2022年3月30日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』崇神天皇類書・物部氏のまとめ1

  崇神朝の時点で物部氏の神話が終了したのでまとめてみたい。

物部氏の神は『舊事本紀』に「天譲日天狭霧國禪月國狭霧尊」と記述され、天の日国・月国から国を譲られた狭霧國王と記述され、尊すなわち神の子達で、狭霧の狭は若狭の狭国と考えられた。

宗像の丈夫国(日国)の神は後の「卑弥呼」が王なのだから日神の神子(みこ)、隠岐の周饒国(食国)の神の「おみ」・臣(海・天)、君子国(三国)の神の「きみ」・岐神で、これらの国のみ「冠帶」と王冠を帯びる王の中の王の国で、その王が日子(日神子)・君子・天(海)子、その他の国の王は霊「ち」で、大人国(大国)の人々の霊(国神)を聖人(ひじり)と呼び、船を操って交易を行っていたと思われる。

そして、大人国(大国)は周饒国(隠洲国・隠岐)の支配下となり、若狭もその支配下となって「食國政大夫」と隠洲国の大夫の狭霧尊と尊(神子人)と呼ばれ、譲日の天降陽神・禪月の天降陰神の子孫が天璽瑞寶を持った饒速日・伊香色雄達で、おそらく、天道根の子孫と思われる天道日女を妃にした天香語山(髙倉下)、大倭根子の娘の真鳥姫・御炊屋姫を妃にした宇摩志摩治を生んだと記述し、どちらも、「ぢ(下・治・遲)神」と記述され、物部氏の神の襲名が宇摩志摩治(宇摩洲遲)で、尾張氏は神刀の名と同じ天村雲なのだろう。

志摩治(洲遲)は「神霊」の冠帶する神の洲神・岐神に対する、冠帶しない独立国の国神の洲遲・岐遲で、国神の国の領域は邑程度の支配だったので、国神は邑遲・連であり、周饒国の配下の国神は臣・隠神、君子国・三(神)国の国神は耳・三神、丈夫国の国神は神霊が生まれた地域なのだから国神は日子(卑狗)が相応しく、その後、九州の各地に岡・水沼・伊覩・沙麼・筑紫など縣主が頻出し、九州の十七縣の王が都加使主と呼んでいるのだから、国(縣)神は主(爾支)である。

この、 髙倉下・宇摩志摩治の流れを汲む姓が連(邑の神・邑遲)で、句句廼馳・野槌・大己貴も同系の霊の神々で、饒速日は二岐速日と考えられ、対馬とその日別の宗像の尊(神子人)と考えられる。

そして、天道日女は、本来、宇摩志摩治を襲名した伊香色雄の妃の「山代縣主祖長溝」の娘の襲名で、その祖先の天道根は神武天皇に『舊事本紀』の「天道根命爲紀伊國造即紀河瀨直祖」と紀伊國造を賜姓され、これは、紀河瀨直とあるように、紀国・木国であり、これまでも示したとおりで、天道根は和迩臣の祖で、珍彦の子孫、伊迦賀色許賣の子の比古布都押之信と珍彦の妹との子が建内宿禰、庶兄が味師内宿禰で、『古事記』の4番目の神の宇摩志阿斯訶備比古遲も同じ系統の神で天道根の祖神の可能性が高い。

すなわち、神話の若狭の饒速日は大人の市などの分国を持つ海洋国大人国(大国)の曲浦の天道根と同盟し、宇摩志麻治は大人国(大国)の神である大神の活目色五十呉桃の娘を妃にし、子の彦湯支は出雲色多利姫を妃に大国王の出雲醜大臣が生まれ、宇摩志麻治も彦湯支も出雲醜も「食國政大夫以爲大臣」と隠洲の配下の出雲の大国の王の大臣と述べて、出雲を地盤にしたという意味である。

出雲臣女子沙麻奈姫」と出雲醜の娘は君子国(三国)の建飯勝の妃、その子孫が甘美韓日狹で、伊香色雄は「天璽瑞寶」を崇神天皇に渡して皇位に就任し、十市は出雲の「神寶」を垂仁天皇に渡して出雲にあった君子国の神寶を得て、義父の諸隅は「武日照命従天將來神寶」と大人国(大国)の神寶を得て、和迩臣の祖の建諸隅王朝は君子国・大人国・周饒国・丈夫国の領域を持つ王となり、その王朝の国名を中国で秦が統一したことに倣って、物部氏の辰国の音を引き継いだ表意文字の秦国と呼んだ。

すなわち、この頃から表意文字が使われていたと考えられ、倭が八の意味、さらに海士へとの変化がこの頃既に存在したと考えられる。

2022年3月28日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』崇神天皇類書9

  前項の続きで夢見は尾張氏・丸迩臣の祖の坐王の子達による皇位継承争い、沙本毘古の乱もその一端で、大彦・物部朝廷から尾張氏が政権を奪い、さらに、丹波道主・弟彦と水之穗眞若・豐城入彦が分朝廷を開いたのが、夢見で豐城入彦が東方、すなわち、淡海野洲朝廷を開いた。

崇神天皇の皇位継承後、豐城入彦は「紀伊國荒河戸畔女遠津年魚眼眼妙媛生豐城入彦」と丸迩臣の祖の孫の大国の遠津臣と呼ばれ、丸迩臣の祖の子の山代之大筒木眞若王の子の迦迩米雷王、恐らく、八坂入彦は遠津臣豐城入彦の子の高材比賣を妃にし、その子が息長宿禰王、その子が「息長地名在近江國坂田郡」に居る大多牟坂王である。

すなわち、「當麻・坂上君祖」の坐王の3世の孫が『古事記』「山代之大箇木真若王娶同母弟伊理泥王之女母丹波能阿治佐波毗賣生子迦迩米雷王此王娶丹波之遠津臣之女名高材比賣生子息長宿祢王・・・息長宿祢王娶河俣稻依毗賣生子大多牟坂王此者多遅摩國造之祖也」と大多牟坂王で『古事記』「大多牟坂王此者多遅摩國造之祖」と多遲摩國造の祖、『舊事本紀』「淡海國造志賀髙穴穗朝御世彦坐王三世孫大陀牟夜別定賜國造」と大多牟坂に似た名の坐王三世孫の大陀牟夜別が淡海朝廷で淡海國造なのだから天皇である。

そして、恐らく伊理泥の妃は水之穗眞若の娘で息長宿禰の息長は水之穗眞若の母の息長水依比賣の息長を引き継いでいると考えられ、安直の祖を引き継いだと思われる。

坐王と息長水依の子の水之穗眞若は近淡海の安直の祖で、遠津臣の豐城入彦、妹は野洲にある伊勢遺跡の神宮の斎王、遠津臣の子の高材比賣の夫が迦迩米雷王、その孫が大陀牟夜別・淡海天皇・成務天皇で水之穗眞若は安直の祖、『古事記』「娶近淡海之安國造之祖意富多牟和氣之女布多遅比賣生御子稲依別王」と安直の祖の意富多牟和氣、その意富多牟和氣は『日本書紀』「母皇后曰兩道入姫命活目入彦五十狹茅天皇之女也」と垂仁天皇と記述されていて、意富多牟和氣の妃が八坂入姫、成務天皇の祖父は八坂入彦で迦迩米雷王である。

八坂入彦の母は和迩臣の祖の家系の大海姫、迦迩米雷王も和迩臣の祖の袁祁都比賣の子の伊理泥王の娘の阿治佐波毘賣で、淡海朝廷も大和の朝廷も袁祁都比賣・國意祁都の子達である。

すなわち、和迩臣の祖の尾張建諸隅の王朝が分裂し、淡海の建諸隅・物部武諸遇と王朝が変質し、「物部多遅麻連公武神諸遇大連之子」の多遅麻は『日本書紀』「和珥臣祖日觸使主之女宮主宅媛生菟道稚郎子皇子」、『舊事本紀』「印葉連公多遅麻大連之子・・・姉物部山無媛連公此連公輕嶋豐明宮御宇天皇立為皇妃誕生太子莵道稚郎皇子」と和珥臣の祖を受け継ぎ、尾張氏の系図には『舊事本紀』「淡夜別命大海部直等祖弟彦命之子」と水之穗眞若らしい人物が記述されている。

