2019年8月26日月曜日

最終兵器の目 垂仁天皇9

 『日本書紀』慶長版は
「三十四年春三月乙丑朔丙寅天皇幸山背時左右奏言之此國有佳人曰綺戸邊姿形美麗山背大國不避之女也天皇於茲執矛祈之曰必遇其佳人道路見瑞比至至行宮大龜出河中天皇舉矛剌龜忽化爲白石謂左右曰因此物而推之必有驗乎仍喚綺戸邊納于後宮生磐衝別命是三尾君之始祖也先是娶山背苅幡戸邊生三男第一曰祖別命第二曰五十日定彥命第三曰膽武別命五十日足彥命是子石田君之始祖也三十五年秋九月遣五十瓊敷命于河內國作髙石池茅渟池冬十月作倭狹城池及迹見池是歲令諸國多開池溝数八百之以農爲事因是百姓富寛天下大平也三十七年春正月戊寅朔立大足彥尊爲皇太子三十九年十月五十瓊敷命居於茅渟菟砥川上宮作剱一千口因名其剱謂川上部亦名曰裸伴藏于石上神宮也是後命五十瓊敷命俾主石上神宮之神寶八十七年春二月丁亥朔辛卯五十瓊敷命謂妹大中姫曰我老也不能掌神寶自今以後必
汝主焉大中姫命辭曰吾手弱女人也何能登天神庫耶五十瓊敷命曰神庫雖髙我能爲神庫造梯豈煩登庫乎故諺曰天之神庫隨樹梯之此其縁也然遂大中姫命授物部十千根大連而令治故物部連等至于今治石上神寶是其縁也昔丹波國桑田村有人名曰甕襲則甕襲家有犬名曰足往是犬咋山獸名牟士那而殺之則獸腹有八尺瓊勾玉因以獻之是玉今有石上神宮
三十四年の春三月の朔が乙丑の丙寅の日に、天皇が、山背に行幸した。その時に付き人が「このに美しい女がいます。綺戸邊といいます。姿形はみなが注目するほど美しい。山背大国の不遲の娘です」と奏上した。天皇は、そこで、矛を掴んで「絶対その美人に会ったら、道路に目出度いしるしが見えるように」と祈って言った。行宮に着いた頃に、大亀が、河の中から這い出てきた。天皇は、矛を振り挙げて亀を刺した。たちまち石のようになった。付き人に 「これから推測すると、きっと証しがある」と言った。それで綺戸邊を召喚して、後宮に召し入れた。磐衝別命を生んだ。この皇子は三尾君の始祖だ。これより前に、山背の苅幡戸邊を娶った。三人の男子を生んだ。第一を祖別命という。第二を五十日足彦命という。第三を膽武別命という。五十日足彦命、この皇子は石田君の始祖だ。三十五年の秋九月に、五十瓊敷命を河内国に派遣して、高石池・茅渟池を造らせた。冬十月に、倭の狹城池および迹見池を造った。この歳に、諸国に命じて、多くのに池や用水を八百程度開いて営農で生計をたてた。これで、百姓は富んでゆとりを持ち、天下太平だ。三十七年の春正月の戊寅の朔日に、大足彦尊を、皇太子とした。三十九年の冬十月に、五十瓊敷命は、茅渟の菟砥川上宮に居て、剱を一千口を作った。それでその剱を名付けて、川上部という。またの名は裸伴という。石上神宮に収めた。この後、五十瓊敷命に命じて、石上神宮の神宝を司らせた。八十七年の春二月の朔が丁亥の辛卯の日に、五十瓊敷命は、妹の大中姫に「私は老いた。神宝を司ることができない。これから以後は、絶対にお前が司れ」といった。大中姫命は断って「私はか弱い女です。どうして天神の庫に登ることが出来ましょうか」と言った。五十瓊敷命は「神庫が高いと言うなら、私が神庫に登ることが出来るように梯子を造ろう。それなら倉庫に登ることが煩わしくないだろう」といった。それで、諺に、「天の神庫も梯子を立てれば思うがまゝ」というのは、これが由縁だ。それでついに大中姫命は、物部十千根大連に授けて管理させた。それで、物部連等が、今になるまで、石上の神宝を管理するのは、これがその由縁だ。昔、丹波国の桑田村に、ある人がいて。名を甕襲という。すなわち甕襲の家に犬がいた。名を足住といった。この犬は、山の獣、名を牟士那というものを喰い殺した。それで獣の腹に八尺瓊の勾玉があった。それで献上した。この玉は、今、石上神宮に有る。】とあり、三十七年正月戊寅朔は12月30日で12月が小の月なら標準陰暦と合致し、その他は標準陰暦と合致する。
この説話は『舊事本紀』の「伊香色雄命・・・物部八十手所作祭神之物祭八十萬群神之時遷建布都大神社於大倭國山邉郡石上邑則・・・山代縣主祖長溝女真木姫爲妻生二兒山代縣主祖長溝女荒姫娣玉手並爲妾各生二男」と記述され、五十瓊敷倉皇子が妹大中姫にまかせてと同じで、伊香色雄を五十瓊敷と置き換えて「大中姬命遂授物部十市大連而令冶石上神寶盖是其縁也」と十市が石上神宮で禰宜となり、兄弟の大新河が物部姓を賜姓され、一方が尾張氏の配下の大連で一方は大神を祀る禰宜となったとして、別王朝の天皇になったことを示している
さらに、山背は自領になったばかりで、婚姻の対象者は山背に居る大國の不避で後に山代縣主になる家系の祖、この王が天皇になった時に山代縣主に任命した説話で、この説話は崇神朝の末から垂仁朝初期の王朝交代時の説話で、祖というのは、遠祖と違い、この説話の直後に任命されるということが多数見受けられ、仁徳紀には「山背栗隈縣」と山背は縣より上位の組織となり、その王は神功紀に「山背根子」と根子が王位で倭根子と同じ地位で大祢・宿禰の下の地位で、葛城氏の名に根子が含まれ「山背根子」と同等の地位のようだ。

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