2022年3月4日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』開化天皇類書4

  和珥臣について前項に続けて、『日本書紀』に応神天皇に「和珥臣祖日觸使主之女宮主宅媛生菟道稚郎子皇子矢田皇女雌鳥皇女」、『古事記』は「丸迩之比布礼能意富美之女名宮主矢河枝比賣生御子宇遅能和紀郎子次妹八田若郎女次女鳥王」、『舊事本紀』『天孫本紀』には「物部山無媛連公此連公輕嶋豐明宮御宇天皇立為皇妃誕生太子莵道稚郎皇子次矢田皇女次嶋鳥皇女」と物部連と和珥臣・日觸使主が同じと記述し、『古事記』は比布禮能意富美、日觸大臣と皇太子と同等の皇位を継承すべき地位と記述している。

また、莵道稚郎皇子の祖父は『舊事本紀』應神天皇に「妃物部多遅麻大連女香室媛生三皇子兒菟道稚郎子皇子」、「物部五十琴宿祢・・・多遅麻大連女香兒媛為妻」と共に香媛、すなわち、「膽咋宿禰十市根大連之子」、「五十琴宿祢連公膽咋宿祢之子」と記述され、十市根の孫で「武諸遇連公女子時妓爲妻」と記述される武諸遇の曽孫である五十琴宿祢が秦国の応神天皇で、日觸大臣が多遅麻大連で諸遇朝廷の皇太子と同等と記述している。

山無媛の母は「物部五十琴彦連公女安媛」、父は「多遅麻連公武神諸遇大連之子」、武諸遇の妃は「物部膽咋宿祢女清媛」、「武諸遇連公新河大連之子」で、武諸遇の娘婿の十市根であり、襲名した武諸遇の妃が膽咋の娘を妃にし、多遅麻は膽咋の子の五十琴彦連公の娘を妃と、武諸遇朝廷内の皇位継承法を示している。

矢田部造遠祖武諸遇」が天皇になり、「大新河命此命纏向珠城宮御宇天皇御世元爲大臣次賜物部連公姓」と退位して物部姓をもち、大新河の妃は「紀伊荒川戸俾女中日女」で、崇神天皇の妃「荒河戸畔女・・・八坂振天某邊」と姉妹で八坂入彦と後継を争ったのは、荒川戸俾の孫達で、この争いによって、尾張朝廷と物部朝廷に分裂したと考えられる。

大新河は垂仁天皇から賜姓され『日本書紀』は大新河の賜姓を記述せずに矛盾しており、それは、大新河の子の武諸遇が尾張の建諸隅・荒川戸俾から皇位を継承したからであり、さらに、物部山無媛は武諸遇の子の多遅麻大連の子、多遅麻大連の兄弟に五十琴宿祢がおり、「伊莒弗連公五十琴宿祢之子此連公稚櫻柴垣二宮御宇天皇御世為大連」、『日本書紀』にも履中天皇二年に伊莒弗が記述され、子が履中・反正天皇に大連として仕え、同年代の山無媛が390年頃即位した応神天皇の妃でないと年代が合致しない。

これは、何を意味するかと言うと、垂仁天皇の時に崇神天皇の時まで、天璽瑞寶を持つ名目上天皇だった物部氏が分裂して、一方は畿内で取って代わられた政権に仕え、もう一方は別朝廷を作って、まだ姓が無い天皇として、武諸遇・秦朝廷を継続し、390年頃即位したある王、その38年後のある王(仁徳天皇)三八年の「立八田皇女爲皇后」と、さらに、雌鳥皇女之珠「足玉手玉」を手に入れて秦朝廷が崩壊したので、とある王(仁徳天皇)五三年に秦朝廷に朝貢していた新羅が「新羅不朝貢」と朝貢しなかった。

大海姫を崇神天皇の妃にすることで、大海姫・建諸隅兄弟が磯城朝廷から独立して纏向に朝廷を開き、志賀高穴穂宮の大陀牟夜別・襲名武諸遇天皇は大臣の膽咋宿祢の娘の清媛と五十琴宿祢兄弟によって皇位を簒奪され、山無媛と390年即位の応神天皇の子の莵道稚郎子と矢田皇女によって武諸遇朝廷は終焉し、「改賜矢田部連公姓」と矢田部を賜姓された。

350年・仁徳天皇三八年の「立八田皇女爲皇后」の仁徳天皇は武諸遇朝廷の大別天皇のことと考えられ、秦の末裔の和珥臣祖日觸使主の流れを汲む春日山田皇女などを皇后にし、後に春日臣を名乗る、物部氏でもある人々が『隋書』の秦王国王そのものの構成員と考えられ、元々元号を持っていた秦国の元号の記録を残し始めた継体天皇は日觸大臣の5世、100年後の子孫と考えられ、和珥臣の調査によって、淡海の秦の王朝が後の『隋書』の秦王国だったことが解る。


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