『日本書紀』慶長版は
「七年秋七月己巳朔乙亥左右奏言當麻邑有勇悍士曰當摩蹶速其爲人也強力以能毀角申鈎恒語衆中曰於四方求之豈有比我力者乎何遇協力者而不期死生頓得爭刀焉天皇聞之詔群卿曰朕聞當摩蹶速者天下之力士也若有比此人耶一臣進言臣聞出雲國有勇士曰野見宿祢試召是人欲當于蹶速即日遣倭直祖長尾市喚野見宿祢於是野見宿祢自出雲至則當摩蹶速與野見宿祢令捔力二人相對立各舉足相蹶則蹶折當摩蹶速之脇骨亦蹈折其腰而殺之故奪當摩蹶速之地悉賜野見宿祢是以其邑有腰折田之縁也野見宿祢乃留仕焉十五年春二月乙卯朔甲子喚丹波五女納於掖庭第一曰日葉酢媛第二曰渟葉田瓊入媛第三曰真砥野媛第四曰筋瓊入媛第五曰竹野媛秋八月壬午朔立日葉酢媛命爲皇后以皇后弟之三女爲妃唯竹野媛者因形姿醜返
於本土則羞其見返葛野自墮輿而死之故号其地謂墮國今謂弟國訛也皇后日葉酢媛命生三男二女第一曰五十瓊敷入彥命第二曰大足彥尊第三曰大中姫命第四曰倭姫命第五曰稚城瓊入彥命妃渟葉田瓊入媛生鐸石別命與膽香足姫命次妃筋瓊入媛生池速別命稚浅津姫命」
【七年の秋七月の朔が己巳の乙亥の日に、「當麻の邑にいさましくて強いりっぱな男子がいる。當摩の蹶速という。その人柄は、力が強く巧みに角を折り、曲がった鉤を申ばしてしまう。いつも群衆に『諸国を探しても、どこに私の力と比較できる者が居ようか。生きているうちに力自慢の人物に会って生死を賭けて、落ち着いて勝負をしたい』と言っていると持ち切りだ。」と皆が奏上した。天皇はそれを聞いて、群卿に「私は聞いたが、當摩の蹶速は、天下の力自慢だと。もしかしたらこの男と比較できる人物はいるのか」と詔勅した。一人の臣下が進み出て「私が聞いていて、出雲国に勇士がいて、野見の宿禰という。試しにこの人物を招集して、蹶速と戦わせては」と言った。その日に、倭直の祖の長尾市を派遣して、野見の宿禰を呼んだ。それで、野見の宿禰は、出雲からやってきた。すなわち當麻の蹶速と野見の宿禰と力の勝負をさせた。二人は向かい合って立ち、それぞれ足を挙げて互いにはね起きてそれで當摩の蹶速の脇骨を打ち砕いた。またその腰を打ち折って殺した。それで、當摩の蹶速の領地を奪って、全て野見の宿禰に与えた。これがその邑に腰折田が有る所以だ。野見の宿禰はそのまま留まって仕えた。十五年の春二月の朔が乙卯の甲子の日に、丹波の五人の女を呼んで、後宮に召しいれた。第一を日葉酢媛という。第二を渟葉田瓊入媛という。第三を眞砥野媛という。第四を薊瓊入媛という。第五を竹野媛という。秋八月の壬午が朔の日に、日葉酢媛命を皇后に立てた。皇后の妹の三人の女を妃とした。ただし竹野媛だけは、身なりが醜かったので、領地に返した。それでその返されたことを羞じて、葛野で何度も振り返り、自ら輿から墮ちて死んだ。それで、その地を墮国と名付けた。いま、弟国というのは訛ったものだ。皇后の日葉酢媛命は、男子三人との女子二人を生んだ。第一子を、五十瓊敷入彦命という。第二子を大足彦尊という。第三子を、大中姫命という。第四子を、倭姫命という。第五子を稚城瓊入彦命という。妃の渟葉田瓊入媛は、鐸石別命と膽香足姫命とを生んだ。次妃の薊瓊入媛は、池速別命・稚淺津姫命を生んだ。】とあり、標準陰暦と合致する。
出雲の野見宿禰というのは、宿禰すなわち出雲王のことで『舊事本紀』に「大田田祢古命亦名大直祢古命此命出雲神門臣女美氣姫為妻」と大国の王と呼んで、出雲神門臣の娘を娶り、野見宿禰は「野見宿祢是土部連等之始祖」で但馬を与えられて畿内の手元に置くというのは不可解で、これは丹波朝廷の手元で、丹波朝廷が畿内を制覇して仁徳紀に「倭屯田及屯倉而謂其屯田司出雲臣之祖淤宇宿祢」と大国宿祢で大田田祢古の孫が「大友主命此命同朝御世賜大神君姓」と大国の神もちろん国神は国王のことで、大神姓を得た。
また、渟葉田瓊入媛の子「鐸石別膽香足姫」は『古事記』では「沼羽田之入毗賣命生御子沼帯別命次伊賀帯日子命」と伊賀を治める王の伊賀帯日子で、「大彥命是・・・伊賀臣凢七族之始祖也」と伊賀帯日子が大彦と宇志王の孫で、『舊事本紀』に「八世孫倭得玉彦命亦云市大稲日命・・・伊我臣祖大伊賀彦女大伊賀姫生四男」と大伊賀彦は大彦のことと思われ倭得玉彦の子が垂仁天皇にあたるのだろうか。
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