2022年7月29日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』政務天皇類書

  『日本書紀』では景行朝で拡大した領域の国境・郡境・縣境・邑境を整備したとしている。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「若帯日子天皇坐近淡海之志賀高穴穂宮治天下也此天皇娶穂積臣等之祖建忍山垂根之女名弟財郎女生御子和訶奴氣王一柱故建内宿祢爲大臣定賜大國小國之國造亦定賜國國之堺及大縣小縣之縣主也天皇御年玖拾伍歳乙卯年三月十五日崩也御陵在沙紀之多他那美也」、【若帶日子天皇は近淡海の志賀の高穴穗宮で天下を治めた。

穂積臣の祖の忍山垂根の娘の弟財郎女を妃に、生んだ子が和訶奴氣王一柱で建内宿禰を大臣にして、大國小國の國造を定め、亦、國國の堺、及び大縣小縣の縣主を定めた。天皇は、玖拾伍歳乙卯の年の三月十五日に崩じ、陵は沙紀の多他那美に在る。」と訳した。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀』は続けて「成務天皇諱稚足彦尊者大足彦忍代別天皇第四太子也母皇后八坂入姬命即八坂入彦皇子之女也大足彦天皇四十六年立為太子年二十四六十年冬十一月大足彦天皇崩元年歳次辛未春正月甲申朔戊子皇太子尊即天皇位尊皇后曰皇太后尊皇太后追贈太皇太后物部膽吐宿祢為大臣也都志賀髙穴穗宮二年冬十一月癸酉朔壬午葬於大足彦天皇於倭國山道上陵三年春正月癸酉朔己卯以武内宿祢為大臣也四十八年春三月庚辰朔甥足仲彦尊立為皇太子大足彦天皇皇子日本武尊第二皇子之子也日本武尊娶兩道入姬皇女為妃生三男一女兒稻依別王犬上君武部君等祖次足仲彦尊次布忍入姬命次稚武王近江速部君祖宮道君祖妃吉備武彦女吉備穴戶武姬生二男兒武卯王讚岐綾君等祖次十城別王伊豫別君等祖妃穗積氏祖忍山宿祢女弟媛生九男兒稚武彦玉命尾津君揮田君武都次稻入別命次武養蝅命波多臣等祖次葦敢竈見別命竈口君等祖次息長田別命阿波君等祖次五十日彦王命讃岐君等祖次伊賀彦王次武田王尾張國丹羽建部君祖次佐伯命参川御使連等祖六十年夏六月己巳朔己卯天皇崩年百七歳凡王子十五之中十四男王一王女」、【成務天皇、諱は稚足彦で大足彦忍代別の第四子で、母の皇后は八坂入姫、八坂入彦の娘だ。大足彦の治世四十六年に、皇太子となり、二十四歳だった。六十年の冬十一月、大足彦天皇が崩じ、治世元年辛未年の正月甲申が朔の戊子の日、即位し、さきの皇后を皇太后とし、皇太后を尊んで大皇太后を追号した。物部胆咋宿祢を大臣に、志賀高穴穂宮に都を置いた。二年の冬十一月十日、大足彦天皇を倭国の山辺道上陵に葬った。三年の春七日、武内宿祢を大臣とし、四十八年の春三月一日、甥の足仲彦を皇太子とした。足仲彦は、大足彦天皇の皇子の日本武尊の第二皇子だ。日本武尊は、両道入姫皇女を妃とし、三男一女を生んだ。(以下略)】と訳した。

『日本書紀』の政務紀の天文学的朔と違う記述は四年春二月丙寅朔「自今以後國郡立長縣邑置首」と四十八年春三月庚辰朔「立甥足仲彦尊爲皇太子」で共に晦日である。

四年には既に国造や縣主が存在し、崇神天皇十年に「其選郡卿」、前667に「使邑有君村有長」と、熊襲にも伊都縣主がいたので、これは恐らく、都督の彦狹嶋王の「東山道十五國」に置いた説話で、元君子国の支配地なので臣ではなく君で、彦狹嶋・倭建が『古事記』「御火焼之老人續御歌・・・是以誉其老人即給東國造也」と国造を置いている。

また、四十八年は西暦202年から48年後の249年に倭奴国が都を変えた王を記述していると思われ、卑弥呼の男弟王若しくはその子と思われる熊襲の川上梟帥で、中国の元号と対応させて正しい朔となっていたが、景初3年12月に、景初3年1月を景初2年「後の12月」に変更し、景初3年1月を正始元年1月にしたためにズレたと思われ、この記述も1年前の説話の可能性が有る。

『三国志』に「壹與年十三」とあるが、天皇は20歳以上でないと即位できないが、皇太子は大王と呼ばれ、王は13歳以上で即位でき、この頃の倭国は朝廷でなく、名目上は伊都の高千穂宮朝に倭国の神子の日神子が存在したと思われ、国が纏まらない時、天皇の皇子・皇女を戴く各王家の様子が理解でき、卑弥呼・夏磯媛もその一人である。

また、成務天皇五年の境界は景初4年鏡が存在するように、すでに三角縁神獣鏡をたくさん作っているので、その鏡を使って邑や縣の境界を決めたと考えられ、椿井大塚山古墳は木国にある古墳で、朝廷の中心人物の古墳と思われ、鏡をたくさん所有する王は領地が広い王で、鏡が多く必要だったのだろう。

2022年7月27日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』景行天皇類書13『三國志』 東夷傳 倭人

 『三国志』「東夷傳 倭人」には「倭人在帶方東南大海之中依山㠀爲國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國從郡至倭循海岸水行韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里始一海千餘里對馬國・・・所居絶㠀方可四百餘里土地山險多深林道路如禽鹿徑有千餘戸無良田食海物自活乗船南北市糴又南一海千餘里名曰瀚海一大國・・・方可三百里多竹木叢林有三千許家差有田地耕田猶不足食亦南北市糴又一海千餘里末廬國有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沈没取之東南陸五百里伊都國・・・有千餘戸丗有王皆統屬女王國郡使往來常所駐東南至奴國百里・・・有二萬餘戸東行至不彌國百里・・・有千餘家南至投馬國水行二十曰・・・可五萬餘戸南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月・・・可七萬餘戸・・・正始・・・其八年太守王頎到官倭女王卑彌呼與狗邪國男王卑彌弓呼素不和・・・卑彌呼以死・・・立男王國中不服・・・復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王國中遂定」とある。

日本の古代史は「『史書はフィクション』なので信用しない」ことが原点で、史書を間違いと決めつけ、都合が良い所は信じるというスタンスで、人によって東・否南など信頼出来たり出来なかったと、真逆の論理がまかり通り、空論合戦で、将来、国を挙げての喜劇だったと笑われるだろう。

「邪馬台国」論争は史書を信用しないのなら空想の邪馬台国、存在しないかもしれない邪馬台国の首都を存在すると思い込んで都合のよい読み方で誘致して、いつの間にやら、邪馬台国は日本の首都と思い込んで、日本の首都探しを始め、首都なら遺跡を見れば大和に決まりで、年代測定をするだけでよく、これらの論争に対し、『東夷列傳』が正しい場合の論証や間違いの証拠も示さないとアンフェアで科学と言えない。

ところが、私は天文学的朔の日干支を調べて、中国史書は記録をそのまま記述していると証明し、日本の史書は記録を間違った場所に挿入したり、主語を書き換えていることを証明した。

そして、邪馬台国は中国史書が正しければ迷いなく検証すれば良く、『三國志』はありがたいことに、三百里四方の直系約15㎞のほゞ円形の壱岐島を記述し、百里は5㎞と解り、釜山影島灯台・対馬佐須奈間が53㎞で約千里、釜山影島灯台・対馬佐護湾・壱岐勝本間が150㎞で約三千里、対馬佐賀港・壱岐勝本間が53㎞で約千里である。

『三國志』は記録なので正しく、狗邪韓國・一大國千+千餘里には対馬の島内が含まれていない国境間距離と解り、佐須奈・佐賀港21㎞で四百里、勝本・印通寺間13㎞で三百里となる。