そして、和珥臣の直接の祖、但馬王と思われる『舊事本紀』「志賀髙穴穗朝多遲麻君同祖」の多遲麻君は物部多遅麻がよく当てはまり、和珥臣王朝で君と呼ばれ、後代、大和の王朝では多遲麻大連と呼ばれたようだが、このように、臣・使主・君・連の姓や、大連・大臣の皇太子と同等の姓が王朝による呼び名の違いで、君・国造・王・宿祢・主も王朝による呼び名の違いだったと考えられる。

また、これら姓と同じように、王朝によって氏も職名も、武氏・建氏・天氏・息長氏のように、同一人物が混入していること、それらの人物をどの時代に当て嵌めるかで、同一人物が複数の朝廷で活躍したように錯覚され、同一人物が天皇であったり、逆賊で有ったりする、これが、日本の古代史書の真実で、古代史書は内容は正しいが、当て嵌められた時代が違うことを念頭に理解しなければならないが、空想でない信用出来る史書群である。


2022年3月25日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』崇神天皇類書8

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀上 』は続けて「夏四月戊申朔丙寅以活目尊立爲皇太子以豐城命令治東國六十年春二月詔群臣日武日照命従天將來神寶藏于出雲大神宮是欲見焉則遣矢田部造遠祖武諸隅令使分明撿定獻奏焉六十五年春正月武諸(?)命為大連物部氏祖六十八年冬十二月戊申朔壬子天皇崩時年百二十歳也明年秋八月甲辰朔甲寅葬于山邊道上陵誕生皇子六男五女兒汝目入彦五十狹茅尊次彦五十狹茅尊次國方姬命次千々衝倭姬命次倭彦命次五十日鶴彦命次豐城入彦命次豐鍬入姬命始託天照太神為斎祠次入坂入彦命次渟中城入彦命次十市瓊入姬命 初託天田魂神為齋祭」、【夏四月戊申が朔の丙寅に、活目を皇太子とした。豊城には東国を治めさせた。六十年の春二月、天皇は群臣に「武日照が天から持って来た神宝は、出雲大神の宮に収めてある。これを見たい」と言った。そこで、矢田部造の遠祖の武諸隅を派遣し、詳細に調べて、報告させた。六十五年の春正月、武諸隅を大連とし、物部氏の祖だ。六十八年の冬十二月戊申が朔の壬子に、天皇が崩じた。年令は百二十歳だった。翌年の秋八月甲辰が朔の甲寅に、山辺道上陵に葬った。天皇は六男五女を生んだ。(系図は略す)十市瓊入姫ははじめて大国魂神を祀った。】と訳した。

夏四月戊申朔丙寅の立太子は、西暦69年から48年後の116年に倭奴国は都を変えた王を記述していると思われ、『後漢書』の「安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見」と107年、安帝に接見を願った帥升の王朝と考えられる。

『三国史記』の新羅では西暦73年「脱解尼師今十七年王遣角干羽烏禦之不克羽烏死之十八年秋八月百濟寇邊遣兵拒之」、これは、百濟では多婁王46年にあたり「四十七年秋八月遣將侵新羅」とやはり百濟と倭が協力して新羅を攻撃し、「桓靈之末・・・是後倭韓遂屬帶方」と倭と韓は共に帯方郡に服属したが、73年に『三国史記』の新羅脱解尼師今王の時に和睦の約束を破って、「倭人侵木出島」と新羅を侵略した。

それは、百濟と新羅が西暦70年、「多婁王四十三年遣兵侵新羅・・・四十七年秋八月遣將侵新羅四十八年冬十月又攻蛙山城拔之四十九年秋九月蛙山城為新羅所復」と西暦76年まで戦っており、70年新羅脱解尼師今王「十四年百濟來侵・・・十八年秋八月百濟寇邊遣兵拒之十九年・・・冬十月百濟攻西鄙蛙山城拔之二十年秋九月遣兵伐百濟復取蛙山城自百濟來居者二百餘人盡殺之」と76年まで新羅も記述して、倭と百濟が共同で新羅を侵略したと考えられる。

この時期に、『日本書紀』に百濟の記事が記述されず、新羅の日槍記事など、新羅との友好記事が記述され、畿内と新羅に対する百濟と倭の関係が理解できる。

48年の豐城・活目の皇位継承争いは孝昭天皇の末裔の丸迩臣の祖の日子國意祁都の妹の意祁都比賣娶った日子國意祁都をバックにした日子坐王の子の息長水依比賣を娶って生まれた丹波比古多多須美知能宇斯王とその子の丹波の河上の摩須郎女を娶って生まれた朝庭別王と、丹波比古多多須美知能宇斯王の弟の水之穗眞若王と意祁都比賣の妹の子の山代之大筒木眞若王の争いで、丸迩臣の祖は春日臣の祖でもあり、春日王だったと思われ、春日の建國勝戸賣もその一族の可能性が高く、その孫の沙本毘古王が山代之大筒木眞若王・水之穗眞若王の後ろ盾だった可能性が高い。

坐王の子の沙本毘古王は『古事記』に「沙本毗古王者日下部連甲斐國造之祖」と甲斐国造の祖、『舊事本紀』に「次大八椅命甲斐國造等祖彦與曽命之子」、「甲斐國造纏向日代朝世狹穗彦王三世孫臣知津彦公此宇塩海足尼定國造」とあり、彦與曽は弟彦の弟、尾張氏で坐王が尾張氏であると、ここでも証明された。

また、物部の祖と賜姓されない物部武諸隅が大連は奇妙で、武大連だったことが解り、尾張氏の建諸隅も建大臣で違う王朝の立場、大連が皇太子と同等の王朝と大臣が皇太子と同等の王朝から見た、同一人物を朝廷分裂後に記録したことを示していると思われる。

2022年3月23日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』崇神天皇類書7

  『日本書紀』は続けて概略「夏四月戊申が朔の丙寅に、活目を皇太子、六十年秋七月丙申が朔の己酉に、武日照(あるいは武夷鳥又は、天夷鳥という)が天から持って来た神寶を、出雲大神の宮に秘蔵し飯入根は、皇命を受けて、神寶を、弟の甘美韓日狹と子の鸕濡渟が矢田部造の遠祖の武諸隅(大母隅)に渡し、それで、内紛が起こって出雲振根を誅したため、大神を祀らなくなったので、丹波の氷上の人、名は氷香戸邊の提案で甘美の御神、底寶御寶主を祀らせた。六十二年秋七月乙卯が朔の丙辰に依網池を十一月に、苅坂池・反折池を作り、六十五年秋七月に、任那國が、蘇那曷叱知を派遣して、朝貢した。任那は、筑紫國を去ること二千餘里で。北に、海を隔てて鷄林の西南に在る六十八年冬十二月戊申が朔の壬子に崩じ百二十歳だった。明年の秋八月甲辰が朔の甲寅に、山邊道上陵に葬った。」とある。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀上 』は「四年春二月丁卯建膽心命為大祢多辨命爲宿祢安毛建姜命爲侍臣並物部連公祖也三(四)十八年春正月己卯朔戊子天皇勑豐城命活目尊曰汝等二子慈愛但齋不如何爲嗣各冝夢朕以夢占之二皇子被命得沐浴而祈寐各得夢矣會明兄豐城命以夢辞奏于天皇日自登三諸山向東而八迴弄搶八迴撃刀弟活目尊以夢辞奏言自登三諸山之嶺繩絙四方逐食粟雀則天皇相夢謂二子曰兄則一片向東當治東國弟是悉臨四方冝継朕位焉」、【四年春二月丁卯、建胆心を大祢、多弁を宿祢、安毛建美を侍臣とし、これらは物部連の祖だ。四十八年春正月己卯が朔の戊子に、天皇は豊城と活目に「お前たち二人は、どちらも同じに可愛い。どちらを跡継ぎにするか考えている。それぞれ夢を見て、夢で占うことにしよう」と言った。二人は命令をきいて、沐浴して祈って寝て夢をみた。夜明けに兄の豊城は、夢のことを天皇に「三諸山に登って、東に向かって八度槍を突き出し、八度刀を振りました」と言った。弟の活目も、夢を「三諸山の頂きに登って、縄を四方に引き渡し、粟を食べる雀を追い払った」と言った。そこで、天皇は夢の占いをして、二人に「兄はもっぱら東に向かっていたので、東国を治めるとよい。弟はあまねく四方に心を配っているので、わが位を継ぐとよい」と言った。】と訳した。

