2022年5月30日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』垂仁天皇類書3

  『日本書紀』は「前朝に来日した任那人蘇那曷叱智が王への賜品を持たせて國へ歸ったが新羅人に奪れ、二國の反目が始った。一書に越國の角鹿に意富加羅國の王子都怒我阿羅斯等・于斯岐阿利叱智干岐が歸化。活目天皇に仕へて三年。天皇から前天皇の名を貰って、彌摩那國という。賜品を郡府に藏したが新羅人が聞いて奪い二國の相怨が始った。一書に都怒我阿羅斯等が、神白き石の化身の童女を東方に追ってきたが、童女は日本國の難波の比賣語曾社の神となった(または豐國の國前郡比賣語曾社の神)。三年の春三月に、新羅王子天日槍が歸て、贈り物を但馬國に藏めて神物とした。一書に初め天日槍、播磨國に停泊したが、三輪君祖大友主と、倭直祖長尾市を播磨に派遣して、調べると「新羅國主の子で日本國に聖皇がいると聞き、國を弟知古に授けて化歸したといい但馬國に住む處を定め、近江國の鏡村の谷の陶人は、天日槍の従者となった。天日槍は但馬國の出嶋人太耳女麻多烏を娶って、但馬諸助を生み、諸助は但馬日楢杵を生み、日楢杵は清彦を生み、清彦は田道間守を生む。」とある。

韓地の記述は神話の素戔嗚以来初めての記述であるが、韓地の書物での最初は『山海經・海内東經』の「鉅燕在東北陬蓋國在鉅燕南倭北倭屬燕朝鮮在列陽東海北山南列陽屬燕列姑射在海河州中姑射國在海中屬列姑射西南山環之」と燕の南に今の蓋州が有り、その南には倭が有り、『漢書・ 地理志 第八』に「樂浪海中有倭人分為百餘國」と海中すなわち黄海・南シナ海にも遼東半島にも倭人がいて、漢時代に燕が滅亡して遼東半島の倭人は撤退したようだ。

現代は樂浪海中を日本海も含めているが、楽浪郡は日本海に面しておらず、漢代は黄海側が海中で、朝鮮は北が海で南は山、東に列陽があり、列陽は燕に属すので遼東半島の根本の部分から平城辺りまでで、朝鮮は黄海北道辺り、その南に列姑射があってソウル近辺、その南に初めて国と呼ばれる地域があり、それは半島で、西南は山に囲まれている忠清南道辺りで、以南は海で、陸部は『海外南經』の六合に含まれ、「地之所載六合之閒四海之内照之以日月經之以星辰紀之以四時要之以太歳神靈所生其物異形或夭或壽唯聖人能通其道」と、星の巡りで辰と中国の東南の方向にあり、四季が有って、神霊が生まれる場所で、聖人が道(海の道・海流)を通っていると記述して、日本人はこの書をもとに、日後を聖・ひじり、三国を神国、土神を産靈と記述し、日本の神話では神がたくさん生まれる。

それに対して朝鮮半島の日本海側は『山海經・海外西經』「女子國在巫咸北兩女子居水周之」と対馬と思われる水周と記述した島があり、「軒轅之國・・・諸夭之野・・・其人兩手操卵食之・・・白民之國・・・肅慎之國・・・」のように国と呼ばれるのは軒轅之國・ 白民之國で、素戔嗚が言うように、何も育たないような表現の夭・わざわいの平原があり、檀君の卵生神話を想起させる卵食が記述される。

後に日本を辰と記述したのは、この『海外南經』の「星辰紀之以四時」から漢朝が理解したからと考えられ、そして、朝鮮半島南端、後の拘邪韓國を思わせる国と朝鮮半島の根本近辺の白民之國があり、『出雲風土記』の北門の佐伎国や農波国を思わせ、志羅紀は三埼で国ではなく、良く合致し、『日本書紀』「任那者去筑紫國二千餘里」は長里で8百Kmは成り立たず、『三國志』に「女王國以北特置一大率」と壱岐を直轄領にしていたようなので、国境間距離の壱岐から二千餘里と考えられ、この記述は1里50mの里単位で、崇神朝(恐らく邪馬台国を領有していた淡海秦朝廷)が短い里単位を使い、その資料のまゝ、『日本書紀』は記述した証拠となっている。


0 件のコメント:

コメントを投稿