そして、一大國印通寺・末廬國西唐津間40㎞だが、「人好捕魚鰒水無深淺皆沈没取之」と海岸の様子を記述し、松浦半島を「循海岸水行」と沿岸航行していることが解るので、50㎞程度になり、また、末廬國は「草木茂盛行不見前人」と末廬國領内を歩いた形跡がない。

末廬國西唐津・伊都國深江23㎞で五百里、深江・今津14㎞で三百里、伊都國今津・不彌國磯辺海岸5㎞で百里、磯辺海岸・能古島灯台・大岳・唐の原18㎞で四百里、唐原川が国境で南は邪馬壹國・糟屋郡で、深江・宇土溜池14㎞で三百里、伊都國宇土溜池・奴國金武5㎞で百里、ところが、下線を引いたように「歴・渡・行」がない至の奴国は行路里程に入らないが、金武・箱崎18㎞四百里で多々良川が国境と考えられ、邪馬台國から行程無しで奴國に行ける 。

『三国志』韓伝に「韓在帶方之南東西以海爲限南與倭接方可四千里」、「郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里」と京畿道・江原道・慶尚北道・忠清南道が200㎞の四千里四方でその南部は南北150㎞の三千里で郡から釜山まで350㎞の七千里で国境が接する「歴韓國乍南乍東」の領内陸行里程で仁川・釜山影島灯台間は350㎞の七千里である。

そして、渡行千里で対馬、歴対馬島内四百里、渡千里で壱岐、歴壱岐島内三百里、渡千里で末廬國、末廬國領内は歴行せず、東南陸行五百里で伊都國、歴伊都國領内三百里、東南奴國と歴行なしで行程に入らず、東行百里で不彌國、不彌國領内歴四百里、邪馬台国との国境は川幅で既に邪馬台國に到着し、壱岐・対馬で一国の領内三~四百里と示した。

千餘家の不彌國は能古島・志賀島・海の中道の千餘家で南に奴國二萬餘戸、邪馬台國七萬餘戸があり、地形もよく合い、全行程万二千里となり、一番直近の『日本書紀』も200年頃香椎宮と証言し、論理的に検証すれば、邪馬台国論争などと大騒ぎする必要など全く無い。

2022年7月25日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』景行天皇類書12『後漢書』

 『後漢書』「東夷列傳 倭」は「倭在韓東南大海中依山爲居凡百餘國自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國・・・建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見桓・靈閒倭國大亂更相攻伐 歴年無主有一女子名曰卑彌呼年長不嫁事鬼神道能以妖惑衆於是共立爲王侍婢千人少有見者唯有男子一人給飲食傳辭語居處宮室・樓觀・城柵皆持兵守衞法俗嚴峻自女王國東度海千餘里至拘奴國雖皆倭種而不屬女王・・・會稽海外有東鯷人分爲二十餘國又有夷洲及澶洲傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海求蓬萊神仙不得徐福畏誅不敢還遂止此洲丗丗相承有數萬家人民時至會稽市會稽東冶縣人有入海行遭風流移至澶洲者所在絕遠不可往來」とある。

神夏磯媛其徒衆甚多(邪馬)一國之魁帥也」と邪馬一國王の卑弥呼は神夏磯媛と述べたが、景行12年西暦82年では時代が異なり、同様に、『三国史記』で阿達羅尼師今二十年「夏五月倭女王卑彌乎遣使來聘」と西暦173年に記述されていたが、この時期は桓・靈間で主が無く、『三国史記』の挿入間違いで215年奈解尼師今二十年が正しいと考えられたが、景行12年も纏向の不明の宮12年、仲哀天皇・神功皇后12年の202年なら、卑弥呼即位の年で良く合致する。

邪馬台国は『三國志』の「邪馬壹國女王之所都」と女王国の首都だが、『後漢書』は邪馬台国に大倭王がいて、卑弥呼は倭女王と述べ、西暦173年では幼少だが桓・靈後の190年頃の後漢時代はまだ邪馬壹國王ではなく、那の津の伊襲の媛で、大倭王が、東の拘奴國の菟狹川の川上の鼻垂、 御木(山国)川の川上の耳垂、高羽川の川上の麻剥、緑野川の川上の土折猪折を滅ぼし、長峽縣を京にした。

この大倭王は穴門を首都にしていて、糟屋の山田の伊野皇大神宮の王である邪馬台国の国の男王を追い出して、香椎宮に来ていたことが解り、199年壹與の祖父五十迹手に統治を任せたが、纏まらず、202年五十迹手の娘婿の姉の壹国女王の夏磯媛・卑弥呼が熊襲・倭奴國を統治したと思われる。

『三國志』では「南有狗奴國」と狗奴國を御笠・層増岐野・山門縣に追い詰め、「其八年太守王頎到官倭女王卑彌呼與狗邪國男王卑彌弓呼素不和遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢拜假難升米爲檄告喩之」、『桓檀古記』「高句麗國本紀」に「狗奴人與女王相爭索路甚嚴其欲往狗邪韓者蓋由津島」と正始八年西暦247年の争いが邪馬壹國の南の狗奴國との戦いと理解し対馬(狗邪國)行路争奪戦としている。

そして、大倭王が卑弥呼の弟と思われる伊覩縣主(日縣主→日国造)の祖の五十迹手を伊蘇子すなわち伊蘇の天子・神子・(伊都國官曰爾支)として、『三国志』に「國國有市交易有無使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史」と一大率を任せたと考えられる。

そして、同じ年に火国造の祖の「市鹿文」を記述したのは、202年が卑弥呼元年なので、その景行12年に壹與元年の記事を当て嵌めたと考えられ、卑弥呼は「不嫁」と子が無く、火国造の祖では有り得ず、男弟王かその子が熊襲梟帥で娘が市鹿文・壹與なら筋が通る。

東鯷國は『漢書』から記述されているので、輕・春日・磯城・纏向宮にあった政権に当たり、夷洲は『日本書紀』記述者が夷と表意文字を使った蝦夷の国が相当すると思われ、倭建・彦狭嶋が遠征した燒遣や科野、国造となった能等以東が夷州である。

大倭王は三国(神国)王が尾張政権により大国、出雲へと遷り、「出雲臣之遠祖出雲振根至于神寶是徃筑紫國而不遇矣」と天皇の璽を持つ出雲振根は筑紫に出かけていて、まさに、大倭王が出雲振根の家系で、三国王建飯勝と出雲臣の娘の沙麻奈姫の子孫の大物主の子が大田田(大直)祢古(根子)、すなわち、大国の田の田根子、大田の天子で、大国王、大物主の娘婿が若御毛沼で大国将軍・大帯彦、大帯彦が豊国に出兵し、中臣氏は田根子→種子→中臣(中国王)と引き継がれたと思われる。

2022年7月22日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』景行天皇類書11まとめ

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は『天孫本紀』は「十三世孫尾綱根命此命譽田天皇御世爲大臣供奉妹尾綱真若刀婢命此命嫁五百城入彦命生品色真若王次妹金田屋野姫命此命嫁甥品色真若王生三女王則高城入姫命次仲姫命次弟姫命此三命譽田天皇並爲后妃誕生十三皇子姉髙城入姫命立爲皇妃誕生三男皇子額田部大中彦皇子次大山守皇子次去來真稚命子妹仲姫命立爲皇后誕生二男一女皇子荒田皇女次大萑天皇次根鳥皇子妹弟姫命立爲皇妃誕生五女皇子阿倍皇女次淡路三原皇女次菟野皇女次大原皇女次滋原皇女品太天皇御世賜尾治連姓爲大江大連勑尻納連日汝自腹所産十三男子等汝戀養日足奉耶時連爲大歡喜之巳子誰彦連外妹毛良姫二人定壬生部于今奉久三口此連名請連名談二人以字辰枝中今案此民部三孫今在伊(?)國云云十四世孫尾治弟彦連次尾治針名根連次意乎巳連此連大萑朝御世爲大臣供奉」、「十世孫淡夜別命大海部直等祖弟彦命之子次大原足屋筑紫豊國國造等祖置津與曽命之子次大八椅命甲斐國造等祖彦與呂命之子次大縫命次小縫命十一世孫手止與命此命尾張大印岐女子真敷刀俾生一男十二世孫建稲種命此命迩波縣君祖大荒田女子玉姫爲妻生二男四女」、とあり、系図なので訳は省略した。

