬子朔五大夫十市根命賜姓物部連公即為大連」と逆転し、十市根の妃は尾張氏建諸隅の娘と思われ、十市根と大新河は姉妹を妃にした。

建諸隅の父の、十市縣主大目と思われる建斗禾の子の建宇那比の妃は木国造の娘の節名草姫で、建諸隅は木国造・十市縣主を引き継いだと考えられ、十市根は木国造・十市縣主の建諸隅の娘の時姫を妃にすることで十市王、大新河は紀伊国造建諸隅・荒川戸俾の娘の中日女を妃にすることで、「たけもろづみ(津神)」を襲名したと考えられる。

建諸隅は葛󠄀木直の祖の大倭根子日子国玖琉命の子の大諸見(諸神)足尼、すなわち、葛城垂見(神)宿禰の娘の諸見巳(神子)姫、すなわち、鸇比賣を妃にすることで大倭根子の名目上の皇位を得、大彦の物部朝廷には沙本毘賣を妃にして、開化天皇建諸隅の子の坐王・沙本毘古・丹波道主弟彦が天皇になり、物部朝廷の一人の伊香色雄は「倭志紀彦女真鳥姫」を妃にすることで志紀を得て、建新川が倭志紀縣主の祖となった。


2022年5月18日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』崇神天皇類書・天孫本紀系図のまとめ8

  前項に引き続いて、鬱色謎の子の大彦が大国王となって、大倭国は大国と若八国とに分裂し、朝廷の権威は『舊事本紀』「葛󠄀木直祖大諸見足尼女子諸見巳姫生」と葛城朝廷の姫を妃にすることで建諸隅が継承したが、実質、大神を祀る鬱色謎・欝色雄大臣兄弟と行政の王大祢の大綜杵、そして、鬱色謎の子の大国天皇の大彦と欝色雄の子の大伊賀彦、大彦の妃の大綜杵の娘の伊香色謎と伊香色雄大臣が最高権力者の朝廷だったと思われる。

すなわち、春日朝廷は大彦・物部連合大国朝廷と大倭の権威を持つ尾張倭国が対立していたと言え、力を失くした若国と三国の流れを汲む出雲の政権が存在したと思われる。

伊香色雄は崇神天皇・倭得玉彦と思われる倭志紀彦の娘の真鳥姫を妃にして、倭得玉彦も大伊賀姫・御眞津比賣を妃にして、さらに、倭得玉彦の子の沙本毘賣を渟川別の妃にして、朝廷を完全に掌握した。

伊香色雄が長溝の娘を4人を妃にしているが、恐らく、伊香色雄4代其々の妃ではないかと考えられ、垂仁天皇が美知宇斯の娘4人を妃にしているのも、4代の代々の垂仁天皇の妃を示し、伊香色雄も開化・崇神天皇の一人かもしれず、伊香色雄は皇位の璽の韴霊などを返上して、子の十市根は物部連の姓を磯城彦天皇から貰って、皇籍から外れた。

特に、伊香色雄は欝色雄の子の伊香色雄と大綜杵の子の伊香色雄が存在し、世代も欝色雄の子の2代目伊香色雄と大綜杵の子の初代伊香色雄は世代が重なっている可能性が高い。

鬱色謎が皇后になって欝色雄が政権を奪い、伊香色謎が皇后になって伊香色雄が政権を奪ったように、兄弟は一心同体で皇后の兄弟が姻戚になることで、政権を奪ったことが解り、崇神天皇の王朝も2代目大彦が御眞津姫を皇后に送り込んで、大倭国を奪取したのが『古事記』の神武天皇の始まりで、大彦親子と姻戚の木国王や坐王が三国配下の山背の支配者の玖賀耳の御笠を殺して山代から旦波国・高志道・東山道と大国・三国・野洲国の大・三・八国を平定して、政敵の建波迩安を撃ち、大国の宗教上の王の伊香色雄を配下にしたことを述べている。

そして、恐らく、大彦・渟川別が琵琶湖でのんびりしていた時に、木国王の姻戚の坐王(倭得玉)が、クーデターで前86年に「朕初承天位獲保宗廟」と天(海士)の皇子の朝廷を開いて尾張・能登から畿内・出雲・安芸を配下にした天子・天皇となり、葛城朝の彦は宿祢や帯彦、三国系の王は君、その他の下部の主は連が姓として与えられたようだ。

