2019年8月9日金曜日

最終兵器の目 垂仁天皇2

 『日本書紀』慶長版は
四年秋九月丙戌朔戊申皇后母兄狹穗彥王謀反欲危社稷因伺皇后之燕居而語之曰汝孰愛兄與夫焉於是皇后不知所問之意趣輙對曰愛兄也則誂皇后曰夫以色事人色衰寵緩今天下多佳人各遞進求寵豈永得恃色乎是以冀吾登鴻祚必與與汝照臨天下則髙枕而永終百年亦不快乎願爲我弑天皇仍取匕首授皇后曰是匕首佩于裀中當天皇之寢廼刺頸而弑焉皇后於是心裏兢戰不知所如然視兄王之志便不可得諫故受其匕首獨無所藏以著衣中遂有諫兄之情歟五年冬十月己卯朔天皇幸來目居於髙宮時天皇枕皇后膝而晝寢於是皇后既無成事而空思之兄王所謀適是時也即眼淚流之落帝面天皇則寤之語皇后曰朕今日夢矣錦色小蛇繞于朕頸復大雨從狹穗發而來之濡面是何祥也皇后則知不得匿謀而悚恐伏地曲上兄王之反狀因以奏曰妾不能違兄王之志亦不得背天皇之恩告言則亡兄王不言則傾社稷是以一則以懼一則以悲俯仰唯咽進退而血泣日夜懷悒無所訴言唯今日也天皇枕妾膝而寢之於是妾一思矣若有狂婦成兄志者適遇是時不勞以成功乎茲意未竟眼涕自流則舉袖拭涕從袖溢之沾帝面故今日夢也必是事應焉錦色小蛇則授妾匕首也大雨忽發則妾眼淚也天皇謂皇后曰是非汝罪也
【四年の秋九月の朔が丙戌の戊申の日に、皇后の母方の兄狹穗彦王が、反逆を謀り、国家をそこなおうとした。それで皇后がくつろいで過ごしているところを見計らい、「お前の兄と私とどちらが愛しい」といった。それで、皇后意味が解らないで、「兄が愛しい」と答えた。それで皇后に、「顔の美しさで人に従うのは衰えたら寵愛する気持ちが緩む。天下には美人がたくさんいる。それぞれお互いに寵愛を求める。どうして、ずっと美しさを頼りに出来るのか。私が皇位に上ったら、きっとお前と天下を勝ち取れる。枕を高くして我が氏族は百年でも皇位を保てられる。痛快ではないか。お願いだから、私のために天皇を殺してくれ」とあいくちを渡して言った。それであいくちを取って皇后に授けて「このあいくちを身頃の中に忍ばせて、天皇が寢ている時に、頸を刺し殺せ」と言った。そこで、皇后は、おそれおののいて、どうしたらよいかわからなかった。このように兄王の意気込みを考えると、諫めることができなかった。それで、そのあいくちを受け取って、着物にしまい込み悩んで兄の気持ちを諫めることができなかった。五年の冬十月の朔が己卯の日に、天皇は、來目に行幸して、高宮に居た。その時に天皇が、皇后の膝枕で昼寝をしていた。そこで、皇后がなかなか事を成しとげられなかった。それで「兄王の反逆の実行は、この時」と虚ろな気持ちで思った。それで眼に涙を浮かべ、それが流れて帝の顔に落ちた。それで天皇は目覚めて、皇后に「私は今夢を見て、錦色の小蛇が私の首にまとわりついた。また大雨が狭穗から顔を濡らす夢は、何のきざしか」と語った。皇后は、それでもくろみを隠すことができないと知って、身もちぢまるほど恐れ入って、頭を地面につけて、詳しく、兄王の謀反の計画を上訴した。それは、「私は、兄王の気持ちに逆らうことができない。また天皇の恩に背くことができない。兄王を滅ぼすと言うことは国家の転覆を言わないということです。それで、恐れおののき、嘆き悲しんであるいは塞込み、あるいは天を仰いで喉を詰まらせて、身の振り方を考えてひどくむせび泣き悲しんでいます。一日中憂い胸に飛び込んで訴えることもできません。ただ今日、天皇が、私の膝枕して寝た。そこで、私は一時、「もし狂った女がいて、兄の思いを成し遂げようとするなら、丁度良いこの時に、骨折らずに目的を達成できる。