2019年8月30日金曜日

最終兵器の目 垂仁天皇10

 『日本書紀』慶長版は
八十八年秋七月巳朔酉(己酉朔)戊午詔群卿曰朕聞新羅王子天日槍初來之時將來寶物今有但馬元爲國人見貴則爲神寶也朕欲見其寶物即日遣使者詔天日槍之曾孫清彥而令獻於
是清彥被勅乃自捧神寶而獻之羽太玉一箇足髙玉一箇鵜鹿赤石玉一箇日鏡一面熊神籬一具唯有小刀一名曰出石則清彥忽以爲非獻刀子仍匿袍中而自佩之天皇未知匿小刀之情欲寵清彥而召之賜酒於御所時刀子從袍中出而顯之天皇見之親問清彥曰爾袍中刀子者何刀子也爰清彥知不得匿刀子而呈言所獻神寶之類也則天皇謂清彥曰其神寶之豈得離類乎乃出而獻焉皆藏於神府然後開寶府而視之小刀自失則使問清彥曰爾所獻刀子忽失矣若至汝所乎清彥荅曰昨夕刀子自然至於臣家乃明旦失焉天皇則惶之且更勿覓是後出石刀子自然至于淡路嶋其
嶋人謂神而爲刀子立祠是於今所祠也昔有一人乗艇而泊于但馬國因問曰汝何國人也對曰新羅王子名曰天日槍則留于但馬娶其國前津耳女麻拕能烏生但馬諸助是清彥之祖父也
八十八年の秋七月の朔が己酉の戊午の日に、群卿に「私は聞いたことが有る。新羅の王子の天日槍が、はじめて来た時に、持って来た宝物が、今但馬にある。はじめ但馬国の人に貴まれて、それで神宝となった。私は、その宝物を見たい」と命じた。すぐに使者を派遣して、天日槍の曽孫の清彦に命じて献上させた。そこで、清彦は、詔勅を受けて、すなわち自ら神宝を奉献した。羽太の玉一箇・足高の玉一箇・鵜鹿鹿の赤石の玉一箇・日鏡一面・熊の神籬一具だ。その他に小刀が一つ有った。名を出石という。それで清彦が刀子を献上せず、いそいで衣服の中にかくして、自分の身に着けた。天皇は、まだ小刀をかくした本心を知らず、清彦が気に入り、呼び寄せて酒を御所で与えた。その時に刀子が、衣服の中からはみ出て見えてしまった。天皇が見つけて、自ら清彦に「お前の衣服の中の刀子は、何んの刀子だ」と問い詰めた。そこで清彦は、刀子を隠し通せないことを知って、刀子を見せて「献上する中の神宝のひとつです」と言った。それで天皇は、清彦に「その神宝を、他と離すことがどうして出来ようか」と言った。それで差し出して献上した。全て神を祀る蔵所に秘蔵した。その後、宝を管理する蔵を開いてみたら、小刀が知らないうちになくなっていた。それで清彦に「お前が献上した刀子が突然なくなっていた。もしかしたお前の所にあるか」と問いただした。清彦は「昨夜、刀子が、自然に我が家にやってきた。それで日が明けたらなくなっていた」と答えた。天皇は、それで神を畏れて、さらに求めなかった。この後に、出石の刀子は、知らないうちに淡路嶋ついた。その嶋の人は、神だと言って、刀子のために祠を立てた。これが今でも祠られている。昔、ある人が、舟に乗って但馬国に停泊した。それで「お前はどこの国の者か」と問うと、「新羅の王の子で、名を天日槍という」と答えた。すなわち但馬に留まって、その国の前津耳の娘の麻拕能烏を娶って、但馬諸助を生んだ。これが清彦の祖父だ。】とあり、標準陰暦と合致する。
この説話は垂仁天皇「三年春三月新羅王子天日槍來歸焉」の続きのような記事で紀元前27年の説話だが、この頃は「赫居世居西干」の統治で『三國史記』赫居世の「三十八年春二月遣瓠公聘於馬韓馬韓王讓瓠公曰辰卞二韓爲我屬國・・・瓠公者 未詳其族姓本倭人初以瓠繫腰渡海而來,故稱瓠公 南解次次雄立」と紀元前20年に王位を譲る直前で倭人の瓠公が活躍し、後の百済の地の馬韓王から辰韓と卞韓を倭人の瓠公に譲って南解次次雄を王位につかせた頃で、日本に新羅の王子を派遣して倭国を牽制したように感じる。
すなわち、辰国が勢力を持つ三韓の地で、辰国は馬韓に三韓の地の管理をさせ、馬韓と倭は同等な関係だが、力関係では倭が強く、鉄を産出する辰韓の土地での主導権を倭が取ろうとしていたので、辰国日本に救援を求めた。
それが、『三国志』の「弁辰・・・辰王常用馬韓人作之世世相繼辰王不得自立爲王」と 弁辰の統治者が辰王で、その辰王が馬韓に統治させ、すなわち、馬韓の上位者が辰王で、その馬韓が「辰韓・・・馬韓割其東界地與之」と辰韓に土地を与えて、その土地は「辰韓者古之辰國也」と元々辰国のものだったと記述して『日本書紀』と対応している。
そして、この説話の西暦59年は57年に新羅王となった「脫解尼師今」が王で、「脫解本多婆那國所生也其國在倭國東北一千里初其國王娶女國王女爲妻」と多婆那國の王の子と記述され、日本と同盟することで脫解王は瓠公から主導権を奪ったようで、それ以前は瓠公が新羅の実力者だったのであり、また、この千里は漢の里単位で糟屋の倭国都北400Kmは兵庫県と鳥取県の県境辺りで、三国史記も王が90年4代程度襲名していて、この時代は姫を王と記述している。

2019年8月26日月曜日

最終兵器の目 垂仁天皇9

 『日本書紀』慶長版は
「三十四年春三月乙丑朔丙寅天皇幸山背時左右奏言之此國有佳人曰綺戸邊姿形美麗山背大國不避之女也天皇於茲執矛祈之曰必遇其佳人道路見瑞比至至行宮大龜出河中天皇舉矛剌龜忽化爲白石謂左右曰因此物而推之必有驗乎仍喚綺戸邊納于後宮生磐衝別命是三尾君之始祖也先是娶山背苅幡戸邊生三男第一曰祖別命第二曰五十日定彥命第三曰膽武別命五十日足彥命是子石田君之始祖也三十五年秋九月遣五十瓊敷命于河內國作髙石池茅渟池冬十月作倭狹城池及迹見池是歲令諸國多開池溝数八百之以農爲事因是百姓富寛天下大平也三十七年春正月戊寅朔立大足彥尊爲皇太子三十九年十月五十瓊敷命居於茅渟菟砥川上宮作剱一千口因名其剱謂川上部亦名曰裸伴藏于石上神宮也是後命五十瓊敷命俾主石上神宮之神寶八十七年春二月丁亥朔辛卯五十瓊敷命謂妹大中姫曰我老也不能掌神寶自今以後必
汝主焉大中姫命辭曰吾手弱女人也何能登天神庫耶五十瓊敷命曰神庫雖髙我能爲神庫造梯豈煩登庫乎故諺曰天之神庫隨樹梯之此其縁也然遂大中姫命授物部十千根大連而令治故物部連等至于今治石上神寶是其縁也昔丹波國桑田村有人名曰甕襲則甕襲家有犬名曰足往是犬咋山獸名牟士那而殺之則獸腹有八尺瓊勾玉因以獻之是玉今有石上神宮
三十四年の春三月の朔が乙丑の丙寅の日に、天皇が、山背に行幸した。その時に付き人が「このに美しい女がいます。綺戸邊といいます。姿形はみなが注目するほど美しい。山背大国の不遲の娘です」と奏上した。天皇は、そこで、矛を掴んで「絶対その美人に会ったら、道路に目出度いしるしが見えるように」と祈って言った。行宮に着いた頃に、大亀が、河の中から這い出てきた。天皇は、矛を振り挙げて亀を刺した。たちまち石のようになった。付き人に 「これから推測すると、きっと証しがある」と言った。それで綺戸邊を召喚して、後宮に召し入れた。磐衝別命を生んだ。この皇子は三尾君の始祖だ。これより前に、山背の苅幡戸邊を娶った。三人の男子を生んだ。第一を祖別命という。第二を五十日足彦命という。第三を膽武別命という。五十日足彦命、この皇子は石田君の始祖だ。三十五年の秋九月に、五十瓊敷命を河内国に派遣して、高石池・茅渟池を造らせた。冬十月に、倭の狹城池および迹見池を造った。この歳に、諸国に命じて、多くのに池や用水を八百程度開いて営農で生計をたてた。これで、百姓は富んでゆとりを持ち、天下太平だ。三十七年の春正月の戊寅の朔日に、大足彦尊を、皇太子とした。三十九年の冬十月に、五十瓊敷命は、茅渟の菟砥川上宮に居て、剱を一千口を作った。それでその剱を名付けて、川上部という。またの名は裸伴という。石上神宮に収めた。この後、五十瓊敷命に命じて、石上神宮の神宝を司らせた。八十七年の春二月の朔が丁亥の辛卯の日に、五十瓊敷命は、妹の大中姫に「私は老いた。神宝を司ることができない。これから以後は、絶対にお前が司れ」といった。大中姫命は断って「私はか弱い女です。どうして天神の庫に登ることが出来ましょうか」と言った。五十瓊敷命は「神庫が高いと言うなら、私が神庫に登ることが出来るように梯子を造ろう。それなら倉庫に登ることが煩わしくないだろう」といった。それで、諺に、「天の神庫も梯子を立てれば思うがまゝ」というのは、これが由縁だ。それでついに大中姫命は、物部十千根大連に授けて管理させた。それで、物部連等が、今になるまで、石上の神宝を管理するのは、これがその由縁だ。昔、丹波国の桑田村に、ある人がいて。名を甕襲という。すなわち甕襲の家に犬がいた。名を足住といった。この犬は、山の獣、名を牟士那というものを喰い殺した。それで獣の腹に八尺瓊の勾玉があった。それで献上した。この玉は、今、石上神宮に有る。】とあり、三十七年正月戊寅朔は12月30日で12月が小の月なら標準陰暦と合致し、その他は標準陰暦と合致する。
この説話は『舊事本紀』の「伊香色雄命・・・物部八十手所作祭神之物祭八十萬群神之時遷建布都大神社於大倭國山邉郡石上邑則・・・山代縣主祖長溝女真木姫爲妻生二兒山代縣主祖長溝女荒姫娣玉手並爲妾各生二男」と記述され、五十瓊敷倉皇子が妹大中姫にまかせてと同じで、伊香色雄を五十瓊敷と置き換えて「大中姬命遂授物部十市大連而令冶石上神寶盖是其縁也」と十市が石上神宮で禰宜となり、兄弟の大新河が物部姓を賜姓され、一方が尾張氏の配下の大連で一方は大神を祀る禰宜となったとして、別王朝の天皇になったことを示している
さらに、山背は自領になったばかりで、婚姻の対象者は山背に居る大國の不避で後に山代縣主になる家系の祖、この王が天皇になった時に山代縣主に任命した説話で、この説話は崇神朝の末から垂仁朝初期の王朝交代時の説話で、祖というのは、遠祖と違い、この説話の直後に任命されるということが多数見受けられ、仁徳紀には「山背栗隈縣」と山背は縣より上位の組織となり、その王は神功紀に「山背根子」と根子が王位で倭根子と同じ地位で大祢・宿禰の下の地位で、葛城氏の名に根子が含まれ「山背根子」と同等の地位のようだ。