師木水垣宮朝廷は坐王→沙本毘古→丹波比古多多須美知能宇斯(→印色入日子→十市根)と水之穗眞若・豐木入日子と屋主忍男武雄心との三朝廷に分裂し、十市根は纒向珠城宮で膽咋宿禰→五十琴宿祢と続き、 水之穗眞若・豐木入日子は師木玉垣宮で→意富多牟和氣・曙立→五百木之入日子→品陀真若王→尾綱根と続き、志賀高穴穗宮は屋主忍男武雄心・八坂入日子・大入來→意富多牟和氣→大陀牟夜別→息長宿祢→多遅麻→山無媛と継ったと思われる。

景行天皇五八年の高穴穗宮遷都は意富多牟和氣が彦狭嶋の死で皇太子になった五百木之入日子のクーデタで皇位を奪われた事件だったと考えられ、尾張氏は坐王が倭得玉彦、 沙本毘古が大伊賀姫の子の彦與曽、 丹波比古多多須美知能宇斯が弟彦で、水之穗眞若・豐木入日子が「大海部直等祖弟彦命之子」の淡夜別と思われる。

更に、息長宿祢が建稲種、意富多牟和氣は穴穂に遷って、穴太足尼、足尼は王なので志賀高穴穂天皇と良く合致し、乎止与の妃が「尾張大印岐女子真敷刀俾」と、意富多牟和氣の義父の大入來とよく似て合致しそうで、建稲種の娘の尾綱真若刀婢は息長帯姫と思われ、その父の息長宿祢王の妃は「迩波縣君祖大荒田女子玉姫」で、息長宿祢王は襲名した忍山垂根と考えられ、忍山宿祢の娘の弟媛が尾張國丹羽建部君の祖の武田王を生んでいるので、迩波縣君の祖と良く合致する。

師木朝廷は「意乎巳連此連大萑朝御世爲大臣」と難波朝で退位して、難波に首都がある時、天皇の称号根子を持つ和珥臣祖難波根子武振熊が存在し、武振熊が天皇となって、その後、去來穗別達に奪取され、淡海朝廷は「印葉連公為大臣」とあるように、多遅麻から山無媛→雌鳥皇女→近江山君稚守山・磐坂媛と受け継がれたが、佐伯直阿俄能胡と平群氏によって滅ぼされたと考えられる。

そして、首都の宮は前97年師木水垣で坐王が即位し、前38年に屋主忍男武雄心が淡海で朝廷を開き、前29年弟彦の纒向珠城宮と豐木入日子の師木玉垣宮に分裂し、71年に十市根が纒向珠城宮、128年意富多牟和氣が師木玉垣宮を出、131年大陀牟夜別が志賀高穴穗宮を引継ぎ、128年五百木之入日子が師木玉垣宮で即位し、雄略天皇の時代に『古事記』「堅魚作舎者誰家荅白志幾之大縣主家尓」と五百木之入日子を継いだ大倭王が住んでいた。

活目と豐城の御諸山での夢見による後継争いは倭国の立太子の日付の説話で、この事件は前33年崇神65年から前29年垂仁元年まで続いた弟彦と豐木入日子の戦乱だったと思われ、纏向の滅亡は神功十三年213年に神功元年生まれの13歳の太子が太子に就く宴会があったと記述された。

この太子は応神天皇ではなく、磐余稚櫻宮の皇太子と思われ、纏向朝廷はこの時までは継続し、磐余稚櫻宮で皇太弟だった五十琴宿祢が即位したと思われ、記事はこれ以降朝鮮記事である。

2022年7月20日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』景行天皇類書10

  前項に続きである。

纏向宮天皇大中日子は咋俣長日子の娘の飯野真黒比賣の子で、咋俣長日子は『舊事本紀』「穗積氏祖忍山宿祢女弟橘媛」の孫で河派仲彦と同一人物にしているが河派仲彦は応神天皇の子の稚野毛二派王の祖父で世代が異なり、穂積氏の媛の系図の挿入間違いと思われる。

『古事記』では尾張氏が天皇の時、筆頭の妃が葛城氏の妃、次が尾張氏の妃、次が他の王の妃を記述してきたが、葛城天皇孝元天皇の妃が葛城氏の妃の内色許賣、すると、次の妃が尾張氏の妃の可能性が高く、尾張氏では倭得玉彦が大伊賀姫を妃にしていて、その子が比古布都押之信で、「比古布都押之信命娶尾張連等之祖意富那毗之妹葛城之高千那毗賣」、「大海姫命亦名葛󠄀木髙名姫命」と大海姫を妃にし、比古布都押之信の子の屋主忍男武雄心は八坂入日子にあたる。

また、八坂入日賣は『日本書紀』では淡海天皇と五百木之入日子の『古事記』で記述する二人の太子を生んで、五百木之入日子が仲哀天皇と考えられ、『古事記』では布多遲能伊理毘賣が仲哀天皇を生んでいるが、弟苅羽田刀辨が息長宿禰の母の遠津臣の高材比賣と証明され、石衝別が息長宿祢、石衝毘賣・布多遲能伊理毘賣が八坂入日賣で五百木之入日子を生んでいる。

倭得玉彦の子の一人が比古布都押之信と書いたが、比古布都押之信は山代の内臣を生んでいて、比古布都押之信は坐王の子の山代の大筒木眞若王にあたると思われ、山代之大筒木眞若王の妃は同母弟伊理泥で大海姫を襲名した阿治佐波毘賣、子の迦迩米雷は遠津臣紀伊國荒河戸畔の娘、弟苅羽田刀辨の子で、この弟苅羽田刀辨が中日女と間違えられ、子が息長田別とされたと思われる。

息長氏は淡海の坂田の王で、正統の息長王宿禰と分国した王の田別でどちらも「たけもろずみ」を襲名したと考えられる。

息長田別王は『舊事本紀』「息長田別命阿波君等祖」と記述され、その子が咋俣長日子、淡海天皇の妃が『古事記』「穂積臣等之祖建忍山垂根之女名弟財郎女」と穂積臣を受け継ぐ屋主忍男武雄心の子の息長宿禰の娘と考えられ、意富多牟和氣と八坂入日賣の子の五百木之入日子と大陀牟夜別、意富多牟和氣と柴野比賣の子の倭建・彦狭嶋、及び纏向天皇膽咋宿禰と穴太足尼・息長宿禰・建忍山垂根の娘の弟財郎女の子の五十琴宿祢が皇太子と呼ばれた。

さらに、息長宿禰は河俣氏の稻依毘賣を妃に大多牟坂王を生んでいるので、稻依毘賣の父の河俣氏が淡海天皇・穂積氏を受け継ぎ、それが多遅麻で娘が宮主の山無媛、息長田別の阿波君は淡()君と解り、すなわち、淡海朝廷は出雲三国王朝の寶を得た建諸隅→屋主忍男武雄心・八坂入日子→大入杵と意富多牟和氣→大陀牟夜別→弟財郎女→息長宿禰→息長宿禰の妃の稻依毘賣→咋俣長日子・多遅麻と皇位を継承した。