2022年5月16日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』崇神天皇類書・天孫本紀系図のまとめ7

 『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は『天孫本紀』は続けて「六世孫武建大尼命欝色雄大臣之子此命同天皇御世爲大尼供奉孫妹伊香色謎命大綜杵大臣之子此命輕境原宮御宇天皇御世立為皇妃誕生彦太忍信命也天皇崩後春日宮御宇天皇即以庶母立爲皇后誕生皇子即是磯城瑞籬宮御宇天皇也尊爲皇太后纏向天皇御世追贈太皇太后弟伊香色雄命此命春日宮御宇天皇御世以爲大臣磯城瑞籬宮御宇天皇御世詔大臣爲班神物定天社國社以物部八十手所作祭神之物祭八十萬群神之時遷建布都大神社於大倭國山邉郡石上邑則天祖授饒速日尊自天受來天璽瑞寶同共蔵齋号日石上太神以為國家亦爲氏神崇祠爲鎮則皇后太臣奉齋神宮山代縣主祖長溝女真木姫爲妻生二兒山代縣主祖長溝女荒姫娣玉手並爲妾各生二男倭志紀彦女真鳥姫爲妾生一男」とあり、系図で訳す必要性はないが、説話部分を概訳すると【・・・弟の伊香色雄、春日宮で治めた天皇の世に、大臣となった。磯城瑞籬宮で治めた天皇の世に、この大臣に詔勅して、神物を分け、天社、国社を定めて、物部の八十手所が神物を作り八の十の万神を祀った。このとき、布都の大神の社を、大倭国の山辺郡の石上邑に遷して建てた。天祖が饒速日に授けた天の璽の瑞宝も、同じく収めて、石上の大神と言った。これで、国家のために氏神として崇め祀り、鎮めとした。そこで、皇后と大臣は神宮を祀った。・・・】と訳した。

春日率川宮朝廷は葛城氏から欝色雄に政権が移り、欝色雄の妃が活目長砂彦の妹で、芹田真稚姫を妃にしているが、活目は生駒と言われており、生駒は「東踰膽駒山而入中洲時長髄彦」のように長髄彦と闘った場所すなわち、芹田真稚姫は河内青玉繋の娘の御炊屋姫・埴安媛と考えられる。

それで、葛城天皇と鬱色謎の子の開化天皇大彦がもう一人の開化天皇欝色雄の子の埴安彦・伊香色雄を撃ち、2代目大彦は大綜杵の娘の伊香色謎を妃として大伊賀彦と呼ばれ、大綜杵の子の伊香色雄は倭志紀彦の娘の真鳥姫を妃に崇神朝の姻戚となり、山代縣主の祖の孫の大新河は大国王、倭志紀彦の孫の十市根は十市王、坐王は崇神天皇、垂仁天皇が十市根に物部の姓を与え、十市根から大新河に皇位が繋がった。

大新河も物部を賜姓されたと記述されるが、子の武諸遇は武の姓で、『日本書紀』では「矢田部造遠祖武諸隅」と物部姓ではなく、大新河が朝廷を開き、武氏を名のり、姓が無い皇位継承権を持つ一人だったと考えられる。

すなわち、物部氏は、宇摩志麻治が大神活目色五十呉桃の娘を、彦湯支が大神早部馬津名久流久美の娘を妃にして、大神君の祖の大神天日方奇日方から大神の地位を得て、奇日方の家系の王は和迩君・賀茂君などの「君」を名のり、物部氏は大祢と大神を襲名し、異母兄弟の出雲色多利姫の子の出雲醜が大臣・大国王となった。

言わば、君子国を引き継ぐ大国天皇の大神・大祢、大国王の将軍大臣で、大臣は皇太子あるいは皇太子と同等の地位だったようで、君子国から受け継いだ君子の璽を出雲氏が受け継ぎ、それを十市根、更に、武諸隅が奪ったと考えられる。

弟の出石心大臣が大神新河小楯姫を妃にして「大神」を継承したが、大国将軍・大臣の地位を葛木彦に奪われ、大矢口宿祢は朝廷配下の姓の大国の王の宿祢を与えられ、大神欝色雄の妹鬱色謎が大倭根子彦國牽の妃となって欝色雄・鬱色謎が皇位を簒奪した。