2019年8月23日金曜日

最終兵器の目 垂仁天皇8

 『日本書紀』慶長版は
二十七年秋八月癸酉朔己卯令祠官卜兵器爲神幣吉之故弓矢及横刀納諸神之社仍更定神地神戸以時祠之蓋兵器祭神祇始興於是時也是歳興屯倉于來目邑二十八年冬十月丙寅朔庚午天皇母弟倭彥命薨十一月丙申朔丁酉葬倭彥命于身狹桃花鳥坂於是集近習者悉生而埋立於陵域數日不死晝夜泣吟遂死而爛臰之犬烏聚噉焉天皇聞此泣吟之聲心有悲傷詔群卿曰夫以生所愛令殉亡者是甚傷矣其雖古風之非良何從自今以後議之止殉三十年春正月己未朔甲子天皇詔五十瓊敷命大足彥尊曰汝等各言情願之物也兄王諮欲得弓矢弟王諮欲得皇位於是天皇詔之曰各冝隨情則弓矢賜五十瓊敷命仍詔大足彥尊曰汝必継朕位三十二年秋七月甲戌朔己卯皇后日葉酢媛命薨臨葬有日焉天皇詔群卿曰從死之道前知不可今此行之葬奈之爲何於是野見宿祢進曰夫君王陵墓埋立生人是不良也豈得傳後葉乎願今將議便事而奏之則使者喚上出雲國之土部壹伯人自領土部等取埴以造作人馬及種種物形獻于天皇曰自今以後以是土物更易生人樹於陵墓爲後葉之法則天皇於是大喜之詔野見宿祢曰汝之便議寔洽朕心則其土物始立于日葉酢媛命之墓仍号是土物謂埴輪亦名立物也仍下令曰自今以後陵墓必樹是土物無傷人焉天皇厚賞野見宿祢之功亦賜鍛地即任土部職因改本姓謂土部臣是土部連等主天皇喪葬之縁也所謂野見宿祢是土部連等之始祖也
【二十七年秋八月の朔が癸酉の己卯の日に、祠官に令じて、武器を御神幣に出来るか占わせると、吉と出たので、弓矢や横刀を、多くの神社に奉納した。それで更に神地・神戸を定めて、いつも祀った。おそらく武器で神祇を祭ることはこの時に起こったのだろう。この歳に、屯倉を來目邑に興した。二十八年の冬十月の朔が丙寅の庚午の日に、天皇の母弟の倭彦命が薨じた。十一月の朔が丙申の丁酉の日に、倭彦命を身狹の桃花鳥坂に葬むった。そこに、近習者を集めて、みんな生きたまま陵域に埋めた。日数が経っても死なずに、昼夜を問わず呻き泣いた。そして死んで腐って臭った。犬や烏が群がった。天皇は、この呻き泣く声を聞いて、心を傷めた。群卿に「彼らは生きている時に寵愛されたから、亡者に殉じたのは、はなはだ傷ましい。それが昔からの風習といっても、良くないのにどうして従うのか。これから後、相談して殉死はやめろ」と詔勅した。三十年の春正月の朔が己未の甲子の日に、天皇は、五十瓊敷命・大足彦尊に「お前たち、それぞれの心から欲しい物を言え」と詔勅した。兄王は「弓矢が欲しい」と返事した。弟王は「皇位が欲しい」と返事した。そこで、天皇は、「お前たちが思うままにしなさい」と詔勅した。それで弓矢を五十瓊敷命に賜った。それで大足彦尊に「お前は必ず私の位を継げ」と詔勅した。三十二年の秋七月の朔が甲戌の己卯の日に、皇后の日葉酢媛命が薨じた。葬るまでにまだ日が有った。天皇は、群卿に「殉死の決まりを、前から良くないことを知っていた。今回葬るにあたり、何とかできないか」と詔勅した。そこで、野見宿禰が、進みでて「君主の陵墓に、生きたまま埋めるのは、良くない。どうして後代に伝えることが出来ましょうか。出来ましたら今ここで事の是非について論じて意見を奏上しましょう」と言った。それで、使者を派遣して、出雲國の土部を百人を呼んで、土部等を使って、埴を取って人・馬及びもろもろの物の形を造って、天皇に献上して、「これから以後、この土製の物で生きた人の代わりに、陵墓に並べて、これを後の世の決まりとしましょう」といった。天皇は、それで、大変喜んで野見宿禰に「お前のうまい結論は、本当に私の心に叶う」と詔勅した。それでその土製の物を、はじめて日葉酢媛命の墓に並べた。それでこの土製の物を埴輪と名付けた。または立物と名付けた。それで「これから、陵墓に必ずこの土製の物を並べて、人を害うな」と命じた。天皇は、野見宿禰の論功を手厚く褒めたたえて、鍛を司る土地を賜与した。すなわち土部の職に任命した。それで元の姓め改めて、土部臣と言った。これが、土部連等が、天皇の喪葬を司る由縁だ。いわゆる野見宿禰は、土部連等の始祖だ。】とあり、二十七年秋八月癸酉朔は8月2日で7月は小の月、大の月なら合致し、他の日干支の標準陰暦と合致する。
「兵器爲神幣」とこの時期から武器を奉納して祭祀をしたのだから、これ以前は武器以外で祭祀をしていたということで、銅鐸祭祀によく符合し、渟葉田瓊入媛の子「鐸石別」は銅鐸の鋳型を連想でき、これ以降に銅鐸が出土する地域は纏向朝廷と異なる朝廷の国だとわかる。
しかし、年代は邪馬台国畿内説が邪魔をして、考古学的年代判定が歪められているような気がして、それは、纏向が『日本書紀』では紀元前28年から西暦130年まで都で、「天皇崩於高穴穗宮時年一百六歳」とさらに46年間続いた可能性もある。
纏向から出土した桃の種が「纒向学研究センター研究紀要『纒向学研究第6号』」によると「モモの核が形成された年代として、C14年代はほぼ1810 BPから1840 BP(平均値として1824±6 BP)が得られた。 また、較正暦年代は西暦135年から230年のほぼ100年間 のどこかということになる。」と発表されたが、測定法の誤差が100年としたのだから、普通に考えれば西暦180年頃の種で卑弥呼の種と無関係、新聞はさらに徳島県教育委員会の150年(100~250)の誤差がある「うり」を持ち出して畿内説を補強して、マスコミのミスリードが目に付く。
データ誤差がごくわずかでも、C14の校正曲線は80~120年と130年~230年、さらに240年から330年の同定はほとんど意味をなさない曲線で、出た数値が正しくてもいつなのか決まらないデータ曲線で、100年間どの年でも間違いではないのである。
さらに、三角縁神獣鏡に「景初4年鏡」と日本で正始元年初頭に作成したとしなければ理解不能な鏡が有り、それ以前から三角縁神獣鏡が作成されていたと考えざるを得ない。
そして、この頃から殉死が問題になったのは、それ以前は墳墓自体が小さく、殉死者が少人数だったのが、造るのに時間がかかるほどの大きな陵墓にしたから殉死者が多人数となり、悲鳴と悪臭に耳をふさぐほどになったことを示し、卑弥呼の陵墓と同程度以上の陵墓だった可能性があり、崇神天皇時に池を作っていて、その残土を盛った墳丘を陸墓としたのではないか。
そして、殉死にかえて埴輪を始めた「野見宿禰」は丹波の王者の配下となったが、出雲出身で、この説話は『古事記』にも『舊事本紀』にも記述されず、おそらく、出雲の説話で出雲国の土部は人面付什器や陶塤が出土した西川津遺跡も有力地域だ。

