2022年3月18日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』崇神天皇類書5

  『日本書紀』は続けて概略「十年の秋七月の丙戌が朔の己酉に未だに正しい朔すなわち暦を受け入れないので、九月丙戌が朔の甲午に大彦を北陸に派遣し、武渟川別を東海に派遣し、吉備津彦を西道に派遣し、丹波道主を丹波に派遣した。さらに、武埴安彦と妻の吾田媛が謀反を起こしたので、五十狹芹彦と和珥臣の遠祖の彦國葺と大彦が打ち破り、十七年秋七月丙午が朔に船舶を造った。」とある。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は「又此之御世大毘古命者遣高志道其子建沼河別命者遣東方十二道而令和平其麻都漏波奴人等又日子坐王者遣旦波國令殺玖賀耳之御笠此人名者也故大毘古命罷往於高志國之時服腰裳少女立山代之幣羅坂而歌曰美麻紀伊理毘古波夜美麻紀伊理毘古波夜意能賀袁袁奴須美斯勢牟登斯理都斗用伊由岐多賀比麻幣都斗用伊由岐多賀比宇迦波久斯良尓登美麻紀伊理毘古波夜於是大毘古命思恠返馬問其少女曰汝所謂之言何言尓少女荅曰吾勿言唯爲詠歌耳即不見其所如而忽「失故大毘古命更還参上請於天皇時天皇荅詔之此者爲在山代國我之庶兄建波迩安王起邪心之表耳伯父興軍宜行即副丸迩臣之祖日子國夫玖命而遣時即於丸迩坂居忌兊(瓮)而罷往於是到山代之和訶羅河時其建波迩安王興軍待遮各中挾河而對立相挑故号其地謂伊杼美(今謂伊豆美也)尓日子國夫玖命乞云其廂人先忌矢可弾尓其建波迩安王雖射不得中於是國夫玖迩(命)弾天(矢)者即射建波迩安王而死故其軍悉破而逃散尓追迫其逃軍到久須波(婆)之度時皆被迫窘而屎出懸於褌故号其地謂屎褌(今者謂久須婆)」、【又、この天皇の時に、大毘古を高志道に派遣し、その子建沼河別を、東方の十二道に派遣して、その平伏しない人達を平らげた。又、日子坐王を、旦波國に派遣して、玖賀耳の御笠を殺させた。それで、大毘古は、高志國に行った時、腰裳を着た少女が、山代の幣羅坂に立って歌った(略)。それで大毘古は、あやしみ馬を返して、その少女に「お前が言ったのはどういう事だ。」と問いかけた。それに少女が「私は何も言っていない。ただ歌を詠んだだけだ。」と答えて、どこかにたちまち姿を消した。それで、大毘古は、参上して、天皇に伝えたら、天皇は「これは、山代國にいる庶兄の建波迩安王が、邪心を起したのでは。伯父は、軍を興して行け。」と答えて、それで丸迩臣の祖の日子國夫玖を副えて派遣し、丸迩坂に忌瓮をおいて行った。それで山代の和訶羅河に着いた時、建波迩安王は、軍を興して待ち受け、河を間に挟んで、対抗して応戦した。それで、そこを伊杼美という。今は伊豆美という。そこで日子國夫玖は、「そちらの者よ、まず魔よけの矢を撃て。」と求めた。それで建波迩安王が、射ったが当てることが出来なかった。それで國夫玖の放った矢は、建波迩安王を射て殺した。それで、その兵は残らず逃げ散った。それでその逃げる兵を追い詰めて、久須婆の渡についた時、皆行き詰まって、屎を漏らして褌に懸った。それで、そこを屎褌という。今は久須婆という。】と訳した。

『日本書紀』に崇神天皇十年・前88年に「猶不受正朔」と天皇が発布する正しい朔の日を受け入れないと怒り、この頃は天皇が暦・正朔を発布していたことを述べているが、『二中歴』に「年始五百六十九年内丗九年無号不記支干其間結縄刻木以成政継体五年元丁酉」と継体元年より569年前に支干が始まったと記述し、継体元年は517年で、その569年前は前53年、そこから39年間は「無号不記」と元号が無く干支を「結縄刻木」と木に刻み縄で結んで保存し、すなわち、前15年から元号が始まったと記述している。

結縄刻木がいつまで続いたか解らないが、『漢書』に「眞番辰國欲上書見天子又雍閼弗通元封二年」と前109年に辰国が中国に上書を提出し、紙に文字を書いていたことが解り、景行天皇元年71年に「因以改元」と改元し、『二中歴』の「継体」から元号が始まったということは、それ以前は違う王朝の扶桑国や尾張王朝の元号が存在した。

「継体」から秦王国の元号、すなわち、物部氏の元号が始まり、その元号が倭・日本国に引き継がれて、大長まで続いたことを示し、前53年から年号が始まったのは秦国を荒河戸畔・建諸隅・豐城入彦が建国して始まったと『二中歴』が記述したのであり、前53年以前、「猶不受正朔」の前88年以前の辰国や東鯷国でも元号を持つ暦が有り、だから、上書を送り、『日本書紀』に天文学的に正しい朔が記述され、「辛酉年春正月庚辰朔天皇即帝位於橿原宮是歳爲天皇元年」と宮元年という元号が記述されるのである。

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