2018年7月30日月曜日

最終兵器の聖典 神武天皇1

 私は、『古事記』をはじめ編年体風に書かれた『先代旧事本紀』・『日本書紀』も含めて紀伝体で書かれている述べてきた。
そして、神武天皇を筆頭にすべての1天皇は1人でなく複数人存在し、私は天皇というのを夫婦と長男と姉妹を一纏めにした家が天皇で、大小の王朝を創始した家を複数一纏めにしたものが神武天皇なのだと主張してきたので、神武天皇すらも一王朝で複数人存在し、「四方志」を書いたように四王朝以上の王朝の神武天皇が存在するからだ。
天皇は義兄弟と婚姻したと記述するが、姫は財力がある限り家から外に出ることは少なく、婿を取って生まれた姫は本家の長男にとって義兄弟となり、現代で言えば従弟にあたり、長男の長男も神武天皇だ。
姫を天皇に嫁入りさせるのは、天皇に臣従した証で、王朝が変わるときは、新しい王が婿入りし、婿入りした宮が首都となる。
 隠岐の島後を「大島」、その神を始祖神として「大神」とよび、その民を「大人」、その国の中の中心国を「大国」、「大国」と同盟する国々の王を「大王」・「大臣」・「大連」とよび、出雲国は大国の領国で大国が支配する領域が「日本」だ。
中心国を大国と呼び、祀る神を大神とよぶ国神達を取り込んだ新しい国家、いわゆる縄文人と弥生人の混血国家、漁師の小さな島に住む人々と大きな領土を持つ農耕の民との混合国家を誕生させたのが神武天皇と呼ばれる人々だ。
 日本には古代を記述した史書が3冊残っていて、それは、『古事記』・『先代旧事本紀』・『日本書紀』の3冊で、そこには日本建国の王が記されている。
その王の名前は『古事記』が「若御毛沼命、亦名豊御毛沼命、亦名神倭伊波礼毘古命」、『先代旧事本紀』が「日本磐余彦天皇亦云彦火火出見尊即少年時号狭野尊」、『日本書紀』が「神日本磐余彦尊諱彦火火出見」と名前は一定しないが、「磐余彦」は同じだ。
私は『古事記』を読んで王名に亦の名があることに違和感を感じたが、なぜなら、王というのは本来1人で名前すら呼ばれることが無いはずなのに、複数の名前が付けられているということは、区別しなければならない王が存在することを意味するのである。
諱などと後代の風習と同じ言葉のため、古代に当てはめて知ったかぶりをしている学者がいるが、諡号なら公に発表するから解るが、だれも知らない生前の名前なのに皆が知っているという重大な矛盾を生じてしまい、本来『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』「池邊大宮治天下天皇」のように宮名で天皇を呼ぶ。
『日本書紀』の諱も神武天皇以外の天皇では「億計天皇、諱大脚 更名大爲」と仁賢天皇のみ出現し、どちらかと言えば幼名や改名前の名に近く、この億計天皇 は『隋書』に「名國王爲乙祁」と名前を堂々と慧深が述べていて、諱と更名も意味合いが違うようだ。
しかも、「神日本磐余彦」などという如何にも「神日本」という国の「磐余」という邑の邑長のような名前が付けられていることに違和感を感じざるを得なかったし、さらに、史書によって出発地も順も人も違うのである。

2018年7月27日金曜日

最終兵器の聖典 天皇誕生2


 皇位継承者が決まらない時、たとえば19歳で有間皇子が皇位を簒奪しようとした時に『日本書紀』の「人諌曰 不可也 所計既然而无徳矣 方今皇子年始十九 未及成人 可至成人而待其徳」と20歳未満は未成人と言っている様に天智が天皇即位年齢に達していなかったため、物部氏・蘇我氏・天氏の血を引く蘇我氏 の宮の姫の豊財重日が中宮天皇として皇位を継承し、子の天智に引き継いだのである。
天皇というものは、天皇が20歳以上で天皇の璽を持ち皇位継承者の皇太子が存在して皇太后を持つ宮殿があって初めて皇位に就いたと言え、応神天皇はが3歳で皇太子に就任しているが、この時期の実際の天皇や皇太子は品陀和氣ではなかった。
大臣や大連・皇太子は同等の権力を持っていて、特に大臣は他王朝の皇太子で、自王朝の皇太子と同じ権力の大王であり、天皇は祭祀を司どる象徴で実質は皇太子や大臣が統治者、王朝交代時では大臣イコール皇太子の可能性があり、『先代旧事本紀』「修撰未竟太子薨矣撰録之事輟」の太子の薨去は馬子大臣のことで馬子も聖徳太子と考えられる。
神武東征以前の畿内の地は東鯷国が少なくとも紀元前660年から統治していて、『先代旧事本紀』に「伊香色雄命 此命春日宮御宇天皇御世以爲大臣磯城瑞籬宮御宇天皇御世詔大臣爲」と伊香色雄が天皇と同等の大臣となって、「天祖授饒速日尊自天受來天璽瑞寶同共蔵齋号日石上太神」と紀元前157年に実際は伊香色雄かどうか解らないが璽を得て、まさしく天皇となった。
そして、その璽は「捧天璽劔奉於正安殿」と神武天皇に授けたのではなく宮に飾られ、『日本書紀』の「允恭天皇元年」「皇子將聽羣臣之請 今當上天皇璽符」と412年に璽が允恭天皇に移動して物部氏が天皇ではなくなった。
そして、物部氏は『日本書紀』に紀元前91年「崇神天皇七年・・・物部連祖伊香色雄爲神班物者」と伊香色雄が、『先代旧事本紀』の「大新河命此命纏向珠城宮御宇天皇御世元爲大臣次賜物部連公姓」と大新河が物部姓を賜って姓の無い天皇から姓のある臣下になった。
尾張氏も同様に『先代旧事本紀』の「尾綱根命・・・品太天皇御世賜尾治連姓爲大江(江は原文のまゝ臣?)大連」と尾綱根が尾張の氏姓を賜って、『古事記』応神記に「娶尾張連之祖、建伊那陀宿祢之女」、『日本書紀』允恭紀に「遣尾張連吾襲」と記述され以前は連を使っていない。
『古事記』と『日本書紀』は2代ズレ、『日本書紀』も「廿五年。百濟直支王薨」と応神天皇の項目が允恭天皇の時代の420年の直支王死亡記事を記述し、『先代旧事本紀』の品太天皇も允恭天皇のことと考えられる。
すなわち、『先代旧事本紀』の尾張氏の神武の項に「詔椎根津彦・・・大倭連等祖也」として神武建国前に大倭があるので、紀元前157年に物部氏が東鯷国(神国)を引き継ぎ大倭国として、紀元前91年に尾張氏が畿内を侵略し、紀元前28年に尾張氏が政権を完全奪取し、東鯷国が滅亡して『日本書紀』「垂仁天皇二年・・・于斯岐阿利叱智于岐。傳聞日本國有聖皇」と国号が日本国となり、412年に巨勢氏が書いた『古事記』では天皇名が「品太」と天皇になり、『日本書紀』では允恭天皇が璽を得たことから政権を奪取して『梁書』に「扶桑國者 齊永元元年 其國有沙門慧深來至荊州」と国号が扶桑国になった。