2022年7月18日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』景行天皇類書9

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「自其幸行而到能煩野之時思國以歌曰夜麻登波久尓能麻本呂婆多多那豆久阿袁加岐夜麻碁母礼流夜麻登志宇流波斯又歌曰伊能知能麻(曽多)祁牟比登波多美許母幣具理能夜麻能久麻加志賀波袁宇受尓佐勢曽能古此歌者思國歌也又歌曰波斯祁夜斯和岐幣能迦多用久毛韋多知久母此者片歌也此時御病甚急尓御歌曰袁登賣能登許能弁尓和賀游岐斯都流岐能多知曽能多知波夜歌竟即崩尓貢上驛使於是坐倭后等及御子等諸下到而作御陵即制()匐廻其地之那豆岐田而哭爲歌曰那豆岐能多能伊那賀良迩伊那賀良迩波比母登富呂布登許呂豆良於是化八尋白智鳥翔天而向濵飛行尓其后及御子等於其()小竹之苅我()雖足䠊破忘其痛以哭追此時歌曰阿佐士怒波良許斯那定()牟蘇良波由賀受阿斯用由久那又入其海塩而那豆美行時歌曰宇美賀由氣婆許斯那豆牟意富迦婆良能宇恵具佐宇美賀波伊佐用布又飛居其磯云()時歌曰波麻都知登理波麻用波()迦受伊蘇豆多布是四歌者皆歌其御葬也故至今其歌者歌天皇之大御葬也故自其國飛翔行留河内國之志幾故於其地作御陵鎮坐也即号其御陵謂白鳥御陵也然亦自其地更翔天以飛行」、【そこから、能煩野に着いた時、国を思って歌()った。又歌()った。この歌は国思い歌だ。又、歌()った。これは片歌だ。この時、病が急変した。そこで歌()った。そこで驛使を送った。そこで倭(野洲)にいる后や子等が、其々下ってきて、陵を作って、そこの那豆岐田で、哭いて歌()った。そこで八尋の白鳥になって、天に翔て濱に向って飛んで行った。そこで后や子等は、その小竹の苅杙で、足を切って傷ついても、その痛さを忘れて哭いて追った。この時に歌()った。又、その海鹽に入ってとどまらず行った時に、歌()った。又、飛び乗って水辺の岩に居た時に、歌()った。この四歌は、皆、その葬儀で歌った。それで、今に至るまでその歌は、天皇の葬儀に歌う。それで、その国から飛び翔けて行き、河内国の志幾に留まった。それで、そこに陵を作って鎮魂した。それでその御陵を、白鳥陵と言う。しかし、亦、そこから更に、空を翔て飛んで行った。】と訳した。

ここの、白鳥陵は恐らく、倭建の后は既に死んでいて、後継は記述していないので、もう一人の太子の五百木之入日子の陵と考えられ、后は『舊事本紀』に「尾綱真若刀婢命此命嫁五百城入彦命生品陀真若王」と尾綱真若刀婢で、夫の陵が河内惠賀長江陵(河内国の志幾)と考えられ、追葬されたのだろう。

太子のまゝ死亡する皇子には忍熊王がいて、「沈瀬田濟而死之」と野洲の南で薨じ、太子五百木之入日子は八坂入日賣の子で、五百木之入日子は尾綱真若刀婢を妃に品陀真若を生み、これがおそらく、輕島明(実際は河内志幾)宮天皇で、纏向は3世紀始め、遅くとも中頃には廃虚になるのだから、忍熊王が薨じて滅び、203年に尾綱根・金田屋野姫兄弟が住む輕島明宮に遷都し、品陀真若の娘が尾綱根の妃になったと考えられる。

すなわち、皇位は建沼河別→沙本毘古で淡海朝屋主忍男武雄心と師木朝丹波道主弟彦が分裂し→印色入日子と近淡海安直の祖の水之穗眞若と朝廷が分裂し、纏向宮天皇大中姫→十市根→膽咋宿禰→五十琴宿祢→五十琴彦が皇位を継ぎ、師木天皇水之穗眞若→意富多牟和氣が淡海遷都→大陀牟夜別→多遅麻、師木天皇意富多牟和氣→五百木之入日子→品陀真若→尾綱根と師木天皇を受け継いだと思われる。

大中日子は倭建と『日本書紀』「弟橘媛穗積氏忍山宿禰之女」の子の『古事記』に「若建王娶飯野真黒比賣生子須賣伊呂大中日子王」とあるように、若建王と「杙俣長日子王此王之子飯野真黒比賣」のように咋俣長日子の娘の飯野真黒比賣の子で、「大中日子王此王娶淡海之是柴野入杵之女此柴野比賣生子迦具漏比賣命」と『日本書紀』に記述されない大入杵の娘柴野比賣の子が迦具漏比賣、倭建の曽孫の夫と倭建の孫が皇太弟で、倭建は其々の年代で皇太子を生んだ武諸隅の末裔の説話をまとめた存在と考えられる。

また、淡海朝は「大入杵命者能登臣之祖」、『舊事本紀』に「能等國造・・・活目帝皇子大入來命孫彦狹嶋命定賜國造」と豐木入日子の孫と記述するように大入來が共に祖父なのだから、「水穂真若王者近淡海之安直之祖」、子が「近淡海之安國造之祖意富多牟和氣」で八坂入日賣を妃にして、孫が『舊事本紀』に「淡海國造・・・彦坐王三世孫大陀牟夜別定賜國造」と淡海天皇で、分朝廷が八坂入日賣の子の五百木之入日子が太子の師木朝廷で、景行五八年の「居志賀三歳是謂高穴穗宮」で意富多牟和氣・曙立王と五百木之入日子の朝廷分裂が起こったようだ。

2022年7月15日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』景行天皇類書8

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「自其國越科野國乃言向科野之坂神而還來尾張國入坐先日所期美夜受比賣之許於是獻大御食之時其美夜受比賣捧大御酒盞以獻尓美夜受比賣其於意須比之襴著月經故見其月經御歌曰比佐迦多能阿米能迦具夜麻斗迦麻迩佐和多流久毗比波煩曽多和夜賀比那袁麻迦牟登波阿禮波須禮杼佐泥牟登波阿禮波意母閇杼那賀祁勢流意須比能須蘇尓都紀多知迩祁理尓美夜受比賣荅御歌曰多迦比流迦比能美古夜須美斯志和賀意富岐美阿良多麻能登斯賀岐布禮婆阿良多麻能都紀波岐閇由久宇倍那宇倍那宇倍那岐美麻知賀多尓和賀祁勢流意須比能須比能須蘇尓都紀多多那牟余故尓御合而以其御刀之草那藝劔置其美夜受比賣之許而取伊服岐能之神幸行於是詔茲山神者從()手直取而騰其山之時白猪逢于山邊其大如牛尓爲言舉而詔是化白猪者其神之使者雖今不殺還時將殺而騰坐於是零大氷雨打或()倭建命(此化白猪者非其神之使者當其神之正身因言舉見成())故還下坐之到玉倉部之清泉以息坐之時御心稍寤故号其清泉謂寤居清泉也自其處發到當藝野上之時詔者吾心恒念自虚翔行然今吾足不得歩成當藝斯形故号其地謂當藝也自其地差少幸行固()甚疲衝御杖稍歩故号其地謂杖衝坂也到坐尾津前一松之許先御食()時所忘其地御刀不失猶有尓御歌曰袁波理迩多陀迩牟迦弊流袁都能佐岐那流比登都麻都阿勢袁比登都麻都比登迩阿理勢婆多知波氣麻斯袁岐奴岐勢麻斯袁比登都麻都阿勢袁自其地幸到三重材()之時亦詔之吾足如三重勾而甚疲故号其地謂三重」、【その國から科野國を越えて、科野の坂の神を屈服させ、尾張國に還り、先の日に約束した美夜受比賣の許に入った。そこでご馳走を献上した時、美夜受比賣が、大酒盞を捧げて献上した。そこで美夜受比賣の裾に、経血が著いていた。それで、経血を見て歌()った。そこで、美夜受比賣が、歌に答へて歌()った。それで、召して、草那藝剱を、美夜受比賣の許に置いて、伊吹山の神を打ち取りに行った。「この山の神は、素手で直接取り押さえよう。」と言って、山に登った時、白猪と山の邊で逢った。その大きさは牛の様だった。そこで、「この白猪に化けたのは、神の使者だ。今殺さなくても、還る時に殺そう。」と声に出して言って、山を登った。それで大氷雨を零らして、倭建を惑わした。この白猪に化けたのは、神の使者でなくて、その神そのもので、言葉を聞いて惑わせた。それで、還り下って、玉倉部の清泉について休息して、煩わしさが覚めた。それで、その清泉を、居寤の清泉と言う。そこを経て、當藝野に着いた時、「私は、いつも空を翔けていきたいと思っている。今私の足が動かず歩けなくて、足もとがおぼつかない。」と言った。それで、そこを當藝という。そこから少し行くと、とても疲れて、杖を衝いて少しずつ歩いたので、そこを杖衝坂という。尾津の前の一つ松の許に着いた時、先に食事をした時に、そこに忘れた刀が、無くならずに有った。そこで歌()った。そこから、三重村に着いた時、亦、「私の足は三重の曲がりのようにとても疲れた。」と言った。それで、そこを三重と言う。】と訳した。