ここで言う、神寶を持って来た武日照は『古事記』の「天菩比命之子建比良邊(?鳥)命此出雲國造・・・等之祖也」の建比良鳥のことで、『日本書紀』にも比良鳥の父の「天穂日命是出雲臣・・・等祖也」と記述され、神寶を祀っていた出雲振根が物部氏に神寶を献上したために出雲臣を賜姓され、『舊事本紀』には内紛が記述されずに安泰で、それは、彦湯支が「出雲色多利姫」を妃にし、出雲醜大臣と大国の出雲氏を名乗り、出雲臣の娘の沙麻奈姫を懿徳天皇の甥の建飯勝が妃として建甕槌を生み、子の大田田祢古も、その子の大御氣持も「出雲神門臣女美氣姫」、「出雲鞍山祇姫」を妃とし、その子の大鴨積が賀茂君、大友主が大神君を賜姓されるのだから、母系の出雲氏も出雲臣を賜姓されたと考えられ、それらの他王朝の姓の君・臣を崇神天皇が追認し、それが出雲振根だったとすればよく理解でき、他王朝の姓の日臣を崇神天皇も道臣と姓の臣を追認した。

それに対して、『日本書紀』は丹波道主が出雲振根を殺して、配下とみられる氷香戸邊が出雲振根の弟の甘美韓日狹達に出雲を任せ、これが、4道派遣の「丹波道主命遣丹波」の説話と考えられ『古事記』では坐王の玖賀耳之御笠殺害と役職が異なる原因で、説話発生が1世代異なる。

崇神天皇の九州の暦使用は「伊香色雄而以物部八十手所作祭神之物」、「墨坂神・大坂神を祀る」、「4道侵攻」、「故稱謂御肇國天皇」、「池造り」で、正しい暦は「皇位継承説話」・「大田田根子探索」・「正朔不採用批判」・「4道出撃」・「出雲振根説話」と宗教的説話は九州暦で政治的説話は畿内暦となっていて、宗教の代表者の物部氏と天皇の対立が想定され、4道侵攻は『古事記』が3道のように、吉備への侵攻が記述されず、神武東征で、日向から安芸まで九州暦と無関係では無く、ここの九州の暦の説話は垂仁天皇の説話の可能性があり、崇神朝の正朔の暦を拒否し、漢と同じ晦日が朔の暦を使用する分朝廷の可能性があり、分朝廷は東国を治めた豊城の朝廷である。

2022年3月21日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』崇神天皇類書6

 前項の続いて、『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて、「又遮其逃軍以斬者如鵜浮於河故号其河訶(謂)鵜河也亦斬波布理其軍士故号其地謂波布理曽能如此平訖参上覆奏故大毗古命者随先命而罷行高志國尓自東方所遣建沼河別與其父大毗古共往遇于相津故其地謂相津也是以各和乎(手・平)所遣之國政而覆奏尓天下太平人民富榮於是初令貢男弓端之調女手末之調故稱其御世謂所知初國之御真木天皇也又是之御世(作)依網池亦作經之酒折池也天皇御歳壱佰陸拾捌歳戊寅年十二月崩」、【又、その逃げる兵を遮って斬ると、鵜のように河に浮いた。それで、その河を鵜河という。亦、その兵士を斬り掃った。それで、そこを波布理曾能という。このように平げ終わって、参上して復命した。それで、大毘古は、先の命令通りに、高志國に行った。それで東方から派遣されていた建沼河別と、その父大毘古とが、相津で遭遇した。それで、そこを相津という。これで其々派遣された國の政情を落ち着かせて復命した。それで天下がとても平穏になり、人民が富み栄えた。そこで初めて男の獲物の物納と、女の織物の物納を始めた。それで、その世を稱えて、初めて國を知らした御眞木天皇という。又、この天皇の治世で、依網池を作り、亦、輕の酒折池を作った。天皇の歳は壹佰陸拾捌歳で戊寅の年の十二月に崩じた。山邊の道の勾の岡の上に葬った。】と訳した。

『古事記』が日子坐王を丹波に派遣したと書くのに対して『日本書紀』は丹波道主すなわち日子坐王の子の丹波比古多多須美知能宇斯王と記述し、大彦・坐王をどの天皇の時代に記述するかによって、それに対応する他の氏族の世代が変化する事を示し、それに合致るように主語も変化させていて、古代の日本の史書の作成法が窺える。

丹波道主は『日本書紀』に「道主王者・・・彦坐王子也一云彦湯産隅王之子也」と湯産隅の子も道主、旦波大縣主由碁理の娘の竹野比賣の子で、大縣主は大彦のこと、竹野比賣は大彦の姫にあたり、由碁理が丹波を攻撃して丹波道主、さらに大縣主すなわち大彦になり、大彦の子が丹波道主湯産隅で、その娘の丹波河上の摩須郎女を丹波比古多多須美知能宇斯王が妃にして、丹波道主となったと考えられ、多多須が湯産隅を破ってその姫を得ることで丹波が多多須に支配された記述が『日本書紀』の丹波道主派遣である。

『舊事本紀』に「品治部君等祖彦湯産隅命」とあるように、大筒木垂根も品治部君の祖と考えられ、品治部君は譽津部君の譽津別と考えられ、母の沙本毘賣は春日建國勝戸賣の孫で、春日建國は建氏の国、すなわち、尾張氏の国・建諸偶の国と考えられ、彦湯産隅は武氏に婿入りした武渟川別と考えられる。

丹波道主が存在した時代には同じ役職の道主だった、中臣の同盟者の道臣が垂仁天皇の時代に「大伴連遠祖武日」と大伴連賜姓前に配下として出現し、吉備津彦に道主日臣が配下となって、道臣となった可能性が高く、神武東征の段階で、吉備から道臣を配下に大和に入るのだから、『古事記』には西道侵攻は記述されず、崇神天皇時代以降に大和に侵入しているので、大物主の娘を娶ることもできる。

大伴連の祖は『舊事本紀』に「倭宿祢命三川大伴部直祖」と記述され、倭宿祢は倭直吾子篭宿禰が大倭國造吾子篭宿禰とあるように、倭国王でその子孫が大伴連を配下にし、仁徳天皇の時でも「大鷦鷯尊問倭直祖麻呂」と倭国王が存在せず、倭直部と倭直と倭國造と倭宿祢が同一の意味、大伴部直も大伴の統領大伴大連の祖の意味で、『日本書紀』の神武天皇の役者が揃って、「槁根津日子此者倭國造等之祖」と槁根津日子は390年頃即位した応神天皇の神武東征の説話、すなわち、「珍彦爲倭國造」と珍彦は吾子篭で、珍彦は木国造・木直・木宿祢になった。

すなわち、道臣は少国の吉備道臣のことで、大足彦とともに安芸仲国を征服し、さらに、仲足彦の子の応神天皇(『日本書紀』の葛城神武天皇)とともに、畿内を征服したと考えられ、もともと、史書は大倭を大和の表意文字にしていて、江戸時代に江戸藩がないように、大和に首都があって、大和王など有るはずがなく、大和王がいるとしたら、淡海朝の時は大和にも朝廷が有り、難波仁徳朝廷以降しか有り得ない。