2018年7月25日水曜日

最終兵器の聖典 天皇誕生1

 天皇は複数の王が現れた時に王の王である大王・天皇が現れたとしてきたが、大王は『隅田八幡神社人物画像鏡』の「癸未年八月日十大王」この「日十」は『日本書紀』の「遂作太子彦人皇子像與竹田皇子像厭之」の太子「彦人」で皇太子彦人を大王と呼んだ。
また『日本書紀』の「更名豐耳聰。聖徳。或名豐聰耳。法大王」、『上宮聖徳法王帝説』でも「于時多至波奈大女郎 悲哀嘆息白 畏天之雖恐懐心難止 使我大王与母王如期従遊」と聖徳太子も大王と呼ばれた。
それは当然で、天皇の子たちの多くが王を名乗っているのだから皇太子も王よりも偉い王で、私は立皇太子が天皇即位としたが、息子に大王の皇太子がいる王が天皇だとも言える。
立皇太子以前も長男は皇太子なのだから、天皇という大王と皇太子という大王が2人存在することになり矛盾を生じるが、実際には大王の中の皇太子を持つ大王が天皇で、『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』の「小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王」や『上宮聖徳法王帝説』の「小治田大宮御宇大王天皇」と大王天皇と記述され、『日本書紀』の「允恭天皇即位前紀」の「願大王雖勞 猶即天皇位」のように大王が天皇に即位している。
皇太子も大王なのだから、日本で王が誕生し、王という地位を与えた時すでに1人は大王、王子2人以上の王が存在した時、皇太子は大王と考えざるを得ないので、『日本書紀』の「和珥臣達祖姥津命之妹姥津媛生彦坐王」と天皇・皇太子以外を王と呼び、『古事記』でも「彦坐王」「比古由牟須美王」「讃岐垂根王」など開化天皇の時初めて天皇と呼ばれたと考えてもよさそうだ。
しかし、わたしは皇太子が天皇と同等としたけれど、立太子時に残った前天皇が更に長く在位していて混乱が起こらないのか不思議に感じていた。
現に、垂仁天皇の時は景行・成務・仲哀・神功と並行して天皇が存在することになるが、それだからと言ってそれほど混乱していないが、混乱しない理由は天皇に半分実態が無いのではと考え、13歳以上の皇太子のいない天皇は天皇というシステムを持たないのではと考えた。
天皇が即位すると「宮」を決め、前王の陵を作り、「尊皇后曰皇太后」と皇太后が即位しているのだが、複数の長男が継承する時はこの儀式がなく、長男は同族の姫が輿入れ若しくは通い婚をして、長男がいない天皇や長男が13歳未満のとき、13歳以上の皇子がいる分家の王に皇位が遷り後継の姫をも皇后として手に入れるのである。
すなわち、天皇と宮があり、そこに皇后や皇太后が存在し、さらに宮を相続する姫が存在して王朝が続くのであり、長男以外は他の宮に婿入りして、その先の舅の力で皇位を継承するのだと理解できた。
宮は長男と未婚の姫が継承して、長男が天皇に即位する時その長男が13歳に達していないと他の宮の天皇家の姫から生まれた人物が相続することになる。
他王朝が政権を奪う場合は、皇位継承者である長男を排除して宮を継いでいる姫と璽を手に入れ、その子が皇太子となった時、国をまとめることができるのである。
いわば天皇即位とは大王が『日本書紀』允恭天皇「天皇之璽符 再拜上焉・・・乃即帝位」と大王や大臣・大連という大王が姫と璽を手に入れ、次の安康天皇の時「即天皇位 尊皇后曰皇太后」と子が継承しその前王朝の姫の皇后が皇太后となった時に完全に即位したと言える。
宿禰という役職名が消えて『古事記』「穴穂御子、坐石上之穴穂宮」のように穴穗と宮の名前そのものが名前、穴穂宮の「御子様」、「宮様」となる。

