2019年8月21日水曜日

最終兵器の目 垂仁天皇7 物部氏

  『舊事本紀』の神武東征は崇神天皇の事件を記述したと証明したが、『舊事本紀』は「宇摩志麻治」から皇位を垂仁天皇に引き渡す「十市根」までを神武東征とし、『日本書紀』は崇神紀に含んだ。
すなわち、4道侵攻から物部賜姓が『舊事本紀』の神武東征で、二世「宇摩志麻治命此命橿原宮御宇天皇御世元爲足尼次爲申食國政大夫奉齋大神活目邑五十呉桃女子帥長姫為妃」と活目邑の姫を妃にしているが、葛城氏が葦原中国で役職を得て活目入彦と名乗ったように活目邑は葦原中国の邑である。
弟彦湯支命 亦名木開足尼・・・出雲色多利姬為妾生一男淡海川枯姬為妾」と木国初代の王、出雲色多利姬は出雲色足姫と思われ出雲の「しこ」を統治する姫で近江にも地盤を築いた。
三世は「大祢命・・・弟出雲醜大臣命・・・大臣之号始起此時也倭志紀彦妹真鳥姬爲妻」と長男が禰宜の総大将で弟が皇太子の大臣で倭志紀彦すなわち、出雲の王の配下だから倭という接頭語が必要で、出雲醜(出雲色)が畿内に侵入し、これが『舊事本紀』の饒速日の次代だ。
倭志紀彦」も真鳥姬」も「醜」も襲名し「伊香色雄命」と伊賀の「醜」が「倭志紀彦」の娘の「真鳥姬」を妃にして、姉妹は崇神天皇の母であり武内宿禰の祖父の彦太忍信も生み、彦太忍信は木開宿禰(木国を開いた木国王)でもある。
四世は「弟出石心大臣命此命掖上池心宮御宇天皇御世爲大臣奉齋大神新河小楯姬為妻」と皇太子になった。
弟三見宿祢命・・・宿祢者始起此時也兒大水口宿祢命穂臣積栗女臣等祖出石心命子弟大矢口宿祢命此命・・・坂戸由良都姫爲妻生四兒」と出石心大臣が大王?となってその子が出身国の王である宿祢の名をもった。
五世は「欝色雄命此・・・大神活目長砂彦妹芹田真誰姬為妻生一兒」と活目邑から出ておらず、出雲醜大臣と同じ状況で、懿徳天皇と孝元天皇に「色」の国の内容を分散したことがわかり、「伊香色雄命」と「色」出身でも「穗積臣達祖欝色雄命」と物部氏と別王朝で欝色雄は伊勢遺跡の王となったのだろう。
そのため、兄弟も「大綜杵命此命輕境原宮・・・為大祢春日率川宮・・・爲大臣・・髙屋阿波良姫爲妻・・・弟大峯大尼・・・爲大尼供奉其大尼之起始發此時」と三世大尼の記述が五世に記述され、妃も珍彦の出身地髙屋の阿波の良姫を娶っている。
六世は「伊香色雄・・・石上邑則天祖授饒速日尊自天受來天璽瑞
寶同共蔵・・・神崇祠爲鎮則皇后太神臣奉齋神宮山代縣主祖長溝女真木姫爲妻・・・ 
山代縣主祖長溝女荒姫娣玉手並爲妾・・・倭志紀彦女真鳥姫爲妾」と 伊香色雄が天皇の璽を石上神宮に祀り自信を「神崇祠」の天皇崇神天皇として建元したような書き方で、武埴安から奪った山代に義父を王とし、垂仁の丹波道主の姫を娶った話に酷似する。
七世は「弟大新河命・・・爲大臣次賜物部連公姓則改爲大連・・・大連之號始起此時紀伊荒川戸俾女中日女爲妻」と皇太子から物部姓を賜姓された臣下で初めて大連の地位を得て紀伊国の皇女を娶っている。
ところが、「弟十市根命・・・賜物部連公姓元為五大夫一次為大連」と2つの物部賜姓が記述され、出雲国の宝の見分をしたのも、十市根と「八世孫物部武諸遇連公新河大連之子」のように新河の子の武諸遇も行って重複し、『日本書紀』に「物部連遠祖十千根大伴連遠祖武日」と 十市根と武日が五大夫だが、武諸遇も「武日照命從天將來神寶藏于出雲大神宮是欲見焉則遣矢田部造遠祖武諸遇命使分明檢定獻奉」と武日とセットである。
そして、十市根は「物部武諸遇連公女子時妓爲妻生五男弟建新川命倭志紀縣主等祖」と二世代後の人物を妃とし、弟が倭志紀縣主祖とここで神武東征説話が終わり、十市根宇摩志麻治が神武天皇に天皇の璽を渡して大夫として仕え、義弟の建氏新川が弟磯城である。
このように、名前から出身地や活躍した土地、地位と誰を娶ったかを分析することで、年代の齟齬や征服した土地がある程度理解できる。 

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