2022年3月18日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』崇神天皇類書5

  『日本書紀』は続けて概略「十年の秋七月の丙戌が朔の己酉に未だに正しい朔すなわち暦を受け入れないので、九月丙戌が朔の甲午に大彦を北陸に派遣し、武渟川別を東海に派遣し、吉備津彦を西道に派遣し、丹波道主を丹波に派遣した。さらに、武埴安彦と妻の吾田媛が謀反を起こしたので、五十狹芹彦と和珥臣の遠祖の彦國葺と大彦が打ち破り、十七年秋七月丙午が朔に船舶を造った。」とある。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は「又此之御世大毘古命者遣高志道其子建沼河別命者遣東方十二道而令和平其麻都漏波奴人等又日子坐王者遣旦波國令殺玖賀耳之御笠此人名者也故大毘古命罷往於高志國之時服腰裳少女立山代之幣羅坂而歌曰美麻紀伊理毘古波夜美麻紀伊理毘古波夜意能賀袁袁奴須美斯勢牟登斯理都斗用伊由岐多賀比麻幣都斗用伊由岐多賀比宇迦波久斯良尓登美麻紀伊理毘古波夜於是大毘古命思恠返馬問其少女曰汝所謂之言何言尓少女荅曰吾勿言唯爲詠歌耳即不見其所如而忽「失故大毘古命更還参上請於天皇時天皇荅詔之此者爲在山代國我之庶兄建波迩安王起邪心之表耳伯父興軍宜行即副丸迩臣之祖日子國夫玖命而遣時即於丸迩坂居忌兊(瓮)而罷往於是到山代之和訶羅河時其建波迩安王興軍待遮各中挾河而對立相挑故号其地謂伊杼美(今謂伊豆美也)尓日子國夫玖命乞云其廂人先忌矢可弾尓其建波迩安王雖射不得中於是國夫玖迩(命)弾天(矢)者即射建波迩安王而死故其軍悉破而逃散尓追迫其逃軍到久須波(婆)之度時皆被迫窘而屎出懸於褌故号其地謂屎褌(今者謂久須婆)」、【又、この天皇の時に、大毘古を高志道に派遣し、その子建沼河別を、東方の十二道に派遣して、その平伏しない人達を平らげた。又、日子坐王を、旦波國に派遣して、玖賀耳の御笠を殺させた。それで、大毘古は、高志國に行った時、腰裳を着た少女が、山代の幣羅坂に立って歌った(略)。それで大毘古は、あやしみ馬を返して、その少女に「お前が言ったのはどういう事だ。」と問いかけた。それに少女が「私は何も言っていない。ただ歌を詠んだだけだ。」と答えて、どこかにたちまち姿を消した。それで、大毘古は、参上して、天皇に伝えたら、天皇は「これは、山代國にいる庶兄の建波迩安王が、邪心を起したのでは。伯父は、軍を興して行け。」と答えて、それで丸迩臣の祖の日子國夫玖を副えて派遣し、丸迩坂に忌瓮をおいて行った。それで山代の和訶羅河に着いた時、建波迩安王は、軍を興して待ち受け、河を間に挟んで、対抗して応戦した。それで、そこを伊杼美という。今は伊豆美という。そこで日子國夫玖は、「そちらの者よ、まず魔よけの矢を撃て。」と求めた。それで建波迩安王が、射ったが当てることが出来なかった。それで國夫玖の放った矢は、建波迩安王を射て殺した。それで、その兵は残らず逃げ散った。それでその逃げる兵を追い詰めて、久須婆の渡についた時、皆行き詰まって、屎を漏らして褌に懸った。それで、そこを屎褌という。今は久須婆という。】と訳した。

『日本書紀』に崇神天皇十年・前88年に「猶不受正朔」と天皇が発布する正しい朔の日を受け入れないと怒り、この頃は天皇が暦・正朔を発布していたことを述べているが、『二中歴』に「年始五百六十九年内丗九年無号不記支干其間結縄刻木以成政継体五年元丁酉」と継体元年より569年前に支干が始まったと記述し、継体元年は517年で、その569年前は前53年、そこから39年間は「無号不記」と元号が無く干支を「結縄刻木」と木に刻み縄で結んで保存し、すなわち、前15年から元号が始まったと記述している。

結縄刻木がいつまで続いたか解らないが、『漢書』に「眞番辰國欲上書見天子又雍閼弗通元封二年」と前109年に辰国が中国に上書を提出し、紙に文字を書いていたことが解り、景行天皇元年71年に「因以改元」と改元し、『二中歴』の「継体」から元号が始まったということは、それ以前は違う王朝の扶桑国や尾張王朝の元号が存在した。

「継体」から秦王国の元号、すなわち、物部氏の元号が始まり、その元号が倭・日本国に引き継がれて、大長まで続いたことを示し、前53年から年号が始まったのは秦国を荒河戸畔・建諸隅・豐城入彦が建国して始まったと『二中歴』が記述したのであり、前53年以前、「猶不受正朔」の前88年以前の辰国や東鯷国でも元号を持つ暦が有り、だから、上書を送り、『日本書紀』に天文学的に正しい朔が記述され、「辛酉年春正月庚辰朔天皇即帝位於橿原宮是歳爲天皇元年」と宮元年という元号が記述されるのである。

2022年3月16日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』崇神天皇類書4

  前項に続けて、『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「・・・此謂意富多ゝ泥古人所以知神子者上所云活玉依毘賣其容姿端正於是有壮夫其形姿威儀於時無比夜半之時儵忽到來故相感共婚供住之間未經幾「時其美人妊身尓父母恠其妊身之事問其女曰汝者自妊无夫何由妊身乎荅曰有麗美壮夫不知其姓名毎夕到來供住之間自然懐妊是以其父母欲知其人誨其女曰以赤土散床前以閇蘇紡麻貫針刺其衣襴故如教而旦時見者所著針麻者自戸之鉤穴控通而出唯遺麻者三勾耳尓即知自鉤穴出之状而從糸尋行者至美和山而留神社故知其神子故因其麻之三勾遺而名其地謂美和也此意富多ゝ泥古命者神君・鴨君之祖」【この意富多多泥古という人を、神の子と知ったのは、前に言った活玉依毘賣の容姿が端正で、そこに若者がいて、その姿形や立居振舞が類なく、夜中に急にやって来て、互いに見染めて、一緒に過ごす間に、あまり時を経ず、その娘が妊娠したので、父母が妊娠した事を怪しみ、娘に「お前は知らないうちに妊身した。夫も無いのにどうして妊娠した。」と問うと、「うるわしい若者がいて、名も知らないけれど、夕毎にやって来て一緒にいる間に、妊娠した。」と答え、それで父母は、その者を調べようと、「赤土を床の前に散らし、巻き付けた紡いだ麻糸を針に通し、男の衣の襴に刺せ。」と教え、それで、教の様にして翌日に見ると、針を著けた麻は、戸の鉤穴から通り抜けて、ただのこった麻は三勾のみだったので、鉤穴から出たのを知って、糸に従って尋ねて行くと、美和山の神の社に留まってた。それで、その神の子と知った。それで、その麻の三勾を遺したため、そこを美和と名付けた。この意富多多泥古は、神君、鴨君の祖だ。】と訳した。

前項で述べたように、一人ではなく襲名した多数の大物主が存在するが、おそらく、史書は、崇神天皇の時代の説話が神話に当て嵌められたり、神武天皇の時代に当て嵌められたりしただけで、『古事記』の神武天皇の一人は崇神天皇の時代に大物主と勢夜陀多良比賣の子の比賣多多良伊須氣余理比賣を妻にし、『舊事本紀』の前2世紀頃の神武天皇は崇神天皇の時代ではなく神武天皇の時代に当て嵌めた。

実際の大物主説話は大物主の建飯賀田須と鴨部美良姫の娘を妃にした中国を建国した中臣氏の説話が大元の説話と考えられ、美良姫を活玉依毘賣に挿げ替え、実際は奇日方とその妃の賀牟度美良姫のことを述べていると思われる。

崇神天皇には、『古事記』の神武天皇、坐王・倭得玉、大御氣持などを含めて記述し、『古事記』には雄略天皇七年に「三諸岳神」を「或云此山之神爲大物代主神也或云菟田墨坂神也」と記述して大三輪神を記述せず、実は一言主が大物主だと述べ、『古事記』には葛城の神の一言主を記述し、大物主は現在の仲国に琴平宮とういう本拠が有り、元々は中臣氏が祀っていた可能性が高い。