2018年7月23日月曜日

最終兵器の聖典 日本史誕生3

 古代は通い婚で姫が生まれ婿を迎えるために宮が造られ婿を迎え入れた時から宮年齢が始まるので、天皇に就任する時はその天皇に13歳以上の皇太子が必要で、皇太子が実質天皇にあたり、既に少なくとも2代目ということになる。
そして、その記録が『先代旧事本紀』で、紀元前660年建国の王朝を受け継いだ物部氏であるがために歴代の年干支・日干支が残され、『日本書紀』では神武元年以降年干支を含めた日付は記述されず天皇何年と月・日付とが記されている。
『先代旧事本紀』の最後の正しい日干支・年干支が記述されたのは「元年歳次丙午春正月壬子朔」の用明天皇元年で、これ以降は日本書紀と合わないため、何時の事柄か特定できないように年干支を削除したのだろう。
そして残った記録を基に日干支を付加していって、誤差の少ない干支が割り振られたのであり、間違っていたり、是年や是月などは記録と合わない干支だった可能性があり、また、全く見当違いの干支が割り振られているものは、挿入場所を変えた可能性がある。
そして、その記録を残す方法は不明だが、『古事記』に「坐高千穂宮、伍佰捌拾歳」と580年間続いた記録が残っていたが、『古事記』を書いた王朝が記録を残し始めた頃にまだ高千穂の宮が残っていて、その記録も残っていたことが解る。
その記録が『日本書紀』の履中紀403年「記言事達四方志」の記事で高千穂宮は紀元前180年頃から始まって、『日本書紀』・『古事記』の神話に流用されたのではないか。
また、『日本書紀』仁賢天皇紀に「億計天皇之宮有二所焉。一宮於川村。二宮於縮見高野。其殿柱至今未朽」と『日本書紀』の仁賢紀を書いた、少なくとも推古天皇のころまで仁賢天皇の宮が残り、その宮に『古事記』の原本が残っていた可能性が高い。
その残った『古事記』の原本に武烈天皇以降を継ぎ足した可能性が高く、『古事記』の原本は『梁書』の「有文字,以扶桑皮爲紙」と扶桑の木の皮を剥いで史書を記録して『古事記』の原本を残したのだろう。
日本には古代文字というものが遺物で残り、『山海經』の時代から扶桑の木を重要視し、漆やタールを接着剤や防腐剤に使っていたようで、これらは素手で使うとかぶれるので、筆様の道具を使ったと思われる。
干支の記録に扶桑の皮を使い、漆やタールを筆に付けて墨替わり、糊替わりとして、古代文字で扶桑の皮を接着した巻物に書かれて、高千穂の宮に残ったと言われても私は驚かないし、伊都の地域には硯や文字を書いた土器が出土し、「硯が渡って文字は渡ってこなかった」ことを信じられない。
私は『上記』という古代文字をひらがなに写し替えたものを読んだことが有るが、私には原文を解釈できないので翻訳者すら信頼できないが、この翻訳文書は漢字をひらがなにした文や、『日本書紀』の「四方志」の記事が書いてあり、早くて5世紀に書かれた漢字を知らない人のために書かれた地方文献なのだろう。
漢字を知っているのに、わざわざ古代文字を考える酔狂な人物は考えられないので、漢字が行きわたる前に古代文字が行きわたっていた地域が有ったことを物語っていて、『室見川銘版』の「延光四年」125年には室見川周辺に篆書と漢字を書く能力が有る周時代から中国と交流のある政権が応神天皇以前に存在した。

2018年7月18日水曜日

最終兵器の聖典 日本史誕生2

 すなわち、中国人も日本人も「羲和」以降1年366日と知り、民間の2倍年歴と朝廷内の1年366日が併存していたか、2倍年歴は「羲和」以前の伝説であった可能性が高く、日本では夏至・冬至・春秋分・北極星を示す巨石が下呂近くの岩屋岩陰遺跡に残っていてどちらが早いか解らないが「羲和」以前から1年366日を知っていた可能性もある。
そして、『史記 本紀 周本紀』に「武王即位・・・二月甲子昧爽武王朝至于商郊牧野乃誓 武王左杖黃鉞右秉白旄以麾」と干支が記述され、周の武王の頃の伝説に二月は卯月で月干支甲子は十一月なので日干支や帝堯の月は何とも言えないが周代に現代で言う陰暦の一月から十二月があった、少なくとも冬至などの節気と朔日の干支を知っていたことが解る。
私と同じ計算で『日本書紀』を書いた人々が「辛酉年春正月庚辰朔」を導き出すにはグレゴリー暦を知っていて、1年365日で4年に一度の閏年が100年に1回抜け400年に一回抜かないことを知っていなければならない。
しかし、春秋戦国に書かれた『尚書 堯典』にも「咨 汝羲暨和 朞三百有六旬有六日 以閏月定四時成歲 允釐百工庶績咸熙」と「堯」が1年366日として、『尚書 舜典』に「十有一月朔巡守至于北岳如西禮 歸格于藝祖用特」と「舜」の時に月齢による暦をはじめ、『尚書 周書 武成』に「惟一月壬辰」と日干支が始まった伝説を残し、『尚書』内でその原則が守られ、「堯」以前に年を書かず、「舜」以前に何月と書かず、「武成」以前に日干支を書いていないが、以降の例は多数ある。
すなわち、紀元前660年の旧暦1月1日の干支が『日本書紀』作成時まで残っていた可能性があり、すでにこの頃には干支が日本に伝わり、使用していた集団は饒速日の妃御炊屋姫や義兄の長髓彦の先祖で神(辰)国の創始者の伝説の可能性がある。
建国の紀元前660年の「辛酉年春正月庚辰朔」より以前、紀元前666年の「乙卯年春三月甲寅朔己未」建国以前にも干支が同じようにあり、既に干支を使う勢力が初代王者以前に存在していたことも証明される。
8世紀の人々が紀元前658年・661年にも閏月が有るのに元旦の干支が解るということはこの年の夏至と冬至を計算でき12の中気が何時なのか、そして、グレゴリー暦が解らないと朔日の日干支を知ることは不可能なのだ。
因に一月朔日が庚辰の年は紀元前では660・634・603・510・293・267・200・169・143・76・19年で「辛酉年春正月庚辰朔」は紀元前700年から20世紀までに紀元前660年のみで、その前年の「庚申年秋八月癸丑朔戊辰」も紀元前661年と西暦420年しか存在せず全く不定期で偶然の一致は期待できない。
従って、欠史8代の天皇の即位記録の干支は何らかの形で残った記録の可能性が高く、神国の何らかの、例えば冬至の日干支や元旦の日干支の記録が残っていて、日本書紀はそれを使用して干支を付加していったと考えられ、これは『日本書紀』の長い在位期間が神国の宮の期間の可能性を表している。
「七十有六年春三月甲午朔甲辰 天皇崩于橿原宮 時年一百廿七歳」は政権を持った橿原宮(宮の名前は不明で便宜上の仮説、以下同じ)の統治期間が紀元前660年から76年間の紀元前585年までで、橿原宮は127年間続いたことを意味し、「卅三年夏五月 天皇不豫 癸酉崩 時年八十四」は高丘宮が出来て紀元前549までに33年間統治して宮は84年続いたことを意味する。