2022年5月13日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』崇神天皇類書・天孫本紀系図のまとめ6

  前項に続けて、池心宮天皇時代に大国領の大臣出雲王の出雲醜が尾張氏磯城彦の妹の真鳥姫を妃にして磯城彦・葛木彦と義兄弟になり、磯城彦が天皇、葛木彦が大臣・大国王、さらに、大国・八国を支配する大倭根子が天皇だった境原宮天皇時代に、大国王・大臣に復帰した鬱色謎が天皇の妃となって、子の大彦が春日宮天皇となり、物部一族は天皇の一族・皇太子と同等の大臣として氏は無く、磯城宮天皇が春日宮王朝を滅ぼし、伊香色雄は磯城宮天皇に協力し、磯城宮天皇の兄弟の真鳥姫を妃にして皇太子と同等の地位と変質した大臣となり、師木玉垣宮天皇の時に、皇室から除籍されて、物部大連を賜姓されたと考えられる。

すなわち、出雲醜・出石心大臣が分岐点で尾張氏の倭志紀彦・天忍人の妹真鳥姫と出雲醜の子は物部連、大神新河小楯姫と出石心の子が穗積臣の祖で、出雲醜の父の彦湯支が、出雲氏の娘を妃にして、「輕地回峽宮御宇天皇御世元為申食國政大夫以爲大臣」と、三国朝廷の後継を奪ったが、息石耳の婿の倭志紀彦・天忍人と真鳥姫に三国朝廷の後継者の出石心大臣が逆に奪われた。

出石心の近親者の出石姫が『舊事本紀』「天忍人命此命異妹角屋姫亦名葛󠄀木出石姫」・「遷腋上謂池心宮宇摩志麻治命後出石心命為大臣」と天忍人の妃となって、「秋津嶋宮御宇天皇・・・爲足尼」と 出雲醜の子が秋津島宮天皇の時に足尼となり、この時、葛木彦が倭(野洲)王になったと考えられる。

それは、『舊事本紀』孝昭天皇「三十一年春正月瀛津世襲命爲大臣六十八年春正月觀松彦香殖稻命立為皇太子年二十」と孝昭天皇が觀松彦孝昭天皇を皇太子にしたと記述して矛盾を生じ、論理的にも出石姫が葛城に住んで、真鳥姫と義姉妹、すなわち、倭志紀彦・天忍人の異妹にあたり、史書の天皇名觀松彦は葛城氏の王の名を記述したための矛盾が、ここでも噴出し、觀松彦は觀松という地名の王で黒田廬戸宮天皇のことだと『舊事本紀』は考えた。

葛木彦・羸津世襲の妃は記述されないが、『日本書紀』の一書の最初が葛城氏の妃と証明したように、「一云磯城縣主葉江女」の渟名城津媛は天忍人の娘、出石姫の娘と考えられ、出石心から大臣の地位を奪い、葛城氏が倭彦、さらに、大倭根子と天皇になり、鬱色謎を皇后にして欝色雄が大臣大国王の地位に復帰し、兄弟の子達が皇位を簒奪して、大臣が皇太子と同等となったようだ。

物部氏は、宇摩志麻治が「大神活目色五十呉桃女子帥長姫為妃」と大神の娘の師長姫を妃に、さらに、子の彦湯支は大神の一族の阿野姫を妃に「奉齋大神」と大神を祀って、「木開足尼」と木国の王に、その子の大祢すなわち大神・宗教上の大国王となったようで、三国朝廷は分裂して弱体化したようだ。

『舊事本紀』は「木開足尼」を記述しながら、出雲醜の子が「宿祢者始起此時」と宿祢の始めとして矛盾するが、安寧天皇時にも「大間宿禰」がいて、宿禰が三国朝廷の姓だったものを孝安天皇の時に波延朝廷の姓になったと考えられる。

そして、大綜杵は髙屋阿波良姫、磯城彦大目の子の髙屋大分國造祖の建弥阿久良の親族を妃にして、子の伊香色雄が天皇の璽を持つ春日宮天皇の後継者になった。

髙屋阿波良姫の髙屋は高岐国(高島)、高木神・高倉下が支配した高木国が支配する野洲王の、阿波は淡海の淡の良姫を意味すると考えられ、波延朝廷の姫である。

2022年5月11日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』崇神天皇類書・天孫本紀系図のまとめ6

