2019年8月30日金曜日

最終兵器の目 垂仁天皇10

 『日本書紀』慶長版は
八十八年秋七月巳朔酉(己酉朔)戊午詔群卿曰朕聞新羅王子天日槍初來之時將來寶物今有但馬元爲國人見貴則爲神寶也朕欲見其寶物即日遣使者詔天日槍之曾孫清彥而令獻於
是清彥被勅乃自捧神寶而獻之羽太玉一箇足髙玉一箇鵜鹿赤石玉一箇日鏡一面熊神籬一具唯有小刀一名曰出石則清彥忽以爲非獻刀子仍匿袍中而自佩之天皇未知匿小刀之情欲寵清彥而召之賜酒於御所時刀子從袍中出而顯之天皇見之親問清彥曰爾袍中刀子者何刀子也爰清彥知不得匿刀子而呈言所獻神寶之類也則天皇謂清彥曰其神寶之豈得離類乎乃出而獻焉皆藏於神府然後開寶府而視之小刀自失則使問清彥曰爾所獻刀子忽失矣若至汝所乎清彥荅曰昨夕刀子自然至於臣家乃明旦失焉天皇則惶之且更勿覓是後出石刀子自然至于淡路嶋其
嶋人謂神而爲刀子立祠是於今所祠也昔有一人乗艇而泊于但馬國因問曰汝何國人也對曰新羅王子名曰天日槍則留于但馬娶其國前津耳女麻拕能烏生但馬諸助是清彥之祖父也
八十八年の秋七月の朔が己酉の戊午の日に、群卿に「私は聞いたことが有る。新羅の王子の天日槍が、はじめて来た時に、持って来た宝物が、今但馬にある。はじめ但馬国の人に貴まれて、それで神宝となった。私は、その宝物を見たい」と命じた。すぐに使者を派遣して、天日槍の曽孫の清彦に命じて献上させた。そこで、清彦は、詔勅を受けて、すなわち自ら神宝を奉献した。羽太の玉一箇・足高の玉一箇・鵜鹿鹿の赤石の玉一箇・日鏡一面・熊の神籬一具だ。その他に小刀が一つ有った。名を出石という。それで清彦が刀子を献上せず、いそいで衣服の中にかくして、自分の身に着けた。天皇は、まだ小刀をかくした本心を知らず、清彦が気に入り、呼び寄せて酒を御所で与えた。その時に刀子が、衣服の中からはみ出て見えてしまった。天皇が見つけて、自ら清彦に「お前の衣服の中の刀子は、何んの刀子だ」と問い詰めた。そこで清彦は、刀子を隠し通せないことを知って、刀子を見せて「献上する中の神宝のひとつです」と言った。それで天皇は、清彦に「その神宝を、他と離すことがどうして出来ようか」と言った。それで差し出して献上した。全て神を祀る蔵所に秘蔵した。その後、宝を管理する蔵を開いてみたら、小刀が知らないうちになくなっていた。それで清彦に「お前が献上した刀子が突然なくなっていた。もしかしたお前の所にあるか」と問いただした。清彦は「昨夜、刀子が、自然に我が家にやってきた。それで日が明けたらなくなっていた」と答えた。天皇は、それで神を畏れて、さらに求めなかった。この後に、出石の刀子は、知らないうちに淡路嶋ついた。その嶋の人は、神だと言って、刀子のために祠を立てた。これが今でも祠られている。昔、ある人が、舟に乗って但馬国に停泊した。それで「お前はどこの国の者か」と問うと、「新羅の王の子で、名を天日槍という」と答えた。すなわち但馬に留まって、その国の前津耳の娘の麻拕能烏を娶って、但馬諸助を生んだ。これが清彦の祖父だ。】とあり、標準陰暦と合致する。
この説話は垂仁天皇「三年春三月新羅王子天日槍來歸焉」の続きのような記事で紀元前27年の説話だが、この頃は「赫居世居西干」の統治で『三國史記』赫居世の「三十八年春二月遣瓠公聘於馬韓馬韓王讓瓠公曰辰卞二韓爲我屬國・・・瓠公者 未詳其族姓本倭人初以瓠繫腰渡海而來,故稱瓠公 南解次次雄立」と紀元前20年に王位を譲る直前で倭人の瓠公が活躍し、後の百済の地の馬韓王から辰韓と卞韓を倭人の瓠公に譲って南解次次雄を王位につかせた頃で、日本に新羅の王子を派遣して倭国を牽制したように感じる。
すなわち、辰国が勢力を持つ三韓の地で、辰国は馬韓に三韓の地の管理をさせ、馬韓と倭は同等な関係だが、力関係では倭が強く、鉄を産出する辰韓の土地での主導権を倭が取ろうとしていたので、辰国日本に救援を求めた。
それが、『三国志』の「弁辰・・・辰王常用馬韓人作之世世相繼辰王不得自立爲王」と 弁辰の統治者が辰王で、その辰王が馬韓に統治させ、すなわち、馬韓の上位者が辰王で、その馬韓が「辰韓・・・馬韓割其東界地與之」と辰韓に土地を与えて、その土地は「辰韓者古之辰國也」と元々辰国のものだったと記述して『日本書紀』と対応している。
そして、この説話の西暦59年は57年に新羅王となった「脫解尼師今」が王で、「脫解本多婆那國所生也其國在倭國東北一千里初其國王娶女國王女爲妻」と多婆那國の王の子と記述され、日本と同盟することで脫解王は瓠公から主導権を奪ったようで、それ以前は瓠公が新羅の実力者だったのであり、また、この千里は漢の里単位で糟屋の倭国都北400Kmは兵庫県と鳥取県の県境辺りで、三国史記も王が90年4代程度襲名していて、この時代は姫を王と記述している。

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