2018年7月16日月曜日

最終兵器の聖典 日本史誕生1

 私は暦の基準を知りたくて、紀元前700年から現代に至るまでの西暦カレンダーを作って日干支を当てはめ、さらに、太陽運行から中気、月の運行から朔日を当てはめ、月名を決める春分・秋分や夏至・冬至などの中気の無い月を閏月とする方法で標準太陰暦を作り上げた。
ここで、『日本書紀』神武元年「辛酉年春正月庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮 是歳爲天皇元年」の記事だが、私の標準カレンダーの朔の日干支と紀元前660年の年・日干支が符合して、「二年春二月甲辰朔乙巳」も同じ、「四年春二月壬戌朔甲申」は大小の月の関係か1日違い、「卅有一年夏四月乙酉朔」は同じである。
紀元前667年は7月に閏月があり、十・十一・十二月の記事があるが一月前に干支がズレていて、この時は十二月に閏月を付加と考えられ、紀元前477年・紀元前94年も共に閏月があって1月前後にズレ、閏月が原因で1月ズレるという想定内の理由でズレている。
『日本書紀』の朔日の干支を全て確認したが、ほとんど計算通り、一部大・小の月が原因の1日、一部丁度閏月が原因で1月ズレるが、これは朔がほゞ正しく、『日本書紀』の朔が計算であれば私の計算とズレることは無く、ズレるなら一定の割合でズレるはずなのだから計算で無かったことを意味する。
私は史書の中に計算で求めた日干支を一つだけ知っていて、『続日本紀』の文武元年「元年八月甲子朔 受禪即位」、『日本書紀』では「八月乙丑朔 天皇定策禁中禪天皇位於皇太子」で『続日本紀』が計算通り正しいが『日本書紀』は1日ズレている。
これは、『続日本紀』が普通皇位継承は朔日にするもので計算では朔日が甲子だったので乙丑から書き換えたことを意味している。
前漢武帝時に書かれた『史記 本紀 五帝本紀』に「帝堯者・・・命羲和敬順昊天數法日月星辰・・・歲三百六十六日以閏月正四時・・・三年矣 女登帝位 舜讓於德不懌 正月上日」と帝堯が1年を366日で正月や閏月を知り、ここから『史記』は年数を記述する。
約4000年前の遺跡の大湯環状列石・伊勢堂岱遺跡などに日時計型組石があり、夏至・冬至の時の太陽の運行に合わせて作られたといわれ、1年が幾日かわかっていたのだから、堯が知らないとは言えない。
そして、堯が暦を創らせた羲和は『山海經 大荒東經 大荒南經』に「羲和者帝俊之妻是生十日」と記述され羲和が生んだ国が関東にあたり、町田市田畑遺跡に縄文中期のストーンサークルがあり、石柱を結んだ線は冬至に太陽が沈む方向を向き、帝堯を大荒南經の地に葬った。
『尚書 堯典』にも「乃命羲和,欽若昊天,歷象日月星辰,敬授人時。分命羲仲,宅嵎夷,曰暘谷」と羲仲が島夷の暘谷に住み、『山海經  海外東經』に「君子国」と「青丘国」の間に「朝陽之谷」がある。
『淮南子 墬形訓』に「暘谷 榑桑在東方」、『天文訓』に「日出於暘谷,浴于咸池,拂於扶桑,是謂晨明。登於扶桑,爰始將行,是謂胐明」、『山海經  海外東經』の「下有湯谷。湯谷上有扶桑」と扶桑の地に「暘谷」=「 朝陽之谷」の「羲仲」とともに「羲和」が暦を作った。
「羲和」は日本の関東と思われるところに国を作っていたのであり、私は「暘谷」を「甲府や諏訪では」と思った。