雄略天皇は前天皇の殺害を中帯姫前皇后の子の眉輪王の仕業と記述しているが、中帯姫は中国王を意味しており、安芸を支配した前皇后の祖神と考えられる大物主、雄略天皇の妃の吉備上道臣の神を敬って、平郡氏の祖神の一言主と合祀した意味が理解でき、中臣氏の関与が窺える。

三輪神は三嶋溝橛耳が祀った神八→神倭→三輪と変質したものと考えられ、それを、大物主神や墨坂神などまとめて萬神と呼び、『日本書紀』に記述し、八十萬神は八国の十柱の萬神で、その中で、大物主神・墨坂神・神倭神を併せて三八萬神・三輪神と考えた。

2022年3月14日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』崇神天皇類書3

  『日本書紀』は続けて概略「四年冬十月庚申が朔の壬午に、天皇の威光を拡げようとしたが、國内に疫病が多発し、人民が半数位死亡したので、世情が不安定で神に頼もうと天照大神を豐鍬入姫に託し、日本大國魂神は、渟名城入姫に祭らせたがうまくいかなかった。七年の春二月丁丑が朔の辛卯に、神に頼もうと、八国の十柱の萬神を集めて、卜ったら神明倭迹迹日百襲姫に憑いて、天皇の夢見で大物主神の子の大田田根子に祭らせた。大田田根子の父は大物主大神で母は活玉依媛で陶津耳の娘、または、奇日方天日方武茅渟祇の娘で三輪君の始祖だ。九年春三月甲子が朔の戊寅 四月の甲午が朔の己酉に、夢の教えどおり、墨坂神・大坂神を祭った。そして、倭迹迹日百襲姫のために箸墓を造った」とある。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は「此天皇之御世伇病多起人民死爲盡(尽)尓天皇愁歎而坐神牀之夜大物主大神顯於御夢曰是者我之御心故以意富多々泥古而令祭我御前者神氣不起國(亦)安平是以駅使班于四方求謂意富多多泥古人之時於河内之美努村『----大安萬呂編 見得其人貢進尓天皇問賜之汝者誰子也荅曰(白)僕者大物主大神娶陶津耳命之女活玉依毗賣生子名櫛御方命之子飯肩巣見命之子建甕槌命之子僕意富多多泥古白於是天皇大歓以詔之天下平人民榮即以意富多多泥古命爲神主而於御諸山拝祭意富美和之大神前又仰伊迦賀色許男命作天之八十毗羅訶定奉天神地祇之社又於宇陀墨坂『大安萬呂編---神祭赤色楯矛又於大坂神祭黒色楯矛及河瀬文(神)於坂之御尾尾神悉無遺忘以奉幣帛也山大安萬呂編---』『?---因此而伇氣悉息國家安平也・・・」【この天皇の世に、疫病が多発して、人民が多数死んだ。それで天皇は愁い歎いて、祭壇に居た夜に、大物主大神が、夢に現れて、「これは私の意志だ。それで、意富多多泥古に、私の前で祭らせれば、神の力が起らず、国は安らかに平らぐ。」と言った。それで驛使を四方に派遣して、意富多多泥古という人を求めた時、河内の美努村にその人を見つけ連れて来た。そこで、天皇は、「お前は誰の子だ。」と問うと、「私は大物主大神、陶津耳の娘の活玉依毘賣を娶って生まれた、櫛御方の子、飯肩巣見の子、建甕槌の子、私は意富多多泥古だ。」と答えた。それで、天皇はとても歓んで、「天下が平らぎ、人民が栄えるだろう。」と言って、意富多多泥古を神主として、御諸山に意富美和大神の前を祭らせた。又、伊迦賀色許男に言って、天の八十毘羅訶を作って、天神地祇の社を定めて奉った。又、宇陀の墨坂神に赤色の楯矛を祭り、又、大坂神に墨色の楯矛を祭り、又、坂の御尾神、及び河瀬神に、残らず忘れないように幣帛を奉った。これによって、疫病は全て終息して、国家が平安となった。】と訳した。

『舊事本紀』は陶津耳ではなく大陶祗の娘となっているが、同じ説話があり、三諸山の大神が大巳貴と記述され、「大三輪大神其神之子即鴨君大三輪君」、事代主の系図にも活玉依毘賣の子の奇日方(櫛御方)→(建飯勝)→建甕槌→(建甕依→大御氣主)→飯賀田須→大田田祢古→大御氣持→大鴨積・大友主と継がれ、大鴨積が「賜賀茂君姓」、大友主が「此命同朝御世賜大神君姓」と大三輪君を賜姓され、大田田祢古に、大三輪神を祀らせたと、大巳貴の説話を思わせる。

すなわち、大巳貴と活玉依毘賣の子の三輪大神の大物主、事代主と活玉依毘賣の大物主大神、高皇産靈の娘の三穂津姫を娶る大物主、大物主の子と名乗る大田田祢古は出雲神門臣の娘の美氣姫を妃とし、『日本書紀』では「大物主神曰・・・吾兒大田田根子」なので飯賀田須が大物主となり、妻は鴨部美良姫、「天皇姑倭迹迹日百襲姫」が「倭迹迹日百襲姫命爲大物主神之妻」と記述され、鴨部美良姫が倭迹迹日百襲姫で、大御氣持も大倭國民磯姫を妃にすることで、大三輪大神を襲名したと思われ、実際に賜姓されたのは『日本書紀』では垂仁朝でも「祖」と記述され、仲哀朝が初出の大三輪大友主君である。

すなわち、複数の神武天皇、大物主の娘婿・大巳貴の娘婿・大三輪大神の娘婿・事代主の娘婿の神武天皇が存在し、それが神武紀の侵略の説話に接合され、少なくとも、正しくない朔の日干支の説話は異なる時代の異なる神武天皇の説話と考えられる。

倭迹迹日百襲姫は孝霊天皇の姫だが崇神天皇が姑と呼び、ここで、倭迹迹日百襲姫を姑と呼べるのは開化天皇か大彦、建飯賀田須の兄弟の和迩君の祖の阿田賀田須の子、すなわち、阿田賀田須の妃の兄弟の子、すなわち、和迩臣の祖の子達がその候補で、御間城入彦は姑と呼べず、崇神紀に出現する人物では、大彦が一番妥当し、大彦も崇神天皇と考えられる。

2022年3月11日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』崇神天皇類書2

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀上 』は「崇神天皇諱御間城入彦五十瓊殖尊者稚日本根子大日日天皇第二皇子也母日皇后伊香色謎命物部氏遠祖大綜麻杵命女也天皇年十九歳立為皇太子識性聡敏幼好雄畧既壯寬博謹慎崇重神祇恒有經論天業之心焉六十年夏四月稚日本根子大日日天皇崩元年歳次甲申春正月壬午朔甲午皇太子尊即天皇位尊皇后曰皇太后尊皇太后追贈太皇太后二月辛亥朔丙寅御間城姬命立爲皇后先是皇后誕生活目入彦五十狹茅天皇次彦五十狹茅命次國方姬命次千々衝倭姬命次倭彦命次五十日鸛彦命也妃紀伊國荒河戸畔女遠津年魚眼媛生豊城入彦命次豐鍬入姬命也次妃尾張大倭媛生八坂入彦命次渟中城入姬次十市瓊入姬命也三年秋九月都遷磯城謂瑞籬宮四年春二月丁卯建膽心命為大祢多辨命爲宿祢安毛建姜命爲侍臣並物部連公祖也・・・」、【崇神天皇諱は御間城入彦五十瓊殖で稚日本根子大日日の第二子、母は伊香色謎といい、物部氏の遠祖の大綜杵の娘だ。天皇は、十九歳で皇太子となり、善悪の判断に勝れ、若くから大計を好んだ。おとなになると、心が広くて慎み深く、天神地祇をあがめた。いつでも大業を治めようと思っていた。先の天皇の六十年夏四月、稚日本根子大日日が崩じ、治世元年甲申年の春正月壬午が朔の甲午に、即位した。先の皇后を尊んで皇太后とし、皇太后を尊んで大皇太后の号を贈った。二月辛亥が朔の丙寅、(系図は略す)三年の秋九月、都を磯城瑞籬宮に遷した。四年春二月丁卯、建胆心を大祢、多弁を宿祢とし、安毛建美を侍臣とし、これらは物部連の祖だ。】と訳した。

