2019年8月16日金曜日

最終兵器の目 垂仁天皇5

 『日本書紀』慶長版は
二十三年秋九月丙寅朔丁卯詔群卿曰譽津別王是生年既三十髯鬚八掬猶泣如兒常不言何由矣因有司而議之冬十月乙丑朔壬申天皇立於大殿前譽津別皇子侍之時有鳴鵠度大虛皇子仰觀鵠曰是何物耶天皇則知皇子見鵠得言而喜之詔左右曰誰能捕是鳥獻之於是鳥取造祖天湯河板舉奏言臣必捕而獻即天皇勅湯河板舉曰汝獻是鳥必敦賞矣時湯河板舉遠望鵠飛之方追尋詣出雲而捕獲或曰得于但馬國十一月甲午朔乙未湯河板舉獻鵠也譽津別命弄是鵠遂得言語由是敦賞湯河板舉則賜姓而曰鳥取造因亦定鳥取部鳥養部譽津部
【二十三年の秋九月の朔が丙寅の丁卯の日に、群卿に「譽津別王は、今に至って年齢が既に三十歳で、顎鬚を手で8つ握れるぐらい伸びたが、まだ泣く稚児のようだ。全く話さないのはどうしてだ。それで役人に検討させなさい」と詔勅した。冬十月の朔が乙丑の壬申の日に、天皇は、大殿の前に立って譽津別皇子を傍においていた。その時白鳥が鳴いて、大空を渡った。皇子は白鳥を仰ぎ見て、「これは何んだ」と言った。天皇は、皇子が白鳥を見て言葉を発することができたと喜んだ。周りに「誰かこの鳥を捕まえて献上しろ」と詔勅した。そこに、鳥取造の祖の天の湯河板擧が「私がきっと捕えて獻上しましょう」と奏上した。すなはち天皇は、湯河板擧に「おまえがこの鳥を献上すれば、きっと手厚く恩賞するぞ」と詔勅した。その時に湯河板擧は、遠く白鳥が飛んだ方角を見て、追い探し求めて出雲へたどり着いて、捕獲した。或人が「但馬の国で捕まえた」と言った。十一月の朔が甲午の乙未の日に、湯河板擧が、白鳥を献上した。譽津別命が、是の白鳥と戯れて、ついに話すことができた。これで、湯河板擧に手厚く恩賞した。すなわち賜姓されて鳥取造と言った。それでまた鳥取部・鳥養部・譽津部を定めた。】とあり、二十三年九月丙寅朔は8月1日で一月違うが、この近くで8月晦日と9月朔日に丙寅の日が無く、西暦61年垂仁九十年の可能性が有り、その他は標準陰暦と合致している。
『舊事本紀』の「二十三年秋八月丙申朔已亥大新河命為大臣」、「同月丙申朔丁巳大臣大新河命」とやはり1月ズレていて、西暦61年なら丙申は7月30日で概ね標準陰暦と合致し、この時、王朝交代があった可能性がある。
その証拠に、『舊事本紀』の「八十一年春二月壬子朔五大夫十市根命賜姓物部連公即為大連」は紀元前4年、垂仁天皇二六年で『日本書紀』の「廿六年秋八月戊寅朔庚辰天皇勅物部十千根大連曰」のように2月賜姓で8月に物部十千根大連と記述され、垂仁天皇二五年は「物部連遠祖十千根」とまだ賜姓されていない。
鳥取造の説話は現在の鳥取県の語源で活動範囲が但馬・出雲と丹波王朝の説話とするのが妥当で、『舊事本紀』には「少彦根命鳥取連等祖」と高皇産靈が国譲りに派遣した人物で「神皇産靈神之御子少彦名那神」と関係がありそうで、「少彦名命行到熊野之御碕遂適於常世國矣」と少彦名は常世に去っていて日本海の神である。
さらに、『舊事本紀』は「敦賞湯河板舉則賜姓而号鳥取造」と鳥取造の姓を湯河板舉に与えているのに、すぐ後で、「兄譽津別命鳥取造等祖」と譽津別が鳥取造祖と湯河板舉が譽津別の子のように記述していて、譽津部の祖が譽津別なのだろう。
