『古事記』前川茂右衛門寛永版は「御陵在山邊道勾之岡上也伊久米伊理毗古伊佐知命坐師木玉垣宮治天下也此天皇娶沙本毗古命之妹佐波遅比賣命生御子品牟都和氣命一柱又娶旦波比古多多須美知宇斯王之女氷羽州比賣命生御子印色之入日子命次大帯日子游斯呂和氣命次大中津日子命次倭比賣命次若木入日子命五柱又娶其氷羽州比賣命之弟沼羽田之入毗賣命生御子沼帯別命次伊賀帯日子命二柱又娶其沼羽田之入日賣命之弟阿耶美美能伊理毗賣命生御子伊許波(婆)夜和氣命次阿耶美都比賣命二柱又娶大箇木垂根王之女迦具夜比賣命生御子袁耶弁王一柱又娶山代大國之淵之女苅羽田刀弁生御子落別王次五十日帯日子王次伊登志別王又娶其大國之淵之女弟苅羽田刀弁生御子石衝毗賣命亦名布多遅能伊理毗賣命二柱凡此天皇之御子等十六王男王十三女王三故大帯日子游斯呂和氣命者治天下也御身長一丈二寸御脛長四尺一寸也次印色入日子命者作血沼池又作狭山池又作日下之高津池又坐鳥取之河上宮令作横刀壱竹(仟)口是奉納石上神宮即坐其宮定河上部也次大中津日子命者山邊之別三枝之別稲木之別阿太之別尾張國之三野別吉備之石无別許呂母之別高巣鹿之別飛鳥君牟禮之別等祖也次倭比賣命者拝祭伊勢大神宮也次伊許婆夜和氣王者沙本穴大(太)部穴(之)別祖也次阿耶美都
比賣命者嫁稲瀬毗古王次落別王者小月之山君三川之衣君之祖也次五十日帯日子王者春日山若(君)高志絶(池)君春日部若(君)之祖次伊登志和氣王者因無(无)子而爲子代定伊都次石衝別王者羽咋君三尾君之祖次布多遅能伊理毗賣命者爲倭建命之后」、【伊久米伊理毘古伊佐知は、師木玉垣宮で、天下を治めた。・・・(系図は略す)・・・それで大帶日子淤斯呂和氣は、天下を治めた。身長、一丈二寸、脛の長さ、四尺一寸あった。次に印色入日子は、血沼池を作り、又狹山池を作り、又日下の高津池を作った。又鳥取の河上宮にいて、横刀壹仟口を作らせ、これを石上神宮に納め、その宮にいて、河上部を定めた。・・・(系図は略す)】と訳した。
皇后の氷羽州比賣の子の印色入日子は横刀壹仟口を作らせ、これを石上神宮に治め、その主となって、河上部を定め、部という組織を造りその長に姓を与え、子の行為は、印色入日子は天皇の行為で、それを、妹の大中姫に任せるが、『古事記』には大中津日子と皇子が記述され、記述されない大中姫は『古事記』に「大中比賣命者香坂王忍熊王之御祖」と神功皇后に殺される2王の母であるが、ここで、『日本書紀』の足仲彦を『古事記』は帶中津日子と記述して、『古事記』の大中津日子は『日本書紀』で大中彦と表現すると考えても良いと考えられる。
その大中比賣の親は「上云若建王娶飯野真黒比賣生子須賣伊呂大中日子王此王娶淡海之柴野入杵之女柴野比賣生子迦具漏比賣命故大帯日子天皇娶此迦具漏比賣命生子大江王此王娶庶妹銀王生子大名方王次大中比賣」と大江王で、大江王の親が大帯日子と迦具漏比賣で、その迦具漏比賣の親が須賣伊呂大中日子王(須賣伊呂は皇弟・天皇後継者の意味)と柴野比賣で、印色入日子が天皇、大中日子は皇太子だったと考えられ、大中日子・大中比賣はペアの人物、大国・仲国を統治する天皇が大中彦、其々の将軍が大足彦・仲足彦だったと考えられる。
迦具漏比賣は『古事記』に「倭建命之曽孫名須賣伊呂大中日子王之女」とあり、実際は倭建の孫であるが、子供の孫を妃に出来るわけがなく、須賣伊呂大中日子と兄弟の天皇が皇弟の娘を妃にした、すなわち、印色入日子が天皇で大中日子が皇弟、大中彦は「迦具漏比賣命生子大江王此王娶庶妹銀王生子大名方王次大中比賣命」と子の大江王が庶妹を妃に襲名した大中姫が生まれ、その大中姫が天皇大中彦の女の妃になって、「會太子於日高以議及群臣遂欲攻忍熊王」のように、太子忍熊王は「大中比賣命者香坂王忍熊王之御祖」と大中姫の子で、大中彦を襲名した天皇と考えられ、倭建も少なくとも5代の倭建がいる。
すなわち、『古事記』景行記の「若帯日子命與倭建命亦五百木之入日子命此三王負太子之名」と太子は1朝廷一人なのだから、3朝廷の太子を記述したように、垂仁天皇紀も印色入日子・若建王・五百木之入日子を含んだ太子記事が記述されていると考えられる。
『日本書紀』は元年春正月丁丑朔戊寅の垂仁天皇即位や十一月壬申朔癸酉の皇太后即位は天文学的日干支と異なるが、『古事記』の首都は崇神朝と変わらず磯城で、王朝交代していないので、崇神朝の改正朔で変えられた王朝が元に戻した可能性が有り、纏向朝、淡海朝の説話の可能性が高い。
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