葛󠄀木直の祖の大諸見足尼が「羸津世襲命亦云葛󠄀木彦命尾張連等祖」とあるように、葛󠄀木彦は葛󠄀木国王で葛󠄀木の直と同等を意味し、葛󠄀木が首都の時は首都の王は天皇で、首都が変って、葛城が首都でなくなると、そこの王は葛󠄀木彦・葛󠄀木直と呼ばれて葛󠄀木縣主となる。

大諸見足尼の娘は「腋上池心宮御宇天皇御世爲大臣」、実際は孝元天皇の時の大国王の建諸隅の妃、もちろん、襲名した建諸隅が皇位を退いた葛城朝廷の大国を統治した大諸見の娘を妃にして、大諸見は御間城に、葛󠄀木直の祖の諸見巳姫は輕境原の王の姫で、夫の建諸隅の妹の大海姫が葛城王朝の皇統を繋いだと考えられる。

何度も記述するが、首都が葛城に有る場合、葛城縣主は有り得ず、天皇で、天皇波延は地名の無い縣主と記述され、黒田廬戸宮が首都の時のみ葛城王は葛城の直だが、この時、瀛津世襲が葛城彦、磯城に遷都した崇神朝の時しか葛城直や葛城国造や葛城彦は有り得ず、崇神朝天皇は磯城に首都があるので磯城彦・磯城縣主(弟磯城)である。

そして、『日本書紀』が「尾張大海媛」、『古事記』が「尾張連之祖意富阿麻比賣」と「おおあまひめ」に対して、『舊事本紀』は「尾張大倭媛」と「おおやまとひめ」と記述しているが、以前に倭は八・屋を平郡氏が表意文字としたと述べたが、『舊事本紀』では「あま」の表意文字を倭と理解したことを示し、すなわち、物部氏は天・海を倭と考えていた事を示し、御間城姫の子に倭彦、日葉酢媛の子に倭姫が存在し、其々「あま彦」・「あま姫」の可能性が高い。

大海媛が尾張氏の祖とあるように、崇神朝は伊香色謎と伊香色雄から大海媛と建諸隅に皇位が継承され、建諸隅の子の倭得玉が伊香色謎の娘の御眞津比賣を皇后に、また、建諸隅は節名草姫の子で丸迩臣の祖でもあり、大海媛は意祁都比賣でもあり、丸迩臣の祖の子の坐王を生み、坐王は「坐王者遣旦波國令殺玖賀耳」(『日本書紀』は丹波道主を名乗っている)と丹波を征服し、息長水依比賣との子が、丸迩臣の祖の孫の丹波道主で、その娘の比婆須比賣が垂仁皇后に、兄弟の朝廷別王の弟彦に政権が遷り、『古事記』と『日本書紀』はここでも1代ずれがある。

襲名した大海媛の姪の建諸隅の子のと思われる、袁祁都比賣は比古意須すなわち、食国王を生み、十市根は武諸遇の娘の時姫を妃にしているが、十市之入日賣の可能性があり、十市根の子孫の五十琴彦の娘は和珥臣の祖の日觸大臣を産む。

食国は隠洲・隠岐国、後の大国と考えられ、大国の神・大神を祀る伊勢皇大神宮、その斎王となった豊鋤比賣「拝祭伊勢大神之宮也」、「八坂彦命伊勢神麻績連等祖」と八坂は伊勢遺跡で隠岐の国神の臣を姓に持っていて、比古意須は豊鋤比賣本人かもしれない。

2022年3月9日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』崇神天皇類書1 

  『日本書紀』は概略「御間城入彦五十瓊殖は、稚日本根子彦大日日の第二子で母は伊香色謎、物部氏の遠祖の大綜麻杵の娘で十九歳で皇太子となり。前天皇の六十年の夏四月に、天皇が崩じたので、元年の春正月の壬午が朔の甲午に、天皇に即位し、二月辛亥が朔の丙寅に、御間城姫を皇后とし、活目入彦五十狹茅・彦五十狹茅・國方姫・千千衝倭姫・倭彦・五十日鶴彦を生んだ。妃の紀伊國の荒河戸畔の女の遠津年魚眼眼妙媛は豐城入彦・豐鍬入姫を生み、妃の尾張大海媛は八坂入彦・渟名城入姫・十市瓊入姫を生み、三年秋九月に、都を磯城瑞籬宮に遷した。」とある。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は「御真木入日子印恵命坐師木水垣宮治天下也此天皇娶木國造名荒河刀弁之女遠津年魚目々微比賣生御子豊木入日子命次豊鋤入日賣命二柱又娶尾張連之祖意富阿麻比賣生御子大入杵命次八坂之入日子命次沼名木之入日賣命次十市之入日賣命四柱又娶大毗古命之女御真津比賣命生御子伊玖米入日子伊渉(沙)知命次伊耶能真若命次國斤(片)比賣命次千々都久和比賣命次伊賀比賣命次倭日子命六柱此天皇之御子等并十二柱男王七女王五也故伊久米伊理毗古伊佐知命者治天下也次豊木入日子命者上毛野・下毛野君等之祖妹豊鋤比賣命者拝祭伊勢大神之宮也次大入杵命者能登臣之祖也次倭日子命此王之時始而於陵立人垣・・・」、【御眞木入日子印惠は師木水垣宮で天下を治めた。此の天皇は、木國造の荒河刀辨の娘の遠津年魚目目微比賣を娶って、生んだ、豐木入日子、次に豐鋤入日賣の二柱。(以下系図は略す)それで、伊久米伊理毘古伊佐知は、天下を治めた。次に豐木入日子は、上毛野、下毛野君の祖だ。妹の豐鋤比賣は、伊勢の大神の宮を拜き祭った。次に大入杵は、能登臣の祖だ。次に倭日子で此の王の時、始めて陵に人垣を立てた。】と訳した。

実際の王朝交代の流れを示すと、皇位継承が女系だったため、波延王朝と呼べる、前500から前300年頃まで、世襲された忍日女、世襲された忍日女の兄弟の天忍人の娘が皇位を継承したが、天戸目のいる磯城に遷都し、天戸目の皇后の葛城彦・羸津世襲の子の押姫と兄弟の太瓊が皇位を継承し、大目の娘の細姫(?建斗禾の娘の宇那比姫)が皇后になったと考えられる。

そして、太瓊の廬戸宮で生まれた日百襲姫・稚屋姫などが皇位を継承したが、宇那比姫の兄建宇那比の子の境原宮に住む建諸隅の妃になっていた分家大諸見足尼(?大吉備諸進)の姫の諸見巳姫に皇位が遷って前211年に輕境原へ遷都した。

しかし、國牽が出雲醜の時に姻戚になっていた大国王(大臣)の姫の欝色謎を皇后にして、欝色謎・欝色雄に皇位が移り、『古事記』「内色許男命之女伊迦賀色許賣」と欝色謎の子の大彦(由碁理)が大国王の欝色雄大臣の娘の伊香色謎に婿入りして大縣主、『舊事本紀』の「伊香色謎命大綜杵大臣之子」と2代目大彦(?彦湯産隅・大伊賀彦)が大綜杵の娘の伊香色謎に婿入りし、兄弟の伊香色雄に皇位が遷って、天璽瑞寶を受け継いだ。

そして、葛城氏が磯城で天皇だったので、物部氏から見ると、天皇は倭の磯城黒田宮の磯城彦と記述し、出雲醜大臣は「倭志紀彦妹真鳥姫」に婿入りして天皇の姻戚となり、伊香色雄も磯城黒田宮の「倭志紀彦女真鳥姫」と天皇の娘の襲名した真鳥姫(?御炊屋姫)を妃にして、天皇の姻戚となり、崇神以前は「縣主」・「志紀彦」・「磯城縣主」は天皇を意味したと考えられる。

