皇位継承者が決まらない時、たとえば19歳で有間皇子が皇位を簒奪しようとした時に『日本書紀』の「人諌曰 不可也 所計既然而无徳矣 方今皇子年始十九 未及成人 可至成人而待其徳」と20歳未満は未成人と言っている様に天智が天皇即位年齢に達していなかったため、物部氏・蘇我氏・天氏の血を引く蘇我氏
の宮の姫の豊財重日が中宮天皇として皇位を継承し、子の天智に引き継いだのである。
天皇というものは、天皇が20歳以上で天皇の璽を持ち皇位継承者の皇太子が存在して皇太后を持つ宮殿があって初めて皇位に就いたと言え、応神天皇はが3歳で皇太子に就任しているが、この時期の実際の天皇や皇太子は品陀和氣ではなかった。
大臣や大連・皇太子は同等の権力を持っていて、特に大臣は他王朝の皇太子で、自王朝の皇太子と同じ権力の大王であり、天皇は祭祀を司どる象徴で実質は皇太子や大臣が統治者、王朝交代時では大臣イコール皇太子の可能性があり、『先代旧事本紀』「修撰未竟太子薨矣撰録之事輟」の太子の薨去は馬子大臣のことで馬子も聖徳太子と考えられる。
神武東征以前の畿内の地は東鯷国が少なくとも紀元前660年から統治していて、『先代旧事本紀』に「伊香色雄命 此命春日宮御宇天皇御世以爲大臣磯城瑞籬宮御宇天皇御世詔大臣爲」と伊香色雄が天皇と同等の大臣となって、「天祖授饒速日尊自天受來天璽瑞寶同共蔵齋号日石上太神」と紀元前157年に実際は伊香色雄かどうか解らないが璽を得て、まさしく天皇となった。
そして、その璽は「捧天璽劔奉於正安殿」と神武天皇に授けたのではなく宮に飾られ、『日本書紀』の「允恭天皇元年」「皇子將聽羣臣之請 今當上天皇璽符」と412年に璽が允恭天皇に移動して物部氏が天皇ではなくなった。
そして、物部氏は『日本書紀』に紀元前91年「崇神天皇七年・・・物部連祖伊香色雄爲神班物者」と伊香色雄が、『先代旧事本紀』の「大新河命此命纏向珠城宮御宇天皇御世元爲大臣次賜物部連公姓」と大新河が物部姓を賜って姓の無い天皇から姓のある臣下になった。
尾張氏も同様に『先代旧事本紀』の「尾綱根命・・・品太天皇御世賜尾治連姓爲大江(江は原文のまゝ臣?)大連」と尾綱根が尾張の氏姓を賜って、『古事記』応神記に「娶尾張連之祖、建伊那陀宿祢之女」、『日本書紀』允恭紀に「遣尾張連吾襲」と記述され以前は連を使っていない。
『古事記』と『日本書紀』は2代ズレ、『日本書紀』も「廿五年。百濟直支王薨」と応神天皇の項目が允恭天皇の時代の420年の直支王死亡記事を記述し、『先代旧事本紀』の品太天皇も允恭天皇のことと考えられる。
すなわち、『先代旧事本紀』の尾張氏の神武の項に「詔椎根津彦・・・大倭連等祖也」として神武建国前に大倭があるので、紀元前157年に物部氏が東鯷国(神国)を引き継ぎ大倭国として、紀元前91年に尾張氏が畿内を侵略し、紀元前28年に尾張氏が政権を完全奪取し、東鯷国が滅亡して『日本書紀』「垂仁天皇二年・・・于斯岐阿利叱智于岐。傳聞日本國有聖皇」と国号が日本国となり、412年に巨勢氏が書いた『古事記』では天皇名が「品太」と天皇になり、『日本書紀』では允恭天皇が璽を得たことから政権を奪取して『梁書』に「扶桑國者 齊永元元年 其國有沙門慧深來至荊州」と国号が扶桑国になった。
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