2019年8月21日水曜日

最終兵器の目 垂仁天皇7 物部氏

  『舊事本紀』の神武東征は崇神天皇の事件を記述したと証明したが、『舊事本紀』は「宇摩志麻治」から皇位を垂仁天皇に引き渡す「十市根」までを神武東征とし、『日本書紀』は崇神紀に含んだ。
すなわち、4道侵攻から物部賜姓が『舊事本紀』の神武東征で、二世「宇摩志麻治命此命橿原宮御宇天皇御世元爲足尼次爲申食國政大夫奉齋大神活目邑五十呉桃女子帥長姫為妃」と活目邑の姫を妃にしているが、葛城氏が葦原中国で役職を得て活目入彦と名乗ったように活目邑は葦原中国の邑である。
弟彦湯支命 亦名木開足尼・・・出雲色多利姬為妾生一男淡海川枯姬為妾」と木国初代の王、出雲色多利姬は出雲色足姫と思われ出雲の「しこ」を統治する姫で近江にも地盤を築いた。
三世は「大祢命・・・弟出雲醜大臣命・・・大臣之号始起此時也倭志紀彦妹真鳥姬爲妻」と長男が禰宜の総大将で弟が皇太子の大臣で倭志紀彦すなわち、出雲の王の配下だから倭という接頭語が必要で、出雲醜(出雲色)が畿内に侵入し、これが『舊事本紀』の饒速日の次代だ。
倭志紀彦」も真鳥姬」も「醜」も襲名し「伊香色雄命」と伊賀の「醜」が「倭志紀彦」の娘の「真鳥姬」を妃にして、姉妹は崇神天皇の母であり武内宿禰の祖父の彦太忍信も生み、彦太忍信は木開宿禰(木国を開いた木国王)でもある。
四世は「弟出石心大臣命此命掖上池心宮御宇天皇御世爲大臣奉齋大神新河小楯姬為妻」と皇太子になった。
弟三見宿祢命・・・宿祢者始起此時也兒大水口宿祢命穂臣積栗女臣等祖出石心命子弟大矢口宿祢命此命・・・坂戸由良都姫爲妻生四兒」と出石心大臣が大王?となってその子が出身国の王である宿祢の名をもった。
五世は「欝色雄命此・・・大神活目長砂彦妹芹田真誰姬為妻生一兒」と活目邑から出ておらず、出雲醜大臣と同じ状況で、懿徳天皇と孝元天皇に「色」の国の内容を分散したことがわかり、「伊香色雄命」と「色」出身でも「穗積臣達祖欝色雄命」と物部氏と別王朝で欝色雄は伊勢遺跡の王となったのだろう。
そのため、兄弟も「大綜杵命此命輕境原宮・・・為大祢春日率川宮・・・爲大臣・・髙屋阿波良姫爲妻・・・弟大峯大尼・・・爲大尼供奉其大尼之起始發此時」と三世大尼の記述が五世に記述され、妃も珍彦の出身地髙屋の阿波の良姫を娶っている。
六世は「伊香色雄・・・石上邑則天祖授饒速日尊自天受來天璽瑞
寶同共蔵・・・神崇祠爲鎮則皇后太神臣奉齋神宮山代縣主祖長溝女真木姫爲妻・・・ 
山代縣主祖長溝女荒姫娣玉手並爲妾・・・倭志紀彦女真鳥姫爲妾」と 伊香色雄が天皇の璽を石上神宮に祀り自信を「神崇祠」の天皇崇神天皇として建元したような書き方で、武埴安から奪った山代に義父を王とし、垂仁の丹波道主の姫を娶った話に酷似する。
七世は「弟大新河命・・・爲大臣次賜物部連公姓則改爲大連・・・大連之號始起此時紀伊荒川戸俾女中日女爲妻」と皇太子から物部姓を賜姓された臣下で初めて大連の地位を得て紀伊国の皇女を娶っている。
ところが、「弟十市根命・・・賜物部連公姓元為五大夫一次為大連」と2つの物部賜姓が記述され、出雲国の宝の見分をしたのも、十市根と「八世孫物部武諸遇連公新河大連之子」のように新河の子の武諸遇も行って重複し、『日本書紀』に「物部連遠祖十千根大伴連遠祖武日」と 十市根と武日が五大夫だが、武諸遇も「武日照命從天將來神寶藏于出雲大神宮是欲見焉則遣矢田部造遠祖武諸遇命使分明檢定獻奉」と武日とセットである。
そして、十市根は「物部武諸遇連公女子時妓爲妻生五男弟建新川命倭志紀縣主等祖」と二世代後の人物を妃とし、弟が倭志紀縣主祖とここで神武東征説話が終わり、十市根宇摩志麻治が神武天皇に天皇の璽を渡して大夫として仕え、義弟の建氏新川が弟磯城である。
このように、名前から出身地や活躍した土地、地位と誰を娶ったかを分析することで、年代の齟齬や征服した土地がある程度理解できる。 

2019年8月19日月曜日

最終兵器の目 垂仁天皇6

 『日本書紀』慶長版は
二十五年春二月丁巳朔甲子詔阿倍臣遠祖武渟川別和珥臣遠祖彥國葺中臣連遠祖大鹿嶋物部連遠祖十千根大伴連遠祖武日吾大夫曰我先皇御間城入彥五十瓊殖天皇惟叡作聖欽明聰達深執謙損志懷沖退綢繆機衡禮祭神祇剋巳勤躬日慎一日是以人民富足天下太平也今當朕世祭祀神祇豈得有怠乎三月丁亥朔丙申離天照大神於豊耜姫命託于倭姫命爰倭姫命求鎮坐大神之處而詣菟田筱幡更還之入近江國東廻美濃到伊勢國時天照大神誨倭姫命曰是神風伊勢國則常世之浪重浪歸國也傍國可怜國也欲居是國故隨大神教其祠立於伊勢國因興齋宮于五十鈴川上是謂磯宮則天照大神始自天降之處也 二十六年秋八月戊寅朔庚辰天皇勅物部十千根大連曰屢遣使者於出雲國雖檢校其國之神寶無分明申言者汝親行于出雲宜檢挍定則十千根大連挍定神寶而分明奏言之仍令掌神寶也
【二十五年の春二月の朔が丁巳の甲子の日に、阿倍臣の遠祖の武渟川別・和珥臣の遠祖の彦國葺・中臣連の遠祖の大鹿嶋・物部連の遠祖の十千根・大伴連の遠祖の武日の五人の大夫に「私の先の天皇の御間城入彦五十瓊殖天皇が、思うに、悟り深い聖人で、 つつしみ深く物を見通す力があり思慮深くかしこい。心に秘めた信念もたかぶらないで冷静に退いた。 むつみあい、物事を知り、神祇を禮祭した。己に厳しく、身を案じ、一日一日を慎重に過ごした。これによって、人民の富を充足させ、天下太平だった。今、私の世になって、神祇を祀ることをどうして怠ることが出来ようか」と詔勅した。三月の朔が丁亥の丙申の日に、天照大神の斎王を豐耜入姫命から、倭姫命に交代させた。倭姫命は、大神を鎮め祀るところを求めて、菟田の筱幡についた。さらに近江國に帰り入国して、さらに東の美濃を廻って、伊勢国についた。その時に天照大神が、倭姫命に「この神風の伊勢国は、常世の浪が幾重も寄せ来る国だ。近傍の国で尊い国だ。この国に居たい」と諭して言った。それで、大神の教えどおりに、大神の祠を伊勢国に立てた。それで齋宮を五十鈴の川上に建てた。これを磯の宮という。すなわち天照大神が始めて天より降った所だ。二十六年の秋八月の朔が戊寅の庚辰の日に、天皇は、物部十千根大連に「しばしば使者を出雲国に派遣したが、その国の神宝を見分したが、はっきり見分けたという者がいない。お前自ら出雲に行って、見分けて決めてきなさい」と詔勅した。すなわち十千根大連は、神宝を比べて価値を考えて、はっきり見分けて奏上した。それで神宝を管理した。】とあり、干支は標準陰暦と合致する。
『舊事本紀』「弟十市根命此命纏向珠城宮御宇天皇御世賜物部連公姓元為五大夫」とあるように、このとき、物部氏を賜姓され、完全に天皇家ではなくなり、「大彥命遣北陸武渟川別遣東海」の武渟川別、「先射武埴安彥先射彥國葺」の彥國葺と半世紀以上前に活躍した人物を記述しているので、襲名したということが解り、この天皇は尾張氏の纏向の地で日葉酢媛の正真正銘の皇子となって尾張氏の天皇となったことを宣言した。
そして、前朝廷の意思を継いで、垂仁天皇も宗廟を守ることを宣言し、前朝廷の斎王の「紀伊國荒河戸畔女遠津年魚眼眼妙媛生・・・豊鍬入姫命」と垂仁朝では紀伊国の王に降格した前の王朝の王の娘豐耜入姫から、皇后の娘の倭姫に交代させ、菟田→近江→美濃→伊勢と廻って大神を祀る場所を探している。
この説話の出発地が菟田というのは奇妙で、菟田ならすぐ隣が伊勢で遠回りする必要がないが、丹波の王家なのだから、古さはよくわからないが敦賀にも皇大神宮があり、近江には伊勢も皇大神宮もあって伊勢遺跡は祭祀遺跡で、美濃にも古さは解らないが安八郡に皇大神宮ある。
さらに、『古事記』の本牟智和氣と「率遊其御子之状者在於尾張之相津二俣椙作二俣小舟」と遊んだ相津はおそらく岐阜県の岐阜市で、長良川西岸に墨俣があり、津島や生津など古代は岐阜市まで海で「大毗古命者随先命而罷行高志國尓自東方所遣建沼河別與其父大毗古共往遇于相津」とあるように、東海道と北陸道が交わる場所だ。
『猿投神社所蔵尾張国養老元年之図』には現代川岸でも海岸でもない場所に津があり島があり岬がある場所の近辺が海として記述されていて、権現などの地名が記述されるため勝ち誇ったように偽書という者もいるが、史書とよく符合して、例えば「佛」をブッダとしているが、いるが「ほとけ」は古語で、前漢の劉向によって撰せられた『列女傳』卷6に「趙佛肸母者趙之中牟宰佛肸之母也佛肸以中牟叛」とあり、佛肸は春秋時代の中国の人名で中国には後漢時代に仏教が導入されている。
尾張地域は戦国時代も沼地が多く、犬山扇状地は木曽川が海に流れ出た場所で、古い神社や古墳は島と名がつく場所に多く、偽書の証拠としているのは、意味が変わったり、書写者が書写時に物知り顔に小賢しく書き換えた可能性も否定できず、逆に元時代の古地図は中国以外が異様に大きく描かれてこれも間違いで済ましている。
しかし、これは情報の少なさが原因で、中国は1里400m、それ以外が1里50mの情報で記述されているからで、中国の文献に対する真摯さがわかり、それに対して、日本はいとも簡単に現代の感覚で内容を変質させる研究家が多く、江戸城が東京城で中国のDōngjīng政府の出城などと言いだすことが無い事を祈る。
日本と朝鮮の交流史も、日本が『日本書紀』を偽史としたため、『日本書紀』の朝鮮関係の資料も朝鮮に都合が悪いところは偽りとして、『日本書紀』の倭は大和にして地域名と決めつけ、『三国史記』の倭の侵略を、海賊の仕業と決めつけているが、根本は、日本が『日本書紀』を軽く扱ったための結果である。