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は『天孫本紀』は「兒宇摩志麻治命此命橿原宮御宇天皇御世元爲足尼次爲申食國政大夫奉齋大神活目色五十呉桃女子帥長姫為妃誕生二兒孫味饒田命阿刀連等祖弟彦湯支命亦名木開足尼阿野姫為妻先一男出雲色多利姫為妾生一男淡海川枯姫為妾生一男三世孫大祢命此命片塩浮穴宮御宇天皇御世為侍臣奉齋大神弟出雲醜大臣命此命輕地回峽宮御宇天皇御世元為申食國政大夫以爲大臣奉齋大神其大臣之号始起此時也倭志紀彦妹真鳥姫爲妻生三兒弟出石心大臣命此命掖上池心宮御宇天皇御世爲大臣奉齋大神新河小楯姫為妻生二兒四世孫大木食命三河國造祖出雲大臣之子弟六見宿祢命小治田連等祖弟三見宿祢命涂部連等祖此命秋津嶋宮御宇天皇御世並縁近宿元爲足尼次爲宿祢奉齋大神其宿祢者始起此時也兒大水口宿祢命穂臣積栗女臣等祖出石心命子弟大矢口宿祢命此命()戸宮御宇天皇御世並爲宿祢奉齋大神坂戸由良都姫爲妻生四兒五世孫欝色雄命此命輕境原宮御宇天皇御世拜爲大臣奉齋大神活目長砂彦妹芹田真誰姬為妻生一兒妹()色謎命輕境原宮御宇天皇立爲皇后誕生三皇子則大彦命次春日宮御宇天皇次倭跡命是也春日宮御宇天皇尊皇后為皇大后磯城瑞籬宮御宇天皇為太皇大后弟大()杵命此命輕境原宮御宇天皇御世為大()春日率川宮御宇天皇御世爲大臣則皇后大臣奉齋大神髙屋阿波良姫爲妻生二兒弟大峯大尼此命者春日宮御宇天皇御世爲大尼供奉其大尼之起始發此時矣」とあり、系図なので訳は省略した。

『日本書紀』では、饒速日が「物部氏之遠祖」、その子宇摩志麻治の名は記述するが、長髄彦の言葉には饒速日の天孫の璽を述べるだけで、饒速日も宇摩志麻治も実際には登場せず、実際に登場する物部氏の遠祖は大綜麻杵の娘の伊香色謎で、兄伊香色雄が大物主を祀るよう進言し祭神物を準備させ、大連や物部姓は伊香色雄の子の物部十千根が最初、欝色謎は穗積臣の遠祖で、忍山宿禰が最初、矢田部造の遠祖は武諸隅で大別が最初である。

『舊事本紀』でも十千根と大新河が物部大連を賜姓され、『舊事本紀』の宇摩志麻治が神武天皇に貢献した説話は伊香色雄が崇神天皇に対して貢献した内容を記述したことが考えられ、神武天皇に貢献した宇摩志麻治若しくはその子味饒田・彦湯支に賜姓が無いのは天皇の臣下になっていないことを示し、記事と結果が矛盾し、伊香色雄なら天皇に貢献した結果、子に賜姓されて臣下になったのなら理に適う。

『舊事本紀』では「天火明櫛玉饒速日」と『日本書紀』の尾張連の遠祖の火明と合体させているが、瓊瓊杵の兄弟と1世代異なり、代わりに天道日女を付け加えているのは、物部氏と尾張氏が兄弟となる接点をもうけたと考えられるが、実際の接点は崇神天皇の頃にあり、物部氏は若狭→出雲、尾張氏は琵琶湖周辺、恐らく高島(高岐)を地盤にした一族だったと考えられる。

『日本書紀』・『古事記』・『舊事本紀』は朔の日干支の記録が残る王朝の宮に葛城氏・物部氏・尾張氏などの人物を相対的に当て嵌めたと述べてきたが、出雲醜が曲峡宮天皇、三見宿祢が秋津嶋宮天皇、欝色雄が境原宮天皇、大綜杵が境原宮・春日宮天皇、伊香色雄が春日宮・瑞籬宮天皇の時代の人物だったのではなく、其々5世代の祖父から孫を同一人物と見做した。

