2022年3月9日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』崇神天皇類書1 

  『日本書紀』は概略「御間城入彦五十瓊殖は、稚日本根子彦大日日の第二子で母は伊香色謎、物部氏の遠祖の大綜麻杵の娘で十九歳で皇太子となり。前天皇の六十年の夏四月に、天皇が崩じたので、元年の春正月の壬午が朔の甲午に、天皇に即位し、二月辛亥が朔の丙寅に、御間城姫を皇后とし、活目入彦五十狹茅・彦五十狹茅・國方姫・千千衝倭姫・倭彦・五十日鶴彦を生んだ。妃の紀伊國の荒河戸畔の女の遠津年魚眼眼妙媛は豐城入彦・豐鍬入姫を生み、妃の尾張大海媛は八坂入彦・渟名城入姫・十市瓊入姫を生み、三年秋九月に、都を磯城瑞籬宮に遷した。」とある。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は「御真木入日子印恵命坐師木水垣宮治天下也此天皇娶木國造名荒河刀弁之女遠津年魚目々微比賣生御子豊木入日子命次豊鋤入日賣命二柱又娶尾張連之祖意富阿麻比賣生御子大入杵命次八坂之入日子命次沼名木之入日賣命次十市之入日賣命四柱又娶大毗古命之女御真津比賣命生御子伊玖米入日子伊渉(沙)知命次伊耶能真若命次國斤(片)比賣命次千々都久和比賣命次伊賀比賣命次倭日子命六柱此天皇之御子等并十二柱男王七女王五也故伊久米伊理毗古伊佐知命者治天下也次豊木入日子命者上毛野・下毛野君等之祖妹豊鋤比賣命者拝祭伊勢大神之宮也次大入杵命者能登臣之祖也次倭日子命此王之時始而於陵立人垣・・・」、【御眞木入日子印惠は師木水垣宮で天下を治めた。此の天皇は、木國造の荒河刀辨の娘の遠津年魚目目微比賣を娶って、生んだ、豐木入日子、次に豐鋤入日賣の二柱。(以下系図は略す)それで、伊久米伊理毘古伊佐知は、天下を治めた。次に豐木入日子は、上毛野、下毛野君の祖だ。妹の豐鋤比賣は、伊勢の大神の宮を拜き祭った。次に大入杵は、能登臣の祖だ。次に倭日子で此の王の時、始めて陵に人垣を立てた。】と訳した。

実際の王朝交代の流れを示すと、皇位継承が女系だったため、波延王朝と呼べる、前500から前300年頃まで、世襲された忍日女、世襲された忍日女の兄弟の天忍人の娘が皇位を継承したが、天戸目のいる磯城に遷都し、天戸目の皇后の葛城彦・羸津世襲の子の押姫と兄弟の太瓊が皇位を継承し、大目の娘の細姫(?建斗禾の娘の宇那比姫)が皇后になったと考えられる。

そして、太瓊の廬戸宮で生まれた日百襲姫・稚屋姫などが皇位を継承したが、宇那比姫の兄建宇那比の子の境原宮に住む建諸隅の妃になっていた分家大諸見足尼(?大吉備諸進)の姫の諸見巳姫に皇位が遷って前211年に輕境原へ遷都した。

しかし、國牽が出雲醜の時に姻戚になっていた大国王(大臣)の姫の欝色謎を皇后にして、欝色謎・欝色雄に皇位が移り、『古事記』「内色許男命之女伊迦賀色許賣」と欝色謎の子の大彦(由碁理)が大国王の欝色雄大臣の娘の伊香色謎に婿入りして大縣主、『舊事本紀』の「伊香色謎命大綜杵大臣之子」と2代目大彦(?彦湯産隅・大伊賀彦)が大綜杵の娘の伊香色謎に婿入りし、兄弟の伊香色雄に皇位が遷って、天璽瑞寶を受け継いだ。

そして、葛城氏が磯城で天皇だったので、物部氏から見ると、天皇は倭の磯城黒田宮の磯城彦と記述し、出雲醜大臣は「倭志紀彦妹真鳥姫」に婿入りして天皇の姻戚となり、伊香色雄も磯城黒田宮の「倭志紀彦女真鳥姫」と天皇の娘の襲名した真鳥姫(?御炊屋姫)を妃にして、天皇の姻戚となり、崇神以前は「縣主」・「志紀彦」・「磯城縣主」は天皇を意味したと考えられる。

すなわち、伊香色雄も「いがしこ」の名を襲名した男という意味で、欝色雄の子の伊香色雄が存在し、義兄の兄磯城武埴安彦を裏切って、弟磯城黒速を婿にし、黒速磯城縣主(天皇)、皇后伊香色謎・伊香色雄に皇位継承、そして、子の十市根の妃、建諸隅の娘の2代目大海姫を妃にして、兄弟の倭得玉彦が皇位を奪い、十市根は退位して「賜物部連公姓」と物部連を賜姓され、十市根の兄弟の建新川が倭志紀縣主の祖となった。

『古事記』は御真木入日子印恵と葛城氏の役職名を記述しているが、皇后名は御眞津比賣で御間城姫とは違う人物を記述し、御眞津比賣は天皇と伊香色謎の子、御間城姫は大彦の子で、共に崇神天皇の皇后としていて、大彦は複数人いる開化天皇の一人だった事を示している。

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