2019年8月16日金曜日

最終兵器の目 垂仁天皇5

 『日本書紀』慶長版は
二十三年秋九月丙寅朔丁卯詔群卿曰譽津別王是生年既三十髯鬚八掬猶泣如兒常不言何由矣因有司而議之冬十月乙丑朔壬申天皇立於大殿前譽津別皇子侍之時有鳴鵠度大虛皇子仰觀鵠曰是何物耶天皇則知皇子見鵠得言而喜之詔左右曰誰能捕是鳥獻之於是鳥取造祖天湯河板舉奏言臣必捕而獻即天皇勅湯河板舉曰汝獻是鳥必敦賞矣時湯河板舉遠望鵠飛之方追尋詣出雲而捕獲或曰得于但馬國十一月甲午朔乙未湯河板舉獻鵠也譽津別命弄是鵠遂得言語由是敦賞湯河板舉則賜姓而曰鳥取造因亦定鳥取部鳥養部譽津部
【二十三年の秋九月の朔が丙寅の丁卯の日に、群卿に「譽津別王は、今に至って年齢が既に三十歳で、顎鬚を手で8つ握れるぐらい伸びたが、まだ泣く稚児のようだ。全く話さないのはどうしてだ。それで役人に検討させなさい」と詔勅した。冬十月の朔が乙丑の壬申の日に、天皇は、大殿の前に立って譽津別皇子を傍においていた。その時白鳥が鳴いて、大空を渡った。皇子は白鳥を仰ぎ見て、「これは何んだ」と言った。天皇は、皇子が白鳥を見て言葉を発することができたと喜んだ。周りに「誰かこの鳥を捕まえて献上しろ」と詔勅した。そこに、鳥取造の祖の天の湯河板擧が「私がきっと捕えて獻上しましょう」と奏上した。すなはち天皇は、湯河板擧に「おまえがこの鳥を献上すれば、きっと手厚く恩賞するぞ」と詔勅した。その時に湯河板擧は、遠く白鳥が飛んだ方角を見て、追い探し求めて出雲へたどり着いて、捕獲した。或人が「但馬の国で捕まえた」と言った。十一月の朔が甲午の乙未の日に、湯河板擧が、白鳥を献上した。譽津別命が、是の白鳥と戯れて、ついに話すことができた。これで、湯河板擧に手厚く恩賞した。すなわち賜姓されて鳥取造と言った。それでまた鳥取部・鳥養部・譽津部を定めた。】とあり、二十三年九月丙寅朔は8月1日で一月違うが、この近くで8月晦日と9月朔日に丙寅の日が無く、西暦61年垂仁九十年の可能性が有り、その他は標準陰暦と合致している。
『舊事本紀』の「二十三年秋八月丙申朔已亥大新河命為大臣」、「同月丙申朔丁巳大臣大新河命」とやはり1月ズレていて、西暦61年なら丙申は7月30日で概ね標準陰暦と合致し、この時、王朝交代があった可能性がある。
その証拠に、『舊事本紀』の「八十一年春二月壬子朔五大夫十市根命賜姓物部連公即為大連」は紀元前4年、垂仁天皇二六年で『日本書紀』の「廿六年秋八月戊寅朔庚辰天皇勅物部十千根大連曰」のように2月賜姓で8月に物部十千根大連と記述され、垂仁天皇二五年は「物部連遠祖十千根」とまだ賜姓されていない。
鳥取造の説話は現在の鳥取県の語源で活動範囲が但馬・出雲と丹波王朝の説話とするのが妥当で、『舊事本紀』には「少彦根命鳥取連等祖」と高皇産靈が国譲りに派遣した人物で「神皇産靈神之御子少彦名那神」と関係がありそうで、「少彦名命行到熊野之御碕遂適於常世國矣」と少彦名は常世に去っていて日本海の神である。
さらに、『舊事本紀』は「敦賞湯河板舉則賜姓而号鳥取造」と鳥取造の姓を湯河板舉に与えているのに、すぐ後で、「兄譽津別命鳥取造等祖」と譽津別が鳥取造祖と湯河板舉が譽津別の子のように記述していて、譽津部の祖が譽津別なのだろう。
それに対して『古事記』前川茂右衛門寛永版は「遣山邊之大鶙令取其鳥故是人追尋其鵠自木國到針間國亦追越稲羽國即到旦波國多遅麻國追廻東方到近淡海國乃越三野國自尾張國傳以追科野國遂追到高志國・・・勿言事於是天皇患賜而御寐之時覺于御夢曰修理我宮如天皇之御舎・・崇出雲大神之御心・・・科曙立王令宇氣比・・・名賜曙立王謂倭者師木登美豊朝倉曙立王・・・坐地定品遅部也・・・仮宮而坐尓出雲國造之祖名岐比佐都美・・・出雲之石硧之曽宮葦原色許男大神以伊都玖之祝大廷乎・・・兎上王命造神宮於是天皇因其御子定鳥取部鳥甘部品遅部大湯坐若湯坐」と人名も大鶙で、木国から播磨・稲羽・丹波・但馬・近江・美濃・尾張・信濃・越と範囲が広く、木国は武内・葛城氏の領地で葛城氏がこれらの地域を別朝廷と共に領有したと述べている。
そして、白鳥では治らず、出雲に飛んで、出雲国造を紀伊の佐都美とやはり木国の領地になると記述し、おそらく賀茂岩倉遺跡がある場所にある葦原色許男神の宮が大国の朝廷で、その宮を兎上王が引き継いで新たな宮を造ったと述べている。
『日本書紀』の朝廷と別朝廷と更に兎上王が朝廷を開いて、出雲国造に紀氏を就任させたと鳥取部の説話にはめ込んで、まさに、『舊事本紀』の「宇迦能山之嶺於底津石根宮柱太斯理」、「天孫使徵兄猾及弟猾者是兩人㝹田之魁帥」と兎上王は一体の説話と考えられる。
すなわち、沙穂彦の朝廷側に葛城氏がついて、物部別朝廷を開いた時に葛城氏も豊葦原中国に朝廷を開いたと述べ、菟上王は「日子坐王娶山代之荏名名津比賣生子大俣・・・故兄大俣王之子曙立王次菟上王」と日子坐と山代王の姫の孫で、「曙立王者(伊勢之品遅部君伊勢之佐那造之祖)」と品遅部は曙立王のための部だ。
そして、物部氏の内色許賣の子の天皇が父で、「娶丸迩臣之祖日子國意祁都命之妹意祁都比賣命生御子日子坐王」のように丸迩臣之祖の子の母が坐王で、丸迩臣は『古事記』「丸迩臣之祖日子國夫玖」・『日本書紀』「和珥臣遠祖彥國葺」と和珥臣と同じで、事代主→天日方奇日方→建飯勝(此命娶出雲臣女子沙麻奈姫生)→建甕尻(此命伊勢幡主女賀貝召姫為妻)→豊御氣主(此命紀伊名草姫為妻)→大御氣主→阿田賀田須(和迩君等祖)→大田田祢古(亦名大直祢古)である。
すなわち、菟上王は物部氏の父方が内色許賣、母方が出雲醜の血を引き、紀氏と姻戚の大国王、この大国王は従弟あたり、さらに、この血族は伊勢遺跡と関係がありそうで、景行天皇が『日本書紀』「冀欲巡狩小碓王所平之國乘輿幸伊勢轉入東海」と倭武を思って行幸する出発地伊勢も近江の伊勢で、曙立王が近江の伊勢で朝廷を開き、菟上王が「なか」()国の朝廷と3朝廷がにらみ合い、畿内朝廷は『日本書紀』「物部君祖夏花」と物部君・『舊事本紀』「大鴨積命此命磯城瑞籬朝御世賜賀茂君姓」と賀茂君のように呼び配下の王の一人とした。
そして、葛城氏の稚日本根子は木国での役職名で御間城入彦は近江での役職名、そして、活目入彦は葦原中国での役職名ということが推定できる。

