『日本書紀』慶長版
「即發近縣卒命上毛野君遠祖八綱田令擊狹穗彥時狹穗彥興師距之忽積稻作城其堅不可破
此謂稻城也踰月不降於是皇后悲之曰吾雖皇后既亡兄王何以面目莅天下耶則抱王子譽津別命而入之於兄王稻城天皇更益軍衆悉圍其城即勅城中曰急出皇后與皇子然不出矣則將軍八綱田放火焚其城於焉皇后令懷抱皇子踰城上而出之因以奏請曰妾始所以逃入兄城若有因妾子免兄罪乎今不得免乃知妾有罪何得面縛自經而死耳唯妾雖死之敢勿忘天皇之恩願妾所掌后宮之事冝授好仇丹波國有五婦人志並貞潔是丹波道主王之女也當納掖庭以盈后宮之數天皇聽矣時火興城崩軍衆悉走狹穗彥與妹共死于城中天皇於是美將軍八綱田之功号其名謂日向武日向八綱田也」
【すなわち近くの縣の兵ををつかわして、上毛野君の遠祖の八綱田に命じて、狭穗彦を撃たした。この時に狭穗彦は、兵を挙げて防戦した。すぐに稻を積んで屋根を葺いた城を造った。その城は堅固で破壊できなかった。これを稻城といった。一月過ぎても降伏しなかった。
それで、皇后が「私は、皇后ではあるけれど、兄王が亡なったら、人に合わせる顔がなく、どの様に天下に臨めましょうか」と悲しんで、すなわち王子の譽津別命を抱いて、兄王の稻城に入った。天皇は、また軍を増員して、その城を囲みはいでる隙を無くした。それで城の中に「すみやかに皇后と皇子を差し出しなさい」と詔勅した。しかし差し出さなかった。それで將軍の八綱田は、火を放ってその城を焼いた。そして、皇后が、皇子を抱いて、城のヘイの上を超えて子を差し出して、「私は、はじめ兄の城に逃げ込んだ理由は、もし私と子のために、兄の罪を許してもらえるのではと考えた。しかし、私に罪があり、今は許されないと解った。どういう顔をして首を差し出せましょうか。頸を括って死ぬのみ。ただし私が死を選んだと言っても、あえて天皇の恩を忘れてはいけない。出来ましたら私が任された後宮の事は、良い私の恋敵を授かってください。あの丹波の国に五人の婦人がいます。心根はどの娘も操を固く守り、おこないがよいです。この娘たちは、丹波道主王の娘です。道主王は、稚日本根子太日日天皇の孫で、彦坐王の子です。まさに後宮に召して、妃の数々として満たしてください」と奏上した。天皇は許して従った。その時に火が燃え盛って城が崩れて、兵士は全て走って逃げた。狹穗彦と妹は、共に城の中で死んだ。天皇は、それで、將軍の八綱田の功績を褒めたたえて、名を日向武日向彦八綱田と名付けた。】とある。
丹波王も天皇と同じで、狭穗彦・狭穗姫の兄妹ワンセットで丹波王、同じ宮に住み、狭穗姫の夫はその宮の後宮の高宮に譽津別と過ごし、朝庭別王が高宮にやって来た時に狭穗姫が朝庭別王を暗殺できずに戦いとなったので、また、跡を継ぐべき姫も生まれていないので、丹波王の長男が死ねば後ろ盾がなくなり、譽津別もまだ幼少で皇太子にもなれないので、狭穗姫も丹波王として君臨することができなかったことを示している。
そして、丹波王は元々の丹波の王だった「丹波之河上之摩須郎女」と弟の美知能(丹波道の)宇志王が王位を継承するから、その姫の比婆須比賣命を娶ることで丹波王を継承できると記述している。
そして、上毛野君の遠祖の八綱田は『古事記』では「御子刺出城外尓其力士等取其御子即握其御祖」と記述されず、「日向武日向彦」は武日向の日向国の日向襲津彥、葛城襲津彥の説話の可能性、すなわち伊久米伊理毘古その人の可能性があり、それに加えて、関東を征服した倭武の説話の一つを挿入したため、上毛野君の遠祖と記述されている可能性がある。
すなわち、三輪(神国の倭)の磐余の邑長が神国の渟名川の長官・磯城津の長官・倭縣主・觀松の長官・倭国造(珍彦)・大倭国宿禰(大倭国王)の配下(禰の子)・稚倭国宿禰(稚倭国王)の配下(禰の
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