ここでの道のりは伊賀(瀧樹)・守山(小津)・菰野(三重郡)と野洲の西南部の地名説話及び息長氏の地元の坂田郡東部の伊吹山・醒ヶ井の地名説話と考えられ、倭建説話が、各地の王の事績を入れ込んだ説話、この複数の王の事績を、ある王に差し込んだ説話集が日本の史書だと言う事が理解できたと思う。

250年頃の壹與の説話、前40年頃の出雲振根の説話、120年頃の皇太子倭建・彦狭島の説話などを、人物も時代も違う、4代も前、100年も前の初代倭建の親や妃すら変更してまとめ、この方法が日本の古代史書の編集方法である。

倭建の妃は、河内王の倭建なら橘姫、山背弟国王の倭建なら弟橘姫と名前すら変更し、そのため、史実を検証する時は、間違いの朔の日付記事は他王の説話、地名が有る場合はその土地の王の事績をまず考えることが必要で、日本では、『日本書紀』を絶対視して中国史書が間違いとしてきたが、天文学的朔の日干支検証で、中国史書が正しく、『日本書紀』は今述べた通り、内容は正しくても、人名や時代が異なる事を頭に入れて、検証しなければならない。

従って、この野洲近辺の説話は息長氏が野洲王の時の天之御影神の説話で、猪を神と祀る人々の神話、すなわち、野洲に記録が無い時代の説話だと理解するべきで、神話はご当地の民謡で、それが、史書によって全国に広まったのである。

2022年7月13日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』景行天皇類書7

 『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「悉言向和平山河荒神及不伏人等故尓到相摸()國之時其國造詐白於此野中有大沼住是沼中之神甚道速振神也於是看行其神入坐其野尓其國造火著其野故知見欺而解開其姨倭比賣命之所給嚢口而見者火打有其裏於是先以其御刀苅撥草以其火打而打出火著向火而焼退還出皆切滅其國造等即著火焼故於今謂焼遣也自其入幸渡走水海之時其渡神興浪廻舩不得進渡尓其后名弟橘比賣命白之妾易御子而入海中御子者所遣之政遂應覆奏將入海時以菅疊八重皮疊八重娟()疊八重敷于波上而下坐其上於是其暴浪自伏御舩得進尓其后歌曰佐泥佐斯佐賀牟能袁怒迩毛由流肥能本那迦迩多知弖斗比斯岐美波母故七日之後其后御櫛依于海邊乃取其櫛作御陵而治置也自其入幸悉言向荒夫琉蝦夷等亦平和山河荒神等而還上幸時到足柄之坂本於食御粮處其坂神化白鹿而來立尓即以其咋遺之蒜片端待打者中其目乃打殺也故登立其坂三歎詔云阿豆麻波夜故号其國謂阿豆麻也即自其國越出甲斐坐酒折宮云()時歌曰迩比婆理都久波赤()須疑弖伊久用加泥都流尓其御火焼之老人續御歌以歌曰迦賀那倍弖用迩波許々能用比迩波登袁加袁是以誉其老人即給東國造也」、【天皇は、亦、重ねて倭建に、「東方の十二道のあらぶる神、また、まつろはぬ者共を言向けて平定しろ。」と言って、吉備臣の祖の、御鋤友耳建日子をそえて派遣した時、比比羅木の八尋矛を与えた。それで、命を受けて行く時、伊勢の大神の宮に參り、神の朝廷を拜んで、姨の倭比賣に、「天皇は既に私に死ねと思うのか、何故か西方の悪人達を撃つよう派遣してから、まだ幾時も経ずに、軍勢も無しに、更に、東方の十二道の悪人達を平げるよう派遣した。これは、私にもう死ねと言っているようなものだ。」と言って、患い泣き、出発する時に、倭比賣は草那藝劒を渡し、亦、嚢を与えて、「もし急の事が有ったら、嚢の口を解きなさい。」と言った。それで、尾張國について、尾張國造の祖の美夜受比賣の家に入った。召そうろ思ったが、還り上る時に召そうと思って、約束して東國に行き、山河の荒ぶる神、及、屈服しない人等を服従させた。それで、相武國についた時、その國造が「この野の中に大沼が有る。この沼の中に住む神は、とても強暴な神だ。」と偽った。それでその神を見つけようと、その野に入った。そこで、その國造が、火を野に着けた。それで、騙されたと知って、姨の倭比賣から貰った嚢の口を解き開けて見たら、火打がその中に有った。それで、先ず、刀で草を苅り掃って、火打で火を打ち出して、向火を点けて焼いて退けて、還って國造達を切り滅して、火を点けて焼いた。それで、今焼津という。さらに幸して、走水の海を渡った時、渡の浪を引き起こして、船で渡ることが出来なかった。それで后の弟橘比賣は「私は、あなたに代わって海の中に入ります。あなたは派遣された命を遂げて覆奏して。」と言って、海に入る時に、菅疊八重、皮疊八重、絁疊八重を波の上に敷いて、その上に下りて座った。すると荒波は凪いで船が進むことが出来た。そこで后が歌()った。それで、七日の後に、その后の櫛が海邊に有った。それでその櫛を取って、陵を作って納めた。さらに幸して、暴れる蝦夷達を屈服させ、亦、山河の暴れる神等を平定して、還る時、足柄の坂本について、食料を食す處で、その坂の神が、白い鹿に化けて来て立った。咋い遣した蒜の端で、打つと、目に当て打ち殺した。それで、その坂に登り立って、三度歎いて、「あづまはや。」と言った。それで、その國を阿豆麻と言う。それでその國を越えて、甲斐に出て、酒折宮にいた時、歌()った。そこで、火焚の老人が続けて歌()った。それで老人を褒めて、東國造を与えた。】と訳した。

この説話の主人公が伊勢品遲部君祖曙立の子彦狹嶋なら、この伊勢は淡海伊勢遺跡で、彦狹嶋は分朝廷の皇太子で都督、すなわち、東国12国では天皇と同等なので、国造を任命できた。

『常陸國風土記』の「倭武天皇巡狩東夷之国幸過新治之県所遣国造毘那良珠命」、「倭武天皇 巡幸海浜行至乗浜」、「桑原岳昔倭武天皇停留岳上進奉御膳時、「所以称行方郡者 倭武天皇巡狩天下征平海北」、「当麻之郷古老曰倭武天皇巡行過于此郷」、「有波須武之野倭武天皇停宿此野修理弓弭因名也」、「倭武天皇坐相鹿丘前宮此時」、「倭武天皇之后大橘比売命」等々の倭武天皇の記述が有る。

これは、国造は領地では天皇と考えていたと考えられ、都督も三国時代以降の役職とされ、矛盾するが、『日本書紀』記述時に複数の国を統治する役職の表意文字として都督という文字を割り当てたと考えられる。

