『太平御覽』に「十洲記 曰 神洲東海中地方五百里」(『海內十洲記』には「祖洲近在東海之中,地方五百里」)と対馬より大きい国(済州島?)は『山海經 海內東經』の「大人之市在海中」と『出雲風土記』の「栲衾志羅紀乃三埼矣」と関連し、間違いと言いきれない。
大国建国時、出雲は蛇の目のような玉を耳飾りにし、尾のような石刀を帯び、龍頭のような冠をした君子国の官位「宮主」をもつ地域であったが、大国の勢力を増し、若狭湾近辺まで勢力下にした頃が『山海經』の背景と考えられる。
『古事記』の「迫到科野国之州羽海将殺時建御名方神白恐」と建御名方は君子国に逃げ、崇神天皇の時もまだ『古事記』に「大毘古命者遣高志道其子建沼河別命者遣東方十二道而」と高志はまだ「大神」の国とは別国君子国で、崇神朝は前漢時代の話である。
銅鐸は関東まで行きわたっていることから、大人国と君子国は共通の祭祀を持つ国で、『漢書』に「會稽海外有東鯷人,分為二十餘國」とこれらの人々を東鯷人と中国は呼び、『後漢書』は「女王國東度海千餘里,至拘奴國,雖皆倭種,而不屬女王・・・會稽海外有東鳀人分為二十餘國」と西から倭人の倭国・倭種の拘奴國と続き、東鳀人の纏向遺跡には君子国・大人国を含む20国の地域と思われる土器が集まったことが知られていて、神話と遺跡と遺物が全て結びついた。
そして、『三国志』では「其南有狗奴國・・・女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」と倭種の狗奴國が邪馬台国の南に押しやられ、新たな倭種が出現し、『洞冥記』に「臣常至吳明之墟,是長安東過扶桑七萬里」、『梁書』に「扶桑在大漢國東二萬餘里 地在中國之東」、『南齊書』に「東夷海外,碣石、扶桑。南域憬遠,極泛溟滄」と扶桑国が出現する。
『十洲記』に「扶桑在碧海之中,地一面萬里,太帝之宮,太真東王君所治處」と扶桑は『山海經 海外東經』「下有湯谷 湯谷上有扶桑 十日所浴 在黑齒北」 、『神異經』の「大荒之東極,至鬼府山、臂沃椒山,腳巨洋海中,升載海日。盖扶桑山有玉鷄」と「碧海之中」イコール
「大荒之東極巨洋海中」、『山海經 大荒東經』にも「有谷曰溫源谷。湯谷上有扶木」と記述され、扶桑は「黑齒國」の北(記述順から北に接するとは言えない)で東北地方に有り「是以名為扶桑仙人」と仙人が住む場所と言っている。
『山海經
海外東經』に「居水中,有大木,九日居下枝,一日居上枝」、『山海經 大荒東經』にも「有谷曰溫源谷。湯谷上有扶木」と温泉に住み十日水(雪)に浸り、9日は足まで、1日は胸までの高さと思い浮かべ、『梁書』に「扶桑葉似桐 而初生如笋 國人食之・・・有文字 以扶桑皮爲紙」と桐の葉に似た実が食べられる昔短冊として使われた神木の楮のような植物から「皮はぎ」で剥いた木の皮に文字を書いた。
すなわち、前漢から梁に至るまで扶桑の地は中国人は同じ常識の中にあったことを表し、「巨洋海中」と海中が変質し始めていたため、『史記』の「徐福入海求神異物」が『山海經 海內東經』の「蓬萊山在海中」と黄海から『太平御覽』の「會稽海外有東鯷人分為二十餘國 又有夷洲及澶州 傳言秦始皇遣方士徐福將童男童女數千人入海求蓬萊神仙不得」と扶桑国・蓬莱山を同一視する説が出来上がった。
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