2019年8月7日水曜日

最終兵器の目 日本書紀巻第六 垂仁天皇1

 日本書紀慶長版
活目入彥五十狹茅天皇御間城入彥五十瓊殖天皇第三子也母皇后曰御間城姫大彥命之女也天皇以御間城天皇二十九年歲次壬子春正月己亥朔生於瑞籬宮生而有岐㠜之姿及壯倜儻大度卒性任真無所矯飾天皇愛之引置左右二十四歲因夢祥以立爲皇太子六十八年冬十二月御間城入彥五十瓊殖天皇崩元年春正月丁丑朔戊寅皇太子即天皇位冬十月癸卯朔癸丑葬御間城天皇於山邊道上陵十一月壬申朔癸酉尊皇后曰皇太后是年也太歲壬辰二年春二月辛未朔己卯立狹穗姫爲皇后后生譽津別命生而天皇愛之常在左右及壯而不言冬十月更都於纏向是謂珠城宮也是歲任那人蘇那曷叱智請之欲歸于國蓋先皇之世來朝未還歟故敦賞蘇那曷叱智仍齎赤絹一百匹賜任那王然新羅人遮之於道而奪焉其二國之怨始起於是時也三年春三月新羅王子天日槍來歸焉將來物羽太玉一箇足髙玉一箇鵜鹿鹿赤石玉一箇出石小刀一口出石桙一枝日鏡一面熊神籬一具幷七物則藏于但馬國常爲神物也
活目入彦五十狹茅天皇は、御間城入彦五十瓊殖天皇の第三子だ。母の皇后をば御間城姫という。大彦命の娘だ。天皇は、御間城天皇の二十九年の歳次壬子の春正月の朔が己亥のに、瑞籬宮で生れた。生まれてからは背が高く堂々としてい勇ましく 才気がすぐれて心広かった。あるがままに突然行動し、うわべをかざることが無かった。天皇は可愛がって、いつも引き連れていた。二十四歳のとき、夢のきざしで、皇太子に立った。六十八年の冬十二月に、御間城入彦五十瓊殖天皇が崩じた。元年の春正月の朔が丁丑の戊寅の日に、皇太子は天皇に即位した。冬十月の朔が癸卯の癸丑の日に、御間城天皇を山の辺の道の上の陵に葬った。十一月の朔が壬申の癸酉の日に、皇后を尊んで皇太后と呼んだ。この年は、太歳壬辰だった。二年の春二月の朔が辛未の己卯の日に、狹穗姫を皇后に立てた。后は、譽津別命を生んだ。譽津別生まれたので天皇は可愛がって、常に手元においた。譽津別勇ましく何も言わずに行動を起こした。冬十月に、纏向へ都を遷した。これを珠城宮いう。是の歳に、任那人の蘇那曷叱智が「国帰りたい」と願い出た。おそらく先皇の世に来朝して未だ還っていなかったのだろう。それで、蘇那曷叱智あつく褒賞した。それで赤絹百匹を贈り物として任那の王に与えた。それで新羅人が、帰り道を遮って奪った。其の二国の怨念は、この時に始めて起った。三年の春三月に、新羅の王の子の天日槍がやってきた。持って来た物は、羽太の玉一箇・足高の玉一箇・鵜鹿鹿の赤石の玉一箇・出石の小刀一口・出石の桙一枝・日鏡一面・熊の神籬一具、併せて七つの物だった。それで但馬の国に収め、いつも祀りに使った。】とある。
元年正月丁丑朔は12月30日、元年十一月壬申朔は10月30日だがともに小の月なら標準陰暦と合致し、元年十月癸卯朔は標準陰暦と合致する。
天皇が正統な後継者でない場合は、新しい天皇を尊敬できる人物に持ち上げ、前任者はこき下ろすことは常とう手段で、都を纏向に遷し纏向は『舊事本紀』天忍立命纏向神主等祖」と忍立を祀る地域で、天押立のことで葛城氏の祖と言われる一人だ。
比古布都押之信命・・・娶尾張連等之祖意富那毗之妹葛城之高千那毗賣」と大稲日は尾張氏の祖で葛城氏の兄で、「八世孫倭得玉彦命亦云市大稲日命・・・伊我臣祖大伊賀彦女大伊賀姫生四男」と大稲日は伊賀臣の祖の娘が妃で、伊賀臣の祖というのは『日本書紀』「大彥命是阿倍臣膳臣阿閇臣狹狹城山君筑紫國造越國造伊賀臣凢七族之始祖」と大彦またはその子孫である。
すなわち、垂仁天皇は大彦の領地で後に尾張氏になる人物の宮に遷都したのである。
新羅は「赫居世居西干」が王としているが、これは、辰国から独立したのだから、王位も宮殿が王と見做すべきで、3代から4代の王が継承していることが予想でき、日槍は2から3代目の皇子と思われる、この時期の新羅は日本の王朝を標準時計にしていた可能性が高く、卑弥呼の時代まで続いたことが、『三國史記』阿達羅尼師今に「二十年 夏五月倭女王卑彌乎遣使來聘」と西暦173年に記述していることから考えられる。
『三国史記』では「至是立爲君焉辰人謂瓠爲朴以初大卵如瓠故以朴爲姓居西干辰言王或云呼貴人之稱」と居西干が王を意味する日本と同様君と呼ばれ瓠を朝鮮では瓢箪の意味を持たなかったからそれを意味する朴を姓にし、『後漢書』・『晋書』以降秦韓とされているにもかかわらず後代の『三国史記』が辰韓を用いているのだから、『三国史記』の資料には辰韓が残り、秦人ではなく辰人がいて、「瓠公者未詳其族姓本倭人初以瓠繫腰渡海而來故稱瓠公」と倭人の瓠公と38年後に過ぎないのに「朴」と「瓠・」の差を理解されていないことからも辰が日本で、しかも、「瓠・」と記述する方言が異なることから、倭国ではない「辰国」が考えられるのだ。

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