2022年7月11日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』景行天皇類書6

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「然而還上之時山神河神及穴戸神皆言向和而参上即入坐出雲國欲殺其出雲建而到即結友故竊以赤檮作詐刀爲御佩共沐肥河尓倭建命自河先上取佩出雲建之解置横刀而詔爲易刀故後出雲建自河上而佩倭建命之詐刀於是倭建誹()云伊奢合刀尓各抜其刀之時出雲建不得抜誰()刀即倭建命抜其刀而打殺出雲建尓御歌曰夜都米佐須伊豆毛多祁流賀波祁流多知都豆良佐波麻岐佐味那志尓阿波祁故如此撥治参上覆奏尓天皇亦頻詔倭建命言向和平東方十二道之荒夫琉神及摩都楼波奴人等而副吉備臣等之祖名御鋤友耳建日子而遣之時給比比羅木之八尋矛故受命羅()行之時参入伊勢大御神宮拝神朝廷即白其姨倭比賣命者天皇既所以思吾死乎何撃遣西方之悪人等而返参上來之間未經幾時不賜軍衆今更平遣東方十二道之悪人等因此思惟猶所思者()吾既死焉患泣罷時倭比賣命賜草那藝剣()亦賜御嚢詔而若有急事解茲嚢口故到尾張國入坐尾張國造之祖美夜受比賣之家乃雖思將婚亦思還上之時將婚期定而幸于東國」、【それで還った時、山の神、河の神、及び、穴戸の神を、皆、服従させて參上した。即ち出雲國に入って、出雲建を殺そうと思って、友となった。それで、密かに赤梼で、偽刀を作り、身に着けて、共に肥河で沐浴をした。そこで、倭建は、河から先に上って、出雲建が解いて置いた横刀を身につけて、「刀を取り換えよう。」と言った。それで、後で出雲建が河から上って、倭建の偽刀を帯びた。そこで倭建が、「いざ刀を合そう。」と挑んで言った。そこで、其々の刀を拔いた時、出雲建は偽刀を拔くことが出来なかった。それで倭建は刀を拔いて出雲建を打ち殺した。そこで歌()をよんだ。それで、このように打ち払って復命した。天皇は、亦、重ねて倭建に、「東の方十二道のあらぶる神、また、まつろわぬ者達を屈伏して平定しろ。」と言って、吉備臣の祖の、御鋤友耳建日子を一緒に派遣した時、比比羅木の八尋矛を与えた。それで、命を受けて行った時、伊勢の大神の宮に參り、神の朝廷を拜んで、姨の倭比賣に、「天皇は既に私に死ねと思うのか、何故か西方の惡人等を撃つよう派遣して、返ってから、まだ幾時も経ずに、軍勢も無しに、今更に、東の方十二道の惡人達を平げるよう派遣した。このため、私にもう死ねと思っているに違いない。」と言って、うれいた。出発する時に、倭比賣は草那藝劒を渡し、亦、嚢を与えて、「もし急の事が有ったら、嚢の口を解きなさい。」と言った。それで、尾張國について、尾張國造の祖の美夜受比賣の家に入った。乃ち、召そうと思ったが、還る時に召そうと思って、約束して東國に行き、山河の荒ぶる神、及、屈服しない人達を服従させた。】と訳した。

この説話は、倭比賣が大神を伊勢に祀ったのが垂仁二五年で、出雲の神寶の検校が二六年とあり、景行四十年の記事では時代背景に矛盾するが、纏向珠城四十年・垂仁四十年なら理に適う。

また、『日本書紀』では出雲振根が飯入根を全く同じ方法で殺害し、武諸隅が関係した事件だったので、倭建の伝説に組み込まれた可能性が高く、『日本書紀』崇神60年「武諸隅而使獻當是時出雲臣之遠祖出雲振根主于神寶」と神寶を手に入れ、分朝廷を開いたようだ。

東方十二道を平定したのは、『舊事本紀』「上毛野國造瑞籬朝皇子豊城入彦命孫彦狹嶋命初治平東方十二國為封」と彦狹嶋で、『日本書紀』にも「彦狹嶋王拜東山道十五國都督」、「詔御諸別王曰汝父彦狹嶋王不得向任所而早薨故汝専領東國」と景行五六年に彦狹嶋が東国平定後に早薨し、まさしく、この説話どおりである。

彦狹嶋の祖父豊城入彦の母方の祖父が荒河戸畔で、荒河戸畔は建諸隅・倭建を襲名したと考えられ、彦狹嶋も襲名した倭建と考えて良く、皇太子彦狹嶋の死の翌年景行五七年に彦狹嶋の死で皇太子になった五百木之入日子が天皇意富多牟和氣を追い出し、師木朝廷を奪い、意富多牟和氣は淡海に遷り、大陀牟夜別が皇太子になったと思われる。


2022年7月8日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』景行天皇類書5

  景行天皇類書3で省略した部分で、『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「天皇詔小碓命何汝兄於朝夕之大御食不参出來専汝泥疑教覺如此詔以後至于五日猶不参出尓天皇問賜小碓命何汝兄久不参出若有未誨乎荅白既爲泥疑也又詔如何泥疑之荅白朝署入厠之時待捕搤批而引闕其枝裹薦投棄於是天皇惶其御子之建荒之情而詔之西方有熊曽建二人是不伏兄()禮人等故取其人等而遣當此之時其御髪結額也尓小碓命給其姨倭比賣命之御衣御裳以劔納于御懐而幸行故到于熊曽建之家見者於其家邊軍圍三重作室以居於是言動爲御室樂設備食物故遊行其傍待其樂日尓臨其樂日如童女之髪梳垂其結御髪服其姨之御衣御裳既成童女之姿交妾(立女)人之中入坐其室内尓熊曽建兄弟二人見咸其嬢子坐於己中而盛樂故臨其酣時自懐出劔取熊曽之衣衿劔自其胸刺通之時其弟建見畏逃出乃追至其室之椅本取其背皮剣自尻刺通尓其熊曽建白言莫動其刀僕有白言尓暫許押伏於是白言汝命者誰尓詔吾者坐纏向之日代宮所知大八嶋國大帯日子游斯呂和氣天皇之御子名倭男具那王者也意禮熊曽建二人不伏無禮聞看而取殺意禮詔而遣尓其熊曽建白信然也於西方除吾二人無建強人然於大倭國益吾二人而建男者坐祁理是以吾獻御名自本()今以後應捕()倭建御子是事白訖即如熟菰振析而殺也故自其時稱御名謂倭建命」、【天皇は、小碓に「何故かお前の兄は、朝夕の大御食に出てこない。お前は痛めつけて教え諭せ」と詔勅した。この詔勅から五日経って、猶、出てこなかった。そこで天皇は、小碓に「どうした、お前の兄は、長らく参上しない。もしやまだ諭していないのか。」と問いかけると、「既に傷めつけました。」と答へた。又「どうやって痛めつけた。」と聞くと、「朝、厠に入った時、待って捕えて掴み叩いて、枝を引っかけて、薦に包んで投げ棄てた。」と答えた。天皇は、その子の勇猛さ知り、「西の方に熊曾建が二人いる。伏さず無礼な奴らだ。それで、そいつらを取れ。」と言って派遣した。そのために、髮を額に結って、小碓の姨の倭比賣の衣裳をもらい、劒を懐に納めて出た。それで、熊曾建の家につくと、その家の周辺に軍勢が三重に圍み、室を作って居た。そこで、室で宴をしようと言い、膳を設けた。それで、その傍らをうろついて、その宴を待った。その宴に臨んで、童女の髮の様に結わせ、髮を櫛ですいて垂らし、姨の衣裳を着て、童女の姿になって、女の中に交って、室内に入って座った。そこに熊曾建兄弟の二人が、むすめを見つけて、中に引き入れて盛大な宴席となった。それで、たけなわとなった時に、懐から剱を出し、熊曾の衣の衿を取って、剱で胸を刺した時、其の弟建は、恐れて逃げ出した。それを追って室の框で、其の背中を捕まえて、剱を尻から刺した。そこで熊曾建が「刀を動かすな。言う事が有る。」と言った。それで暫く許して押したおした。そこで「お前は誰だ。」と言った。それで、「私は纒向日代宮で、大八島國を知らす、大帶日子淤斯呂和氣天皇の子、名は倭男具那だ。熊曾建二人が、伏さず無礼と聞いて、打ち取れ私に言って派遣した。」と言った。熊曾建が、「本当にそうななのか。西の方に我ら二人を除いて、建強な人は無い。しかし大倭國に、我ら二人に勝る建ゝしい男がいた。我が名を献上しよう。今から後、倭建と言え。」と言った。是の事を言い終わって、即ち腐った筵の様に振り折って殺した。それで、其の時から名を稱へて、倭建という。】と訳した。

