『山海經』に書かれた国々に対して、「蓋國在鉅燕南,倭北。倭屬燕」と独立した文章ではなく蓋国の説明として倭地に触れただけで、倭は『遼史』に「辰州,奉國軍,節度。本高麗蓋牟城。唐太宗會李世攻破蓋牟城,即此。渤海改爲蓋州,又改辰州,以辰韓得名」と記述されているように蓋州・辰洲に付属していた。
『論衡』に「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」、『漢書』に「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」と周以降秦まで周などに朝貢していたと書かれる倭は、『山海經』の対象時は倭と言われた地域が国ではなく「大八島」建国の前段階で「六合」の地に居住していたという話だ。
『魏略 翰苑』の「自謂太伯之後 昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身 以避蛟龍之害 今倭人亦文身 以厭水害也」は成王の時朝貢したということ、河姆渡遺跡周辺に倭人が『山海經』に「捕魚海中」と漁業や漆が出土するように交易のため訪れており、同じ風習をもっても不思議ではない。
三身国というのは、『山海經』「帝俊生三身,三身生義均,義均是始為巧倕,是始作下民百巧。后稷是播百榖。稷之孫曰叔均,始作牛耕。大比赤隂,是始為國。禹、鯀是始布土,均定九州」と帝俊が生んだ国で舟を使い、中国が知る初めての国、百穀を耕作した九州を言った。
周が建国した頃には「大八島」に倭が領域を広げて周朝に越を頼って貢献し、『日本書紀』で神武天皇が事代主の地に侵略したのだから、神武建国前、事代主が上記の「三身国」筑紫に侵略したのが「支石墓」から「甕棺」に祭祀が変わったときで、倭国は甕棺の国に侵略して糟屋郡に建国し、糟屋郡近辺が最初に甕棺を消失させた。
同じころ『古事記』に「御合生子、淡道之穂之狭別島 次生伊予之二名島」と「狭」国の分国淡路島の穂の出身の大物主が安芸の津島さらに安芸国本土に侵略して瀬戸内を支配し、また、大国主が出雲で建国して「大国主神、娶坐胸形奥津宮神・・・」と素戔嗚の地、事代主の地の筑紫と建御名方の地の越、これは丹波や敦賀と思われる地を婚姻で支配したと述べている。
これらを神武東侵に含めないのは素戔嗚が『古事記』に「其櫛名田比売以久美度迩起而所生神名謂八島士奴美神」、天穗日が『日本書紀』で「然此神侫媚於大己貴神」、天稚彦は「來到即娶顯國玉之女子下照姫 吾亦欲馭葦原中國」、饒速日は『先代旧事本紀』で「饒速日尊使娶長髓彦妹御炊屋姬爲妃令妊胎矣未及産時饒速日尊既神損去」と嫁取りして国を領有しているからだ。
新しい支配者が婿入りして子を成してその子が国を治めることで国を存続させる古来の閨閥政治・母系国家を表し、武力ではなく、婚姻で新たな地を開拓することが「天降り・国譲り」で、武力で侵略したのが「神武の東征」だが、やはり、侵略地の姫を娶ってその子の綏靖が王となることで政権が安定した。
国譲りの最初は『古事記』の「八上比売、答八十神言、吾者不聞汝等之言、将嫁大穴牟遅神」と大穴牟遅が八上比売を娶って大国を、「八千矛神、将婚高志国之沼河比売」(「八千矛神」は「八」国の尊く目出度い矛の意味で「八束水臣津野」の神にふさわしい)と高志国を得、「速須佐之男命詔其老夫是汝之女者奉於吾哉」と速須佐之男が櫛名田比売を娶って出雲を得、「大穴牟遅神曰・・・大国主神、亦為宇都志国玉神而、其我之女須世理毘売、為適妻」と大国主が大穴牟遅から須世理毘売を娶って出雲を奪い、「此大国主神、娶坐胸形奥津宮神 多紀理毘売命」と須佐之男から多紀理毘売を娶って宗像を奪った。
「底津石根宮柱布刀斯理」は『古事記』で「呼謂大穴牟遅神曰・・・為大国主神、亦為宇都志国玉神而、其我之女須世理毘売、為適妻而、於宇迦能山本、於底津石根宮柱布刀斯理」と大穴牟遅が大国主に述べているが、国譲り後にも天神御子に「更且還来、問其大国主神・・・唯僕住所者如天神御子之天津日継所知之登陀流下効此 天之御巣而、於底津石根宮柱布斗斯理」と大国主が述べていて、大国主が大穴牟遅から政権を奪ったことを天神御子が流用している。
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