それに対して『古事記』前川茂右衛門寛永版は「遣山邊之大鶙令取其鳥故是人追尋其鵠自木國到針間國亦追越稲羽國即到旦波國多遅麻國追廻東方到近淡海國乃越三野國自尾張國傳以追科野國遂追到高志國・・・勿言事於是天皇患賜而御寐之時覺于御夢曰修理我宮如天皇之御舎・・崇出雲大神之御心・・・科曙立王令宇氣比・・・名賜曙立王謂倭者師木登美豊朝倉曙立王・・・坐地定品遅部也・・・仮宮而坐尓出雲國造之祖名岐比佐都美・・・出雲之石硧之曽宮葦原色許男大神以伊都玖之祝大廷乎・・・兎上王命造神宮於是天皇因其御子定鳥取部鳥甘部品遅部大湯坐若湯坐」と人名も大鶙で、木国から播磨・稲羽・丹波・但馬・近江・美濃・尾張・信濃・越と範囲が広く、木国は武内・葛城氏の領地で葛城氏がこれらの地域を別朝廷と共に領有したと述べている。
そして、白鳥では治らず、出雲に飛んで、出雲国造を紀伊の佐都美とやはり木国の領地になると記述し、おそらく賀茂岩倉遺跡がある場所にある葦原色許男神の宮が大国の朝廷で、その宮を兎上王が引き継いで新たな宮を造ったと述べている。
『日本書紀』の朝廷と別朝廷と更に兎上王が朝廷を開いて、出雲国造に紀氏を就任させたと鳥取部の説話にはめ込んで、まさに、『舊事本紀』の「宇迦能山之嶺於底津石根宮柱太斯理」、「天孫使徵兄猾及弟猾者是兩人㝹田之魁帥」と兎上王は一体の説話と考えられる。
すなわち、沙穂彦の朝廷側に葛城氏がついて、物部別朝廷を開いた時に葛城氏も豊葦原中国に朝廷を開いたと述べ、菟上王は「日子坐王娶山代之荏名名津比賣生子大俣・・・故兄大俣王之子曙立王次菟上王」と日子坐と山代王の姫の孫で、「曙立王者(伊勢之品遅部君伊勢之佐那造之祖)」と品遅部は曙立王のための部だ。
そして、物部氏の内色許賣の子の天皇が父で、「娶丸迩臣之祖日子國意祁都命之妹意祁都比賣命生御子日子坐王」のように丸迩臣之祖の子の母が坐王で、丸迩臣は『古事記』「丸迩臣之祖日子國夫玖」・『日本書紀』「和珥臣遠祖彥國葺」と和珥臣と同じで、事代主→天日方奇日方→建飯勝(此命娶出雲臣女子沙麻奈姫生)→建甕尻(此命伊勢幡主女賀貝召姫為妻)→豊御氣主(此命紀伊名草姫為妻)→大御氣主→阿田賀田須(和迩君等祖)→大田田祢古(亦名大直祢古)である。
すなわち、菟上王は物部氏の父方が内色許賣、母方が出雲醜の血を引き、紀氏と姻戚の大国王、この大国王は従弟あたり、さらに、この血族は伊勢遺跡と関係がありそうで、景行天皇が『日本書紀』「冀欲巡狩小碓王所平之國乘輿幸伊勢轉入東海」と倭武を思って行幸する出発地伊勢も近江の伊勢で、曙立王が近江の伊勢で朝廷を開き、菟上王が「なか」()国の朝廷と3朝廷がにらみ合い、畿内朝廷は『日本書紀』「物部君祖夏花」と物部君・『舊事本紀』「大鴨積命此命磯城瑞籬朝御世賜賀茂君姓」と賀茂君のように呼び配下の王の一人とした。
そして、葛城氏の稚日本根子は木国での役職名で御間城入彦は近江での役職名、そして、活目入彦は葦原中国での役職名ということが推定できる。

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