2018年7月13日金曜日

最終兵器の聖典 天降り・国譲り3

 「大倭日子鋤友」は大の倭の国の配下の意味で、「大倭帯日子」の「帯日子」が大の倭という地域の支配者で『隋書』に俀国王を「多利思北孤」と呼んでいることからわかるが、天皇に官名は不要で「帯日子」は天皇の配下で、『日本書紀』の「藥豐足臣之子」と豊国を支配する臣の子薬と紹介しているように、天国を支配する彦で自身も「號阿輩雞彌」大王と呼ばれ、皇太子彦人を『隅田八幡神社人物画像鏡』で「日十大王」と呼んでいる。
「神沼河耳」は「葛城高岡宮、治天下也」と記述され、『古事記』においては葛城氏が天皇であるため自分に葛城という氏姓を使うことがなく、氏姓を持たないのが天皇で、『古事記』においては「品陀和気」になって初めて天皇と呼ばれた。
『古事記』と『日本書紀』の天皇名が同じであるということは、『日本書紀』が『古事記』の天皇名をそのまま使って継続して書いた事を物語っていて、「品陀和気」の子たちによって史書の作成が始まったことがわかり、宮の場所も葛城氏の宮とまず考えるべきだ。
また、銅鐸が最初に消えた場所から徐々に、神武天皇の侵略で加速度的に銅鐸の国東鯷国は浸食され、銅鐸が消えた時完全な政権交代が起こって、現在の日本国の前身若しくは実際に日本国が建国された。
君を含めた『日本書紀』で記述される国造の祖は、「大彦命 筑紫國造 越國造」と大国主が嫁探しをして得た国で、日本は『日本書紀』を記述した国大国は出雲と同体で筑紫国と越国は同盟国と述べている。
そして、『先代旧事本紀』には「天湯津彦命 安藝國造等祖」・「天三降命 豐田菟狹國造等祖」・「下春命 武蔵國造等祖」・「誕生彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊次 武位起命 大和國造等祖」の4国で、しかも、神武東征前に大和が叔父の領地になってしまっている。
しかし、『古事記』では「天菩比命之子建比良鳥命・・・祖也」・「天津日子根命者・・・祖也」・「槁根津日子此者倭国造等之祖」・「神八井耳命者・・・祖也」の20余国がすでに建国前に有って、すなわち東鯷国が有ったところにあとから国造を任命したことを意味する。
この項では、天降は漁師の国(海人)の人々が交易で全国を回り、交易相手国に婿入りしたことを意味し、国譲りは 大巳貴から大国主が大国を奪ったことを意味し、その領域が国造の祖として記述されていることを示した。
そして、神話は国引き神話が「八束水臣津野」の神話を書かれてもいない大国主の神話と言われるように、大穴牟遅と大己貴と大国主を同一の神と見做して別々の神話を流用し、その方法は国造・国譲り・神武東征も受け継がれ、さらに天皇も流用されることとなる。
建国者神武天皇も物部朝神武・尾張朝神武・葛城朝神武・天朝神武と複数人存在し、聖徳太子も天氏の太子「利歌彌多弗利」、物部氏の太子「恵佐古」?、蘇我氏の太子「馬子」を一纏めにして記述していることが解る。

2018年7月11日水曜日

最終兵器の聖典 天降り・国譲り2

 『先代旧事本紀』で「先産生淡路州為胞意所不快故日淡道州」としているのも『古事記』と同じ用例で淡路島を「磤馭盧嶋」にしたことを意味し、「高皇産靈」を「伊弉諾・伊弉冉」と同等の国を産んだ神としているのだから「高皇産靈」は「淡路島で国産みした」と記述した神話が有ったのだろう。
淡路島を支配する「高皇産靈」の姫「栲幡千千姫」と「天照大神」の子の「押穂耳」の子の「饒速日」が『先代旧事本紀』の「饒速日尊襄天神御祖詔乗天磐舩而天降坐於河内國河上哮峯則遷坐大倭國鳥見白」と東鯷国に倭人として初めて侵入して、「長髓彦妹御炊屋姬爲妃誕生宇摩志麻治尊」と長髓彦が支配する土地の姫御炊屋姫との間に宇摩志麻治が生まれ、東鯷国王の閨閥に入った。
「飛降者是饒速日」と 天降らず飛降りたのは跳躍するように自領ではない土地を飛び越えて「飛降」と表記しただけで、空から飛び降りたのではなく、軍隊では他国領を通過すれば戦乱となるので、軍隊ではなく大和に1人で婿入りしたに過ぎないと思われる。
長髓彦の国は中国では「東鯷国」・自分たちは「神(シン)国」と呼んで銅鐸を祭祀の中心として『漢書 地理 呉地条』に「會稽海外有東鯷人 分爲二十餘國 以歳時來獻見云」と記述され日本海に東鯷人がいて銅鐸が見つかる地域は東鯷国の領域と考えら、前項の『山海經』に出現する「大人国」・「君子国」・「三身国」などの連合体だ。
『古事記』の「神八井耳命者・・・火君大分君阿蘇君・筑紫三家連・・・伊余国造・科野国造・道奥石城国造・常道仲国造・長狭国造・伊勢船木直・尾張丹波臣・島田臣等之祖也」などは東鯷国を含み、「長狭国」は「淡道之穂之狭別島 」の対岸の国、「火君・大分君・阿蘇君・筑紫三家連」は『後漢書』の「自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種 而不屬女王」、続いて『三国志』の「其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王」と倭国の東から南に押しやられた「拘奴國」の領域と重なる。
穂日の出雲国譲り、稚彦の葦原中国の国譲り、忍穂耳の伊都国の国譲り、饒速日の大倭の国譲りが3書によって終わり、忍穂耳の子の火瓊瓊杵が伊都国、穂日が出雲、饒速日が神倭の王となったが、実際はその地に見染められて婿入りした程度と思われる。
そして、『古事記』に「天菩比命之子 建比良鳥命此出雲国无耶志国上菟上国下菟上国伊自牟国造津島県直遠江国造等之祖也 天津日子根命者凡川内国造額田部湯坐連茨木国造倭田中直山代国造馬来田国道尻岐閉国周芳国倭淹知造・高市県主蒲生稲寸三枝部造等之祖也」と国譲りされた出雲は山口県から関東を領有する大国だったことが解る。
上記の神八井耳と菩比と天津日子の「国」は16国で君がいる王国が3国そして出身国大国で併せて21国は『漢書』の「會稽海外有東鯷人 分爲二十餘國 以歳時來獻見云」と符合する。
また、国譲りも大国主から譲られたとしているが、内容は「事代主」を自殺させ、「建御名方」を「科野国之州羽海」に追放して『古事記』の「出雲国之多芸志之小浜、造天之御舎」と宮殿を大国主のために造っていて、あたかも「事代主」と「建御名方」から国を奪って「大国主」が出雲の王になった説話としか読めず、「大巳貴」の子たちから「大国主」が国を奪った説話なのだろう。
国譲りされた「天津彦彦火瓊瓊杵尊」は王の名ではなく「天津彦」と官名を持っていて、実際は「天降於日向襲之高千穗峯」と高千穗に大国主の命令で赴任した程度なのだろう。
「饒速日」が天降った後、『古事記』の神武天皇の「若御毛沼命、亦名神倭伊波礼毘古」が安芸から三輪神を崇拝する土地に侵入し「宇摩志麻治」と友好関係を持ったと考えられ、「神倭伊波礼毘古」・「神沼河耳」と「神国」に従属して耳の官名ももらって、神国の配下となっている。