2019年8月14日水曜日

最終兵器の目 垂仁天皇4

 『日本書紀』慶長版は
七年秋七月己巳朔乙亥左右奏言當麻邑有勇悍士曰當摩蹶速其爲人也強力以能毀角申鈎恒語衆中曰於四方求之豈有比我力者乎何遇協力者而不期死生頓得爭刀焉天皇聞之詔群卿曰朕聞當摩蹶速者天下之力士也若有比此人耶一臣進言臣聞出雲國有勇士曰野見宿祢試召是人欲當于蹶速即日遣倭直祖長尾市喚野見宿祢於是野見宿祢自出雲至則當摩蹶速與野見宿祢令捔力二人相對立各舉足相蹶則蹶折當摩蹶速之脇骨亦蹈折其腰而殺之故奪當摩蹶速之地悉賜野見宿祢是以其邑有腰折田之縁也野見宿祢乃留仕焉十五年春二月乙卯朔甲子喚丹波五女納於掖庭第一曰日葉酢媛第二曰渟葉田瓊入媛第三曰真砥野媛第四曰筋瓊入媛第五曰竹野媛秋八月壬午朔立日葉酢媛命爲皇后以皇后弟之三女爲妃唯竹野媛者因形姿醜返
於本土則羞其見返葛野自墮輿而死之故号其地謂墮國今謂弟國訛也皇后日葉酢媛命生三男二女第一曰五十瓊敷入彥命第二曰大足彥尊第三曰大中姫命第四曰倭姫命第五曰稚城瓊入彥命妃渟葉田瓊入媛生鐸石別命與膽香足姫命次妃筋瓊入媛生池速別命稚浅津姫命
七年の秋七月の朔が己巳の乙亥の日に、「當麻の邑にいさましくて強いりっぱな男子がいる。當摩の蹶速という。その人柄は、力が強く巧みに角を折り、曲がった鉤を申ばしてしまう。いつも群衆に『諸国を探しても、どこに私の力と比較できる者が居ようか。生きているうちに力自慢の人物に会って生死を賭けて、落ち着いて勝負をしたい』と言っていると持ち切りだ。」と皆が奏上した。天皇はそれを聞いて、群卿に「私は聞いたが、當摩の蹶速は、天下の力自慢だと。もしかしたらこの男と比較できる人物はいるのか」と詔勅した。一人の臣下が進み出て「私が聞いていて、出雲国に勇士がいて、野見の宿禰という。試しにこの人物を招集して、蹶速と戦わせては」と言った。その日に、倭直の祖の長尾市を派遣して、野見の宿禰を呼んだ。それで、野見の宿禰は、出雲からやってきた。すなわち當麻の蹶速と野見の宿禰と力の勝負をさせた。二人は向かい合って立ち、それぞれ足を挙げて互いにはね起きてそれで當摩の蹶速の脇骨を打ち砕いた。またその腰を打ち折って殺した。それで、當摩の蹶速の領地を奪って、全て野見の宿禰に与えた。これがその邑に腰折田が有る所以だ。野見の宿禰はそのまま留まって仕えた。十五年の春二月の朔が乙卯の甲子の日に、丹波の五人の女を呼んで、後宮に召しいれた。第一を日葉酢媛という。第二を渟葉田瓊入媛という。第三を眞砥野媛という。第四を薊瓊入媛という。第五を竹野媛という。秋八月の壬午が朔の日に、日葉酢媛命を皇后に立てた。皇后の妹の三人の女を妃とした。ただし竹野媛だけは、身なりが醜かったので、領地に返した。それでその返されたことを羞じて、葛野で何度も振り返り、自ら輿から墮ちて死んだ。それで、その地を墮国と名付けた。いま、弟国というのは訛ったものだ。皇后の日葉酢媛命は、男子三人との女子二人を生んだ。第一子を、五十瓊敷入彦命という。第二子を大足彦尊という。第三子を、大中姫命という。第四子を、倭姫命という。第五子を稚城瓊入彦命という。妃の渟葉田瓊入媛は、鐸石別命と膽香足姫命とを生んだ。次妃の薊瓊入媛は、池速別命・稚淺津姫命を生んだ。】とあり、標準陰暦と合致する。
出雲の野見宿禰というのは、宿禰すなわち出雲王のことで『舊事本紀』に「大田田祢古命亦名大直祢古命此命出雲神門臣女美氣姫為妻」と大国の王と呼んで、出雲神門臣の娘を娶り、野見宿禰は「野見宿祢是土部連等之始祖」で但馬を与えられて畿内の手元に置くというのは不可解で、これは丹波朝廷の手元で、丹波朝廷が畿内を制覇して仁徳紀に「倭屯田及屯倉而謂其屯田司出雲臣之祖淤宇宿祢」と大国宿祢で大田田祢古の孫が「大友主命此命同朝御世賜大神君姓」と大国の神もちろん国神は国王のことで、大神姓を得た。
また、渟葉田瓊入媛の子「鐸石別膽香足姫」は『古事記』では「沼羽田之入毗賣命生御子沼帯別命次伊賀帯日子命」と伊賀を治める王の伊賀帯日子で、「大彥命是・・・伊賀臣凢七族之始祖也」と伊賀帯日子が大彦と宇志王の孫で、『舊事本紀』に「八世孫倭得玉彦命亦云市大稲日命・・・伊我臣祖大伊賀彦女大伊賀姫生四男」と大伊賀彦は大彦のことと思われ倭得玉彦の子が垂仁天皇にあたるのだろうか。

2019年8月12日月曜日

最終兵器の目 垂仁天皇3

 『日本書紀』慶長版
即發近縣卒命上毛野君遠祖八綱田令擊狹穗彥時狹穗彥興師距之忽積稻作城其堅不可破
此謂稻城也踰月不降於是皇后悲之曰吾雖皇后既亡兄王何以面目莅天下耶則抱王子譽津別命而入之於兄王稻城天皇更益軍衆悉圍其城即勅城中曰急出皇后與皇子然不出矣則將軍八綱田放火焚其城於焉皇后令懷抱皇子踰城上而出之因以奏請曰妾始所以逃入兄城若有因妾子免兄罪乎今不得免乃知妾有罪何得面縛自經而死耳唯妾雖死之敢勿忘天皇之恩願妾所掌后宮之事冝授好仇丹波國有五婦人志並貞潔是丹波道主王之女也當納掖庭以盈后宮之數天皇聽矣時火興城崩軍衆悉走狹穗彥與妹共死于城中天皇於是美將軍八綱田之功号其名謂日向武日向八綱田也
【すなわち近くの縣の兵ををつかわして、上毛野君の遠祖の八綱田に命じて、狭穗彦を撃たした。この時に狭穗彦は、兵を挙げて防戦した。すぐに稻を積んで屋根を葺いた城を造った。その城は堅固で破壊できなかった。これを稻城といった。一月過ぎても降伏しなかった。
それで、皇后が「私は、皇后ではあるけれど、兄王が亡なったら、人に合わせる顔がなく、どの様に天下に臨めましょうか」と悲しんで、すなわち王子の譽津別命を抱いて、兄王の稻城に入った。天皇は、また軍を増員して、その城を囲みはいでる隙を無くした。それで城の中に「すみやかに皇后と皇子を差し出しなさい」と詔勅した。しかし差し出さなかった。それで將軍の八綱田は、火を放ってその城を焼いた。そして、皇后が、皇子を抱いて、城のヘイの上を超えて子を差し出して、「私は、はじめ兄の城に逃げ込んだ理由は、もし私と子のために、兄の罪を許してもらえるのではと考えた。しかし、私に罪があり、今は許されないと解った。どういう顔をして首を差し出せましょうか。頸を括って死ぬのみ。ただし私が死を選んだと言っても、あえて天皇の恩を忘れてはいけない。出来ましたら私が任された後宮の事は、良い私の恋敵を授かってください。あの丹波の国に五人の婦人がいます。心根はどの娘も操を固く守り、おこないがよいです。この娘たちは、丹波道主王の娘です。道主王は、稚日本根子太日日天皇の孫で、彦坐王の子です。まさに後宮に召して、妃の数々として満たしてください」と奏上した。天皇は許して従った。その時に火が燃え盛って城が崩れて、兵士は全て走って逃げた。狹穗彦と妹は、共に城の中で死んだ。天皇は、それで、將軍の八綱田の功績を褒めたたえて、名を日向武日向彦八綱田と名付けた。】とある。
丹波王も天皇と同じで、狭穗彦・狭穗姫の兄妹ワンセットで丹波王、同じ宮に住み、狭穗姫の夫はその宮の後宮の高宮に譽津別と過ごし、朝庭別王が高宮にやって来た時に狭穗姫が朝庭別王を暗殺できずに戦いとなったので、また、跡を継ぐべき姫も生まれていないので、丹波王の長男が死ねば後ろ盾がなくなり、譽津別もまだ幼少で皇太子にもなれないので、狭穗姫も丹波王として君臨することができなかったことを示している。
そして、丹波王は元々の丹波の王だった「丹波之河上之摩須郎女」と弟の美知能(丹波道の)宇志王が王位を継承するから、その姫の比婆須比賣命を娶ることで丹波王を継承できると記述している。
そして、上毛野君の遠祖の八綱田は『古事記』では「御子刺出城外尓其力士等取其御子即握其御祖」と記述されず、「日向武日向彦」は武日向の日向国の日向襲津彥、葛城襲津彥の説話の可能性、すなわち伊久米伊理毘古その人の可能性があり、それに加えて、関東を征服した倭武の説話の一つを挿入したため、上毛野君の遠祖と記述されている可能性がある。
すなわち、三輪(神国の倭)の磐余の邑長が神国の渟名川の長官・磯城津の長官・倭縣主・觀松の長官・倭国造(珍彦)・大倭国宿禰(大倭国王)の配下(禰の子)・稚倭国宿禰(稚倭国王)の配下(禰の