次の世代の祖父は前世代の父・子と重なったり、子・孫で重なったと考えられ、住んでいる場所が名前・役職が名前で、姓が付与され、途中で地位や住む場所が変わった兄弟・姉妹に名が付与され、さらに、襲名も重なり、数世代続く武諸隅や武内宿禰が存在した。

そのため、同一世代でも、当て嵌める宮が異なり、幾人もの時代を越えた天皇に仕える人物が現れ、その人物と関係があった人物が、相対的に記述されるため、訶具漏比賣のように曽孫の娘が兄の妃になるような矛盾が生じることになった。

朔を含む干支の編年記録を持つ宮の歴史に、王の在位記録をもつ紀伝と、記録を持たない伝聞・神話の当て嵌めによる矛盾である。


2022年5月9日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』崇神天皇類書・天孫本紀系図のまとめ5

  前項に続いて、大神君の祖達は豊御氣主より以降、君子の血筋の氏の建を名乗らず、それに代わって、天皇磯城彦の子達が建氏を名乗り、紀伊國造智名曽から受け継いだ和迩臣の祖の建諸隅が大倭根子日子国玖琉のあと、葛城朝廷を退位した葛󠄀木直の祖の大諸見足尼の娘を妃にして葛城朝廷の権威を継承した。

建飯賀田須は祖母の紀伊名草姫と母大倭國民磯姫の系譜の氏で、尾張氏が退位して葛城氏の大倭根子が即位した時期に合致し、大倭國民磯姫は天皇の姫、若しくは叔母と考えられ、その婿が大田田祢古の父の建飯賀田須、すなわち、大物主となり、事代主の子の奇日方に建飯賀田須を当てたと考えられる。

そして、建諸隅の子の倭得玉彦は伊賀臣の祖の大彦・大伊賀彦の娘の大伊賀姫・御真津比賣を妃にした崇神天皇の一人で、大伊賀姫の娘なので、伊賀姫が崇神天皇の子に存在し、開化天皇の一人は建諸隅や大彦だったことが解り、崇神天皇・坐王・倭得玉彦を中心に、前代の大彦を開化天皇に当て嵌め、美知能宇斯・弟彦・朝廷別を垂仁天皇に当て嵌めている。

倭得玉彦は淡海國谷上刀婢を妃に弟彦・日女、坐王は近淡海の天之御影神の娘の息長水依比賣を妃に美知能宇斯、襲名したと考えられる美知能宇斯の子には比婆須比賣・眞砥野比賣・弟比賣がいて、弟比賣に対する男の弟彦が存在するのはとても理に適う。

そして、倭得玉彦の子に山代根古が居て、山代根古は坐王とその母弟袁祁都比賣の子の山代之大箇木真若王と思われ、伊香色雄は山代縣主祖長溝の娘を妃にして山代を領地にし、甥の比古布都押之信の子は山代の内の王、妃が竟富那毘(「倭得玉彦命亦云市大稲日命」)の妹で、その縁で倭得玉彦の子が山代王となったようだ。

葛城氏大倭根子の子の比古布都押之信は木國造の祖の宇豆比古の娘を妃に建内宿禰を産むが、当然、この建内宿禰は襲名された山代内臣建氏の役職名で子孫が葛城朝廷を再興したと考えられる。

弟彦は義弟の山代根古と思われる大國の淵の娘の苅羽田刀辨を妃にして、子に祖別(落別)がいて、苅羽田刀辨は「山代之荏名津比賣亦名苅幡戸弁」と坐王の妃の山代の荏名津比賣が亦の名で山代根古は建諸隅を襲名し、もう一人の弟彦と同世代の襲名した建諸隅が存在し、その子が弟国朝廷と別の野洲朝廷を開いたと思われる。

『舊事本紀』・『日本書紀』・『古事記』は一つの首都王朝が百年近く続き、それを1世代で記述しているため、その一世代には曾祖父・祖父・父・子・孫を同一人物に含め、説話では、父を前の首都に、祖父をその前の首都に、兄弟でも兄を前の首都に、さらに、襲名も加わり、複雑に錯綜しているため、祖父と子が同一人物になってしまったりして、建諸隅が孝昭天皇から垂仁天皇まで存在し、建内宿禰も孝元天皇から仁徳天皇まで存在し、尾張の建諸隅も物部武諸遇も和迩臣の祖で血筋が繋がっている。