2018年7月9日月曜日

最終兵器の聖典 天降り・国譲り1

 『山海經』に書かれた国々に対して、「蓋國在鉅燕南,倭北。倭屬燕」と独立した文章ではなく蓋国の説明として倭地に触れただけで、倭は『遼史』に「辰州,奉國軍,節度。本高麗蓋牟城。唐太宗會李世攻破蓋牟城,即此。渤海改爲蓋州,又改辰州,以辰韓得名」と記述されているように蓋州・辰洲に付属していた。
『論衡』に「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」、『漢書』に「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」と周以降秦まで周などに朝貢していたと書かれる倭は、『山海經』の対象時は倭と言われた地域が国ではなく「大八島」建国の前段階で「六合」の地に居住していたという話だ。
『魏略 翰苑』の「自謂太伯之後 昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身 以避蛟龍之害 今倭人亦文身 以厭水害也」は成王の時朝貢したということ、河姆渡遺跡周辺に倭人が『山海經』に「捕魚海中」と漁業や漆が出土するように交易のため訪れており、同じ風習をもっても不思議ではない。
三身国というのは、『山海經』「帝俊生三身,三身生義均,義均是始為巧倕,是始作下民百巧。后稷是播百榖。稷之孫曰叔均,始作牛耕。大比赤隂,是始為國。禹、鯀是始布土,均定九州」と帝俊が生んだ国で舟を使い、中国が知る初めての国、百穀を耕作した九州を言った。
周が建国した頃には「大八島」に倭が領域を広げて周朝に越を頼って貢献し、『日本書紀』で神武天皇が事代主の地に侵略したのだから、神武建国前、事代主が上記の「三身国」筑紫に侵略したのが「支石墓」から「甕棺」に祭祀が変わったときで、倭国は甕棺の国に侵略して糟屋郡に建国し、糟屋郡近辺が最初に甕棺を消失させた。
同じころ『古事記』に「御合生子、淡道之穂之狭別島 次生伊予之二名島」と「狭」国の分国淡路島の穂の出身の大物主が安芸の津島さらに安芸国本土に侵略して瀬戸内を支配し、また、大国主が出雲で建国して「大国主神、娶坐胸形奥津宮神・・・」と素戔嗚の地、事代主の地の筑紫と建御名方の地の越、これは丹波や敦賀と思われる地を婚姻で支配したと述べている。
これらを神武東侵に含めないのは素戔嗚が『古事記』に「其櫛名田比売以久美度迩起而所生神名謂八島士奴美神」、天穗日が『日本書紀』で「然此神侫媚於大己貴神」、天稚彦は「來到即娶顯國玉之女子下照姫 吾亦欲馭葦原中國」、饒速日は『先代旧事本紀』で「饒速日尊使娶長髓彦妹御炊屋姬爲妃令妊胎矣未及産時饒速日尊既神損去」と嫁取りして国を領有しているからだ。
新しい支配者が婿入りして子を成してその子が国を治めることで国を存続させる古来の閨閥政治・母系国家を表し、武力ではなく、婚姻で新たな地を開拓することが「天降り・国譲り」で、武力で侵略したのが「神武の東征」だが、やはり、侵略地の姫を娶ってその子の綏靖が王となることで政権が安定した。
国譲りの最初は『古事記』の「八上比売、答八十神言、吾者不聞汝等之言、将嫁大穴牟遅神」と大穴牟遅が八上比売を娶って大国を、「八千矛神、将婚高志国之沼河比売」(「八千矛神」は「八」国の尊く目出度い矛の意味で「八束水臣津野」の神にふさわしい)と高志国を得、「速須佐之男命詔其老夫是汝之女者奉於吾哉」と速須佐之男が櫛名田比売を娶って出雲を得、「大穴牟遅神曰・・・大国主神、亦為宇都志国玉神而、其我之女須世理毘売、為適妻」と大国主が大穴牟遅から須世理毘売を娶って出雲を奪い、「此大国主神、娶坐胸形奥津宮神 多紀理毘売命」と須佐之男から多紀理毘売を娶って宗像を奪った。
「底津石根宮柱布刀斯理」は『古事記』で「呼謂大穴牟遅神曰・・・為大国主神、亦為宇都志国玉神而、其我之女須世理毘売、為適妻而、於宇迦能山本、於底津石根宮柱布刀斯理」と大穴牟遅が大国主に述べているが、国譲り後にも天神御子に「更且還来、問其大国主神・・・唯僕住所者如天神御子之天津日継所知之登陀流下効此 天之御巣而、於底津石根宮柱布斗斯理」と大国主が述べていて、大国主が大穴牟遅から政権を奪ったことを天神御子が流用している。