2019年8月9日金曜日

最終兵器の目 垂仁天皇2

 『日本書紀』慶長版は
四年秋九月丙戌朔戊申皇后母兄狹穗彥王謀反欲危社稷因伺皇后之燕居而語之曰汝孰愛兄與夫焉於是皇后不知所問之意趣輙對曰愛兄也則誂皇后曰夫以色事人色衰寵緩今天下多佳人各遞進求寵豈永得恃色乎是以冀吾登鴻祚必與與汝照臨天下則髙枕而永終百年亦不快乎願爲我弑天皇仍取匕首授皇后曰是匕首佩于裀中當天皇之寢廼刺頸而弑焉皇后於是心裏兢戰不知所如然視兄王之志便不可得諫故受其匕首獨無所藏以著衣中遂有諫兄之情歟五年冬十月己卯朔天皇幸來目居於髙宮時天皇枕皇后膝而晝寢於是皇后既無成事而空思之兄王所謀適是時也即眼淚流之落帝面天皇則寤之語皇后曰朕今日夢矣錦色小蛇繞于朕頸復大雨從狹穗發而來之濡面是何祥也皇后則知不得匿謀而悚恐伏地曲上兄王之反狀因以奏曰妾不能違兄王之志亦不得背天皇之恩告言則亡兄王不言則傾社稷是以一則以懼一則以悲俯仰唯咽進退而血泣日夜懷悒無所訴言唯今日也天皇枕妾膝而寢之於是妾一思矣若有狂婦成兄志者適遇是時不勞以成功乎茲意未竟眼涕自流則舉袖拭涕從袖溢之沾帝面故今日夢也必是事應焉錦色小蛇則授妾匕首也大雨忽發則妾眼淚也天皇謂皇后曰是非汝罪也
【四年の秋九月の朔が丙戌の戊申の日に、皇后の母方の兄狹穗彦王が、反逆を謀り、国家をそこなおうとした。それで皇后がくつろいで過ごしているところを見計らい、「お前の兄と私とどちらが愛しい」といった。それで、皇后意味が解らないで、「兄が愛しい」と答えた。それで皇后に、「顔の美しさで人に従うのは衰えたら寵愛する気持ちが緩む。天下には美人がたくさんいる。それぞれお互いに寵愛を求める。どうして、ずっと美しさを頼りに出来るのか。私が皇位に上ったら、きっとお前と天下を勝ち取れる。枕を高くして我が氏族は百年でも皇位を保てられる。痛快ではないか。お願いだから、私のために天皇を殺してくれ」とあいくちを渡して言った。それであいくちを取って皇后に授けて「このあいくちを身頃の中に忍ばせて、天皇が寢ている時に、頸を刺し殺せ」と言った。そこで、皇后は、おそれおののいて、どうしたらよいかわからなかった。このように兄王の意気込みを考えると、諫めることができなかった。それで、そのあいくちを受け取って、着物にしまい込み悩んで兄の気持ちを諫めることができなかった。五年の冬十月の朔が己卯の日に、天皇は、來目に行幸して、高宮に居た。その時に天皇が、皇后の膝枕で昼寝をしていた。そこで、皇后がなかなか事を成しとげられなかった。それで「兄王の反逆の実行は、この時」と虚ろな気持ちで思った。それで眼に涙を浮かべ、それが流れて帝の顔に落ちた。それで天皇は目覚めて、皇后に「私は今夢を見て、錦色の小蛇が私の首にまとわりついた。また大雨が狭穗から顔を濡らす夢は、何のきざしか」と語った。皇后は、それでもくろみを隠すことができないと知って、身もちぢまるほど恐れ入って、頭を地面につけて、詳しく、兄王の謀反の計画を上訴した。それは、「私は、兄王の気持ちに逆らうことができない。また天皇の恩に背くことができない。兄王を滅ぼすと言うことは国家の転覆を言わないということです。それで、恐れおののき、嘆き悲しんであるいは塞込み、あるいは天を仰いで喉を詰まらせて、身の振り方を考えてひどくむせび泣き悲しんでいます。一日中憂い胸に飛び込んで訴えることもできません。ただ今日、天皇が、私の膝枕して寝た。そこで、私は一時、「もし狂った女がいて、兄の思いを成し遂げようとするなら、丁度良いこの時に、骨折らずに目的を達成できる。この気持ちがずっと残って、涙が自然に流れてきた。それで、袖を目元に当てて涙をぬぐったけれども、零れ落ちて帝の顔を濡らしました。それで、今日の夢を見なさったのは、きっとこのためでしょう。錦色の小蛇は、私が授かったあいくちです。大雨がにわかに顔をうったのは、私の涙です」と思ったと言った。天皇は、皇后に「これはお前の罪ではない」と言った。】とあり、五年十月己卯朔は標準陰暦と合致し、四年秋九月丙戌朔は8月1日で一月違い、この年は5月が閏月でその影響かも知れない。
それ以外なら、紀元前119年か紀元後6年となり、時期的には紀元後6年頃の事件が妥当な気がする。
垂仁天皇の皇后の狹穗姫は坐王の娘で、後の皇后の日葉酢媛も坐王の孫だが、『古事記』では「日子坐王者遣旦波國令殺玖賀耳之御笠」と 坐王が丹波を征服しているのに、『日本書紀』は「丹波道主命遣丹波」と人名も違うが、丹波王が丹波を征服したと奇妙な記述になっている。
おそらく、この丹波道主は『古事記』の「美知能宇志王娶丹波之河上之摩須郎女生子比婆須比賣命次真砥野比賣命次弟比賣命次朝庭別王」とあるように美知能宇志王で、子が朝庭別王すなわち別王朝の天皇になったので、『古事記』と別の朝廷を記述した『日本書紀』との差に表れている。
すなわち、坐王が丹波を征服してその後継者の丹波王の沙本毘古と、「美知能宇志王娶丹波之河上之摩須郎女」のように地元の姫に婿入りした丹波道主の宇志王との戦いがこの記述で、宇志王が勝利した結果で、丹波王の坐王から垂仁天皇の義父の宇志王の丹波道主への変化である。
そして、『舊事本紀』に「弟十市根命此命纏向珠城宮御宇天皇御世賜物部連公姓」、同じく「弟大新河命此命纏向珠城宮御宇天皇御世元爲大臣次賜物部連公姓」と物部氏の賜姓説話が2つあり、十市根は「出雲國雖撿校其國神財而無分明奏言者汝親行于出雲國冝檢校定則十市根大連挍定神財分」のように物部氏の武諸遇と世代逆転及び重複して天皇の璽を分けてもう一人の「朝庭王」となった。
すなわち、狹穗姫説話は尾張氏の内部闘争説話で、大彦の娘と宇志王の子の朝庭別王という名の垂仁天皇の王朝が垂仁王朝で、別に十市根の別朝廷が存在した。
この時期に滋賀県守山市に伊勢遺跡という大規模な整然と神を祀ったような遺跡があり、心柱のある神殿で史書に出現する「太立宮柱」の名残で、近辺に野洲大岩山があって近畿式と三遠式の銅鐸が一緒に出土していて、遠方からの土器が集まる纏向遺跡には破壊された銅鐸があり、畿内は三角縁神獣鏡が多くつくられ、纏向遺跡は銅鐸を破壊して三角縁神獣鏡を造り墓に埋納したと思われ、二つの王朝がが存在したことを表している。
すなわち、銅鐸が出土する賀茂岩倉→畿内→伊勢遺跡という流れの王朝と、畿内纏向は巨大古墳や三角縁神獣鏡を祭祀の中心とした2王朝で、その後三角縁神獣鏡の出土が終わり、日向や吉備、和泉の巨大古墳に移行し、全て武内宿禰や葛城襲津彥・日向襲津彥、億計、弘計にゆかりの土地で、葛城氏の亜流の蘇我氏の政権奪取によって巨大前方後円墳が終わる
そして、『古事記』に「娶近淡海之御上祝以伊都玖天之御影神之女息長水依比賣生子丹波比古多多須美知能宇斯王」と宇志王は近淡海の姫を娶り、美知能宇斯王の弟は「水穂真若王者(近淡海之安直之祖)次神大根王者(三野國之本巣國造長幡部連之祖)」と近江の王や美濃の王になり、近江の中の「安」の王と呼んでいる。