熊襲征伐は『日本書紀』では朔が晦の九州の暦で、伊都を伊襲と呼ぶように、伊都も熊襲で、熊曾建は倭奴國王と考えられるため、帥升の後継の桓・霊間の戦乱の男王の記録の可能性が高い。

ここの、倭建は『舊事本紀』「壯容貌魁律身長一丈力能扛鼎」と、女装しても直ぐに男と解る容貌で、この説話は他王の説話と考えられ、景行天皇十二年「熊襲梟帥有二女兄曰市乾鹿文弟曰市鹿文・・・爰從兵一人進殺熊襲梟帥天皇則惡其不孝之甚而誅市乾鹿文仍以弟市鹿文賜於火國造」と父熊襲梟帥を殺して火國造となった市()鹿文がピタリと当てはまり、景行天皇十二年は仲哀天皇の12年目202年、卑弥呼の即位年となる。

ただし、『日本書紀』は市鹿文を卑弥呼と壹與を混同させていて、「神夏磯媛其徒衆甚多一國之魁帥也」の一國(壱国)の夏磯媛が同時に記述され、卑弥呼に良くあてはまり、魁帥は菟田縣・熊襲・大毛人・大隅・阿多と、特定された国の首領なので、一()國も国名と考えられる。

すなわち、熊襲梟帥は壹與の父で、男弟王が義父から襲名した熊襲梟帥の子、壹與は熊襲梟帥を襲名した倭奴国の宗女で、壹與も卑弥呼元年から倭国の史書に記述されたと考えられる。

2022年7月6日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』景行天皇類書4

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀』は続けて「日本景武尊平東夷還参未参薨於尾張國矣初取兩道入姫皇女為妃生稲依別王次足仲彦尊次布忍入姫命次稚武王又吉備武彦女吉備穴武媛為妃生武(?)王與十城別王又穂積氏女忍山宿祢女弟橘媛生稚武彦王五十二年夏五月甲辰朔辛未皇后播磨大郎姬命薨秋七月八坂入姬命立為皇后五十八年春二月辛丑朔辛亥幸近江國居志賀三歳是謂髙穴穂宮六十年冬十一月乙酉朔辛卯天皇崩於穴穗宮年百六歳後帝二年葬於山邊上陵夫天皇(?)生男女揔八十一皇子之中男五十五女々二十六就中隥留六皇子男五女一以外皆封州縣矣皇子五十皇女二十六合七十六各封州縣不入國史稚倭根子命大酢別命吉備吉彦命武國彦疑別命筑子水間君祖神櫛別命讃岐國造祖稻背入彦命播磨別祖豐國別命吉備別祖國背別命水間君祖忍之別命日向襲津彦命奄智君祖國乳別命伊予宇和別祖豐門入彦命大田別祖五十狹城入彦命三河長谷部直祖稚屋彦命彦人別大兄命武國皇別命伊予御城別添御杖君直稚彦尊天帶根命目鯉部君祖大曾色別命五十河彦命讃岐直五十河別祖石社別命大稻背別命御杖君祖武押別命豐門別命三島火氷間各奄智首壯子首栗首筑紫火別君祖不知來入彦命曾能目別命十市入彦命襲小橋別命三田小橋別祖色己焦別命熊津彦命息前彦人文兄水城命奄智白幣造祖熊忍津彦命日向穴穗別祖櫛見皇命讃岐國造祖武弟別命立知備別祖草木命日向君祖  稚根子皇子命兄彦命大分穴穗御(?)別海部直三野之宇(?)須別等祖宮道別命手事別命大我門別命豐日別命玉川宿祢命豐手別命倭宿祢命三川大伴部直祖豐津彦命五百木根命弟引命 手冝都君祖大焦別命五十切彦命伊勢刑巾君二川三保君祖櫛角別命茨田連祖定皇子六之中男五女一兒大碓命守君等祖次小碓命追号日本武尊次豐國別命日向諸縣君祖次稚足彦尊五百城入彦尊次五百野姬皇女命伊勢天照太神齋祠巳上五十皇子其二十六皇女不在入限」、訳は省略した。

纏向宮は桃等の種の年代測定で3世紀初頭まで続いたことが証明されていて、128年の遷都は師木玉垣朝の分裂と考えられ、志賀高穴穗天皇に『日本書紀』では後継者の存在がなく、『舊事本紀』も志賀高穴穗天皇と思われる人物淡夜別に子を記述しないが、『古事記』には和訶奴氣王が存在し、穴穗宮妃の穂積臣の祖の忍山垂根の娘弟財郎女、その兄弟の大多牟坂、その叔父多遅麻と引き継いで、皇位は山無媛へと繋がり、五十琴彦の纏向朝廷を滅ぼしたようだ。

そして、『舊事本紀』で、師木朝廷の五百城入彦は尾綱根・尾綱真若刀婢・金田屋野姫兄弟に皇位を奪われて、子の品陀真若王の娘は(輕島明宮)天皇尾綱根の妃となって皇位が継承され、さらに、葛城襲津彦に皇位を奪われたと思われる。

天皇の璽の足玉を継承した雌鳥の死亡が仁徳40年になっているが、淡海王朝すなわち秦国は『晋書』まで記述され、『宋書』には記述されず、420年頃まで継続した可能性が高く、410年代に高句麗や百濟が宋の臣下になっていて、この時、韓地の宗主国の秦が滅亡していたと考えると理に適う。

五一年秋八月己酉朔壬子」の「立稚足彦尊爲皇太子」は正しい朔だが、この頃は中国の元号で変換している為で、西暦152年から51年後の202年に倭奴国が都を変えた王を記述していると思われ、卑弥呼と、男弟王やその子が香椎宮で統治した時代である。

『三国史記』「阿達羅尼師今二十年夏五月倭女王卑彌乎遣使來聘」は215年奈解尼師今二十年の挿入間違いと思われ、奈解尼師今の治世には倭の来襲が無く、死後の助賁尼師今の時、232年に「三年夏四月倭人猝至圍金城王親出戰賊潰走遣輕騎追擊之殺獲一千餘級」、233年に「四年夏五月倭兵寇東邊秋七月伊飡于老與倭人戰沙道乘風縱火焚舟賊赴水死盡」と倭が負け続けた。これは恐らく、新羅・新羅の友好国秦の配下の狗奴國との両面作戦で劣勢になり、239年に魏の援助で優勢になり、新羅侵攻を止め、男弟王かその子が即位すると、また、249年に「沾解尼師今三年夏四月倭人殺舒弗邯于老」と戦い、「壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還」と壹與が即位後に再度魏の助けを得て、287年まで、新羅と闘う必要が無かったようだ。

