2018年7月25日水曜日

最終兵器の聖典 天皇誕生1

 天皇は複数の王が現れた時に王の王である大王・天皇が現れたとしてきたが、大王は『隅田八幡神社人物画像鏡』の「癸未年八月日十大王」この「日十」は『日本書紀』の「遂作太子彦人皇子像與竹田皇子像厭之」の太子「彦人」で皇太子彦人を大王と呼んだ。
また『日本書紀』の「更名豐耳聰。聖徳。或名豐聰耳。法大王」、『上宮聖徳法王帝説』でも「于時多至波奈大女郎 悲哀嘆息白 畏天之雖恐懐心難止 使我大王与母王如期従遊」と聖徳太子も大王と呼ばれた。
それは当然で、天皇の子たちの多くが王を名乗っているのだから皇太子も王よりも偉い王で、私は立皇太子が天皇即位としたが、息子に大王の皇太子がいる王が天皇だとも言える。
立皇太子以前も長男は皇太子なのだから、天皇という大王と皇太子という大王が2人存在することになり矛盾を生じるが、実際には大王の中の皇太子を持つ大王が天皇で、『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』の「小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王」や『上宮聖徳法王帝説』の「小治田大宮御宇大王天皇」と大王天皇と記述され、『日本書紀』の「允恭天皇即位前紀」の「願大王雖勞 猶即天皇位」のように大王が天皇に即位している。
皇太子も大王なのだから、日本で王が誕生し、王という地位を与えた時すでに1人は大王、王子2人以上の王が存在した時、皇太子は大王と考えざるを得ないので、『日本書紀』の「和珥臣達祖姥津命之妹姥津媛生彦坐王」と天皇・皇太子以外を王と呼び、『古事記』でも「彦坐王」「比古由牟須美王」「讃岐垂根王」など開化天皇の時初めて天皇と呼ばれたと考えてもよさそうだ。
しかし、わたしは皇太子が天皇と同等としたけれど、立太子時に残った前天皇が更に長く在位していて混乱が起こらないのか不思議に感じていた。
現に、垂仁天皇の時は景行・成務・仲哀・神功と並行して天皇が存在することになるが、それだからと言ってそれほど混乱していないが、混乱しない理由は天皇に半分実態が無いのではと考え、13歳以上の皇太子のいない天皇は天皇というシステムを持たないのではと考えた。
天皇が即位すると「宮」を決め、前王の陵を作り、「尊皇后曰皇太后」と皇太后が即位しているのだが、複数の長男が継承する時はこの儀式がなく、長男は同族の姫が輿入れ若しくは通い婚をして、長男がいない天皇や長男が13歳未満のとき、13歳以上の皇子がいる分家の王に皇位が遷り後継の姫をも皇后として手に入れるのである。
すなわち、天皇と宮があり、そこに皇后や皇太后が存在し、さらに宮を相続する姫が存在して王朝が続くのであり、長男以外は他の宮に婿入りして、その先の舅の力で皇位を継承するのだと理解できた。
宮は長男と未婚の姫が継承して、長男が天皇に即位する時その長男が13歳に達していないと他の宮の天皇家の姫から生まれた人物が相続することになる。
他王朝が政権を奪う場合は、皇位継承者である長男を排除して宮を継いでいる姫と璽を手に入れ、その子が皇太子となった時、国をまとめることができるのである。
いわば天皇即位とは大王が『日本書紀』允恭天皇「天皇之璽符 再拜上焉・・・乃即帝位」と大王や大臣・大連という大王が姫と璽を手に入れ、次の安康天皇の時「即天皇位 尊皇后曰皇太后」と子が継承しその前王朝の姫の皇后が皇太后となった時に完全に即位したと言える。
宿禰という役職名が消えて『古事記』「穴穂御子、坐石上之穴穂宮」のように穴穗と宮の名前そのものが名前、穴穂宮の「御子様」、「宮様」となる。

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