2022年3月11日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』崇神天皇類書2

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀上 』は「崇神天皇諱御間城入彦五十瓊殖尊者稚日本根子大日日天皇第二皇子也母日皇后伊香色謎命物部氏遠祖大綜麻杵命女也天皇年十九歳立為皇太子識性聡敏幼好雄畧既壯寬博謹慎崇重神祇恒有經論天業之心焉六十年夏四月稚日本根子大日日天皇崩元年歳次甲申春正月壬午朔甲午皇太子尊即天皇位尊皇后曰皇太后尊皇太后追贈太皇太后二月辛亥朔丙寅御間城姬命立爲皇后先是皇后誕生活目入彦五十狹茅天皇次彦五十狹茅命次國方姬命次千々衝倭姬命次倭彦命次五十日鸛彦命也妃紀伊國荒河戸畔女遠津年魚眼媛生豊城入彦命次豐鍬入姬命也次妃尾張大倭媛生八坂入彦命次渟中城入姬次十市瓊入姬命也三年秋九月都遷磯城謂瑞籬宮四年春二月丁卯建膽心命為大祢多辨命爲宿祢安毛建姜命爲侍臣並物部連公祖也・・・」、【崇神天皇諱は御間城入彦五十瓊殖で稚日本根子大日日の第二子、母は伊香色謎といい、物部氏の遠祖の大綜杵の娘だ。天皇は、十九歳で皇太子となり、善悪の判断に勝れ、若くから大計を好んだ。おとなになると、心が広くて慎み深く、天神地祇をあがめた。いつでも大業を治めようと思っていた。先の天皇の六十年夏四月、稚日本根子大日日が崩じ、治世元年甲申年の春正月壬午が朔の甲午に、即位した。先の皇后を尊んで皇太后とし、皇太后を尊んで大皇太后の号を贈った。二月辛亥が朔の丙寅、(系図は略す)三年の秋九月、都を磯城瑞籬宮に遷した。四年春二月丁卯、建胆心を大祢、多弁を宿祢とし、安毛建美を侍臣とし、これらは物部連の祖だ。】と訳した。

葛󠄀木直の祖の大諸見足尼が「羸津世襲命亦云葛󠄀木彦命尾張連等祖」とあるように、葛󠄀木彦は葛󠄀木国王で葛󠄀木の直と同等を意味し、葛󠄀木が首都の時は首都の王は天皇で、首都が変って、葛城が首都でなくなると、そこの王は葛󠄀木彦・葛󠄀木直と呼ばれて葛󠄀木縣主となる。

大諸見足尼の娘は「腋上池心宮御宇天皇御世爲大臣」、実際は孝元天皇の時の大国王の建諸隅の妃、もちろん、襲名した建諸隅が皇位を退いた葛城朝廷の大国を統治した大諸見の娘を妃にして、大諸見は御間城に、葛󠄀木直の祖の諸見巳姫は輕境原の王の姫で、夫の建諸隅の妹の大海姫が葛城王朝の皇統を繋いだと考えられる。

何度も記述するが、首都が葛城に有る場合、葛城縣主は有り得ず、天皇で、天皇波延は地名の無い縣主と記述され、黒田廬戸宮が首都の時のみ葛城王は葛城の直だが、この時、瀛津世襲が葛城彦、磯城に遷都した崇神朝の時しか葛城直や葛城国造や葛城彦は有り得ず、崇神朝天皇は磯城に首都があるので磯城彦・磯城縣主(弟磯城)である。

そして、『日本書紀』が「尾張大海媛」、『古事記』が「尾張連之祖意富阿麻比賣」と「おおあまひめ」に対して、『舊事本紀』は「尾張大倭媛」と「おおやまとひめ」と記述しているが、以前に倭は八・屋を平郡氏が表意文字としたと述べたが、『舊事本紀』では「あま」の表意文字を倭と理解したことを示し、すなわち、物部氏は天・海を倭と考えていた事を示し、御間城姫の子に倭彦、日葉酢媛の子に倭姫が存在し、其々「あま彦」・「あま姫」の可能性が高い。

大海媛が尾張氏の祖とあるように、崇神朝は伊香色謎と伊香色雄から大海媛と建諸隅に皇位が継承され、建諸隅の子の倭得玉が伊香色謎の娘の御眞津比賣を皇后に、また、建諸隅は節名草姫の子で丸迩臣の祖でもあり、大海媛は意祁都比賣でもあり、丸迩臣の祖の子の坐王を生み、坐王は「坐王者遣旦波國令殺玖賀耳」(『日本書紀』は丹波道主を名乗っている)と丹波を征服し、息長水依比賣との子が、丸迩臣の祖の孫の丹波道主で、その娘の比婆須比賣が垂仁皇后に、兄弟の朝廷別王の弟彦に政権が遷り、『古事記』と『日本書紀』はここでも1代ずれがある。

襲名した大海媛の姪の建諸隅の子のと思われる、袁祁都比賣は比古意須すなわち、食国王を生み、十市根は武諸遇の娘の時姫を妃にしているが、十市之入日賣の可能性があり、十市根の子孫の五十琴彦の娘は和珥臣の祖の日觸大臣を産む。

食国は隠洲・隠岐国、後の大国と考えられ、大国の神・大神を祀る伊勢皇大神宮、その斎王となった豊鋤比賣「拝祭伊勢大神之宮也」、「八坂彦命伊勢神麻績連等祖」と八坂は伊勢遺跡で隠岐の国神の臣を姓に持っていて、比古意須は豊鋤比賣本人かもしれない。

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