私は暦の基準を知りたくて、紀元前700年から現代に至るまでの西暦カレンダーを作って日干支を当てはめ、さらに、太陽運行から中気、月の運行から朔日を当てはめ、月名を決める春分・秋分や夏至・冬至などの中気の無い月を閏月とする方法で標準太陰暦を作り上げた。
ここで、『日本書紀』神武元年「辛酉年春正月庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮 是歳爲天皇元年」の記事だが、私の標準カレンダーの朔の日干支と紀元前660年の年・日干支が符合して、「二年春二月甲辰朔乙巳」も同じ、「四年春二月壬戌朔甲申」は大小の月の関係か1日違い、「卅有一年夏四月乙酉朔」は同じである。
紀元前667年は7月に閏月があり、十・十一・十二月の記事があるが一月前に干支がズレていて、この時は十二月に閏月を付加と考えられ、紀元前477年・紀元前94年も共に閏月があって1月前後にズレ、閏月が原因で1月ズレるという想定内の理由でズレている。
『日本書紀』の朔日の干支を全て確認したが、ほとんど計算通り、一部大・小の月が原因の1日、一部丁度閏月が原因で1月ズレるが、これは朔がほゞ正しく、『日本書紀』の朔が計算であれば私の計算とズレることは無く、ズレるなら一定の割合でズレるはずなのだから計算で無かったことを意味する。
私は史書の中に計算で求めた日干支を一つだけ知っていて、『続日本紀』の文武元年「元年八月甲子朔 受禪即位」、『日本書紀』では「八月乙丑朔 天皇定策禁中禪天皇位於皇太子」で『続日本紀』が計算通り正しいが『日本書紀』は1日ズレている。
これは、『続日本紀』が普通皇位継承は朔日にするもので計算では朔日が甲子だったので乙丑から書き換えたことを意味している。
前漢武帝時に書かれた『史記
本紀
五帝本紀』に「帝堯者・・・命羲和敬順昊天數法日月星辰・・・歲三百六十六日以閏月正四時・・・三年矣 女登帝位 舜讓於德不懌 正月上日」と帝堯が1年を366日で正月や閏月を知り、ここから『史記』は年数を記述する。
約4000年前の遺跡の大湯環状列石・伊勢堂岱遺跡などに日時計型組石があり、夏至・冬至の時の太陽の運行に合わせて作られたといわれ、1年が幾日かわかっていたのだから、堯が知らないとは言えない。
そして、堯が暦を創らせた羲和は『山海經 大荒東經 大荒南經』に「羲和者帝俊之妻是生十日」と記述され羲和が生んだ国が関東にあたり、町田市田畑遺跡に縄文中期のストーンサークルがあり、石柱を結んだ線は冬至に太陽が沈む方向を向き、帝堯を大荒南經の地に葬った。
『尚書 堯典』にも「乃命羲和,欽若昊天,歷象日月星辰,敬授人時。分命羲仲,宅嵎夷,曰暘谷」と羲仲が島夷の暘谷に住み、『山海經
海外東經』に「君子国」と「青丘国」の間に「朝陽之谷」がある。
『淮南子
墬形訓』に「暘谷 榑桑在東方」、『天文訓』に「日出於暘谷,浴于咸池,拂於扶桑,是謂晨明。登於扶桑,爰始將行,是謂胐明」、『山海經
海外東經』の「下有湯谷。湯谷上有扶桑」と扶桑の地に「暘谷」=「
朝陽之谷」の「羲仲」とともに「羲和」が暦を作った。
「羲和」は日本の関東と思われるところに国を作っていたのであり、私は「暘谷」を「甲府や諏訪では」と思った。
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