2022年5月20日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』崇神天皇類書・天孫本紀系図のまとめ9

  大神君→磯城彦→大倭根子→物部氏→磯城彦・尾張氏の朝廷継承を述べてきたが、尾張氏にも物部氏にも存在する尾張の建諸隅・物部の武諸遇は奇異な人物である。

尾張氏の天忍人が「天足彦國押人命此和珥臣等始祖」と孝昭天皇の子で和珥臣の祖と記述し、建甕槌の子の建甕依が紀伊名草姫を妃にして孫の阿田賀田須が和迩君の祖、和迩臣の祖の天忍人の曽孫の建斗禾が「紀伊國造智名曽妹中名草姫」を妃、子が建手和迩、建斗禾の子の建宇那比が節名草姫を妃に、子が建諸隅で、紀伊名草姫と中名草姫はどう見ても姉妹若しくは母・叔母などの親族で、節名草姫もその姪と考えられる。

ここで、和迩君は三国の姓で和迩臣は大国の姓で同じ事を示し、『古事記』の王(君)は『日本書紀』の皇子と同等の地位で、『日本書紀』の王は秦王朝の王の可能性が高い。

紀伊國造は石見國造が「瑞籬朝御世紀伊國造同祖䕃佐奈朝命兒」と崇神朝の時に国造ではなく、神武天皇の時に天香語山の母の天道日女の兄と思われる天道根が紀伊國造になったのは、天道を案内したのが曲浦の珍彦で、天道根の名に相応しく、その珍彦・宇豆比古が山代内臣と思われる建内宿禰の義兄で木國造の祖とされ、欽明紀に秦大津父を夢見で見つけた「山背國紀伊郡深草里」と山代に紀伊があったように、智名曽の紀伊國造は木國造のことと考えられ、宇豆比古が木国造祖なのだから、三国王朝が智名曽を木國造に賜姓し、その娘などの親族の婿が和珥氏を引き継いだと考えられる。

紀伊國造の祖は「天御食持命紀伊直等祖」と御食持で、大御気持は大田田祢古と出雲神門臣との子で、妃も出雲氏で崇神朝の時に石見国造の祖は理解できる。

そして、物部大連の大新河は紀伊荒川戸俾の娘を妃に、子が武諸遇、武諸遇と物部膽咋宿祢の娘との子が物部多遅麻連、多遅麻と物部五十琴彦の娘との子が物部山無媛で、山無媛は「太子莵道稚郎皇子次矢田皇女次嶋鳥皇女」を生み、『日本書紀』には「和珥臣祖日觸使主之女宮主宅媛生菟道稚郎子皇子矢田皇女雌鳥皇女」と物部多遅麻連が和珥臣の祖の日觸使主と記述し、宮主は神八主・神倭主で三国と近江を支配する天皇の一人、『三国志』の「秦」国天子である。

すなわち、武諸遇が和珥臣の祖で、祖父紀伊荒川戸俾は『古事記』に、崇神天皇の妃「木國造名荒河刀弁之女遠津年魚目々微比賣」と木國造と呼んでいる。

さらに、物部武諸遇の叔父の十市根の妃が「物部武諸遇連公女子時姫」と物部武諸遇の娘が叔父の世代と逆転し、大連賜姓も崇神天皇「六十五年春正月武諸遇命為大連」、垂仁天皇「二十三年大臣大新河命賜物部連公姓即改大臣号大連」、「八十一年春二月壬子朔五大夫十市根命賜姓物部連公即為大連」と逆転し、十市根の妃は尾張氏建諸隅の娘と思われ、十市根と大新河は姉妹を妃にした。

建諸隅の父の、十市縣主大目と思われる建斗禾の子の建宇那比の妃は木国造の娘の節名草姫で、建諸隅は木国造・十市縣主を引き継いだと考えられ、十市根は木国造・十市縣主の建諸隅の娘の時姫を妃にすることで十市王、大新河は紀伊国造建諸隅・荒川戸俾の娘の中日女を妃にすることで、「たけもろづみ(津神)」を襲名したと考えられる。

建諸隅は葛󠄀木直の祖の大倭根子日子国玖琉命の子の大諸見(諸神)足尼、すなわち、葛城垂見(神)宿禰の娘の諸見巳(神子)姫、すなわち、鸇比賣を妃にすることで大倭根子の名目上の皇位を得、大彦の物部朝廷には沙本毘賣を妃にして、開化天皇建諸隅の子の坐王・沙本毘古・丹波道主弟彦が天皇になり、物部朝廷の一人の伊香色雄は「倭志紀彦女真鳥姫」を妃にすることで志紀を得て、建新川が倭志紀縣主の祖となった。


0 件のコメント:

コメントを投稿