2022年3月21日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』崇神天皇類書6

 前項の続いて、『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて、「又遮其逃軍以斬者如鵜浮於河故号其河訶(謂)鵜河也亦斬波布理其軍士故号其地謂波布理曽能如此平訖参上覆奏故大毗古命者随先命而罷行高志國尓自東方所遣建沼河別與其父大毗古共往遇于相津故其地謂相津也是以各和乎(手・平)所遣之國政而覆奏尓天下太平人民富榮於是初令貢男弓端之調女手末之調故稱其御世謂所知初國之御真木天皇也又是之御世(作)依網池亦作經之酒折池也天皇御歳壱佰陸拾捌歳戊寅年十二月崩」、【又、その逃げる兵を遮って斬ると、鵜のように河に浮いた。それで、その河を鵜河という。亦、その兵士を斬り掃った。それで、そこを波布理曾能という。このように平げ終わって、参上して復命した。それで、大毘古は、先の命令通りに、高志國に行った。それで東方から派遣されていた建沼河別と、その父大毘古とが、相津で遭遇した。それで、そこを相津という。これで其々派遣された國の政情を落ち着かせて復命した。それで天下がとても平穏になり、人民が富み栄えた。そこで初めて男の獲物の物納と、女の織物の物納を始めた。それで、その世を稱えて、初めて國を知らした御眞木天皇という。又、この天皇の治世で、依網池を作り、亦、輕の酒折池を作った。天皇の歳は壹佰陸拾捌歳で戊寅の年の十二月に崩じた。山邊の道の勾の岡の上に葬った。】と訳した。

『古事記』が日子坐王を丹波に派遣したと書くのに対して『日本書紀』は丹波道主すなわち日子坐王の子の丹波比古多多須美知能宇斯王と記述し、大彦・坐王をどの天皇の時代に記述するかによって、それに対応する他の氏族の世代が変化する事を示し、それに合致るように主語も変化させていて、古代の日本の史書の作成法が窺える。

丹波道主は『日本書紀』に「道主王者・・・彦坐王子也一云彦湯産隅王之子也」と湯産隅の子も道主、旦波大縣主由碁理の娘の竹野比賣の子で、大縣主は大彦のこと、竹野比賣は大彦の姫にあたり、由碁理が丹波を攻撃して丹波道主、さらに大縣主すなわち大彦になり、大彦の子が丹波道主湯産隅で、その娘の丹波河上の摩須郎女を丹波比古多多須美知能宇斯王が妃にして、丹波道主となったと考えられ、多多須が湯産隅を破ってその姫を得ることで丹波が多多須に支配された記述が『日本書紀』の丹波道主派遣である。

『舊事本紀』に「品治部君等祖彦湯産隅命」とあるように、大筒木垂根も品治部君の祖と考えられ、品治部君は譽津部君の譽津別と考えられ、母の沙本毘賣は春日建國勝戸賣の孫で、春日建國は建氏の国、すなわち、尾張氏の国・建諸偶の国と考えられ、彦湯産隅は武氏に婿入りした武渟川別と考えられる。

丹波道主が存在した時代には同じ役職の道主だった、中臣の同盟者の道臣が垂仁天皇の時代に「大伴連遠祖武日」と大伴連賜姓前に配下として出現し、吉備津彦に道主日臣が配下となって、道臣となった可能性が高く、神武東征の段階で、吉備から道臣を配下に大和に入るのだから、『古事記』には西道侵攻は記述されず、崇神天皇時代以降に大和に侵入しているので、大物主の娘を娶ることもできる。

大伴連の祖は『舊事本紀』に「倭宿祢命三川大伴部直祖」と記述され、倭宿祢は倭直吾子篭宿禰が大倭國造吾子篭宿禰とあるように、倭国王でその子孫が大伴連を配下にし、仁徳天皇の時でも「大鷦鷯尊問倭直祖麻呂」と倭国王が存在せず、倭直部と倭直と倭國造と倭宿祢が同一の意味、大伴部直も大伴の統領大伴大連の祖の意味で、『日本書紀』の神武天皇の役者が揃って、「槁根津日子此者倭國造等之祖」と槁根津日子は390年頃即位した応神天皇の神武東征の説話、すなわち、「珍彦爲倭國造」と珍彦は吾子篭で、珍彦は木国造・木直・木宿祢になった。

すなわち、道臣は少国の吉備道臣のことで、大足彦とともに安芸仲国を征服し、さらに、仲足彦の子の応神天皇(『日本書紀』の葛城神武天皇)とともに、畿内を征服したと考えられ、もともと、史書は大倭を大和の表意文字にしていて、江戸時代に江戸藩がないように、大和に首都があって、大和王など有るはずがなく、大和王がいるとしたら、淡海朝の時は大和にも朝廷が有り、難波仁徳朝廷以降しか有り得ない。


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