『三国史記』も『日本書紀』と同様に晦日が朔の暦と朔日が朔の暦を混在していて、複数の資料を寄せ集めた史書で、挿入場所を間違えている可能性が高い。

2022年7月4日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』景行天皇類書3

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「大帯日子游斯呂和氣天皇坐纏向之日代宮治天下也此天皇娶吉備臣等之祖若建吉備津日子之女名針間之伊那毗能大郎女生御子櫛角別王次大碓命次小碓命亦名倭男具那命次倭根子命次神櫛王五柱又娶八尺入日子命之女八坂之入日賣命生御子若帯日子命次五百木之入日子命次押別命次五百木之入日賣命又妾之子豊戸別王次沼代郎女又妾之子沼名木郎女次香余理比賣命次若木之入日子王次吉備之兄日子王次高木比賣命次弟比賣命又娶日向之美波迦斯毗賣生御子豊國別王又娶伊那毗能大郎女之弟伊那毗能若郎女生御子真若王次日子人之大兄王又娶倭建命之曽孫名須賣伊呂大中日子王之女訶具漏比賣生御子大枝王凡此大帯日子天皇之御子等所録廿一王不入記五十九王并八十王之中若帯日子命與倭建命亦五百木之入日子命此三王負太子之名自其余七十七王者悉別賜國々之國造亦和氣及稲置縣主也故若帯日子命者治天下也小碓命者平東西之荒神及不伏人等也次櫛角別王者茨田下連等之祖次大碓命守君大田君嶋田君之祖次神櫛王者木國之酒部阿比古宇陀酒部之祖次豊國別王者日向國造之祖於是天皇聞者定三野國造之祖大根王之女名兄比賣弟比賣二嬢子其容姿麗美而遣其御子大碓命以喚上故其所遣大碓命勿召上而即己自婚其二嬢子更求他女人詐名其嬢女而貢上於是天皇知其他女恒令經長眼亦勿婚而惚也故其大碓命娶兄比賣生子押黒之兄日子王此者三野之宇泥須和氣之祖亦娶弟比賣生子押黒弟日子王此者牟宜都君等之祖此之御世定田部又定東之淡水門又定膳之大伴部又定倭屯家又作坂手池即竹植其堤也<---後述---凡此倭建命平國廻行之時久米直之祖名七奉()脛恒爲膳夫以從從仕奉也此倭建命娶伊玖米天皇之女布多遅能伊理毗賣命生御子帯中津日子命一柱又娶其入海弟橘比賣命生御子若建王一柱又娶近淡海之安國造之祖意富多牟和氣之女布多遅比賣生御子稲依別王一柱又娶吉備臣建日子之妹大吉備建比賣生御子建貝兒王一柱又娶山代之玖々麻毛理比賣生御子足鏡別王一柱又一妻之子息長田別王凡是倭建命之御子等并六柱故帯中津日子命者治天下也次稲依別王者犬上君建部君等之祖次建貝兒王者讃岐綾君伊勢之別登袁之別麻佐首宮首之別等之祖足鏡別王者鎌倉之別小津石代之別漁田之別祖也次息長田別王之子杙俣長日子王此王之子飯野真黒比賣命次息長真若中比賣次弟比賣二柱故上云若建王娶飯野真黒比賣生子須賣伊呂大中日子王此王娶淡海之是等()野入杵之女此等()野比賣生子迦具漏比賣命故大帯日子天皇娶此迦具漏比賣命生子大江王一柱此王娶庶妹銀王生子大名方王次大中比賣命二柱故此之大中比賣命者香坂王忍熊王之御祖也此大帯日子天皇之御年壱佰参拾漆歳御陵」、訳は省略した。

『日本書紀』には稚足彦のみ太子にしたと記述するが、『舊事本紀』は記述せず、『古事記』は若帯日子・倭建・五百木之入日子を太子と呼び、更に、『古事記』では大帯日子は皇太子ではなく、『日本書紀』に記述されない大中彦が皇太弟だったと、矛盾に満ちている。

これまで、立太子を倭奴国の王朝交代と述べて来たが、その証拠の一つがここで示されて、『古事記』は纏向之日代宮天皇が皇太弟大中彦だったことを示し、倭建と五百木之入日子と志賀高穴穗宮天皇が皇太子だった3つの朝廷があり、『古事記』で太子を記述する朝廷は、この項以外は応神天皇以降しか記述されない。

本来朝廷の皇太子は一人だけで、『古事記』が記述してないのは、書く必要が無い、天皇が決まれば後継者が決まっていて、『古事記』に記述される太子は応神の太子の大雀・伊邪本和氣・木梨輕・白髮・忍坂日子人と継承に混乱があった人物で、ここでの太子は複数の志賀高穴穗天皇・倭建 ・五百木之入日子の朝廷から葛城氏が受け継いだからなのではないだろうか。

混乱が無ければ、太子自体を記述する必要が無く、志賀高穴穗宮天皇が、大雀が、 伊邪本和氣が、 白髮が即位して遷都したとすれば良く、バックにいる建諸隅の分家の木国造、尾張・息長氏、 娘婿の物部氏が分王朝を建てて闘ったため記述されたと思われる。

これまでの皇位継承は、天皇→皇后の兄弟か皇后の長男で、皇后の兄弟の子と皇后の子が互いに婚姻して女系が無くなるまで続き、無くなると分家へと受け継がれ、皇后の宮殿が首都で、この継承は太子が13歳以上、即位は20歳以上なので、凡そ30歳以上の即位で13歳以上の長男の太子が存在しないと皇后の兄弟の皇太弟が相続すると思われる。

2022年7月1日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』景行天皇類書2

  『日本書紀』の景行紀は朝廷の領域拡張を記述しているが、中国史書から見ると、前漢の東鯷国滅亡、「分為百餘國」から後漢の「三十許國」、辰から秦、「桓靈間倭國大亂」で、景行朝は秦国が建国された後、倭国が縮小した時期にあたり、70国以上を景行朝が拡張したことになる。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀』は続けて「二十年春二月辛巳朔甲申遣五百野皇女命祭天照太神冬十月遣日本尊令擊熊襲時年十六歳三十六年八月大臣物部膽咋宿祢女五十琴姫今為妃生五十功彦命五十一年春正月壬午朔戊子詔群卿而宴數日矣時皇子稚足彦尊武内宿祢不參起于宴庭之天皇即問其故因以奏曰夫宴樂之日群卿官僚必情在戲遊不存國家若有狂生而伺壗閣之隟故侍門下備非常時天皇詔曰灼然則異寵之焉秋八月稚足彦命立為皇太子年二十四命武内宿祢爲棟梁之臣初天皇與武内宿祢同日之故有異寵焉」、【二十年の春二月辛巳朔甲申、五百野皇女を派遣して、天照太神を祀らせられた。冬十月、日本武を派遣して、熊襲を討たせた。年令は十六歳であった。四十六年の八月、大臣物部胆咋宿祢の娘の五十琴姫を妃とした。妃は五十功彦を生んだ。五十一年の春正月壬午朔戊子、群卿を集めて宴を催し、何日も続いた。このとき、皇子の稚足彦と、武内宿祢は、その宴に出席しなかった。天皇はそのわけを尋ねると「宴の日には、群卿百寮がくつろぎ遊ぶことに心が傾き、国家のことを考えていない。もし狂った者がいて、警護のすきを窺ったらと心配だ。それで垣の外に控えて非常に備えている」と答え、天皇は「立派だ」と言って目をかけた。秋八月、稚足彦命を立てて皇太子にした[皇太子の年は二十四歳]。また、武内宿祢を棟梁の臣とした。天皇と武内宿祢とは、同じ日に生まれた。それで特に重用した。】と訳した。

二十年春二月辛巳朔は1月30日で九州の暦、五百野皇女は三尾氏の娘で、淡海の高島出身、石撞別は加賀国造の祖でこれらの国と関係する王の説話と考えられ、淡海の高島なら伊勢遺跡と近く、豊城入彦は東国を支配し、孫の彦狹嶋は東山道十五國都督で能登国造で加賀も15国に含まれる可能性が高い。

また、熊襲征伐は二十七年で『日本書紀』の十月丁酉朔も丁卯で丁酉は9月1日で違う王朝の説話と解り、五十一年正月壬午朔は天文学的朔で、この時の武内宿祢こそ大足彦その人ではないかと考えられる。

大足彦・武内宿禰は西道侵攻した吉備津彦の子孫と思われる若建吉備津日子の娘の稻日大郎姫を妃にして、仲国豊国日向を制圧し、小碓が日向、大碓が大根の娘を妃にすることで御間城入彦・武内宿禰が大国王・大帯彦になったと考えられる。

三野国造の祖の大根は亦名が八瓜入日子で、近飛鳥に八釣宮が有り、雄略天皇が八釣白彦を倒す必要があり、大根の娘との子が押黒の兄日子・弟日子で、雄略天皇は境黒日子も皇位継承の為には殺害する必要があったのは、葛城天皇の皇位継承の源泉だったからと考えられる。

また、小碓は倭奴国(夏磯媛・市鹿文・阿知使主)や高千穂朝(諸縣君牛諸井)と組んで「狗奴國」を肥後に追いやり、日向王、そして、小国と組んで仲国、小国と組んで難波朝廷を滅ぼし、和珥臣祖難波根子武振熊や倭直吾子篭(珍彦)と組んで葛城を侵略(神武東征)して磐余稚櫻朝廷を開き、倭奴国王の 阿知使主・都加使主の子達は筑紫使君として、「東征毛人五十五國西服眾夷六十六國渡平海北九十五國」と九州と朝鮮が自領と宋に主張したと考えられる。