2022年7月25日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』景行天皇類書12『後漢書』

 『後漢書』「東夷列傳 倭」は「倭在韓東南大海中依山爲居凡百餘國自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國・・・建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見桓・靈閒倭國大亂更相攻伐 歴年無主有一女子名曰卑彌呼年長不嫁事鬼神道能以妖惑衆於是共立爲王侍婢千人少有見者唯有男子一人給飲食傳辭語居處宮室・樓觀・城柵皆持兵守衞法俗嚴峻自女王國東度海千餘里至拘奴國雖皆倭種而不屬女王・・・會稽海外有東鯷人分爲二十餘國又有夷洲及澶洲傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海求蓬萊神仙不得徐福畏誅不敢還遂止此洲丗丗相承有數萬家人民時至會稽市會稽東冶縣人有入海行遭風流移至澶洲者所在絕遠不可往來」とある。

神夏磯媛其徒衆甚多(邪馬)一國之魁帥也」と邪馬一國王の卑弥呼は神夏磯媛と述べたが、景行12年西暦82年では時代が異なり、同様に、『三国史記』で阿達羅尼師今二十年「夏五月倭女王卑彌乎遣使來聘」と西暦173年に記述されていたが、この時期は桓・靈間で主が無く、『三国史記』の挿入間違いで215年奈解尼師今二十年が正しいと考えられたが、景行12年も纏向の不明の宮12年、仲哀天皇・神功皇后12年の202年なら、卑弥呼即位の年で良く合致する。

邪馬台国は『三國志』の「邪馬壹國女王之所都」と女王国の首都だが、『後漢書』は邪馬台国に大倭王がいて、卑弥呼は倭女王と述べ、西暦173年では幼少だが桓・靈後の190年頃の後漢時代はまだ邪馬壹國王ではなく、那の津の伊襲の媛で、大倭王が、東の拘奴國の菟狹川の川上の鼻垂、 御木(山国)川の川上の耳垂、高羽川の川上の麻剥、緑野川の川上の土折猪折を滅ぼし、長峽縣を京にした。

この大倭王は穴門を首都にしていて、糟屋の山田の伊野皇大神宮の王である邪馬台国の国の男王を追い出して、香椎宮に来ていたことが解り、199年壹與の祖父五十迹手に統治を任せたが、纏まらず、202年五十迹手の娘婿の姉の壹国女王の夏磯媛・卑弥呼が熊襲・倭奴國を統治したと思われる。

『三國志』では「南有狗奴國」と狗奴國を御笠・層増岐野・山門縣に追い詰め、「其八年太守王頎到官倭女王卑彌呼與狗邪國男王卑彌弓呼素不和遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢拜假難升米爲檄告喩之」、『桓檀古記』「高句麗國本紀」に「狗奴人與女王相爭索路甚嚴其欲往狗邪韓者蓋由津島」と正始八年西暦247年の争いが邪馬壹國の南の狗奴國との戦いと理解し対馬(狗邪國)行路争奪戦としている。

そして、大倭王が卑弥呼の弟と思われる伊覩縣主(日縣主→日国造)の祖の五十迹手を伊蘇子すなわち伊蘇の天子・神子・(伊都國官曰爾支)として、『三国志』に「國國有市交易有無使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史」と一大率を任せたと考えられる。

そして、同じ年に火国造の祖の「市鹿文」を記述したのは、202年が卑弥呼元年なので、その景行12年に壹與元年の記事を当て嵌めたと考えられ、卑弥呼は「不嫁」と子が無く、火国造の祖では有り得ず、男弟王かその子が熊襲梟帥で娘が市鹿文・壹與なら筋が通る。

東鯷國は『漢書』から記述されているので、輕・春日・磯城・纏向宮にあった政権に当たり、夷洲は『日本書紀』記述者が夷と表意文字を使った蝦夷の国が相当すると思われ、倭建・彦狭嶋が遠征した燒遣や科野、国造となった能等以東が夷州である。

大倭王は三国(神国)王が尾張政権により大国、出雲へと遷り、「出雲臣之遠祖出雲振根至于神寶是徃筑紫國而不遇矣」と天皇の璽を持つ出雲振根は筑紫に出かけていて、まさに、大倭王が出雲振根の家系で、三国王建飯勝と出雲臣の娘の沙麻奈姫の子孫の大物主の子が大田田(大直)祢古(根子)、すなわち、大国の田の田根子、大田の天子で、大国王、大物主の娘婿が若御毛沼で大国将軍・大帯彦、大帯彦が豊国に出兵し、中臣氏は田根子→種子→中臣(中国王)と引き継がれたと思われる。

0 件のコメント:

コメントを投稿