2018年7月6日金曜日

最終兵器の聖典 国の誕生3

 さらに、「扶桑国」は『梁書』に「宋大明二年 賓國嘗有比丘五人游行至其國 流通佛法 經像 敎令出家」と457年に仏教が始まり「齊永元元年 其國有沙門慧深來至荊州」と僧が訪中している499年に「國王爲乙祁」と国王が「乙祁」と呼ばれている国は『古事記』の「袁祁王兄意祁王坐石上広高宮治天下也」と仁賢天皇の崩御翌年である。
『山海經』の縄文の国の時代から続く扶桑という地域あったという常識は西暦500年以降まで続き、日本人自ら名誉ある地域の名・歴史ある名と自負していたことが解り、扶桑という言葉自体が元々日本語であった可能性がある。
縄文の国に対して倭人の国は、『山海經』の時代より後に「伊奘諾伊弉冉」大神が6合も含めて大八島を国産みしたが、『古事記』も『先代旧事本紀』も、淡路島を建国の地とする神話になっている。
さらに『古事記』では「天之御中主神 次高御産巣日神」と高御産巣日の地を御中主神が奪い、『先代旧事本紀』では「伊弉諾尊 天降陽神 伊弉冉尊 天降陰神 別高皇産霊尊」と高御産巣日が天皇の璽を渡す主役になって出現して、淡路島の高天原を建国の地とした高御産巣日が最高位の神と述べているようで、高御産巣日の神話を御中主神が拝借したようだ。
高御産巣日が淡路洲で国産みした神話を打ち消すため、『日本書紀』は「及至産時 先以淡路洲爲胞 意所不快 故名之曰淡路洲」と恥の島と呼んで高御産巣日の国を滅ぼし、『先代旧事本紀』を記述した時代は高御産巣日の子孫が日本を支配していたことになる。
『日本書紀』の神話対象時代、大八島の対岸の本州・九州・四国では『山海經』で述べたように「義均」などの「八」国と同族の国が存在していて、天照大神の末裔が本州を支配するのは後のことで、青銅器が流入するころになる。
「天照大神」の子自体が「天忍穂耳」と「八」国の官名「耳」を与えられ、天降った「彦火瓊瓊杵」は「天津彦」という天国の官名を得て、官名があるということは王では有り得ない。
『先代旧事本紀』には「伊奘諾伊弉冉」が国産みする以前に「主・国造・直・首」の官位を持つ人々の神々が記述され、物部氏は倭以前の国々を統治したことを宣言していて、「八」国を支配したということで、これらの官名の古さを示している。
 「八」国の構成国が誕生していて、中国の神話の5帝が活躍する時代のことを書いた『山海經』には『海内東經』という黄海を書いた部分に、670年建国の新生日本の前身の「倭」が書かれて、倭は黄海にあったとされ、まだ国と呼ばれていない。
素戔嗚が出雲で「八岐大蛇」と戦い「草薙劔」を得ているが、州をクニと呼び、島を州とし、壱岐も州でクニ、岐もクニの可能性が有り八国の大という地域の蛇神を祀る人と戦ったという意味だ。
君子国を頂点に多くの国の盟主となり、主や耳といった官名をもち、政務を宮で行った、『漢書』に「分爲百餘國」と記述される前身の国・地域が『山海經』に記述された地域で、漢時代に倭の別種が君子国の地位を奪ったと考えられる。
東アジアには中国が国と呼べない時代から国と呼べる国が多く存在し、特に日本列島に国が集中して存在し、中国の伝説の神々が日本列島で活躍していたことが解り、さらに、中国象形文字の前段階の文字「大・人・神・三・九・州・国・身」などの古字を日本側も共有していた可能性もある。