すなわち、伊香色雄も「いがしこ」の名を襲名した男という意味で、欝色雄の子の伊香色雄が存在し、義兄の兄磯城武埴安彦を裏切って、弟磯城黒速を婿にし、黒速磯城縣主(天皇)、皇后伊香色謎・伊香色雄に皇位継承、そして、子の十市根の妃、建諸隅の娘の2代目大海姫を妃にして、兄弟の倭得玉彦が皇位を奪い、十市根は退位して「賜物部連公姓」と物部連を賜姓され、十市根の兄弟の建新川が倭志紀縣主の祖となった。

『古事記』は御真木入日子印恵と葛城氏の役職名を記述しているが、皇后名は御眞津比賣で御間城姫とは違う人物を記述し、御眞津比賣は天皇と伊香色謎の子、御間城姫は大彦の子で、共に崇神天皇の皇后としていて、大彦は複数人いる開化天皇の一人だった事を示している。

2022年3月7日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』開化天皇類書5

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「故兄大俣王之子曙立王次菟上王二柱此曙立王者伊勢之品遅部君伊勢之佐那造之祖菟上王者比賣陀君之祖次小俣王者當麻勾君之祖次志夫美宿祢王者佐々君之祖也次沙本毗古王者日下部連甲斐國造之祖次袁耶本王者葛野之別近淡海蚊野之別祖也次室毗古王者若狭之耳別之祖其美知能宇志王娶丹波之河上之摩須郎女生子比婆須比賣命次真砥野比賣命次弟比賣命次朝庭別王四柱此朝庭別王者三川之穂別之祖此美知能宇斯王之弟水穂真若王者近淡海之安直之祖次神大根王者三野國之本巣國造長幡部連之祖次山代之大箇木真若王娶同母弟伊理泥王之女母泥丹波能阿治佐波毗賣生子迦迩來(米)雷王此王娶丹波之遠津臣之女名高材比賣生子息長宿祢王此王娶葛城之高額比賣生子息長帯比賣命次虚空津比賣命次息長日子王三柱此王者吉備品遅君針間阿宗君之祖息長宿祢王娶河俣稻依毗賣生子大多牟坂王此者多遅摩國造之祖也上所謂建豊波豆羅和氣王者道守臣忍海部造御名部造稲羽忍海部丹波之竹野別依網之阿毘古等之祖也天皇御年陸拾参歳御陵在伊耶河之坂上也」、【(系図は略した)天皇の年、陸拾參歳で陵は伊邪の河の坂の上に在る。】と訳した。

日子坐王が天之御影神の娘の、息長水依比賣を娶って、生んだ子は、丹波比古多多須美知能宇斯王で、御影神は『舊事本紀』に「天御陰命河内直等祖」と記述され、 凡河内直の祖は『日本書紀』に「天津彦根命是凡川内直山代直等祖也」、『古事記』に「天津日子根命者凡川内國造・・・山代國造・・・等之祖也」、すなわち、息長氏の多多須は素戔嗚の子孫で河内・山代王の祖の子、山代王は崇神天皇とした倭得玉彦の子の弟彦の子が玉勝山代根古と山代王で弟彦は間違いなく丹波比古多多須美知能宇斯王の子孫である。

以前、少彦建猪心が細姫の妹の倭迹迹姫を妃にした、一心同体の人物と記述し、その娘が比古布都押之信の妃となって屋主忍男武雄心を生んだと推定したが、その娘が、倭迹迹姫と名がよく似る、絚某姉の娘の倭迹迹稚屋姫と考えられ、屋主と屋姫は良く符合する。

また、天之御影の孫の水穗眞若王は近淡海の安(野洲)直の祖だが、剱根と波延の子孫の和知都美が淡道の御井宮にいる野洲国王、その娘が繩伊呂泥(意富夜麻登久迩阿禮比賣・大倭国阿禮比賣)で、この姫の子が、恐らく倭飛羽矢若屋比賣(若国八国王?)、その娘が息長水依比賣で、水穗眞若王が八国王を継承したと考えられ、事代主→八井耳→和知都美→繩伊呂泥→屋主忍男武雄心→倭迹迹稚屋姫→水穗眞若王の妃に継承されている。

春日宮天皇は60年間、恐らく3代程度の天皇が存在し、初代春日宮天皇は欝色雄、次に丹波国造の祖の建田背の娘を妃にした鬱色謎の子の初代大彦・由碁理、次に2代目大彦の大綜杵の子の皇后伊香色謎の兄の天璽瑞寶を持っていた伊香色雄と考えられる。

旦波の大縣主の由碁理が初代大彦で天皇が欝色謎・欝色雄、次に、その子の伊香色雄・伊香色謎、大綜杵の娘の伊香色謎を妃にしたのは2代目大彦で、大綜杵の子の伊香色謎・伊香色雄に皇位が遷って、天璽瑞寶を得た。

『古事記』には伊香色謎が内色許男の娘と記述されて、他史書の大綜杵の娘と違い、孝元から崇神天皇まで伊香色雄・伊香色謎が記述され、地名伊香色の襲名の可能性が高く、伊香色雄・伊香色謎に2組を想定した。

『古事記』で天皇は葛城之垂見(足神)宿祢の娘を妃にしたが、『日本書紀』に記述がなく、垂見は葛城氏、開化天皇の一人に当てているのは木国造の子の和迩臣の祖の建諸隅で、葛󠄀木直祖大諸見足尼は境原宮の皇太子だった人物と思われ、後継の葛城之垂見宿祢は2代目建諸隅と同一人物、鸇比賣と諸見巳姫も同一人物と考えられ、2代目建諸隅は叔母の袁祁都比賣を妃に坐王・倭得玉彦を生み、2代目袁祁都比賣は山代之大筒木眞若王・比古意須王を生んだと考えられる。


2022年3月4日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』開化天皇類書4

  和珥臣について前項に続けて、『日本書紀』に応神天皇に「和珥臣祖日觸使主之女宮主宅媛生菟道稚郎子皇子矢田皇女雌鳥皇女」、『古事記』は「丸迩之比布礼能意富美之女名宮主矢河枝比賣生御子宇遅能和紀郎子次妹八田若郎女次女鳥王」、『舊事本紀』『天孫本紀』には「物部山無媛連公此連公輕嶋豐明宮御宇天皇立為皇妃誕生太子莵道稚郎皇子次矢田皇女次嶋鳥皇女」と物部連と和珥臣・日觸使主が同じと記述し、『古事記』は比布禮能意富美、日觸大臣と皇太子と同等の皇位を継承すべき地位と記述している。

また、莵道稚郎皇子の祖父は『舊事本紀』應神天皇に「妃物部多遅麻大連女香室媛生三皇子兒菟道稚郎子皇子」、「物部五十琴宿祢・・・多遅麻大連女香兒媛為妻」と共に香媛、すなわち、「膽咋宿禰十市根大連之子」、「五十琴宿祢連公膽咋宿祢之子」と記述され、十市根の孫で「武諸遇連公女子時妓爲妻」と記述される武諸遇の曽孫である五十琴宿祢が秦国の応神天皇で、日觸大臣が多遅麻大連で諸遇朝廷の皇太子と同等と記述している。

山無媛の母は「物部五十琴彦連公女安媛」、父は「多遅麻連公武神諸遇大連之子」、武諸遇の妃は「物部膽咋宿祢女清媛」、「武諸遇連公新河大連之子」で、武諸遇の娘婿の十市根であり、襲名した武諸遇の妃が膽咋の娘を妃にし、多遅麻は膽咋の子の五十琴彦連公の娘を妃と、武諸遇朝廷内の皇位継承法を示している。

矢田部造遠祖武諸遇」が天皇になり、「大新河命此命纏向珠城宮御宇天皇御世元爲大臣次賜物部連公姓」と退位して物部姓をもち、大新河の妃は「紀伊荒川戸俾女中日女」で、崇神天皇の妃「荒河戸畔女・・・八坂振天某邊」と姉妹で八坂入彦と後継を争ったのは、荒川戸俾の孫達で、この争いによって、尾張朝廷と物部朝廷に分裂したと考えられる。