2019年8月7日水曜日

最終兵器の目 日本書紀巻第六 垂仁天皇1

 日本書紀慶長版
活目入彥五十狹茅天皇御間城入彥五十瓊殖天皇第三子也母皇后曰御間城姫大彥命之女也天皇以御間城天皇二十九年歲次壬子春正月己亥朔生於瑞籬宮生而有岐㠜之姿及壯倜儻大度卒性任真無所矯飾天皇愛之引置左右二十四歲因夢祥以立爲皇太子六十八年冬十二月御間城入彥五十瓊殖天皇崩元年春正月丁丑朔戊寅皇太子即天皇位冬十月癸卯朔癸丑葬御間城天皇於山邊道上陵十一月壬申朔癸酉尊皇后曰皇太后是年也太歲壬辰二年春二月辛未朔己卯立狹穗姫爲皇后后生譽津別命生而天皇愛之常在左右及壯而不言冬十月更都於纏向是謂珠城宮也是歲任那人蘇那曷叱智請之欲歸于國蓋先皇之世來朝未還歟故敦賞蘇那曷叱智仍齎赤絹一百匹賜任那王然新羅人遮之於道而奪焉其二國之怨始起於是時也三年春三月新羅王子天日槍來歸焉將來物羽太玉一箇足髙玉一箇鵜鹿鹿赤石玉一箇出石小刀一口出石桙一枝日鏡一面熊神籬一具幷七物則藏于但馬國常爲神物也
活目入彦五十狹茅天皇は、御間城入彦五十瓊殖天皇の第三子だ。母の皇后をば御間城姫という。大彦命の娘だ。天皇は、御間城天皇の二十九年の歳次壬子の春正月の朔が己亥のに、瑞籬宮で生れた。生まれてからは背が高く堂々としてい勇ましく 才気がすぐれて心広かった。あるがままに突然行動し、うわべをかざることが無かった。天皇は可愛がって、いつも引き連れていた。二十四歳のとき、夢のきざしで、皇太子に立った。六十八年の冬十二月に、御間城入彦五十瓊殖天皇が崩じた。元年の春正月の朔が丁丑の戊寅の日に、皇太子は天皇に即位した。冬十月の朔が癸卯の癸丑の日に、御間城天皇を山の辺の道の上の陵に葬った。十一月の朔が壬申の癸酉の日に、皇后を尊んで皇太后と呼んだ。この年は、太歳壬辰だった。二年の春二月の朔が辛未の己卯の日に、狹穗姫を皇后に立てた。后は、譽津別命を生んだ。譽津別生まれたので天皇は可愛がって、常に手元においた。譽津別勇ましく何も言わずに行動を起こした。冬十月に、纏向へ都を遷した。これを珠城宮いう。是の歳に、任那人の蘇那曷叱智が「国帰りたい」と願い出た。おそらく先皇の世に来朝して未だ還っていなかったのだろう。それで、蘇那曷叱智あつく褒賞した。それで赤絹百匹を贈り物として任那の王に与えた。それで新羅人が、帰り道を遮って奪った。其の二国の怨念は、この時に始めて起った。三年の春三月に、新羅の王の子の天日槍がやってきた。持って来た物は、羽太の玉一箇・足高の玉一箇・鵜鹿鹿の赤石の玉一箇・出石の小刀一口・出石の桙一枝・日鏡一面・熊の神籬一具、併せて七つの物だった。それで但馬の国に収め、いつも祀りに使った。】とある。
元年正月丁丑朔は12月30日、元年十一月壬申朔は10月30日だがともに小の月なら標準陰暦と合致し、元年十月癸卯朔は標準陰暦と合致する。
天皇が正統な後継者でない場合は、新しい天皇を尊敬できる人物に持ち上げ、前任者はこき下ろすことは常とう手段で、都を纏向に遷し纏向は『舊事本紀』天忍立命纏向神主等祖」と忍立を祀る地域で、天押立のことで葛城氏の祖と言われる一人だ。
比古布都押之信命・・・娶尾張連等之祖意富那毗之妹葛城之高千那毗賣」と大稲日は尾張氏の祖で葛城氏の兄で、「八世孫倭得玉彦命亦云市大稲日命・・・伊我臣祖大伊賀彦女大伊賀姫生四男」と大稲日は伊賀臣の祖の娘が妃で、伊賀臣の祖というのは『日本書紀』「大彥命是阿倍臣膳臣阿閇臣狹狹城山君筑紫國造越國造伊賀臣凢七族之始祖」と大彦またはその子孫である。
すなわち、垂仁天皇は大彦の領地で後に尾張氏になる人物の宮に遷都したのである。
新羅は「赫居世居西干」が王としているが、これは、辰国から独立したのだから、王位も宮殿が王と見做すべきで、3代から4代の王が継承していることが予想でき、日槍は2から3代目の皇子と思われる、この時期の新羅は日本の王朝を標準時計にしていた可能性が高く、卑弥呼の時代まで続いたことが、『三國史記』阿達羅尼師今に「二十年 夏五月倭女王卑彌乎遣使來聘」と西暦173年に記述していることから考えられる。
『三国史記』では「至是立爲君焉辰人謂瓠爲朴以初大卵如瓠故以朴爲姓居西干辰言王或云呼貴人之稱」と居西干が王を意味する日本と同様君と呼ばれ瓠を朝鮮では瓢箪の意味を持たなかったからそれを意味する朴を姓にし、『後漢書』・『晋書』以降秦韓とされているにもかかわらず後代の『三国史記』が辰韓を用いているのだから、『三国史記』の資料には辰韓が残り、秦人ではなく辰人がいて、「瓠公者未詳其族姓本倭人初以瓠繫腰渡海而來故稱瓠公」と倭人の瓠公と38年後に過ぎないのに「朴」と「瓠・」の差を理解されていないことからも辰が日本で、しかも、「瓠・」と記述する方言が異なることから、倭国ではない「辰国」が考えられるのだ。