この気持ちがずっと残って、涙が自然に流れてきた。それで、袖を目元に当てて涙をぬぐったけれども、零れ落ちて帝の顔を濡らしました。それで、今日の夢を見なさったのは、きっとこのためでしょう。錦色の小蛇は、私が授かったあいくちです。大雨がにわかに顔をうったのは、私の涙です」と思ったと言った。天皇は、皇后に「これはお前の罪ではない」と言った。】とあり、五年十月己卯朔は標準陰暦と合致し、四年秋九月丙戌朔は8月1日で一月違い、この年は5月が閏月でその影響かも知れない。
それ以外なら、紀元前119年か紀元後6年となり、時期的には紀元後6年頃の事件が妥当な気がする。
垂仁天皇の皇后の狹穗姫は坐王の娘で、後の皇后の日葉酢媛も坐王の孫だが、『古事記』では「日子坐王者遣旦波國令殺玖賀耳之御笠」と 坐王が丹波を征服しているのに、『日本書紀』は「丹波道主命遣丹波」と人名も違うが、丹波王が丹波を征服したと奇妙な記述になっている。
おそらく、この丹波道主は『古事記』の「美知能宇志王娶丹波之河上之摩須郎女生子比婆須比賣命次真砥野比賣命次弟比賣命次朝庭別王」とあるように美知能宇志王で、子が朝庭別王すなわち別王朝の天皇になったので、『古事記』と別の朝廷を記述した『日本書紀』との差に表れている。
すなわち、坐王が丹波を征服してその後継者の丹波王の沙本毘古と、「美知能宇志王娶丹波之河上之摩須郎女」のように地元の姫に婿入りした丹波道主の宇志王との戦いがこの記述で、宇志王が勝利した結果で、丹波王の坐王から垂仁天皇の義父の宇志王の丹波道主への変化である。
そして、『舊事本紀』に「弟十市根命此命纏向珠城宮御宇天皇御世賜物部連公姓」、同じく「弟大新河命此命纏向珠城宮御宇天皇御世元爲大臣次賜物部連公姓」と物部氏の賜姓説話が2つあり、十市根は「出雲國雖撿校其國神財而無分明奏言者汝親行于出雲國冝檢校定則十市根大連挍定神財分」のように物部氏の武諸遇と世代逆転及び重複して天皇の璽を分けてもう一人の「朝庭王」となった。
すなわち、狹穗姫説話は尾張氏の内部闘争説話で、大彦の娘と宇志王の子の朝庭別王という名の垂仁天皇の王朝が垂仁王朝で、別に十市根の別朝廷が存在した。
この時期に滋賀県守山市に伊勢遺跡という大規模な整然と神を祀ったような遺跡があり、心柱のある神殿で史書に出現する「太立宮柱」の名残で、近辺に野洲大岩山があって近畿式と三遠式の銅鐸が一緒に出土していて、遠方からの土器が集まる纏向遺跡には破壊された銅鐸があり、畿内は三角縁神獣鏡が多くつくられ、纏向遺跡は銅鐸を破壊して三角縁神獣鏡を造り墓に埋納したと思われ、二つの王朝がが存在したことを表している。
すなわち、銅鐸が出土する賀茂岩倉→畿内→伊勢遺跡という流れの王朝と、畿内纏向は巨大古墳や三角縁神獣鏡を祭祀の中心とした2王朝で、その後三角縁神獣鏡の出土が終わり、日向や吉備、和泉の巨大古墳に移行し、全て武内宿禰や葛城襲津彥・日向襲津彥、億計、弘計にゆかりの土地で、葛城氏の亜流の蘇我氏の政権奪取によって巨大前方後円墳が終わる
そして、『古事記』に「娶近淡海之御上祝以伊都玖天之御影神之女息長水依比賣生子丹波比古多多須美知能宇斯王」と宇志王は近淡海の姫を娶り、美知能宇斯王の弟は「水穂真若王者(近淡海之安直之祖)次神大根王者(三野國之本巣國造長幡部連之祖)」と近江の王や美濃の王になり、近江の中の「安」の王と呼んでいる。

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