2018年7月4日水曜日

最終兵器の聖典 国の誕生2

 『太平御覽』に「十洲記 曰 神洲東海中地方五百里」(『海內十洲記』には「祖洲近在東海之中,地方五百里」)と対馬より大きい国(済州島?)は『山海經 海內東經』の「大人之市在海中」と『出雲風土記』の「栲衾志羅紀乃三埼矣」と関連し、間違いと言いきれない。
大国建国時、出雲は蛇の目のような玉を耳飾りにし、尾のような石刀を帯び、龍頭のような冠をした君子国の官位「宮主」をもつ地域であったが、大国の勢力を増し、若狭湾近辺まで勢力下にした頃が『山海經』の背景と考えられる。
『古事記』の「迫到科野国之州羽海将殺時建御名方神白恐」と建御名方は君子国に逃げ、崇神天皇の時もまだ『古事記』に「大毘古命者遣高志道其子建沼河別命者遣東方十二道而」と高志はまだ「大神」の国とは別国君子国で、崇神朝は前漢時代の話である。
銅鐸は関東まで行きわたっていることから、大人国と君子国は共通の祭祀を持つ国で、『漢書』に「會稽海外有東鯷人,分為二十餘國」とこれらの人々を東鯷人と中国は呼び、『後漢書』は「女王國東度海千餘里,至拘奴國,雖皆倭種,而不屬女王・・・會稽海外有東鳀人分為二十餘國」と西から倭人の倭国・倭種の拘奴國と続き、東鳀人の纏向遺跡には君子国・大人国を含む20国の地域と思われる土器が集まったことが知られていて、神話と遺跡と遺物が全て結びついた。
そして、『三国志』では「其南有狗奴國・・・女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」と倭種の狗奴國が邪馬台国の南に押しやられ、新たな倭種が出現し、『洞冥記』に「臣常至吳明之墟,是長安東過扶桑七萬里」、『梁書』に「扶桑在大漢國東二萬餘里 地在中國之東」、『南齊書』に「東夷海外,碣石、扶桑。南域憬遠,極泛溟滄」と扶桑国が出現する。
『十洲記』に「扶桑在碧海之中,地一面萬里,太帝之宮,太真東王君所治處」と扶桑は『山海經 海外東經』「下有湯谷 湯谷上有扶桑 十日所浴 在黑齒北」 、『神異經』の「大荒之東極,至鬼府山、臂沃椒山,腳巨洋海中,升載海日。盖扶桑山有玉鷄」と「碧海之中」イコール 「大荒之東極巨洋海中」、『山海經 大荒東經』にも「有谷曰溫源谷。湯谷上有扶木」と記述され、扶桑は「黑齒國」の北(記述順から北に接するとは言えない)で東北地方に有り「是以名為扶桑仙人」と仙人が住む場所と言っている。
『山海經  海外東經』に「居水中,有大木,九日居下枝,一日居上枝」、『山海經 大荒東經』にも「有谷曰溫源谷。湯谷上有扶木」と温泉に住み十日水(雪)に浸り、9日は足まで、1日は胸までの高さと思い浮かべ、『梁書』に「扶桑葉似桐 而初生如笋 國人食之・・・有文字 以扶桑皮爲紙」と桐の葉に似た実が食べられる昔短冊として使われた神木の楮のような植物から「皮はぎ」で剥いた木の皮に文字を書いた。
すなわち、前漢から梁に至るまで扶桑の地は中国人は同じ常識の中にあったことを表し、「巨洋海中」と海中が変質し始めていたため、『史記』の「徐福入海求神異物」が『山海經 海內東經』の「蓬萊山在海中」と黄海から『太平御覽』の「會稽海外有東鯷人分為二十餘國 又有夷洲及澶州 傳言秦始皇遣方士徐福將童男童女數千人入海求蓬萊神仙不得」と扶桑国・蓬莱山を同一視する説が出来上がった。

2018年7月2日月曜日

最終兵器の聖典 国の誕生1

 日本に国ができたのはいつごろかわかる書・地誌・神話が中国に有り、それが『山海經』で前漢頃に完成したものと考えられるが、『山海經』の対象時代は夏朝以前、4千年以上前、日本では縄文時代のことを書いている。
『山海經 海外西經』は「海外自西南陬至西北陬者 滅蒙鳥在結匈國北」から始まり「・・三身國在夏后啟北・・」、「・・肅慎之國在白民北・・長股之國・・西方蓐收,左耳有蛇,乘兩龍」で終わる。
「結匈國」は『山海經 海外南經』に「地之所載,六合之閒,四海之內・・海外自西南陬至東南陬者 結匈國在其西南」と黄海と日本海の境界にあると記述される。
「三身國」は『山海經 海外西經』・『山海經大荒南經』・『山海經海內經』に記述され、黄海・日本海・太平洋に面した国で「帝俊生三身,三身生義均・・・均定九州」と現在も呼ぶ九州のことで、白日・豊日・建日を平定して九州としたと記述している。
すなわち、「海外西經」は五島列島や天草から九州・粛慎へと記述され、「海外南經」は玄界灘から隠岐の六合の地域を西から東へ記述して、この地域が『日本書紀』の「天照大日孁尊 此子光華明彩 照徹於六合之内」の地域だ。
「結匈國 羽民國在其東南 讙頭國在其南 厭火國在其南 厭火北,生赤水 三苗國(三毛國)在赤水東 臷國在其東 貫匈國(穿匈)在其東 交脛國在其東 不死民 在穿匈國東 反舌國(支舌國)在其東 三首國在其東 周饒國在其東 長臂國在其東」と国が記述され『日本書紀』の6国内に13の国が記述されているので『日本書紀』の対象時代以前の時代である。
この時すでに、九州の「三身國」、日本海から太平洋に跨る「大人國」・「君子國・「青丘國」・「黑齒國」・「玄股之國」があり、「毛民之國」は『海外東經』・『大荒北經』に記述されるので樺太の事なのだろうか。
『山海經 大荒東經』に場所が特定できないが「有中容之國 帝俊生中容中容人食獸木實使四鳥 豹虎熊羆」と中国国内は栗や橘を食するがそれ以外では「中容国」のみ木實を食べ三代丸山遺跡には栗を栽培した跡があり関連があるかもしれない。
『山海經』の「大人國」は『山海經』の『海外東經』・『海內東經』・『大荒東經』・『大荒北經』に領域を持ち、『古事記』の「稲羽之素」「菟答言、僕在淤岐島、雖欲度此地、無度因」「其菟白大穴牟遅神、此八十神者、必不得八上比売」と、隠岐の沖ノ島の兎神が島後に渡る説話のとおり、大穴牟遅が八上比売を得て大国を建国し、八束水臣津野が隠岐の島をまとめた説話を流用した国引き説話が反映されている。
八束水臣津野が祀る「於母陀流神 妹阿夜上訶志古泥神」、大穴牟遅が祀る「意富斗能地神 妹大斗乃弁神」の神話を出雲の地に「志羅紀・北門・高志」の国引きに写し取ったのであり、この説話が4千年前よりかなり前の話だった。
すなわち、5~6千年前頃の「意富斗能地神 妹大斗乃弁神」こそ最初に「大神」と呼ばれた神で中国は後に「大神」国・「大人」国・「神」州・「辰」州と呼び、中国名「蓋州」と表記したと考えた。