2019年8月5日月曜日

最終兵器の目 崇神天皇9

 『日本書紀』慶長版は続けて
於是甘美韓日狹鸕濡渟參向朝廷曲奏其狀則遣吉備津彥與武渟河別以誅出雲振根故出雲臣等畏是事不祭大神而有間時丹波氷上人名氷香戸邊啓于皇太子活目尊曰己子有小兒而自然言之玉菨鎮石出雲人祭真種之甘美鏡押羽振甘美御神底寶御寶主山河之水沐御魂靜挂甘美御神底寶御寶主也是非似小兒之言若有託言乎於是皇太子奏于天皇則勅之使祭六十二年秋七月乙卯朔丙辰詔曰農天下之大本也民所恃以生也今河內狹山埴田水少是以其國百姓怠於農事其多開池溝以寛民業冬十月造依網池十一月作苅坂池反折池六十五年秋七月任那國遣蘇那曷叱知令朝貢也任那者去筑紫國二千餘里北阻海以在鶏林之西南天皇踐祚六十八年冬十二月戊申朔壬子崩時年百二十歲明年秋八月甲辰朔甲寅葬于山邊道上陵
【それで、甘美韓日狹と鸕濡渟が、朝廷に参上して、つぶさにその様子を奏上した。それで吉備津彦と武渟河別とを派遣して、出雲振根を誅殺した。それで、出雲臣等は、この事に畏れて、大神を祭らない時が有った。ある時、丹波の氷上の氷香戸邊という者が、皇太子の活目尊に「私の子に、幼子がいる。それで、思いつくままに玉菨(玉のようにまとまったアサザ )は石の流れを緩やかにし、出雲人が祭る、皇統の証の甘美鏡。勢いを後押しする甘美御神、底寶御寶主(大貴巳の「太立宮柱於底磐之根」の宮宝、主は大国主に就任した大貴巳)。山河で沐浴する御魂は静かに水をかける。甘美御神は底寶御寶の主だ。これは幼子の言葉とは思えない。または、かこつけて言ったのか」と言上した。そこで、皇太子は、天皇に「ですから祀るよう詔勅してください」と言上した。六十二年の秋七月の朔が乙卯の丙辰の日に、「農作は天下の大本だ。民が頼りとして生きるものだ。今、河内の狭山の埴田には水が少ない。それで、その国の百姓は、農作業を怠っている。それで沢山、池や溝を造って、民の生業を拡大しろ」と詔勅した。冬十月に、依網の池を造った。十一月に、苅坂の池・反折の池を造った。六十五年の秋七月に、任那の国に、蘇那曷叱知を派遣して、朝貢させた。任那は、筑紫国を去ること百Km程度北だ。海を隔てて鷄林の西南に在る。天皇は、天子の位を引き継いで六十八年の冬十二月の朔が戊申の壬子の日に崩じた。この時、年百二十歳だった。翌年の秋八月の朔が甲辰の甲寅の日に、山の辺の道の上の陵に葬った。】とあり、六十八年十二月は標準陰暦と合致し、六十二年七月乙卯朔は7月2日で6月は小の月なので、大の月なら7月1日に、また、垂仁天皇元年秋八月甲辰朔も8月2日で7月は小の月だ。
出雲は「珍彥爲倭國造」と倭国造珍彦の娘と思われる倭國香媛の子の吉備津彦と、「其兄大毗古命之子建沼河別命者」と大彦の子の武渟河別が出雲を滅ぼし、そして、出雲臣と呼ばれた物部氏と事代主の末裔の大田田祢古が『舊事本紀』に「亦名大直祢古命此命出雲神門臣女美氣姫為妻」と大国の王と呼ばれた人物がこの崇神王朝の末に集まっていて、十市根の弟の物部氏ではなく建氏の建新川が志紀縣主祖と弟磯城に思え、この時、物部氏と尾張氏と大神君が「たけ」氏を名乗り、義兄弟となったと考えられる。
そして、『舊事本紀』に「建田背命神服連海部直丹波國造但馬國造等但次建」と尾張氏建諸隅の従弟が丹波国と但馬国の国造となり、妹大海姫は「此命礒城瑞籬宮御宇天皇立爲皇妃」と皇妃となり、義父大諸見足尼は「葛󠄀木直祖大諸見足尼女子諸見巳姫生一男妹大海姫命亦名葛󠄀木髙名姫命」と葛城王に出世し、この時は禰宜を統括していた人物と思われる。
『日本書紀』は不思議なことに、ここまで朝鮮半島での戦いを全く記述しないのに、ここで唐突に任那国説話が出現するけれども、神話時代には『出雲風土記』には「栲衾志羅紀乃三埼矣國之餘有耶見者國之餘有」と新羅を領地にし、素戔嗚も新羅に渡ったと記述があるように六合の地の大人国・大国では新羅が領地で、その大国が国譲りで出雲に都を遷し、出雲が辰国として朝鮮半島で漢と戦っていたのである。
『後漢書』に「馬韓人復自立為辰王」と以前からあった辰国を新羅が辰王として独立し、大国の力は漢との戦いで勢力が弱まったが影響力は残したようで、『三国史記』には「辰人謂瓠爲朴」・「新羅稱王曰居西干。辰言王也」と辰人の関与が記述される。
『後漢書』に「辰韓耆老自言秦之亡人・・・有似秦語」と記述しているが、秦語を中国語としていないことは不可解で、勿論朝鮮語なら特段記述する必要もなく、秦韓ではなく辰韓と記述されるのだから辰人を秦人と置き換えたようで、弁辰が「其國近倭」と辰人は倭に近いと記述している。
また、『宋書』の古歌の中に「日出東南隅,照我秦氏樓。秦氏有好女,自名為羅敷。羅敷喜蠶桑,采桑城南隅・・・頭上倭墮髻」と日本の太平洋側の東南隅に秦氏が楼閣を持っていて自分を「らふ」と呼んで養蚕を行っていたと記述し、羅敷は戦国趙の女と言われていて、戦国以降の歌とわかる。
ところが、倭風の髻していると歌っているのを見て、また、日の出る所を見て、本来なら中国国内とは思わない、すなわち、宋すなわち5世紀の王朝にとって、畿内政権を秦氏の王朝と認識し、『後漢書』の時代から秦氏と呼ばれていたと考えると辻褄が合い、中国語でない秦語は日本の秦氏の言葉、日本の秦氏の亡人で、太秦はこの秦氏が住んでいたところである。
もし、徐福の末裔などと主張する人物が出るかもしれないが、楼閣を持つまでに出世していたのなら、伝説では済まないし、趙は戦国のどの国から見ても日の出る方向でもなく、東南隅でもなく、日本が日の出る国だから『随書』で俀国が日の出る国と書いた。
その、出雲の分家の物部氏が出雲を破って辰国を継承したのだから弁辰・任那は崇神王朝が関与して漢と対抗することは自然の流れで、それに対して、『後漢書』に「自武帝滅朝鮮 使驛通於漢者三十許國」と三十余国を率いる漢と同盟した倭奴国と七十余国を従える漢と敵対して新羅を支援する大国が存在した。
『三國史記』始祖赫居世に「八年 倭人行兵 欲犯邊 聞始祖有神德 乃還」と紀元前50年に漢と協力した倭国が新羅を攻撃し、任那国は『三国志』に「其北岸狗邪韓國七千餘里」と漢が倭奴国に任那領有を認め、それが、振根の筑紫訪問で、大国の力が弱体化して筑紫と畿内とどちらにつくかの争いがあって、大国王朝が終焉したのだろう。

2019年8月2日金曜日

最終兵器の目 崇神天皇8

 『日本書紀』慶長版は
六十年秋七月丙申朔己酉詔群臣曰武日照命從天將來神寶藏于出雲大神宮是欲見焉則遣矢田部造遠祖武諸隅而使獻當是時出雲臣之遠祖出雲振根至于神寶是往筑紫國而不遇矣其弟飯入根則被皇命以神寶付弟耳美韓日狹與子鸕濡渟而貢上既而出雲振根從筑紫還來之聞神寶獻于朝廷責其弟飯入根曰數日當待何恐之乎輙許神寶是以既經年月猶懷恨忿有殺弟之志欺弟曰頃者於止屋淵多生菨願共行欲見則隨兄而往之先是兄竊作木刀形似真刀當時自佩之弟佩真刀共到淵頭兄謂弟曰淵水清冷願欲共游沐弟從兄言各解佩刀置淵邊沐於水中乃兄先上陸取弟真刀自佩後弟驚而取兄木刀共相擊矣弟不得拔木刀兄擊弟飯入根而殺之故時人歌之曰椰句毛多菟伊頭毛多鶏流餓波鶏流多知菟頭邏佐波磨枳佐微那辭珥阿波禮
【六十年の秋七月の朔が丙申の己酉の日に、群臣に「武日照命が天から神宝を出雲大神の宮の倉に納めようと帰って来た時に見せなさい」と詔勅した。それで矢田部造の遠祖の武諸隅を派遣して献上させようとした。この時に、出雲臣の遠祖の出雲振根に神宝が手に入ったので、筑紫国に報告に行っていて会えなかった。その弟の飯入根が、皇命を受けて、神宝を、弟の甘美韓日狹と子の鸕濡渟に持たせて貢献した。その後で出雲振根が、筑紫から帰って来て、神宝を朝廷に献上したと聞いて、その弟の飯入根を、「どうして数日待たないのか。何を恐れて、軽々しく神宝を渡すことを許した」と責めた。それで、年月が経っても、根に持って、弟を殺そうと思い弟を騙して 「この頃、止屋の淵に菨葉が多く生えた。出来たら一緒に行ってみてほしい」といった。それで兄について行った。これより前に、兄が密かに木刀を作った。形は真剣に似せた。その時は自分の身に着けた。弟は真剣を身に着けていた。二人とも淵の畔について、兄が弟に「淵の水澄んで冷たい。できたら一緒に水浴びをしよう」と言った。弟は兄の言葉に従って、互いに身に着けた刀を外して、淵の畔に置いて、水の中で入った。それで兄が先に陸に上って、弟の真剣を取りて自分の身に着けた。後で弟が驚いて兄の木刀を取った。互いに撃ち合った。弟は、木刀を抜くことができなかった。兄は、弟の飯入根を撃ち殺した。それで、人が歌って言った()】とあり、六十年七月丙申朔は標準陰暦と合致する。
この説話は『舊事本紀』に「八世孫物部武諸遇連公・・・此連公磯城瑞籬宮御宇天皇即位六十年詔群臣日武日照命從天將來神寶藏于出雲大神宮是欲見焉則遣矢田部造遠祖武諸遇命使分明檢定獻奉」と合致するが、「弟大新河命此命纏向珠城宮御宇天皇御世元爲大臣次賜物部連公姓則改爲大連奉齋」と纏向珠城宮で物部姓を貰うのであり、磯城瑞籬宮ではまだ物部ではなく、「物部十市大連而令冶石上神寶盖是其縁也物部武諸遇連公女子時妓爲妻生五男弟建新川命倭志紀縣主等祖」と娘婿十市根の弟建新川が志紀縣主等祖と縣主に任命されておらず神武東侵前の説話だ。
これは「弟出雲醜大臣命・・・此時也倭志紀彦妹真鳥姬爲妻生三兒弟出石心大臣命此命掖上池心宮御宇天皇御世爲大臣奉齋大神新河小楯姬為妻」と出雲醜と伊香色雄命が同名の姫を娶り、次の世代が十市根や新河で、十市根イコール武諸遇を思わせる。
そして、「八世孫物部武諸遇連公」は尾張氏「七世孫建諸隅命・・・大海姫命・・・此命礒城瑞籬宮御宇天皇立爲皇妃誕生一男二女召八坂入彦命次中城入姫命次十市瓊入彦命」と同世代で「五十瓊敷倉皇子命謂妹大中姬命」、「大中姬命遂授物部十市大連」と十市瓊入彦と十市根も「十市」宮の人物で物部武諸遇と尾張氏の建諸隅は同一人物の可能性少なくとも義兄弟の可能性がある。
すなわち、この説話は天皇の璽を物部氏が手に入れた説話を基にしたもので、筑紫と物部氏が天皇の璽を持っている出雲を取り合って、物部氏が勝利した説話のようだ。