2022年3月28日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』崇神天皇類書9

  前項の続きで夢見は尾張氏・丸迩臣の祖の坐王の子達による皇位継承争い、沙本毘古の乱もその一端で、大彦・物部朝廷から尾張氏が政権を奪い、さらに、丹波道主・弟彦と水之穗眞若・豐城入彦が分朝廷を開いたのが、夢見で豐城入彦が東方、すなわち、淡海野洲朝廷を開いた。

崇神天皇の皇位継承後、豐城入彦は「紀伊國荒河戸畔女遠津年魚眼眼妙媛生豐城入彦」と丸迩臣の祖の孫の大国の遠津臣と呼ばれ、丸迩臣の祖の子の山代之大筒木眞若王の子の迦迩米雷王、恐らく、八坂入彦は遠津臣豐城入彦の子の高材比賣を妃にし、その子が息長宿禰王、その子が「息長地名在近江國坂田郡」に居る大多牟坂王である。

すなわち、「當麻・坂上君祖」の坐王の3世の孫が『古事記』「山代之大箇木真若王娶同母弟伊理泥王之女母丹波能阿治佐波毗賣生子迦迩米雷王此王娶丹波之遠津臣之女名高材比賣生子息長宿祢王・・・息長宿祢王娶河俣稻依毗賣生子大多牟坂王此者多遅摩國造之祖也」と大多牟坂王で『古事記』「大多牟坂王此者多遅摩國造之祖」と多遲摩國造の祖、『舊事本紀』「淡海國造志賀髙穴穗朝御世彦坐王三世孫大陀牟夜別定賜國造」と大多牟坂に似た名の坐王三世孫の大陀牟夜別が淡海朝廷で淡海國造なのだから天皇である。

そして、恐らく伊理泥の妃は水之穗眞若の娘で息長宿禰の息長は水之穗眞若の母の息長水依比賣の息長を引き継いでいると考えられ、安直の祖を引き継いだと思われる。

坐王と息長水依の子の水之穗眞若は近淡海の安直の祖で、遠津臣の豐城入彦、妹は野洲にある伊勢遺跡の神宮の斎王、遠津臣の子の高材比賣の夫が迦迩米雷王、その孫が大陀牟夜別・淡海天皇・成務天皇で水之穗眞若は安直の祖、『古事記』「娶近淡海之安國造之祖意富多牟和氣之女布多遅比賣生御子稲依別王」と安直の祖の意富多牟和氣、その意富多牟和氣は『日本書紀』「母皇后曰兩道入姫命活目入彦五十狹茅天皇之女也」と垂仁天皇と記述されていて、意富多牟和氣の妃が八坂入姫、成務天皇の祖父は八坂入彦で迦迩米雷王である。

八坂入彦の母は和迩臣の祖の家系の大海姫、迦迩米雷王も和迩臣の祖の袁祁都比賣の子の伊理泥王の娘の阿治佐波毘賣で、淡海朝廷も大和の朝廷も袁祁都比賣・國意祁都の子達である。

すなわち、和迩臣の祖の尾張建諸隅の王朝が分裂し、淡海の建諸隅・物部武諸遇と王朝が変質し、「物部多遅麻連公武神諸遇大連之子」の多遅麻は『日本書紀』「和珥臣祖日觸使主之女宮主宅媛生菟道稚郎子皇子」、『舊事本紀』「印葉連公多遅麻大連之子・・・姉物部山無媛連公此連公輕嶋豐明宮御宇天皇立為皇妃誕生太子莵道稚郎皇子」と和珥臣の祖を受け継ぎ、尾張氏の系図には『舊事本紀』「淡夜別命大海部直等祖弟彦命之子」と水之穗眞若らしい人物が記述されている。

そして、和珥臣の直接の祖、但馬王と思われる『舊事本紀』「志賀髙穴穗朝多遲麻君同祖」の多遲麻君は物部多遅麻がよく当てはまり、和珥臣王朝で君と呼ばれ、後代、大和の王朝では多遲麻大連と呼ばれたようだが、このように、臣・使主・君・連の姓や、大連・大臣の皇太子と同等の姓が王朝による呼び名の違いで、君・国造・王・宿祢・主も王朝による呼び名の違いだったと考えられる。

また、これら姓と同じように、王朝によって氏も職名も、武氏・建氏・天氏・息長氏のように、同一人物が混入していること、それらの人物をどの時代に当て嵌めるかで、同一人物が複数の朝廷で活躍したように錯覚され、同一人物が天皇であったり、逆賊で有ったりする、これが、日本の古代史書の真実で、古代史書は内容は正しいが、当て嵌められた時代が違うことを念頭に理解しなければならないが、空想でない信用出来る史書群である。


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