大新河は垂仁天皇から賜姓され『日本書紀』は大新河の賜姓を記述せずに矛盾しており、それは、大新河の子の武諸遇が尾張の建諸隅・荒川戸俾から皇位を継承したからであり、さらに、物部山無媛は武諸遇の子の多遅麻大連の子、多遅麻大連の兄弟に五十琴宿祢がおり、「伊莒弗連公五十琴宿祢之子此連公稚櫻柴垣二宮御宇天皇御世為大連」、『日本書紀』にも履中天皇二年に伊莒弗が記述され、子が履中・反正天皇に大連として仕え、同年代の山無媛が390年頃即位した応神天皇の妃でないと年代が合致しない。

これは、何を意味するかと言うと、垂仁天皇の時に崇神天皇の時まで、天璽瑞寶を持つ名目上天皇だった物部氏が分裂して、一方は畿内で取って代わられた政権に仕え、もう一方は別朝廷を作って、まだ姓が無い天皇として、武諸遇・秦朝廷を継続し、390年頃即位したある王、その38年後のある王(仁徳天皇)三八年の「立八田皇女爲皇后」と、さらに、雌鳥皇女之珠「足玉手玉」を手に入れて秦朝廷が崩壊したので、とある王(仁徳天皇)五三年に秦朝廷に朝貢していた新羅が「新羅不朝貢」と朝貢しなかった。

大海姫を崇神天皇の妃にすることで、大海姫・建諸隅兄弟が磯城朝廷から独立して纏向に朝廷を開き、志賀高穴穂宮の大陀牟夜別・襲名武諸遇天皇は大臣の膽咋宿祢の娘の清媛と五十琴宿祢兄弟によって皇位を簒奪され、山無媛と390年即位の応神天皇の子の莵道稚郎子と矢田皇女によって武諸遇朝廷は終焉し、「改賜矢田部連公姓」と矢田部を賜姓された。

350年・仁徳天皇三八年の「立八田皇女爲皇后」の仁徳天皇は武諸遇朝廷の大別天皇のことと考えられ、秦の末裔の和珥臣祖日觸使主の流れを汲む春日山田皇女などを皇后にし、後に春日臣を名乗る、物部氏でもある人々が『隋書』の秦王国王そのものの構成員と考えられ、元々元号を持っていた秦国の元号の記録を残し始めた継体天皇は日觸大臣の5世、100年後の子孫と考えられ、和珥臣の調査によって、淡海の秦の王朝が後の『隋書』の秦王国だったことが解る。


2022年3月2日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』開化天皇類書3

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は「岡上也若倭根子日子大毗々命坐春日之伊耶河宮治天下也此天皇娶旦波之大縣主名由碁理之女竹野比賣生御子比古由牟須美命一柱又娶鹿(庶)母伊迦賀色許賣命生御子御真木入日子印恵命次御真津比賣命二柱又娶丸迩臣之祖日子國意祁都命之妹意祁都比賣命生御子日子坐王一柱又娶葛城之垂見宿祢之女鸇比賣生御子建豊波豆羅和氣一柱此天皇之御子等并五柱男王四女王一故御真木入日子印恵命者治天下也其兄比古由年(牟)須美王之子大箇木垂根王次讃岐垂根王二王此二王之女五柱坐也次日子坐王娶山代之荏名名津比賣亦名苅幡戸弁生子大俣王次小俣王次志夫美宿祢王三柱又娶春日建國勝戸賣之女名沙本(之)大闇見戸賣生子沙本毘古王次袁耶本王次沙本毘賣命亦名佐波遅比賣此沙本毗賣命者爲伊久米天皇之后自沙本毘古次室毗古王四柱又娶近淡海之御上祝以伊都玖天之御影神之女息長水依比賣生子丹波比古多多須美知能宇斯王次水之穂真若王次神大根王亦名八瓜入日子王次水穂五百依比賣次御井津比賣五柱又娶其母弟袁祁都比賣命生子山代之大箇木真若王次比古意須王次伊理泥王三柱凡日子坐王之子并十一王・・・」、【若倭根子日子大毘毘は、春日の伊邪河宮で、天下を治めた。この天皇は、旦波の大縣主の由碁理の娘の竹野比賣を娶って、生んだ子は比古由牟須美の一柱。又、庶母の伊迦賀色許賣を娶って、生んだ子は、御眞木入日子印惠、次に御眞津比賣の二柱。又、丸迩臣の祖、日子國意祁都の妹の意祁都比賣を娶って、生んだ子は、日子坐王一柱。又、葛城の垂見宿禰の娘、鸇比賣を娶って、生んだ子は建豐波豆羅和氣一柱。此の天皇の子は、併せて五柱だ。男王四、女王一で、御眞木入日子印惠は、天下を治めた。その兄の比古由牟須美王の子の大筒木垂根王、次に讚岐垂根王の二王。この二王の娘は五柱いた。次に日子坐王は山代の荏名津比賣、またの名は苅幡戸辨を娶って、生んだ子は大俣王、次に小俣王、次に志夫美宿禰王の三柱。又、春日の建國勝戸賣の娘の名が沙本之大闇見戸賣を娶って、生んだ子は、沙本毘古王、次に袁邪本王、次に沙本毘賣、亦の名は佐波遲比賣で、伊久米天皇の后となった。次に室毘古王の四柱。又、近淡海の御上の祝がいつく、天之御影神の娘の、息長水依比賣を娶って、生んだ子は、丹波比古多多須美知能宇斯王、次に水之穗眞若王、次に神大根王、亦の名は八瓜入日子王、次に水穗五百依比賣、次に御井津比賣の五柱。又、その母の弟の袁祁都比賣を娶って、生んだ子は山代之大筒木眞若王、次に比古意須王、次に伊理泥王の三柱。おおよそ、日子坐王の子は、併せて十一王だ。・・・】と訳した。

詳細な系図を記述する日子坐王の母は丸迩臣の祖の日子國意祁都の妹で、丸迩臣は『日本書紀』に「天足彦國押人命此和珥臣等始祖也」と記述されるが、『古事記』では「天押帯日子命者春日臣大宅臣粟田臣小野臣柿本臣・・・之祖也」と「丸迩臣」を含めていない。

ところが、『日本書紀』仁賢天皇に「和珥臣日爪女糠君娘生一女是爲春日山田皇女」、『古事記』は「丸迩臣日爪臣之女糠若子郎女生御子春日山田郎女」、『舊事本紀』は「次和珥臣日爪女糠君娘生春日山田皇女」、また、『日本書紀』欽明天皇に「春日日柧臣女曰糠子生春日山田皇女與橘麻呂皇子」、『古事記』は「春日之日爪臣之女糠子郎女生御子春日山田郎女次麻呂古王次宗賀之倉王」、『舊事本紀』は「皇后弟日稚綾姫皇女生一男石上皇子皇后弟日影皇女生倉皇子」と、

和珥臣は春日臣と記述して春日臣は和珥臣でもあるが、『古事記』を記述する人物は、和珥臣が重要な人物である時代に、和珥臣が天足彦直系ではないと述べている。

それは、『古事記』執筆を命じた人物は巨勢氏の仁賢天皇、皇后は春日山田郎女で、丸迩臣の娘と解っているが、春日臣を賜姓したからと思われ、春日臣は『古事記』に天押帯日子の説明以外全く出現しないが、それは、隠岐の国神の臣を追認して、『古事記』記述時の仁賢天皇が公式に賜姓した証明でもある。

『古事記』以前に記述された『日本書紀』の雄略天皇以前は葛城王朝の臣は使主で、雄略天皇十四年「根使主之後爲坂本臣」と平郡朝で臣が賜姓され、臣は物部朝や尾張朝、大国(大人国)・隠岐(洲)の官位だったことを示していて、そのため、「中臣烏賊津使主」や中臣連(使主)の姓が存在することになった。